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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る甲州道中四十五宿;索引(第5回まで)

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            歩いて巡る甲州道中四十五宿;索引(第4回まで)
            (五十三次洛遊会)
      2013年3月3日(日)〜未定
         **第5回の途中まで**
           as of 12 Jul.,2013 

 ※(1)各宿場の記事が掲載されている回数を確かめる.
  (2)対応する回数を下記の回数別索引から選んで,該当するURLをクリックする.
  (3)同じ日の記録が数回分けて掲載されているので,目的の記事が出るまで,そ
       れぞれの記事の末尾にある「甲州道中道四十五宿」のURLをクリックし続ける.
  (4)回数の後ろの数字(n)は,第n日を示す.ただし第1回目から第5回目までは日帰り
   なので第n日目の表示はない.
    [例]:第8回(1)は,第8回目の第1日目を示す.

<宿場別索引>

■東京都
 第1回;日本橋.(1)内藤新宿.(2)下高井戸.(3)上高井戸.
 第2回;布田五宿((4)国領宿.(5)下布田宿.(6)上布田宿.(7)下石原宿.(8)上石原宿).
       (9)府中宿
 第3回;(10)日野宿.(11)八王子宿
 第4回;(12)齣木野宿.(13)小仏宿.(14)小原宿
 第5回;(15)与瀬宿.(16)吉野宿.(17)関野宿,(18)上野原宿.(19)鶴川宿
       (20)野田尻宿

■神奈川県
 第5回:(15)与瀬宿   
 第6回;(16)吉野宿.(17)関野宿.
■山梨県
 (18)上野原宿.(19)鶴川宿.(20)野田尻宿
 (21)
 (22)
 (23)
 (24)
 (25)
 (26)
 (27)
 (28) 
 (29) 
 (30)
 (31)
 (32)
 (33)
 (34)
 (35)
 (36)  
 (37)
 (38)
 (39)
 (40)
 (41)
 (42)
 (43)   
  (44)
 (45)
 
<回数別索引>

第 1回
(1) http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cd35c71b15eb85a2697109fd92bdf5c1
(2)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cb68725cca399be27cf62edc66eae418
(3)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/174883c0d863b2164e26ab8f615f7742
(4)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/082fccdd3d1b624d9659b3a32436d9b6
第 2回
(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/972cf10c643a5963e180a85d4b73d3ed
(2)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5d885f2edcc1c550d75cf75d4b993d54
(3)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/50778a54453b4ea1197312fef7a1a6ed
第 3回
(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f52f19b5670625e080dfc9e602b4af87
(2)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/196190598a101d148861c784b0aa4735
(3)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/96147fa33ce59c0cd69110031d19f3f5
(4)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a538c3706f69f1840f165ec38adaa69d
第 4回
(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9b9dffe233f896c6f858c92a6d1540e7
(2)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3ea938cb71ccb9d8b51da8447e05a4af
(3)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4a1ab8bec40109024e6d2b4dcf364332
(4)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d0893c3b014d09085a29a7283f9db5f4
(5)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/7df708aa024d5d6d4df90cd02ba39dc7
第 5回
(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/50de620f75475ab8239919695d4e928a
(2) http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/56ae8e017af7d1fa8a227a6dad94caf8
(3)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9378653e2b3476e11dea35279b586d34 
(4)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0e715802677aac9f4e49120aba42ac86
(5)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/59f89f4ad294a7d72213ac5bb556921b
(6)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8ac7de0a29b8001c16bdf1321296a2c2
 第 6回;
 第1日目;
 第2日目;
 第3日目;
第7回;
 第1日目;
 第2日目;
 第3日目;
第 8回:
 第1日目;
 第2日目;
 第3日目;

<主要項目別索引>

 検索項目に該当する第n回(第m日目)を回数別索引をクリックする.
 (例) 「」は第回().したがって,回数別索引の第回第日目をクリックする.

 あ行
青柳稲荷神社(第3回) 青柳地蔵尊(第3回) 青柳常夜灯(第3回) 浅川神社(第4回) 井伊別屋敷跡(第1回(3)) 犬島神社(第5回(5)) 牛窪地蔵(第1回(4)) 塩硝蔵地跡(第1回(4)) 永福稲荷社(第3回) 遠藤由晴(第3回) えんどう坂(第4回(5)) 圓福寺(第2回) 大ケヤキ(第5回(4)) 追手風喜太郎(第5回(3)) 大国魂神社(第2回) 大們(第5回(5))
 か行
金山道祖神(第2回) 金子のイチョウ(第2回(1)) 観音坂(第1回(2)) 覚蔵寺(第1回(4)) かぶとのくわん坂(第4回(5)) 観福寺(第5回(2)) 熊野神社古墳(第2回) 高安寺(第2回) 金剛夜叉明王(第2回) 小島一里塚(第2回) 小仏峠(第4回) 
 さ行
西光寺(第2回) 西光寺(野田尻)(第5回(5)) 笹塚(第1回(4)) 西念寺(第1回(2)) 桜田門(第1回(1)) 散田一里塚跡(第3回) 三柱神社(第5回(3)) 上人塚(第3回) 正受院(第1回(3)) 塩地蔵(第1回(2)) 慈眼寺(第5回(1)) 常演寺(第2回) 慈眼寺(第5回(4)) 浄泉寺(第2回) 諏訪神社(上野原)(第5回(4)) 常林寺(第4回) 瀧坂旧道(第2回) 昌翁寺(第2回) 宗源寺(第1回(4)) 仙川一里塚(第2回) 千人同心碑(第3回) 正受院(第1回(3)) 正春寺(第1回(3)) 諏訪関(第5回(4)) 成覚寺(第1回(3)) 水道碑(第1回(2)) 真教寺(第1回(4)) 新宿御苑(第1回(2)) 新宿追分(第1回(2)) 心宝寺(第1回(2)) 増珠寺(第5回(3))                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
 た行
太宗寺(第1回(3)) 高倉稲荷社(第3回) 立目橋(第3回) 玉川上水( 第1回(4)) 高林吉利墓(第2回) 長安寺(第3回) 長泉寺(第2回) 長福寺(第2回) 常久一里塚(第2回) 常久八幡神社(第2回) 鶴川神社(第5回(5)) 照手姫(第4回(4)) 天龍寺(第1回(3)) 飛田給薬師(第2回) 東海自然遊歩道(第4回(4)) 富吉本陣跡(第1回(4)) 
 な行
中峠茶屋跡(第4回(4)) 廿里原古戦場(第4回) 
 は行
花園神社(第1回(3)) 八光山権五郎(第3回) 半蔵門(第1回(1)) 服部半蔵墓(第1回(2)) 日比谷見付跡(第1回(1)) 日野渡し跡(第3回(2)) 美女谷(第4回(4)) 評定所跡(第1回(1)) 平河天満宮(第1回(2)) 法善寺(第4回) 宝泉寺(第3回) 疱瘡神社(第5回(4))
 ま行
水垢離場(第4回(3) 妙円地蔵(第2回) 武蔵七党(第2回) 武蔵御陵墓地(第3回)
 や行
谷保天満宮(第3回(1)) 八日市宿跡(第3回) 四谷大木戸跡(第1回(2)) 四谷見付(第1回(2)) 吉野神社(第5回(2))
 ら・わ行
与瀬神社(第5回(1)) 了法寺(第3回) 瑠璃光薬師(第2回) 蓮慶寺(第2回) 和田蔵門(第1回(1))


甲州道中ご同行の皆さん
 この索引は,毎回少しずつ索引項目を追加していきます.
 最終回まで,安全第一で参りましょう.

 


歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(5)鶴川宿から野田尻宿へ

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                                  <西晃寺に無事到着>

    歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(5)鶴川宿から野田尻宿へ
                     (五十三次洛遊会)
         2013年7月7日(日) つづき

<ルート地図>


※再掲



<鶴川宿を行く>

■鶴川宿の概要
 資料2(p.298)によると,鶴川宿の宿内人口は295人.内,男151人,女144人.宿内惣家数57軒.内,本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠81軒.宿並びは2町30間と小規模な宿場だったようである.
 資料1によると,鶴川宿には甲州道中唯一の川越河川があった.旅人にとって,川越し人足の方が怖かったという.団十郎一座も,ここで川に突き落とされたということである.一説には団十郎は武田家の流れを汲み,川越人足は小山田家の家臣筋にあたるところからの因縁だとも言われているようである.冬は仮橋が架かったという.

■いよいよ鶴川宿
 14時02分に鶴川橋を渡る.いよいよ江戸日本橋から19次の鶴川宿に入る.
 橋を渡り終えるとすぐに鶴川の右岸沿いのなだらかな急坂になる.坂道に差し掛かると「筒川宿」の案内板が立っている.
 普通の気温なら,この程度の登り坂は平坦な道と同じような調子で歩けるが,今日は桁外れの蒸し暑さである.こんな緩やかな坂でも登るのがシンドイ.

<いよいよ鶴川橋>

■鶴川神社
 14時11分,鶴川神社の参道に到着する.参道の奥に鶴川神社の立派な鳥居が見えているが,わざわざ立ち寄る気力がないので,そのまま通過してしまう.
 帰宅後,インターネットで鶴川神社の由来や故事来歴を調べたが,今のところ確かな情報は見つからないままである.

<鶴川神社>

■本陣跡と脇本陣跡
 14時13分,「加藤」という表札のある家の前を通過する.表札の写真を撮らせて戴いたが,個人宅なので,ブログに掲載するのは止めておこう.
 資料2(p.298)には,「川端春恵氏宅は昔の脇本陣跡,反対側は問屋若松屋だった加藤幹一郎家.100メートル先左手の富田文弥氏宅が本陣跡…」という説明がある.
 蒸し暑さの雨にボ〜ッとしていたためかも知れないが,これらの所在をはっきり確認できないまま,通過してしまう.
 14時15分,甲州道中は舗装道路から左手に分岐する.閑静な砂利道になる.
 
<砂利道を行く>

■路傍の道標
 緩やかな登り坂が続く.風が通らないので蒸し暑い道である.
 14時15分,板切れに「旧甲州■…■」と書いてある道標が立っている.■…■の部分は消えていて読めないが,私たちが間違いなく旧甲州街道を歩いていることが確認できる.

<路傍の道標> 

■木陰で堪らず休憩
 14時25分,わずかな木陰を見付ける.暑さに堪らず,この木陰で給水休憩を取る.家を出るときには水筒に水を入れたはずなのに,今は生ぬるいお湯になっている.
 休憩をしながら地図を眺める.今日の終点,西光寺はまだまだ先である.
 改めてメンバーの様子を見る.正直なところ,全員が予想外の暑さにバテ気味である.でも,無理をしないように絶えず気を付けているし,水分補給も計画的に行っているので,まあ,元気だと言えよう.
 “皆さん,お孫さんが居られるジイサン,バアサンなのに,よくまあ元気で歩いておられるなぁ…!”
 自分のことはさておいて,本当に凄いことだなと再認識する.世の中のジイサン,バアサンが全員今日のメンバーのように元気なら,健康保険の医療費負担も随分と少なくなるだろうなとぼんやり考える.

<またまた木陰で給水休憩>

■長閑な田園風景
 5分ほど休憩を取ってから,再び歩き出す.前方には素晴らしい田園風景が広がっている.
 「春にこの辺りを歩いたら素晴らしいでしょうね…」
と話し合いながら歩き続ける.

<長閑な田園風景が広がる>

■鳶ヶ崎橋
 やがて道路は緩やかな登り坂になる.道路の両側には夏草が勢いよく繁茂している.木立の中の道は,曲がりくねりながら次第に高度を上げている.その内に,どこからともなく自動車の騒音が聞こえ始める.
 14時30分,高速道路中央道に突き当たる.緑の木立に覆われた道路から,いきなり直射日光が眩しい舗装道路に飛び出たので,頭がクラクラする.
 ここから,暫くの間,高速道路沿いのかんかん照りの舗装道路を歩く.まるでフライパンの中で引っかき回されている焼き肉になったような気分である.前方には鳶ヶ崎橋が見えている.
 「あの橋を渡ります…」
と皆さんに伝えるが,見えているのに結構遠い.橋の袂まで登り坂なのが辛い.
 14時35分,ようやく鳶ヶ崎橋を渡る.

<鳶ヶ崎橋が見える>

■大椚一里塚跡
 14時40分,大椚一里塚跡に到着する.ちょっとした公園風の広場の真ん中に,「大椚一里塚跡」という刻字のある立派な石塔が立っている.江戸日本橋から19里目の一里塚である.

<大椚一里塚跡>

■またまた休憩
 大椚一里塚近くの木陰で,またまたへたり込むようにして休憩を取る.
 休憩を取りながら,私は頭の中でこれからの行程を予想する.地図を確かめると,ここから今日の終点,西光寺まで,後4〜5キロメートルである.西光寺近くのバス停から四方津駅行のバスの発車時刻は16時34分である.まだ,バスの発車時間まで2時間近くの余裕がある.
 “ならば,ユックリ歩いても,十分に時間はあるな…よし,よし”
と胸算用をする.
 「余り長く休むと歩けなくなりますから,そろそろ歩きましょう」
と一同を促す.5分ほどの休憩で再び歩き出す.
 それにしても暑いなぁ〜…

<木陰でへたり込むようにして休憩を取る>

■立派な石標
 14時46分,一里塚の近く,道路沿いに立派な石標があるる.石標には大きな字で「鶴川宿」と刻字されている.
 ここで鶴川宿は終わりとなる.私たちは,いよいよ野田尻宿へと歩き続ける.

<鶴川宿と刻字された石塔>

<大椚間ノ宿>

■廿三夜塔
 鶴川宿の石標を過ぎて間もなく.14時49分に廿三夜塔に到着する.素晴らしく立派な石塔である.

<廿三夜塔>

■大椚宿発祥の碑
 14時54分,「大椚宿発祥の地」の案内杭に到着する.小さなお社の中に石塔が祀られている.その隣には宝篋印塔でも五輪塔でもない形をした傘のある石塔が立っている.
 大椚間ノ宿は,この辺りにあったんだろうと思われる.

<大椚間ノ宿発祥の地>

■石塔群
 14時56分,道路が緩やかに左にカーブするところ,進行方向右手に石塔群がある.下の写真は石塔群の半分ほどを撮したものである.
 何時もならば,どんな石塔が並んでいるのか見て回るところだが.今日はそれほどの気力もない.薄らボンヤリと眺めただけで通り過ごす.

<石塔群>

■吾妻神社
 石塔群と道を挟んで反対側に吾妻神社がある.立派な鳥居が立っている.ここでも石段を登る元気がないので,石段には登らずに,下から写真を撮るだけに止める.
 資料2(p.298)によると,「吾妻神社境内に椚の古木が1本あった.この椚が村の名前になった」という説明がある.
 鳥居から向かって右側に観音堂がある.

<吾妻神社>

■渋滞の高速道路と長峰砦跡
 緩やかな登り坂を進む.進行方向左手に見えている送電鉄塔を過ぎる頃から,今度は緩やかな下り坂になる.そして直ぐに前方の視界が開ける.右手に中央高速道路が見下ろせる.折から日曜日の午後である.東京方面上り車線は自動車がビッシリ詰まっている.私たちが緩やかな坂道を下っている間,自動車の列はピクとも動かない.大変な渋滞である.
 地図で確かめると,高速道路の向こう側に見える小高い丘に長峰砦があったようである.


■芭蕉の句碑・濁池と長峰砦碑
 坂道を下り終えると,今度は登り坂になる.大した勾配でもないのに,メチャ暑いために,一寸した登り坂でも億劫である.15時13分,
 進行方向左手に濁池の説明板が立っている.説明板の後ろに芭蕉の句碑があるようだが,のう歩くのも億劫になっているので,わざわざ芭蕉の句碑までいってみようという奇特な人はいない.
 なお,資料2(p.298)によれば,濁池は中央高速道路の建設工事の際に埋められて消失してしまった.
 すぐ隣に,長峰砦碑が立っている.
 資料3には,「長峰砦についての歴史の詳細は不明だが,戦国期に上野原の加藤丹後守が,その出城として築いたといわれる.現在は中央自動車道の工事によって消滅し,かたわらに石碑があるのみである. 工事に先立つ発掘調査によって郭,堀切,横堀の跡が見つかった.また尾根筋を縫うように幅1m余りの道路跡が断続的に確認され,江戸期の「甲州街道」に相当すると見られている〔現地解説板より 上野原市教育委員会〕」という説明がある.

<長峰砦碑>

<野田尻宿>

■野田尻宿の概要
 資料2(p.299)によると,「野田尻宿の宿内人口は607人.内,男313人,女294人.宿内惣家数118軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠9軒の規模である.野田尻は垈尻(ぬたじり)とも書くらしい.野田尻宿は中央高速の北側高台にあった.
 「明治19年の大火で,昔の面影を残す家はほとんどなくなった.西の外れ「明治天皇御小休所址」の石標が立つところが本陣跡の吉田てる氏宅だが,家は建て変わっている」という.
 なお,帰宅後,インターネットで野田尻宿の情報を探したが,今のところ,これといった情報には接していない.

■野田尻宿の標識と新栗原橋
 右手に中央高速道路を見ながら,坂道をノタノタと登り続ける.前方右手には,中有高速道路の上を横断する新栗原橋が見えている.
 15時18分,進行方向左手に,新栗原橋の所に,「これより甲州街道野田尻宿」と墨書した標識が立っている.
 新栗原橋を渡る.いよいよ今回の最終宿場,野田尻である.
 橋の上から,高速道路を見下ろす.下り線はスムーズに流れているが,東京方面に向かい上り線は車がビッシリ詰まったまま全く動いていない.

<野田尻宿の標識>

■本陣跡
 15時33分,明治天皇御小休所址と刻字された立派な石柱が立っている空き地に到着する.
 資料2(p.298)によれば,ここが野田尻宿の本陣があったところである.

<野田尻本陣跡>

■野田尻宿の看板
 野田尻の集落の中を,蒸し暑さに耐えながら,ノソノソと歩き続ける.やがて前方にこんもりとした森が見え始める.
 “あそこに神社か寺があるぞ”
と直感する.
 15時33分,「旧甲州街道野田尻宿」の看板前に到着する.
 ”やれ,やれ,ヤットコサ,野田尻に着いたぞ”
 これが偽りのない気持ちである.ここでトイレ休憩.もっとも,この暑さ.私はいくら水分を補給しても汗になって出て行ってしまうので,結局トイレには行かずじまいである.
 改めて振り返ると,今日は是までに1.5リットル以上の水分を摂っているようである.

<野田尻宿に到着>

■犬島神社
 野田尻宿の看板の直ぐ近くに犬島神社の参道がある.
 参道から神社を覗くと社殿が見えている.もう,クタクタなのでお社の前まで歩くのも面倒である.そこで,参道の入口で軽く手を合わせただけで拝観は省略する.
 帰宅後犬島神社の由来などをインターネットで調べたが,今のところあまよ良く分からない. 

<犬島神社>

■西光寺
 犬島神社の境内で一休みしようかという話も出たが,直ぐ隣に今回の終点,西光寺があるので,西光寺で休憩しようと言うことになる.
 犬島神社前の道は,ほんの少し先で西光寺に突き当たる.ほんのわずかな距離でも登り坂である.暑さで疲労困憊の身には,よっとの登りでも堪える.ウンコラ,ウンコラ登って,15時39分,ヤットコサ西光寺に到着する.
 資料1によると,西光寺は天長元年(1824年)創建の臨済宗建長寺派の寺院である.昭和40年に現在地に移転したという.また,西光寺は甲斐国88か所霊場7番札所になっている.

<西光寺>

<大団円>

■西光寺前でバンザイ!
 15時40分,西光寺参道前に全員が集合する.
 ONリーダから締めくくりの挨拶がある.その後,全員にやらせのバンザイをして貰い写真をとる.やらせバンザイのためか,それとも度が過ぎた暑さのためか,何となく疲労感漂う方も居られるが,でも,まあ,この暑さの中,私も含めてオジイチャン,オバアチャン,ご苦労様でした.

<本日の完歩を祝してバンザイ>

[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/nagaminetoridekai.htm 
                                   
                                                                                            (つづく)
「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0e715802677aac9f4e49120aba42ac86
「甲州道中」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8ac7de0a29b8001c16bdf1321296a2c2
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58

※お願い
 この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
 記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方は,どうぞ当ブログへアクセスしないようにお願いします.



 


歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(6)四方津駅経由で帰宅

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                           <バス停平和中学前>

    歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(6)四方津駅経由で帰宅
             (五十三次洛遊会)
         2013年7月7日(日) つづき

<ルート地図>


※再掲

<路線バスの旅>

■西光寺前で休憩
 まだバスの時間までタップリ余裕があるはずである.でもこの近くにあるバス停平和中学校前が何処にあるのか,本当にバスの時間が16時34分かを確かめてからユックリと休憩したいなと思う.
 「ちょっと,バス停が何処にあるか確かめに行ってきましょうか…」
と私が言うと,メンバーの中で最長老の私を気遣ってか,若手の男性が,
 「私が確かめてきます…」
と斥候(古い言葉だが)に名乗りを上げる,正直,有り難い,
 どうやらバス停までは,まだ少しばかり坂道を登らなければ成らないようである.
 大方の方は,参道脇の日陰に腰を下ろしたまま,一歩も動かずに休憩を取っている.私も疲労しているが,折角なので,参道の階段を登って本堂とその周辺を一回りする(前項の写真).
 暫くして,バス停の位置を確認に出掛けた男性が帰ってくる.バスの時間も間違いないことが確認できた.

■バス停平和中学前
 まだバスの時間までにはタップリ余裕があるが,
 「そろそろバス停に移動しましょうか…」
とリーダが提案する.
 このままここにいても,手持ちぶさたなので,勿論,異論はない.斥候役の先導で,またまた坂道を登る.およそ3〜4分でバス停平和中学前に到着する.
 バス停周辺は立体交差の道路が入り組んでいるところである.バスの時刻表を見ると,上野原行きのバスは1日に2本だけ.
 私も,バス停近くの日陰に入って,ドッカリと腰を下ろす.路面で熱せられた生暖かい微風が吹いている.
 
<バス停平和中学前>                                  <バスの時刻表>


<大混雑の電車;でも大過なく帰宅>

■四方津駅
 定刻から5分ほど遅れて,16時40分,四方津駅行のバスに乗車する.富士急の大型バスである.バスの中は冷房が利いていて実に気持ちがよい.車内を見回すと私たち以外の乗客は居ない.
 バスは曲がりくねった道路を一気に下っていく.途中からの乗降客も全く居ない.
 16時52分に四方津駅に到着する.
 以前,近くの山に登ったときに,談合坂から四方津駅まで歩いたことがある.あのときは,下り坂ながら長い道のりに飽き飽きした記憶がある.そんな長い道をバスはわずか12分で走ってしまう.

<四方津駅に到着>

■大混雑の電車
 四方津17時00分発臨時のホリデイ快速新宿行電車に乗り込む.乗る前は新宿まで行って湘南新宿ラインに乗り換えても良いなと思ったが,臨時電車はまるで年末の帰省列車のように超満員.車内には冷房が入っているんだろうが,余りの混雑でムシムシしている.
 電車はいくつかの駅を通過して高尾に停車する.高尾からもまた沢山の登山客が乗車している.
 “もうダメだ”
 私は堪らず八王子駅で下車してしまう.

<大混雑の臨時電車>

■?浜線経由で帰宅
 丁度,?浜線快速磯子行電車に間に合いそうなので,急いで乗り換える.乗車した当初は立ちん坊だったが,直ぐに座れる.冷房が利いた車内は実に気持ちがよい.直ぐに居眠り.気がつくと?浜,でも東海道本線に乗り換えるのも面倒なのでそのまま終点の磯子まで乗り,後続の大船行電車に乗り換えて,19時30分頃,無事帰宅する.
 途轍もない炎暑の中をひたすら歩き続けた1日だったので,来ているものは汗でベトベトである,早速シャワーを浴びて,乾いた着物に着替えて,ようやく落ち着いた気分になる.
 いやはや,大変な1日であった.

<ラップタイム>
 
 9:05  相模湖歩き出し
 9:18  慈眼寺
 9:45  甲州道中道標
 9:57  子の入
10:04  天奈橋
10:14  観福寺
10:26  吉野宿高札場
10:37  吉野宿本陣跡
11:50  関野本陣跡
11:51  増珠寺
12:03  三柱神社(12:30頃まで昼食)
13:02  慈眼寺
13:09  諏訪神社
13:17  疱瘡神社
14:02  鶴川橋
14:35  鳶ヶ崎橋 
14:40  大椚一里塚跡
15:18  新栗原橋
15:33  野田尻宿本陣跡
15:40  西光寺

[歩行記録]

■水平歩行距離    16.3km

■累積登攀高度    589m 

■累積下降高度    419m

■所要時間(休憩時間を含む)
  相模湖駅発      9:05
     西光寺 着     15:40
  (所要時間)    6時間35分(6.58h)
 水平歩行速度    16.3km/6.58h=2.48km/h
                                   
                                                                                     (第5回終わり)
                                     (第6回に続く)
                                    
「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/59f89f4ad294a7d72213ac5bb556921b
「甲州道中」の次回の記事
(なし)
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58

※お願い
 この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
 記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方は,どうぞ当ブログへアクセスしないようにお願いします.



 


山ヒルも引っ込むほど猛暑の丹沢;塔ノ岳(今年35回目)

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                         <花立山山頂から越前岳方面を望む>

   山ヒルも引っ込むほど猛暑の丹沢;塔ノ岳(今年35回目)
           (単独山行)
        2013年7月14日(日) 晴・猛暑

■富士山と矢倉岳
 しつこいほどの猛暑日の連続で,さすがの私もバテ気味である.本来ならば昨日の土曜日,丹沢へ出掛けるはずだったが,朝からのムッとする蒸し暑さに恐れをなして(…と言うより孫達が避暑で我が家に来る日なので),予定を一日ずらして日曜日の今日,塔ノ岳を往復した.今年になって35回目の塔ノ岳往復である.
 何時もの通り,5時10分に出発するが,もう暑くて空気がベタベタしている.
 “猛暑になるのが分かっているのに出掛けるなんて,オマエ正気か”
と自分に問いかける.
 でも,まあ,折角,その気になって出掛けたのだから,途中で引き返すのも,結構勇気が要る.そのまま惰性で東海道本線,小田急線を乗り継ぐ.
 今朝は雲が多いようである.でも,急行電車が新松田に近付く頃,富士山と矢倉岳が良く見え始める.
 “ならば富士山と矢倉岳が重なるところを写真に撮ろう…”
ということで,トライするが,手前の家並みや信号機,電線などが邪魔をしてなかなか上手く撮れない.やっと二つの山が重なるところを撮影したが,シャッターチャンスが一瞬遅かったようである.
 近々山仲間達と一緒に矢倉岳に登る予定になっているので,その日が楽しみである.
 
<富士山と矢倉岳>                         <二つの山が重なって見える>

■山麓の白猫
 渋沢発大倉行一番バスは大混雑である.ただ臨時バスは出ないようである.辺りを見回すと,さすがに常連さんの姿は少ない.前の方に常連さんの中で最年長のKMさんが居られる,私がバスに乗り込んだのを見付けて,
 「おや,暫く振りね…元気にしてますが」
と声を掛けてくれる.
 バスは6時59分に大倉に到着する.
 軽くストレッチを済ませて,7時08分に大倉から歩き出す.
 登山口の手前で,白いネコが私の方を見つめている.
 “オレ,ネズミじゃねえぞ…”
とネコに言いたい,
 この頃,塔ノ岳の尊仏山荘へ行っても,山根もミー君は客席に殆ど顔を出さないので,ミー君の代わりに,お前さんの写真でも撮っておくか,ということで早速私の道草が始まる.
 うん,なかなか良いネコである.

<大倉の別嬪ネコ>

■見晴階段
 7時13分,登山道に入る.前方には沢山の登山者の後ろ姿が見えている.既に気温は27℃を超えている.全くの無風で湿度も高そうである.
 “こんな蒸し暑い日は無理しないぞ…”
と改めて自分自身に言い聞かせる.そして,無事,塔ノ岳山頂に到着できればそれで良しということにしよう.
 路面はまあまあ良く乾いている.
 できれば山ヒルの写真を撮りたいなと思いながら足許を凝視して登り続ける…が,このクソ暑さのためか,山ヒルは結局見つからない.
 7時48分,見晴山荘を通過する.そして,見晴階段に差し掛かる.
 例によって,階段下から階段を見上げた写真を撮る.私のすぐ前をKMさんが元気に登っている.その先には沢山の登山客が数珠繋ぎになって登っている.
 申し訳ないなと思ったが,坂の途中でKMさんを追い越させて戴く.私は
 「おはようございます.お暑いですね…すみませんが先に行かせてもらいます.」
と挨拶する.
 「暑いのは仕方ないです,寒い冬もあるんですもの…」
とKMさんがいう.
 “‘けだし名言’.正に秀逸”
と私は思う.暑い寒いは正に自然が与えてくれたもの,素直に受け止めなければ…暑いときは,この暑さ,今だけ味わえるものと感謝しなければ…
 “でも,やっぱり暑いなぁ〜!”

<見晴階段>

■緑陰の一本松
 見晴階段を登り切ってモミジ坂に差し掛かる.頭上を覆う緑が美しい.でも今日は殆ど無風である.山麓よりは幾分マシだが,相変わらず蒸し暑い.
 やがて一本松上の平坦地に差し掛かる,休憩所のベンチは沢山の登山客で満杯になっている.先ほど私を追い越していった男性もベンチに座り込んでいる.
 このベンチで山ヒルを拾う人が多いと聞いている.
 “山ヒルに注意をして下さいよ…”
 気が弱い私は口には出さずに,心の中だけで無言の注意をして通過する.
 私? 勿論,ユックリ登る代わりに,塔ノ岳山頂まで途中で休憩を取るつもりはない.

<登山客で賑わう一本松上のベンチ>

■傘雲掛かる富士山
 駒止階段に差し掛かる.後ろから来た男性に追い抜かれる.でも,私は超ユックリのペースで登って,8時21分に駒止茶屋を通過する.大倉からの所要時間は1時間13分.このクソ暑さなら,まあ,こんなところだろう.
 先ほど私を追い越した男性が茶屋上のベンチで休んでいる.私がベンチの前を通過しようとすると,男性は急いで立ち上がって私の前を行こうとする.ベンチに帽子を置き忘れている.私は,
 「帽子忘れていませんか…」
と注意する.
 男性が帽子を取りに行っている間に,また私が先になる.
 堀山の尾根に差し掛かる.幾分涼しくはなったものの,何時もここで感じる開放感は今ひとつである.空気の流れは感じるものの,身体の周りのべとついた空気を一気に吹き飛ばしてくれるほどの流れではない.
 富士山が良く見える場所で立ち止まって富士山の写真を撮る.
 富士山の頂上に傘雲が湧き出したようである.

<堀山の尾根からの富士山>

■10代の登山者
 8時40分,堀山の家に到着する.店先には,山荘が営業中であることを示すまっ赤な幟がはためいている.ここには下山のときに立ち寄ることにして,登りは通過する.
 小草平のベンチでは,沢山の若者が休憩を取っている.
 いよいよ私が一番楽しみにしている長い登り坂である.この長い登り坂があるからこそ,大倉尾根は登る価値があると思っている.
 今日は,とんでもなく蒸し暑いので,熱射病を警戒して,ここから花立山荘まで45分駆けて登ることを目標にようと思う.平素は40分を目標にしているが,今日は蒸し暑いので特別メニューである.
 “クソ暑いときは,無理しちゃダメだ!”
 私は絶えずこの言葉を念頭に置きながら,ユックリ,ユックリ登る.こんなときは,一人旅も気儘で良いものだ.勿論,顔見知りの方と切磋琢磨しながら登るのも楽しいが……
 とはいえ,“バカ尾根一人旅”に,登山を楽しむ原点があるような気があらためてしてくる.
 私は数え切れないほどの若い登山者に絶えず追い抜かれている.
 戸沢分岐手前の階段道で,10人余りの若い男性の集団に追い付く.リーダーの先生に伺うと高校2年生だとのこと.
 「まだ,みんな10代ですよ…」
と先生が愛情の籠もった声で私に説明する.
 「はいっ!…頑張って!…左によって道を空けなさい!」
と生徒を励ます.
 生徒さんより4倍も年を取っている私が先に行くのもおこがましいが,遠慮がちに先に行かせてもらう.
 “うん,‘頑張って’は,確かに暴力ではなくて,叱咤激励だ…”
 私は昨今の世相を思い浮かべながら,この生徒さん達は良い先生の指導を受けているなと思う,まあ,ここは憚りながら先に行かせてもらう.
 急坂では至る所で,登山道を外れて,草むらに腰を下ろして休憩を取っている人達が居る.今日は,まあ,草むらが乾燥しているので,山ヒルも大丈夫かも知れないけれども,如何にも,
 “山ヒルさん…どうぞ私に食いついて下さい”
というような仕草である.
 気が弱い私は,こんな皆さんに積極的に注意を呼びかけることはしないが,もう少し注意して欲しいなとつくづく思う.

■熱気でムンムンの萱場平
 戸沢分岐近くで,また先ほどの男性が後ろから迫ってくる.私は堪らず先を譲る.後ろからこの男性の登る姿を見ていると,どうみてもオーバーペースである.それに足元がふらついている.
 “もうすぐバテるな…”
 9時00分,萱場平を通過する.ここで何時もの通り写真を撮る.直射日光が照りつける平らは熱気でムンムンしている.そんな中.例のアザミだけは元気一杯である.
 “オマエ,相変わらず元気だな”
とアザミに挨拶して通過する.

<萱場平>

■後7分坂(花立階段)
 自分のペースを乱さないように注意しながら登り続ける.
 萱場平から木製の階段を登り切ると,階段の道幅が広くなる.さらに登る続けるといよいよ露岩帯である.
 この辺りで,先ほど私を追い越した男性の速度が極端に遅くなる.
 「スミマセン,先に行かせて下さい」
で,私は男性の先に出る.といって,私は歩行速度を速めたわけではない.バテないように,あくまでスローペースの定速である.ただ,この男性の歩行速度が極端に遅くなっただけである.
 大岩を廻り込む頃には,先ほどの男性の姿は,殆ど見えなくなるほど下になる.
 やがて,後7分坂に差し掛かる.相変わらず富士山が良く見えている.やっぱり見えている以上は,写真に収めなければ…

<後7分坂手前からの富士山>

■花立山荘
 後7分坂を9分も掛けて,ウンコラ,ウンコラと登る.ジリジリと焼けるような太陽が背中を照りつける.殆ど無風.まるでフライパンの中を登っているような気分である.ただ見晴だけは素晴らしい.
 階段の途中で,何人もの若手の駆けっこ組に追い抜かれる.今日は追い抜く人より追い抜かれる人の方が圧倒的に多い.不甲斐ないけど,でも,まあ,いいや.やむを得ない.
 9時22分,ようやく花立山荘に到着する.
 相変わらず富士山が良く見えている.ここでもベンチは休憩を取る登山客で一杯である.
 大倉から花立山荘までの所要時間は2時間14分.堀山の家からは42分.このクソ暑いときにしては,後半でのバテが軽かったようである.改めて自分の体調が以外に良くて,蒸し暑さで不快ではあるものの,疲労感はほとんどないことに気がつく.
 “よし,よし,この調子.これから山頂までも絶対に頑張らないぞ…”

<花立山荘から富士山を望む>

■花立山
 さて,花立山荘から花立山までが,私にとって一番イヤなところである.何しろ,まだ暫く階段道が続くし,それにその先の岩稜帯は山頂が見えているのになかなか到着できないからである.
 春や秋の快適なシーズンには,花立山荘から花立山まで大体8〜9分で登るが,今日は11分掛けてバテないように登り続ける.
 9時33分,漸く花立山山頂に到着する.
 今日は夏場には珍しく,富士山だけでなく南アルプスも見えている.また,越前岳方面は山麓に薄雲が棚引いていて素晴らしい眺めである.
 “こりゃ〜ぁ…写真を撮るしかない”
 私は,花立山山頂で立ち止まって何枚かの写真を撮る.

<花立山山頂付近から富士山越前岳方面を望む>

■塔ノ岳山頂
 9時40分,金冷シを通過する.
 周囲の森の中から,ジイジイと金属音で啼く虫の声が絶えず聞こえてくる.これも風物詩だが,何とも蒸し暑い感じがする啼き声である.
 ここまで来れば,しめたもの.あと15分で間違いなく塔ノ岳に到着する.それに速く歩いても,遅く歩いても2分と差は付かない.別にラップを気にしているわけではないが……(嘘だよ! やっぱり,それなりに気になるよ!)
 今日は,山頂近くまで来ても涼しくなったという感じはない.でも,まあ,幾分は涼しいかな,無理をして言えば…
 ノソノソ歩きを続けて,9時57分に塔ノ岳山頂に到着する.山頂の気温は26℃.やっぱり暑い.
 大倉からの所要時間は2時間49分.まあ,無事に山頂まで登れただけでも良しとしなければ…でも,花立山荘からの所要時間は35分も掛かっている.ここは30分程度で登らなければ…いくら熱いとは言っても,あと,5分は縮めなければダメだな
と,自分の頭の中では,ユックリ登らなければという信条と矛盾することを考えている.
 暑い最中に登ったご褒美は,富士山と南アルプスの眺めである.山麓に漂う薄雲が素晴らしい情感を演出している.自然はやっぱり天才の芸術家だ! やっぱり凄いなと感心する.実はそろそろ秋の展覧会に出品する絵を制作しなければと私は焦り始めている.今度は,何をテーマに絵を画こうかな?

<塔ノ岳山頂からの絶景>

■尊仏山荘
 山頂で周囲の写真を撮る儀式を終えて,尊仏山荘に向かう.
 山頂では沢山の登山客が休憩を取っている.山頂のポール付近で尊仏山荘を見ると,どなたかが私を見付けてニコニコしている.
 “あれ,誰だろう? ご常連ではなさそうだが…”
 近付いて見ると,オーナーのHさんである.
 山荘に入ると,入口近くに座っていた方々が私に挨拶する.一瞬,ビックリするが,堀山の家の若手の面々である.
 今日の小屋番は,オーナーの他にWHさん,WDさん,HYさんのオールスターキャスト.早速300円也のお茶を所望する.夏場の水分補給にお茶は大助かりである.
 オーナーのHさんが,
 「今日の1番バスの中では,FHさんが一番乗りですよ…」
と言う.
 「今日は,韋駄天組のTGさんを初め,常連の皆さんはほとんど居ませんでしたよ」
 「じゃあ,バスは空いていましたか」
 「いえ,臨時バスは出なかったようですが,登山客でギッシリでしたよ…そう! KM女史に会いましたよ.」
 それから四方山話.
 夏の塔ノ岳は蒸し暑いので.北アルプスの普通の山に登るよりも,厳しいなと思っている.こんな暑いときは北アルプスに入り浸っていたいが,北アルプスに1回出掛ける費用で,10回塔ノ岳に登れることを考えると,年金暮らしでは塔ノ岳で苦労するしかないなと思う.
 暑さの話題ついでに,私が,炎天下,甲州道中の旅で甲斐国を歩いた…炎天下の舗装道路で苦労したことを報告する.
 「舗装道路では照り返しで40℃を超えていますよ…」
とオーナーが言う.確かに,あのときの蒸し暑さは,今日以上だった.
 山荘内で暫く座っていると,窓から吹き込む風が,とても涼しくて爽やかなのに気がつく.時間が許せば,何時までも涼んでいたいなと思う.

<尊仏山荘>

■下山開始
 9時25分,そろそろ下山しようと思う.
 尊仏山荘を出たところで,初老の男性に話しかけられる.この男性は私のことを知っているらしいが,私は全く記憶にない.年のせいか,最近,こういう場面が多くて困る.数分立ち話をして,何方か分からないままお別れして,10時29分に下山開始.
 完全な一人旅なので至って気楽.
 山頂直下で,日曜日の常連,MMさんとすれ違う.
 「KMさんと,大分下の方ですれ違いましたよ」
とのこと.KMさんは何時の間にか山頂に来られていたようである.
 金冷シ手前で,先ほどの高校生グループとすれ違う.先頭の生徒が立ち止まっている.先生が,
 「はいっ! 頑張って!」
と気合いを入れている.
 “若さって良いな! ロートルだったら,頑張ったら5分と持たないだろう.”
 花立山荘付近で,同じバスにのっていたと思われる登山者と次々にすれ違う.名前は分からないが常連の方も居られる.

■ノシイカさん
 10時54分,花立山荘を通過する.
 次から次へと数珠繋ぎに登ってくる登山客とすれ違いながら,慎重に下山し続ける.
 花立階段を下り終えて,岩稜帯を少し下ったところで,下の方からいきなり,
 「FHさぁ〜ん!」
と声を掛けられる.山旅スクール5期のノシイカさんである.ノシイカさんの最初に質問は,
 「今日,TGさんは居られましたか」
である.またもやTGさんである.何時もTGさんとすれ違う場所で,合わなかったので不思議だったという.
 「TGさん,1番バスには乗っておられなかったようです」
 暫くの間,立ち話.
 「今日の鎌倉の予報は17℃たっていうんで,よっぽどFHさんに鎌倉案内をお願いしようと思いましたよ…」
と仰る.勿論,山仲間からの要請なら,優先順位1番で即応したのに…残念!
 来る18日には山旅スクール5期の皆さんと一緒に鎌倉の山を歩く予定である.でも,このグループは,いつも途中で道草をしているので,最近セッセと歩いたためしがない.
 「次回,18日はみっちり歩きましょうね」
ということになる.でも,どうなるか分からない.
 もう一度,ここからノシイカさんと一緒に塔ノ岳に登り返そうかとも思ったが,また炎天下の後7分坂を登り返す気にもならないので,ここでお別れ.

■堀山の家
 11時03分,堀山の家に到着する.小草平のベンチは,相変わらず登山者で一杯である.
 余りに蒸し暑いので,堀山の家に立ち寄って,冷たい物で飲みながら一休みしようと思う.
 小屋に入る.小屋の女主人が愛想良く出迎える.外は沢山の登山客が居るのに,小屋の中は閑散としている.
 250円也の冷たいサイダーを所望する.火照った身体に,冷たい飲み物は何よりである.
 「今日,TGさん居られましたか?」
 またもや,TGさんの質問である.人気者のTGさんが居られないと,皆さん落ち着かないようである.
 今日もやたらに蒸し暑いことが話題になる.
 「涼しい内に登るといって,内の者達が尊仏山荘まで登っていきましたよ…」
 「尊仏山荘で,皆さんにお会いしましたよ…」
 余りに蒸し暑いので,山に登るのに時間が掛かることが話題になる.その内に,韋駄天のMSさんのことが話題になる.
 「そろそろ,MSさんが堀山の家を通過する頃ですよ」
 10分ほど休憩を取ってから,私は腰を上げる.女主人が私に,
 「写真を撮らせて下さい」
と言うので,堀山の家の前でポーズを撮る.丁度そのとき,予想に違わずMSさんが下山してくる.
 「では,もう一枚…」
ということで,MSと私のツーショット.次の『堀山の家』のHPに掲載されるかも知れない.
 帰り際に,女主人が.
 「いつも,(お立ち寄り戴いて)有難うございます.」
と私にお礼を言う.たった250円のジュースを飲んだだけなのに,丁寧にお礼をいただくと,正直,照れる.

<堀山の家で一休み>

■下界は蒸し風呂
 堀山の尾根をノンビリと下り続ける.
 堀山近くで,堀山の家に縁(ゆかり)の方々とすれ違う.
 「今日,TGさん登っていましたか?」
 またもや,HGさんの質問である.皆さん途中で会うべき人に会わないと,とうも落ち着かないようである.
 標高が下がるにつれて,ますます蒸し暑さが増してくる.登りのときに比較すると,幾分空気が動いているようで,生暖かい空気が身体の周りをへばり付くようにして抜けていく.
 幸いなことに,今日はどういう訳か,アブや蚊の類は寄ってこない.
 12時42分,観音茶屋に到着する.ここで氷水でも飲んでいこうかと思っていたが,残念ながら今日はお休みのようである.
 堀山の家に続く,第2関門がお休みで,困ったような,ホッとしたような妙な気分である.
 大倉13時11分発のバスの時間を睨みながら,ノンビリと下山する.登山口を過ぎると,かんかん照りの舗装道路になる.手許の温度計では気温34℃.ヤケに暑い.
 20人ばかりの小学生が乗り込んだので,バスは結構な混雑である.
 渋沢,小田原で電車を乗り継いで,14時33分に大船駅に到着する.空は何時の間にか曇っているが,大船も結構蒸し暑い.
 “なんでこんな蒸し暑い日に,わざわざ塔ノ岳に登ったんだろう”
 我ながら,自分のことが奇妙に思えてくる.
 帰宅すると直ぐに,汗臭い衣服を脱ぎ捨てて,シャワーを浴びる.
 ホッとひと息.
 ユックリ登ったとは言え,やっぱり疲労感が残る.
 まあ,とにかく,塔ノ岳山頂を往復できたのだから,良かった,良かったである.

<ラップタイム>

 7:08  大倉歩き出し
 7:30  観音茶屋
 8:48  見晴山荘
 8:21  駒止茶屋
 8:40  堀山の家
 9:22  花立山荘
 9:40  金冷シ
 9:57  塔ノ岳山頂着(25.0℃)
10:29      〃  発
10:40  金冷シ
10:54  花立山荘
11:33  堀山の家(11:48まで休憩)
12:01  駒止茶屋
12:24  見晴山荘
12:42  観音茶屋
13:01  大倉着

[山行記録]

■水平距離       7.0km(片道)

■累積登攀下降高度   1269m

■登攀所要時間(雑談時間を含む)
  大倉   発       7:08
  塔ノ岳  着       9:57
  (所要時間)  2時間49 分(2.82h)
  水平歩行速度   7.0km/2.82=2.48km/h
  登攀速度    1269m/2.82h=450.0m/h

■下降所要時間(休憩時間を含む)
  塔ノ岳  発      10:29
  大倉   着      13:01
  (所要時間)  2時間32分(2.53h)
  水平歩行速度     7.0km/2.52h=2.78km/h
  下降速度     1269m/2.52h=503.6m/h
                                (おわり)

「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d9befa08a2daaa293f27a51de3cd0ede
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)








歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第2日目(4):岩村田から塩名田宿へ

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                       <佐久平を行く>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第2日目(4):岩村田から塩名田宿へ
              (五十三次洛遊会)
        2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月5日である.
 初稿の地図の差し替え,本文の誤字当て字転換ミスの修正,本文の推敲を行った.

第2日目:6月13日(土) (つづき)

<ルート地図>



<浅間連峰を眺めながら西へ>

■荘山稲荷社
 11時29分,進行方向右手のあぜ道に右折して入る.残念ながら,この手前にあるはずの平塚の一里塚跡は見過ごしてしまった.またまた残念.右折して,夏草が一面に生えているあぜ道を少し奥へ進む.再び右へ曲がると突き当たりに一段と高い小山がある(前回地図参照).
 この山の上に荘山(かがりやま)稲荷社がある.稲荷社へ登る手前に右手に芭蕉の句碑が立っている.碑に刻まれている文字は,風化が進んでいた全く見えない.もっとも見えたところで私には殆ど読めないだろう.
 資料1によると,この句碑には,
   “野を横に
      馬引きむけよ
         郭公(ほととぎす)”
という芭蕉の句が刻まれているようである.
 神社を見学してから往路を引き返す.歩き疲れた一部の方々は,あぜ道の入口で,私たちが引き返してくるのを待っている.
 「折角,ここまで来たのだから,チラリとでも見ておけばよいのに・・」
と心の中で思うが,お節介になるので,口にはしない.

<荘山稲荷社:右の石碑が芭蕉の句碑>

■閑静で懐かしい家並み
 閑静な街道が続く.そろそろ昼時でもある.街道の途中に適当な食堂かレストランがあったら,そこで昼食を摂ろうということになる.
 道路の両側には,確かこの地方では真壁造り(「心壁造り」と書くかもしれない)と呼んでいる造りの家が建ち並ぶ.
 私の生まれ故郷である小諸でも,昔は真壁造りの家が大半であった.真壁造りの構造では,柱や筋交いの材木が壁の外に出ている.これらを壁の中に埋め込み大壁造りと違って,柱や筋交いが実に優雅に見えている.小諸でも昔懐かしい真壁造りの建物は少なくなってしまった.今,ここで懐かしい真壁造りの家を目の当たりにして,私は震えるような懐かしさを覚える.
 
<昔懐かしい街並み>

■百万遍供養塔
 11時45分,百万遍供養塔に到着する.この供養塔の由来は,良く分からない.
 この辺りから,ごくごく緩やかな下り坂の道が続く.

<百万遍供養塔>

■諏訪神社と如意輪石碑
 道路の両側に,ときどきリンゴ畑が現れる.佐久平の長閑な風景が続く.進行方向右手(北側)には,浅間連峰が霞んでいる.残念ながら雲が多い.
 11時50分,諏訪神社の前を通過する.
 続いて,11時55分,如意輪石碑に到着.大きな石碑である.
 
<諏訪神社>                                                                                     <如意輪石碑>

■塚原岩屑と水準点
 相変わらず進行方向右手に浅間連峰が大きく見えている.私の生まれ故郷の小諸は,あの辺りだろうかと想像しながら歩いている.この辺りは一面の田園地帯.地図を見ると,近くには緑川用水が流れているようである.また,道路の脇には用水路がある.豊富な水が流れている.浅間連峰の伏流水だろうか.
 11時57分,進行方向左手にある塚原岩屑に到着する.岩の上に御嶽碑が立っている.岩屑に近付きたいが,道路との間に用水路がある.この用水路を飛び越えて,御嶽碑を拝観する.さらに岩屑の裏手に廻ってみると四隅に丸い石を埋め込んだ水準点がある.地図で確かめると,この水準点の標高は670メートルである.軽井沢の標高に比較すると,知らない間に300メートルほど標高が低くなっている.
 
<塚原岩屑>                                   <水準点>

■妙楽寺
 12時06分,妙楽寺に到着する.参道脇に六地蔵が並んでいる.茅葺きの屋根にトタン板を被せたと思われる屋根の本堂がある.この寺も真壁造りである.真壁造りの家が多い街で育った私には,真壁の本堂というだけで親近感が沸く.
 資料6によると,妙楽寺は「貞観八年(866)『信濃の国に五ヶ寺を定額に列する』と日本国史に明記されてある信濃五山の一寺に当る.妙楽寺では1月8日,薬師如来を本尊に蘇民将来を祈願する法要を1000年以上今日まで執り行っている」という.
 資料3によると,妙楽寺は「若い修行僧の学問寺,疫病除け,害虫駆除の守護神を祀っていた」ようである.

<妙楽寺>

■分岐を左へ
 12時12分,Y字の分岐に到着する.旧中山道は左側の道なので,左へ入る.地図で確かめると,この辺りは下塚原という所らしい.私たちは,人気が全くない真壁の集落の中を歩いている.
 立派で大きな真壁の2階屋が建っている.素晴らしい家である.
 
<分岐を左へ>                                                               <真壁の立派な民家>

<重要文化財の駒形神社>

■駒形神社
 12時16分,先ほど分岐した道と合流する.この合流点近くに駒形神社がある.境内に入って,5分ほど見学を兼ねて休憩を取る.
 資料7によると,駒形神社の概要は以下の通りである(「・・である」調に修正).
 「両側を川に囲まれた往時の城跡のような丘の上に駒形神社がある.中山道の塩名田宿(浅科村)と岩村田宿(佐久市)の間にあり,立地的に街道を往来する人々がお参りしていたと考えられるような好位置になる.
 祭神は騎乗の男女神像で宇気母智命を祀っており,文明18年(1486)佐久郡の耳取村鷹取城主大井新左右衛門政継が再建したものである.この頃の京都周辺では,駒形神人(こまがたじにん)と呼ばれる神馬(しんめ)を扱う神社の隷属民の活動が活発で,しだいに力を持つようになり,みずから馬匹商人となって,各地で莫大な利益を得ていた.駒形神社の周辺は,古来から馬の産地で,この駒形神人と何らかの関係があるといわれている.駒形神社本殿は覆屋の中に置かれているが,彫刻,建築技法については簡素なものである.ほぼ同様な形体を持つ各地の本殿等が,重要文化財指定されていないのに,何故この本殿が重要文化財に指定されたのか疑問が湧いてくる.そこで,他の無指定の本殿と比較し,その違いを見てみたい.」
 駒形神社の境内は広い.境内を散策しながら,暫くの間,休憩を取る.本殿脇に「説明文」という表題の立て看板がある.この看板には次のようなことが書かれている.
 ・・駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないがこの地方は,いわゆる信濃牧の地であり,祭神には騎乗の男女神像を安置しているので「牧」に関連した神社と推定される.
 昭和22年5月30日国宝保存法により国宝の指定を受けたが,文化財保護法の施行による現在は重要文化財に指定されている.
 再建は1476年(文明18年)と伝えられるが形式手法から見てもその頃の建物と考えられている(以下略)・・・

<駒形神社>

■信濃国の牧
 駒形神社に関連する「牧」は,信濃国にあった16カ所の牧の中では最大のものだったようである.資料8には,次のような記載がある(「・・である」調に修正).
 「信濃国には16の牧(官営牧場)があった.その中で最大のものが『望月牧』である.
 望月牧は,蓼科山2530mの広大な裾野が北東へ延びて千曲川にぶつかる地形と,東が千曲川(ちくまがわ),西が鹿曲川(かくまがわ),南が布施川(ふせがわ)に囲まれた御牧原台地である.川に囲まれた天然の地形だが,さらに馬が逃げてしまうような部分には柵,土塁,溝などを造って管理し,恵まれた草や水で優秀な馬を生産していた.現在でも数キロメートルの野馬除が残っている(東御市指定文化財).ここで生産された馬は都へ運ばれ,多くの歌人が望月の牧を題材にした歌を残している.
 望月牧がいつ頃成立したのか定かではないが,『延喜式』が制作され始めた延喜5年(905年)以前には存在していた.
 牧場の南には古東山道が東西に走り,その道沿いに高良社(浅科村、国重要文化財)がある.元々は高麗社と呼ばれていたらしく,朝鮮半島から渡来した人々が,望月牧の牧場経営に携わり,ここに社を造ったといわれている.
 望月牧の周辺には特に馬具を副葬した古墳が多く,御馬寄,駒寄,牧寄,駒込,厩尻などの地名が残っている.さらに,馬具に関係すると思われる鍛冶田,タタラ,吹上などの地名もあり,いずれも望月牧に関係する馬の厩舎,蹄鉄製造所,牧田,管理舎などがあった場所として想定されている.
 同じく南にある駒形神社(佐久市)は,望月牧の封境とされ,元来望月牧を管理した望月一族である根井氏に関係する神社で,根井氏は多くの馬と兵の動員力を持っていた.950年頃に,滋野氏から海野氏(うんのし),祢津氏(ねつし),望月氏(もちづきし)が分派して,望月牧監という牧場を管理する役職に就いていたようである.海野氏は望月牧の北部地域を拠点とし,望月氏は望月牧の南部地域を拠点とし,これは戦国時代まで続いた.海野氏の一族が真田氏になる.」
 ここでは引用を省略するが,資料5には,この記事に関連する地図も掲載されている.
 たまたま,私が通学していた旧制中学校(途中で新制高校に変わった)は,海野氏の末裔,真田氏の居城跡の一角にある.こんなことから,「牧」を通じて,駒形神社と多少の関連があることが分かり,感慨深い.

<いよいよ塩名田宿へ>

■ベンベン草の小径
 12時22分に駒形神社を出発する.道路端にある「中山道」の案内杭に従って,右側の小径に入る.雑草が繁茂する人一人通れるだけの細道である.
 小径に踏み入れると,何となくホッとした気分になる.
 暫く進むと,小径は再び元の中山道と合流する.

<右手の細い小径に入る>

■塩名田道標と道祖神
 やや急な下り坂を進む.前方には江戸日本橋から23番目の宿があった塩名田の集落が見え始める.
 12時32分,塩名田道標に到着する.道標の傍らには道祖神が安置されている.
 既に,12時を廻っている.あともう少しで塩名田である.私たちは,塩名田の街中で適当な食堂を探して昼食を摂ることにする.
 進行方向右手の向こうに長野新幹線の高架が,まるで城壁のように連なって見えている.
 
<塩名田道標>                                              <道祖神>   


[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://home.b05.itscom.net/kaidou/nakasendo/7basyokuhi/basyoukuhi1.html
資料6:http://uct01.uctec.com/furusato-commonPF/page.cgi?lang=ja;ucode=00001C000000000000020000020009BB;area=WEB東信州 中山道の会 ;page=detail
資料7:http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/koma.html
資料8:http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sakugun.html
                                                (つづく)
                                
[加除修正]
2013/7/16  地図の差し替え.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c01edf80bbdb9244cabde084731fe730
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4787ec6c0d235f5b30aa683d880cf30b    
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.


歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(5)塩名田宿から八幡宿へ

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                      <塩名田宿の街並み>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(5)塩名田宿から八幡宿へ
              (五十三次洛遊会)
       2010年6月12日(土)〜14日(月)

第2日目:2010年6月13日(土) (つづき)

※本稿の初出は2010年7月6日である.
 初稿の地図の差し替え,本文の誤字脱字転換ミスの修正,推敲を行った.

<ルート地図>


※再掲                            ↓
            拡大図     




<塩名田宿を行く>

■塩名田宿の概要
 12時32分,塩名田宿道標に到着する.江戸日本橋から23番目の宿場町,塩名田宿は,この辺りから始まる.
 ここは五叉路になっている.資料によるとこの辺りが上の枡形跡だというが,私には,あまり良く分からない・・が,まあいいや,で通過する.
 佐久市のホームページ(資料5)には,塩名田宿について,次のような説明文が掲載されている(「・・である」調に変えて引用).
 資料2には,塩名田宿の隣の八幡宿についても,一緒に記述されているので,そのまま引用する. 
 「近世の街道は,徳川家康によって,関ヶ原の合戦前後に整備が始められ,塩名田宿・八幡宿のある中山道は,東海道の次に整備が進められた.
 宿場の役割としては,運輸・通信の業務と宿泊業務とがあり,前者を問屋が,後者を本陣・脇本陣及び旅籠が行っていた.
 浅科地区にある塩名田宿は,中山道第23番目の宿場で,江戸時代の天保15年(1844)年には,本陣が2軒,脇本陣が1軒,問屋が2軒あったということが記録として残っている.」


■小諸道分岐と古い街並み
 いよいよ塩名田宿に入る.真壁の立派な家が建ち並んでいる.
 古い街並みをほんの数分歩くと,小諸道の分岐に到着する.頭上に「小諸市街 懐古園」と書いた案内板が取り付けられている.小諸出身の私は,懐かしさが胸の内に込み上げてくる.
 資料3(p.138)によると,「この道を辿ると,善光寺道の小諸東外れに至るという.この道を北に2,2キロメートル進むと耳取の玄江院という寺がある.玄江院の開基は,この土地の豪族大井氏.小諸義塾で島崎藤村と同僚だった水彩画家の丸山晩霞の釈迦一代記の壁画8枚が見もの」だという.
 私は,ある縁(えにし)から丸山晩霞に強い関心を持っている.幼少の頃,誰と一緒に行ったのかは,全く覚えていないが,耳取の玄江院を訪れたことがある.今,思えば,多分,法事にでも出掛けたのだろう.大人達が歓談に明け暮れている内に夜になる.真っ暗な境内の森の中を蝙蝠が待っていたのを今でも覚えている.
 塩名田の街を歩いていると,道路が舗装されているのを除いて,まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような気分になる.それにしても,辺りには全く人の気配がない.思い出したようにごくたまに自動車が通り抜ける.まるで,映画のセットの中を歩いているような気分になる.一体,ここには人が住んでいるんだろうかと疑いたくなるぐらい静まり返っている.辺りにはコンビニはおろか,自動販売機すら1台もない.
 
<小諸道分岐>                                  <古い街並み>

■問屋本陣跡
 そんな街中を歩いて,12時38分,大きな字で「問屋本陣」と書いた看板が掛けられている家に到着する.真壁造りの大きくて立派な家が建っている.
 直ぐ近くに「問屋・本陣跡」の説明板が取り付けられている.
 この説明板の記事によると,「塩名田宿は岩村田と望月の中間に位置し,街道筋でも難所の一つ,千曲川を前に一宿が必要として,北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現位置に40軒ほど移して形成した(慶長7年,1800年).問屋新左衛門・文左衛門.名主彦兵衛,本陣新左衛門,善兵衛,脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた.寛政12年(1800年)の宿内総家数は126軒.問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり,宝暦6年(1756年)に再建されたが,現在は御殿部分が改装した住宅になった.丸山家には宿場関係資料が多数保存されている」という(「」内引用).
 ちょっと読んだだけでは,内容が良く分からないが,まあ,大体の様子は,この記述で理解できる.
 
<問屋本陣跡>

■高札場跡
 12時41分,高札場跡に到着する.案内杭と案内板の前に到着する.案内板の記事によると,道路拡張のために,高札場は元々の位置から北へ後退し,用水路には蓋が被せられたようである.

<高札場跡>

■昔は花街
 直ぐ近くに「花街塩名田」という案内板が立っている.この案内板には,「明治30年代から塩名田が活気を帯びてきた.八幡から料理行2人が移転して営業,真角屋は上等の芸妓屋で32年に塩名田一流の料亭として開業して名声が挙がった.塩名田が花街として形成された要因は,地理的に北佐久郡の中央,千曲川の川畔にあり,当時の交通事情も良好で,他地域より営業に参加しやすかったのであろう.また商家もここへ営業を求めてつめかけた.製紙工場もできた.劇場「塩名田座」も出現した.住民も養蚕に精を出し始めた.昭和3年(1928年)時点で川原宿に5軒,中宿に3軒あった.しかし,昭和10年代になると,いままでの平穏な世相は一変してしまって,三味線の音も消えていった.」と書いてある.

<塩名田宿を行く>

■お滝不動
 高札場跡から右に分岐する旧中山道に入る.急な下り坂になっている.下り坂の入口に「中山道」と書いてある小さな案内杭が立っている.
 この案内杭から少し下った左手にお滝不動が祀られている.
 案内板によると,「ここはもと瀧大明神の境内で,ケヤキの大木の根元から大量の清水が湧き出ていた・・・傍らの休茶屋の看板は,「かどや」の名が残る三階建ての家である.・・・十九夜塔は,4月21日頃,女性が集まって(講),十九夜念仏を唱和する行事があった・・・この河原町道祖神像は明治40年(1907年)頃建立された・・」と書いてある.

<お滝不動>

■飲食店が見付からない
 さらに,急な下り坂を進むと,すぐに千曲川の川岸に突き当たる.ここで塩名田の中心街は終わりである.
 「塩名田へ行けば,どこか食事をするところが見付かるだろう・・」
と安易に考えていた私たちは馬鹿だった.結局,食べ物に縁のあるお店はおろか,とにかくお店は一軒もない.
 資料によると,突き当る直前の右側に竹廼家という川魚料理のお店がある筈である.確かに竹廼家はあるが,お店は閉まっている.
 「ありゃ,ありゃ,・・困ったな・・」
と思っている内に,道なりに進んで,橋の下を潜って,再び中山道まで戻るようにつながっている.

■舟つなぎの石
 千曲川に突き当たったところに「船つなぎの石・千曲川舟橋」の案内板が立っている.この案内板によると,「明治初年水害で千曲川橋が落ちた.明治6年(1873年)船橋会社に通行を請負制で運営させた.このとき通行には橋銭が必要であった・・・」という説明がある.

<千曲川舟つなぎ石>

<八幡宿に入る>

■八幡宿の概要
 資料2によれば,「八幡宿は,中山道第24番目の宿場で,周辺の八幡・蓬田(よもぎだ)・桑山地域の住民が移住してつくられた.この八幡宿には,天保14年(1843年)には,本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠3軒,問屋2軒があった.
 また,八幡本陣には,幕末動乱期に「公武合体」の象徴として,第14代将軍の徳川家茂に降嫁した皇女和宮が泊まっており,宮から下賜(かし)された品物などが現在も伝えられている.」
 資料6によれば,「八幡宿は,江戸から数えて24番目の宿場である.現在の現在の長野県佐久市八幡.千曲川の西岸にあたり,対岸の塩名田宿との距離は1里もないが,川止めになったときの待機地として,また千曲川沿いの米の集散地として江戸時代初期の慶長年間に整備された宿場である.天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,八幡宿の宿内家数は719軒,うち本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠3軒で宿内人口は719人であった.」
 また,資料3(p.141)によれば,宿内人口719人.内,男372人,女,347人.宿内惣家数143軒.内,本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠3軒.
 資料6と資料3では,数字に若干の誤差があるが,八幡宿のおよその規模は,これらの数値から想像することができる.

■中津橋を渡る
 12時48分,千曲川に架かる中津橋を渡り始める.昼食に有り付けないので,気分的にもだんだんと消沈してくる.何だか疲れもドッと出てきたような気がする.
 立派な橋である.さきほどの案内板によると,この橋は1931年(昭和6年)に架けられたものである.3分ほどで橋を渡りきる.
 渡りきってから,中山道を外れて,ほんの少し千曲川沿いに下れば大円寺という寺があることは,分かっているが,腹が減ってくると,寄り道をする気にならない.
 また,近くの河原には「舟つなぎ石」という遺構があるのも分かっているが,見に行く気にならない.

<中津橋を渡る>

■腹が減った! コンビニを見つけたぞ!
 橋を渡りきると河岸段丘を登る坂道になっている.大した坂ではないが,空きっ腹には堪える.それに気温も随分と高くなっている.たとえ昼食に有り付けなくても,何か冷たい飲み物が欲しい.
 ふと前方を見ると,登り坂の途中に,コンビニの看板が見える.
 「やったぁ〜・・・コンビニがあったぞ・・・」
 私を含む先頭組は,後ろから来る人たちに知らせる.そして,歩行速度を上げて,コンビニに到着する.ところが,とっくに閉店してしまったらしく,埃まみれのショーケースが数台転がっているだけ.
 これには参った.なまじ期待したので,返って落胆も大きい.
 後ろを振り返って,両手で×を作りながら,
 「・・ダメ,ダメ,・・開いていないよ・・」
と合図する.後続の人たちは,上半身を大きく揺さぶりながら消耗しきった顔で,坂道を登ってくる.

■大日像
 数分,坂道を登る.Y字型の分岐に到着する.この辺りは道路工事をしてから,まだそれほど日が経っていないらしくて,コンクリートが真新しい.道路標識に沿って右側の道を進む,間もなく峠の上に出る.どうやら,千曲川左岸段丘の上に出たようである.進行方向右手が広場になっていて,広々と視界が開ける.この広場の向こうに大日像と思われる石像が見えている.
 一同,空腹なので,この像の近くまで行ってみる気力がない.
 
<大日像>

■一切れのチョコレートに感謝感激
 行けども,行けども,お店は一軒もない.空腹になると思考力も鈍るし,意欲も減ってくる.
 私は,山へ行くときは,必ず行動食と非常食を持参している.しかし,今回は街道歩きなので,沿線には必ずコンビニや飲食店があると思い込んでいた.そのため飲み水は持っているものの,食料は全く持たないまま,歩き出してしまった.大多数の同行者も同じである.
 空腹のため時間の記録も投げやりになってしまったので,何時かの記録は残っていないが,同行者のお一人が,持参していたチョコレートを,ほんの一切れずつだが,全員に配る.蒸し暑いので半ば蕩け始めているチョコレートだが,心底から,「有り難いな」と思う.
 ほんの一切れのチョコレートだが,随分と元気になったような気がする.

■食堂「くまさん」に予約を入れる
 相変わらず食堂もコンビニもない.このままでは,今日は昼食抜きになってしまう.一食ぐらい抜いても,特段,どうということもないが,でも意気消沈する.
 幹事のOさんが,地図に載っている飲食店「くまさん」に,営業しているか確かめるために電話する.今,私たちがいる地点から2キロメートル余り先にある飲食店である.ただ,営業時間は14時でお仕舞いだという.急いで行けば何とか間に合いそうである.
 「営業時間内に行きます・・・」
ということで,予約する.

■御井大神
 13時10分,進行方向左側に立つ御井大神を通過する.大きな石碑である.石碑の胸の辺りにしめ縄が巻かれている.
 この辺りから,やや急な下り坂になる.この坂を下り終えて中沢川を渡ると,江戸日本橋から24番目の八幡宿に到着するはずである.

<御井大神>

■八幡神社高良社
 13時12分,八幡神社前を通過する.ここには国重要文化財に高良社があるはずである.「くまさん」に14時までに到着しないと昼食が食べられなくなる.もう境内を見学する時間はない.参道入口から写真を一枚撮っただけで通過する.きわめて残念.
 資料2によると,高良社は1491年(延徳3年)に建立されたようである.

<八幡神社高良社>

■常泉寺
 13時18分,八幡山常泉寺の前を通過する.時間がないので,参道入口の写真を撮るのがやっと.

<常泉寺>

■生井大神
 13時15分,進行方向左側の金網越しに生井大神の石碑が見える.この石碑にもしめ縄が巻かれている.
 そして,13時18分頃,中沢川に架かる橋を渡って,八幡宿の入口に到着する.

<生井大神>

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://www.city.saku.nagano.jp/kankou/shinaimeguri/asashina-2.htm 
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%BF
 
                                                (つづく)
                                
[加除修正]
2013/7/16  地図の差し替え.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/76748e5b5b21fe9b70584f49cef72044
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d8504035407090fce3fd8b50b676967d     
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(6)八幡宿

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                     <やっと昼食!「くまさん」>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(6)八幡宿
               (五十三次洛遊会)
          2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月6日である.
 初稿に地図を追加し,誤字脱字転換ミスを修正,本文を大幅に改訂した.

第2日目:2010年6月13日(土) (つづき)

<ルート地図>


                          ※再掲

<八幡宿>

■八幡宿の概要(追加)
 13時18分,中沢川を渡って,江戸日本橋から24番目の八幡(やわた)宿に入る.
 資料5によれば,八幡宿の概要は以下の通りである(表現は「・・・である」調に変更).
 「八幡宿は中山道第24番目の宿場で,周辺の八幡・蓬田(よもぎだ)・桑山地域の住民が移住してつくられた.この八幡宿には,天保14年(1843年)には,本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠3軒,問屋2軒があったようである.また,八幡本陣には,幕末動乱期に「公武合体」の象徴として,第14代将軍の徳川家茂に降嫁した皇女和宮が泊まっており,和宮から下賜(かし)された品物などが現在も伝えられている.
  また,この宿を出て望月へ向かうと,瓜生坂の難所越えとなる.この瓜生坂は古代の東山道にあたり,この辺りから望月にかけては,今も数多く遺されている双体道祖神があり,腕が良いことで知られた伊那の高遠石工の手になる秀作が見られるという.また,元禄10 年(1697年)に建立された「中仙道道標」の文字が「中仙道」となっているのは,「中山道」に表記統一された正徳6 年(1716年)以前に立てられたもののようである.山道は瓜生坂を越えて佐久平を通る中山道最後の宿,望月宿に入るが,この瓜生坂は古代の東山道にあたり,遺跡も多く発見されている.」

■昼食を予約
 世話役のOさんが,食堂「くまさん」に電話で予約した.
 「くまさん」の営業時間は14時まで.このまま歩いていては,営業時間に間に合わない.そこで,「くまさん」の女主人が,自分の自家用車で,私たちをピックアップしてくれるという.有り難い話である.
 八幡宿の坂道を登っていると,「くまさん」の車が到着する.
 まずは,女性群と比較的足が弱い方々を先に車に乗せる.その後,残りの私たちがピストンして貰うことにする.

■小松本陣跡
 残った私たちは,引き続き街道歩きを続ける.そして,13時25分,小松本陣跡に到着する.資料1および資料2によると,和宮が宿泊の折,下賜された品々が残っているようである.

<小松本陣跡>

<やっと昼食にありつく>

■乗用車でピックアップ
 小松本陣跡を見学してから,暫くの間,街道沿いに歩き続ける.そうこうしている内に,「くまさん」のピストン車が戻ってくる.車内には,いろいろな品物が置かれていて生活臭がビンビンに残っている.陽気な女将さんが運転している.
 「・・この暑いのに大変だねえ〜・・どこから歩き出したの・・」
 「軽井沢からです・・」
と,仲間の一人が答える.御代田にある「ルートインコート軽井沢」に宿泊していたので,軽井沢からと瞬間的に答えたのだろう.
 「へぇ〜・・・随分歩いたのね.普通は佐久平の駅から歩き出す人が多いんですよ・・」
 私は慌てて,注釈を付ける.
 「いえ,・・正確には御代田からです.『ルートインコート軽井沢』に泊まっていたんです・・」
 そうこうしている内に,13時32分,「くまさん」に到着する.

■食堂「くまさん」
 店内に入る.意外に混雑している.30席ほどある客席はほぼ満席である.一体,どこから,こんなに沢山の人たちが居たのだろうか.沸いて出たような沢山の人たちに困惑する.
 注文したメニューは,カレーライス.突き合わせに出された漬物と,冷たい水が,ことのほか美味しい.特に水の美味しさは特筆するに値する.こんなに美味しい水には滅多にお目に掛かれないだろう.とにかく,水が美味しいので,何杯もお代わりする.

<くまさん>


<やっと昼食に有り付けるぞ!>


<カレーライスは美味しかった>

 
<この漬物:とても美味しい>                                                        <サービスの美味しい飲料>

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www.town.tateshina.nagano.jp/nakasendo/area/saku.html

                                                (つづく)
                                
[加除修正]
2013/7/17  地図の挿入.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

 「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4787ec6c0d235f5b30aa683d880cf30b
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/154ee89453f6109510d7eecf4e22f995     
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.


公園を散策する気持ちで登る丹沢:塔ノ岳(今年36回目)

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                                  <花立山から塔ノ岳を望む>

    公園を散策する気持ちで登る丹沢:塔ノ岳(今年36回目)
            (単独山行)
     2013年7月17日(水) 雨後曇一時晴後雨

■鎌倉丸山を下る
 連日の猛暑も昨日辺りから幾分和らいだようである.
 今日は水曜日,何か特別なことがなければ丹沢行と決めている日である.何時ものように3時半頃起床する.弱い雨が降っているようである.天気予報を調べると,この雨も間もなく止みそうである.日中は曇,夕方から雨になるようである.
 “雨が降っているな,出掛けるのを止めようかな,でも,涼しそうなので,やっぱり出掛けようかな”
と,優柔不断な私は結構迷う.
 4時になる.
 “まあ,いいや…とにかく出掛けよう.もし雨がひどかったら山派止めて小田原城趾でも一回りして帰ろう…”
ということで,丹沢行を決心する.
 幸いなことに,何時もより今朝は幾分涼しい.
 “…ならば,大船駅まで歩いて行こう”
 夏至を過ぎて1ヶ月ほど経過している.その間,少しずつ夜明けの時間が遅くなっている.空が曇っていることもあって,4時10分に家を出るときには,まだ空は薄暗い.住宅地の道路は,昨日の熱がアスファルトに残っているらしく,気温は23℃もある.
 大船5時10分発熱海行の電車に乗車する.下りの初電である.何時も乗車している電車より30分余り早い電車である.この電車で行けば,小田原駅での階段2段跳び乗換は悠々と回避することができる.それだけでなく,渋沢発大倉行1番バスに“1番乗り”である.
 だれも居ないバス停でボンヤリとバスを待つ.5〜6分すると,常連のHさんがニッコリと姿を現す.その内にTDさん,NMさん,STさん,MTさんの常連がバス停に到着する.
 結局,1番バスに乗車した乗客は,私を含めて顔見知りの常連6人だけ.多分,今朝方の雨で,出掛けるのを見合わせた方が沢山居られるんだろう.

■ご常連さんと一緒に登り始める
 STさん,NMさんのお二人は,バスが大倉に到着すると直ぐに登山を開始する.残りの4人は,何となくモタモタとしていて,7時05分,一緒に大倉から歩き出す.特に一緒に行こうと声を掛けたわけではなく,全くの偶然で一緒に歩き始めただけ.それでも,暫くの間は雑談しながら一緒に登り続ける.
 丹沢ベース付近の路面は幾分濡れていて,山ヒルに出会いそうな気配を感じるが,ヒルに取り付かれないように,なるべく登山道の真ん中を歩くように注意する.私たちはMTさんを先頭にして,1列になって歩き続けるが,途中からHさんが遅れ出す.
 今日は湿度が高い.それに無風なので空気が淀んでいる.手許の温度計では気温は24℃程度なので,それほど暑くはないはずだが,どうも蒸し暑い感じがしてならない.
 7時46分,見晴山荘を通過する.そして,直ぐに見晴階段に差し掛かる.ここで,定点観測用の写真を1枚撮影する.今日の見晴階段は登山者の後ろ姿も全くなく,閑散としている.私は,
 “ちょっと登る速度が私には速いかな”
と思ったが,まあ,まあ,自分の経済速度の範囲なので,汗をかきながらMTさんの後ろについていく.
<人影がない見晴階段>

■堀山の尾根からの富士山
  8時04分,一本松を通過する.
 一本松上のベンチを通過したところで,2本ストックを鳥の羽のように持って下山してくるYZさんとすれ違う.
 やがて,駒止階段に差し掛かる頃,先頭を歩いていたMTさんが,
 「私,Hさんを待っていますので,お先にどうぞ…」
と後ろに回る.成り行きで私が先頭になりTDさんと一緒に登り続ける.
 8時11分,下山してくるKSさんとすれ違う.例によって.
 「やあ,やあ,…」
と握手して挨拶する.
 「今日は,ついさっきNMさんとSTさんと会っただけで,あと誰にも会わないですよ」
とKSさんが言う.
 「今日,1番バスに乗っていたのは,顔見知りの常連6人だけでしたよ…」
 やがて,駒止階段に差し掛かる.何時ものことながら,この階段はなかなかの厳しい登りである.私は,一旦,体中の力を抜いて“リラックス,リラックス”「と自分の身体に言い聞かせる. 
 自重しながら駒止階段を登って,8時17分に駒止茶屋を通過する.気温は22℃.あまり高くはないが,全く風がないので,体感的にはやっぱり蒸し暑い.大倉から駒止茶屋までの所要時間は1時間12分.この時期としては,まあ,こんなものだろう.
 堀山の尾根道に入る.ここから暫く,はほぼ平坦な道が続く.微風が海の方から吹いている.富士山が良く見える場所に到着する.雲間に富士山の裾野だけが,うっすらと見えている.
 堀山からのなだらかな下りは,歩く速度を上げる.

<堀山からの富士山>

■萱場平
 8時32分,堀山の家に到着する.気温は相変わらず22℃.小草平には誰も居ない.振り向くと先ほどまですぐ後ろに居られたTDさんの姿が見えない.多分,TDさんは堀山の家で給水休憩を取った後,何時もの調子で登ってこられるだろうから,早晩,私に追い付くだろうと思う.そこで,私はそのまま堀山の家を通過して登り続ける.今日はこの時期にしては気温が低いので,堀山の家から花立山荘まで約40分程度で登ることにする.
 私の前後に登山者の姿はない.私は,“近くの公園を歩いているような気分でリラックス,リラックス”と念じながら,一定のリズムを保って登り続ける.
 8時52分,萱場平に到着する.
 雲が上空を覆っているが,太陽の熱気が堪っていて,萱場平全体が熱気でムンムンしている.辺りには人の気配はなく,静まり返っている.木道の間に繁茂するアザミがますます元気である.
 森の中からウグイスの啼き声が聞こえてくる.

<萱場平>

■花立山荘
 後ろを振り返ると,私から少し離れたところをTDさんが登っている.予想通り,何時の間にかTDさんが私に追い付いている.
 9時03分,後7分坂(花立階段)に差し掛かる.これまで自重して歩いたせいか,あるいは気温が低いせいか分からないが,階段を案外調子よく登って,9時10分に花立山荘に到着する.今日は,後7分坂を,文字通り7分で登ったようである.大倉からの所要時間は2時間05分.堀山の家からは38分.結構良いペースである.最初の鈍足を途中から挽回している.
 山荘前のベンチには人影はなく,辺りは静まり返っている.富士山の山麓と山頂は雲に覆われているが,中腹だけが良く見えている.
 “富士山には,今日も沢山の登山客が殺到しているだろうな”
と想像しながら,花立山荘を通過する. 

<花立山荘>

■花立山
 花立山荘を通過した直後,下山してくるNMさんとすれ違う.何時も後7分坂を3分の2ほど登ったところですれ違っているので,今日はすれ違い場所が少し上に移動している.
 今日は歩き出しで自重したこともあって,今のところ全く疲労感はない.
 相変わらず私の直ぐ後にTDさんが居られる.
 「どうぞお先に…」
と先を譲るが,今日はユックリ登るとのことで,TDさんも私と同じ速度で登り続ける.進行方向左手の視界が開ける.愛か笑う鍋割山稜の向こうに富士山が見えている.

<鍋割山稜の向こうに富士山が見える>

■可愛い鹿の親子
 後ろに居られるTDさんが,
 「FHさん…」
と私を呼び止める.TDさんが指さす方を見ると,草むらで鹿の親子が無心に草を食(は)んでいる.実に愛らしい風景である.
 勿論,シカの食害がひどいことも聞いているが,この愛らしい姿を見ると,何とか人間とシカと共存できないかなと思う.
 前方を見ると,塔ノ岳山頂がクッキリと見えている.

<可愛いシカの親子>

■STさんとツーショット
 ユックリ登ってきたためか,何時もは花立山荘から10分掛けて登る花立山山頂までを9分で到着する.
 この辺りで気候が一変して涼しくなる.微風ながら爽やか海風が吹き始める.何時も間にか噴き出す汗も無くなっている.
 馬の背付近では,ジイジイという虫の鳴き声が四方から聞こえてくる.その越えに混じって,ホトトギスの啼き声も聞こえてくる.
 9時29分,金冷シを通過する.
 その後も順調はペースで登り続ける.
 もうすぐ山頂というところで,下山してくるSTさんとバッタリ.1〜2分立ち話.さすがのSTさんも土曜日は猛烈な暑さで山頂まで随分と時間が掛かったことが話題になる.

<山頂付近でバッタリ>

■塔ノ岳山頂
 9時40分,TDさんと一緒に塔ノ岳山頂に到着する.相変わらず雲間の富士山が良く見えている.山頂には誰も居ない.山頂の気温は20℃.炎暑が続いた時期にしては涼しい.
 大倉から山頂までの所要時間は2時間35分.涼しかったせいか,あるいは公園歩きモードに徹したせいか分からないが,私にとっては,まあ,まあ,こんな所かと思える時間で,無理なく山頂に到着することができた.

<塔ノ岳山頂から富士山を望む>

■尊仏山荘
 山頂までご一緒したTDさんが,日高(ひったか)付近まで行ってみるとのことなので,私はTDさんとお別れして,尊仏山荘に入る.今日の小屋番はオーナーのHDさん.何時ものように300円也のお茶を所望する.
 先客は常連2人,名前は失念.お二人は表尾根を経由して来られたという.暫くの間,山の話題を中心に雑談に興じる.
 今日も一番バスの乗客の中では,私が一番早く尊仏山荘に到着したようである…と,いうことは今日も韋駄天組のTGさんは1番バスには乗っておられなかった.
 お茶を飲みながら,途中までご一緒していたMTさんが尊仏山荘に到着するのを待つ.
 10時05分頃,日高まで行っていたTDさんが,戻ってくるのを窓越し見付ける.どうやら,TDさんは尊仏山荘には立ち寄らずに下山するらしい.
 “じゃあ〜…オレもそろそろ下山するかな”

<尊仏山荘の物置と仏像>

■美しいチョウチョウ
 山頂近くの階段道を下る.途中で登ってくるMTさん,HさんとFTさんの3人とバッタリ会う.FTさんは2番場素手来られたようである.
 10時24分,花立山付近で綺麗なチョウチョウを見付ける.アゲハチョウかな? チョウチョウの名前は良く分からないが,子どもの頃,追いかけた記憶のあるチョウチョウである.とにかく,何とも懐かしい感じがするので,写真を撮る.そう言えば,チョウチョウは,昔,テフテフと書いたな.

<美しいチョウチョウ>

■アレッ! 平日なのに…
 10時28分,花立山荘を通過する.山荘の周囲には登山客の姿がチラホラ見掛ける.
 花立山荘は休日だけ営業してるとばかり思っていたが,今日は平日なのに早々と営業している.後7分坂を登りきった所に「氷」と朱書きした幟が立っている.

<平日なのに営業している花立山荘>

■緑陰を下る.
 TDさんと一緒に下り続ける.
 10時09分,駒止茶屋に到着する.TDさんはここで昼食を摂られるというので,TDさんとは,ここでお別れする.その後は完全な一人旅.ノンビリと下り続ける.
 高度が下がるにつれて蒸し暑くなり始める.真夏を連想させる緑陰の登山道が連続する.
 “やっぱり,緑陰のそぞろ歩きは良いな”

<緑陰の登山道を行く>

■曲がったキュウリ
 大倉からのバスの発車時間に合わせて,ノンビリと下り続ける.
 12時頃,大倉の集落まで下山する.バス停近くの野菜無人スタンドで,6本100円のキュウリを見付ける.
 “これは安くてうまそうだ…!”
 私は,このキュウリを衝動買いする.最近,スーパーなどで販売されているキュウリは曲がっていないが,ここのキュウリは曲がっている.田舎育ちの私には曲がったキュウリが懐かしい.勿論,帰宅後,美味しく戴く.

<6本100円のキュウリ>

■大船Becke'sで一休み
 予定通り,12時04分,バス停大倉に下山する.
 12時22分発のバスに乗車する.駒止茶屋でお別れしたTDさんも,結局,同じバスに乗車する.バスは空いている.
 渋沢,小田原で電車を乗り継いで,13時52分,大船に到着する.このまま帰宅するには,まだ,まだ,日が高すぎる.私は小腹が空いていたので,大船駅構内のBecker'sに立ち寄る.150円也と小さなバーバーとホットコーヒーを賞味しながら,ひと息入れる.
 冷房が利いている店内に暫く過ごす内に,少々寒く感じる..それに汗でベタベタになった衣服が気持ち悪い.食事を終えると早々に店を出る.

<Becker's で一休み>

■結局ブラブラ歩きで帰宅
 大船駅前の通りに出る.涼しい海風が吹いている.この海風に当たっている内に,このまままた冷房の利いているバスに乗る気がしなくなる.それに少々歩き足りない感じがする.そこで,私は大船駅から自宅のある丸山までブラブラ歩きを楽しむことにする.歩程約2.5キロメートル,標高差約70メートルのお散歩コースである.
 途中,鎌倉中央公園を通り抜ける.公園内の人影は少なく,閑散としている.園内の緑陰を楽しみながら,14時50分頃,無事帰宅する.
 今日も,無事に塔ノ岳を往復することができて,本当に良かった.

<鎌倉中央公園> 

<ラップタイム>

 7:05  歩き出し
 7:29  観音茶屋
 7:46  見晴山荘
 8:17  駒止茶屋
 8:32  堀山の家
 9:10  花立山荘
 9:23  金冷シ
 9:40  塔ノ岳山頂着(20.0℃)
10:04      〃  発
10:16  金冷シ
10:28  花立山荘
10:54  堀山の家
11:09  駒止茶屋
11:31  見晴山荘
11:45  観音茶屋
12:04  大倉着

 [山行記録]

■水平距離       7.0km(片道)

■累積登攀下降高度   1269m

■登攀所要時間(雑談時間を含む)
  大倉   発       7:05
  塔ノ岳  着       9:40
  (所要時間)    2時間35 分(2.58h)
  水平歩行速度   7.0km/2.58=2.71km/h
  登攀速度    1269m/2.82h=450.0m/h

■下降所要時間(休憩時間を含む)
  塔ノ岳  発      10:04
  大倉   着      12:04
  (所要時間)  2時間00分(2.00h)
 水平歩行速度     7.0km/2.00h=3.50km/h
  下降速度     1269m/2.00h=634.5m/h
                                   (おわり)

「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9a91be852233f4b1fb2c715efab34869
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)

 


梅雨明けの鎌倉;六国見山・散在ヶ池周遊

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                             <六国見山富士塚山頂から?浜ミナトミライを望む>

        梅雨明けの鎌倉;六国見山・散在ヶ池周遊
            (山旅スクール5期会)
         2013年7月18日(木)  晴

<ルート地図>




<大船駅から六国見山へ>

■今日は鎌倉も蒸し暑そうだ
 梅雨明け以降続いていた猛暑も,2日ばかり少しはマシな気温になったかと思ったら,今日はまた猛暑が戻ってくるようである.今日は山旅スクール5期会定例会の開催日,暑い最中に終日鎌倉をブラブラ歩きする予定である.実は昨日塔ノ岳を往復したばかりの私は,今日の午前中ぐらいはシッカリ仕事をしなければいけないが,散策には目がないので,何の迷いもなく,集合場所の大船駅に向かう.
 こんな心境のときの私のモットーは,
 “明日に延ばしても構わないことは,今日はやらない!”
である.
 でも,他の方々には決してお薦めできないモットーである.
 そんなことを言いながら,決められた時間に遅刻したり,アタフタするのが大嫌いな私は,集合時間の9時30分より,1時間も早く大船駅構内のBeker'sに入り込んで,コーヒーを飲みながら,
 “さて,今日は何処へ行こうか…?”
と,あれこれ考える.
 このところ,この会の案内役をするときには,事前に地図などを準備するのはヤメにしている.というのも,出たとこ勝負,決して急(セ)かさない,参加者の希望を聞いてからコースと終着地を決めるようにしているからである.とはいえ,大船駅を起点にして,東西南北どちらの方向に向かうにしても,夕方の16時過ぎに鎌倉駅か大船駅に戻るようにしたい…そんなことを念頭に置きながら,頭に中で,あれこれとシミュレーションを重ねる.こんなときに,コーヒーは実に良い相談相手になる.
 集合時間の15分前に,大船駅南改札口に戻って待機する.

■行き先を決めて歩き出す
 程なくこの会のまとめ役,ノシイカさんが現れる.ノシイカさんとは先週日曜日に塔ノ岳でバッタリ出会ったばかりである.ほどなくmakoさん,野菜漬物さん,N本さん,U木さん,それに私の総勢6人が揃う.男性は私1人だけ,あとは猛女ばかり,毎度のことながら,まことに心細い.
 「さあ,皆さん,東西南北どちらへ行きたいですか? それに,終点は鎌倉駅ですか? それとも深沢,大船?…どうしますか?」
 鳩首会談の末,
 “久々に今日ぐらいは,ちゃんと歩こう”
 “このところ山へ行っていないので山歩きをしよう”
 “東の方向に歩こう”
ということになる.
 「では,六国見山にでも登ってから,散在ヶ池で昼食にしましょう.それから後のコースは成り行きで…終点は鎌倉駅,16時から16時30分ということにしましょう…」
 これで,本日のコースは決定である.

■まずは常楽寺へ
 9時35分に大船駅から歩き出す.
 今日は風が弱く,朝の内からもうムシムシとした暑さである.まずは大船中央病院を目指して歩き出す.この通りは伝染が地中に埋めてあるので,とても小綺麗.沿道には結構おしゃれな店が並んでいる…とは言っても,私はこれらの店の何処にも入ったことはない.
 三菱電機の敷地沿いに歩き,途中から左折して住宅地内のくねくねと曲がる狭い路地に入る.風が通らないのでムシムシする.
 10時01分,常楽寺山門前に到着する.今日は専ら歩くのが目的なので,常楽寺の参拝は省略,木陰でちょっと休んだだけで,再び歩き出す.

<常楽寺の山門>

■ムム…蒸し暑い! ガリガリ君だ!
 常楽寺から西へ向かう.直射日光が暑い.
 10時09分,鎌倉街道との交差点に到着する.余りに暑いので,交差点の角にある雑貨屋で,私はガリガリ君を購入する.ご同行の皆さんも,私同様にガリガリ君や氷菓を購入したようである.
 ガリガリ君を囓りながら,まずは多聞院に向かう.
 “暑いときはガリガリ君に限る”
 私はかき氷のような官職のあるガリガリ君が性に合っているような気がしている.それに,この店では,ガリガリ君1本が60円.コンビニで購入するより安いのが有り難い.
 
<ガリガリ君>                                   <多聞院の石塔群>

■多聞院と熊野神社
 10時16分,多門院に到着する.ここは真言宗大覚寺派の寺.ご本尊は毘沙門天つまり多聞天である.
 今回は専ら歩くのが目的.お寺のウンヌンカンヌンはヤメにしておこう.一行は境内をチラリと覗いただけで,お参りを済ませる.続いて,多聞院の隣にある熊野神社参道の日陰で立ち休憩を取る.休憩を取っている間に,
 「折角だからお参りしよう…」
ということになり,長くて急な石段を登って,熊野神社でのお参りを済ませる.ここは大船の鎮守.甘粕氏が室町時代中頃に建立した神社だと聞いている.
 
<多聞院>                                        <熊野神社>

■切り通しを登る
 多聞院前にある駐車場のフェンス沿いに草道を通って,六国見山登山道に入る.
 すぐに,切通の登り坂になる.路面は枯れ葉が積み重なっていてジメジメしている.頭上を木の枝葉が覆っていて薄暗くなっている.風が通らないのでムッとする暑さである.

<切り通しを登る>

■六国見山森林公園
 山道は,大船高校のグラウンドに突き当たって一旦終わる.このグラウンド沿いの階段を登って,10時34分,高野台ロータリーに到着する.ここはいくらか風が通るので,いくらか涼しい.そこで,臨機応変,木陰に入って3〜4分立ち休憩を取る.
 ロー他ロリ-脇から,再び山道に入る.相変わらず風が通らないので蒸し暑い.
 やがて,高野台住宅地からの階段の上に到着する.ここから六国見山山頂までは公園風に整備された階段道になる.
 10時47分,六国見山山頂に到着する.
 山頂は富士塚になっている.富士塚に登ると太陽が容赦なく照りつけるが,海風が吹いてくるので,幾分は涼しい.ここから,安房,上總,下総,武蔵,相模,伊豆の六つの国が見えると聞いているが,北側は一部を除いて大木が繁茂していて見通しが利かない.多分武蔵国は見えないのではないかと思うが定かではない.
 猛烈な太陽の光を浴びながら,鎌倉市内の眺望を楽しむ.反対側を見ると?浜ミナトミライ地区が見下ろせる.
 山頂には先客の老人2人が陣取っている.軽く挨拶をして,隣のベンチで10分ほど休憩を取る.休憩の間に,このお二人とも雑談を楽しむ.
 
<富士塚山頂>                 <六国見山から鎌倉市内を望む>

<今泉台から散在ヶ池森林公園へ>

■稚子塚から今泉台住宅地へ
 六国見山は双耳峰である.
 11時02分,二つのピークの間にある稚子塚に到着する.ここには一部が欠損した宝篋印塔が立っている.由比の長者染谷太郎大夫時忠の子どもの墓だと聞いている.
 どなたが供えたのか分からないが,稚児塚の前には色鮮やかな花が供えられている.
 さらに尾根道を先へ進む.稚児塚から200メートルほど先に六国見山の二つ目のピークがある.ここが地図上で六国見山山頂と記されているところである.標高147メートル,鎌倉では大平山,十王岩に次ぐ第3番目の高峰である.ただ,ここは周囲を深い森林に覆われているので,見通しは全く利かない.このピークを過ぎると急な下り坂になる. 

<稚児塚>

■散在ヶ池森林公園
 11時13分,山道を下りきって今泉台住宅地の一角に飛び出るようにして到着する.
 住宅地に出た途端に舗装道路の照り返しで,ますます蒸し暑くなる.ここから一旦明月谷まで降りて,建長寺半僧坊へ登り返すことも考えたが,また下ったり登ったりするのも面倒なので,かんかん照りの蒸し暑さを承知の上で,今泉台の住宅地を抜けて,散在ヶ池森林公園入口に向かうことにする.
 住宅地内の道は何回歩いても少々迷うが,前方に見える山を目安にして,適当に歩いて,11時32分に散在ヶ池森林公園入口に到着する.ここから,少々険しい「馬の背小径」を経由して散在ヶ池湖畔に向かう.小さな登り下りを通過して,滑りやすくて急な階段を下って,11時50分,予定通り散在ヶ池湖畔に到着する.
 池を覗き込むと,沢山の鯉が気怠そうに泳いでいる.
 
<散在ヶ池湖畔>                                                                                              <池の鯉>

■楽しい昼食
 池の水面から微風が吹いてくる.そのためか,ここは幾分涼しい.私たちは予定通りここで昼食を摂ることにする.
 例によって,野菜漬物さんが沢山の食べ物を並べる.全部自家製である.勿論,全部が自然食.野菜漬物さんの手料理にありつけるのも,このグループと一緒に旅をする楽しみの一つである.私は内心で,
 “午後の散策など,どうなっても良いから,昼食にはタップリ時間を掛けよう”
と思っている.
 涼しい風を受けながら,ノンビリと昼食を楽しむ.
 その間,散在ヶ池を訪れた人はほんの2〜3人.辺りは閑散としている.

<野菜漬物さん提供のおかず>

■せせらぎ小径
 12時52分,やっと昼食を終える.約1時間,タップリ時間を取っての昼食を終える.
 さて,午後はどうしよう? どこを歩こうか? 参加者の中の何人かが称名寺へは行ったことがないという.これで午後の最初のコースは決まる.とにかく称名寺へ行こう.
 折角だから「せせらぎ小径」を通ることにする.ここは渓谷沿いの静かな散策路である.進行方向左手の崖には岩イワが群生している.私には草花のことは良く分からないが,鎌倉でイワタバコの群生地として有名なのは,多分,ここと海蔵寺,浄智寺,東慶寺,朝夷奈切通ぐらいだろう.この中では,せせらぎ小径が一番大量のイワタバコが群生しているように思える.
 せせらぎ小径を抜けて,12時59分に公園の外へ出る.

<せせらぎ小径>

<称名寺を一回り>

■称名寺の本堂と弁天堂
 炎天下の舗装道路を歩いて,13時06分,称名寺に到着する.
 まずは立派な本堂を拝観しながら,木陰で休憩を取る.
 ここは私が紹介するまでもないが,浄土宗の寺.山号院号は今泉山一心院.開山は空海.本尊は阿弥陀如来.

<称名寺.その奥が弁天堂>

■男滝と女滝
 休憩後,境内の墓地の奥にある男滝と女滝を訪れる.滝壺はさすがに涼しい.私たちは滝の近くで暫くの間休憩する.
 女滝の水を手で掬ってみる.ヒンヤリとして冷たい.
 そういえば,私たち共通の山の知人に「大滝さん」という方が居られたな…
    “男滝+女滝=大滝”
なのかな?…などと余計なことを思いつくが,胸の内に収めて,そんな思いつきは全く話さない.
 
<男滝>                                       <女滝>

■不動明王
 男滝と女滝の間に,怖い顔をした不動明王像(多分? 不動明王ではないかもしれない)が安置されている.
 ちょっと不謹慎になるが,不動明王のお顔が,塔ノ岳尊仏山荘のオーナーHさんと何となく似ているような気がしてくる.

<不動明王>

■不動堂と十六童子像
 滝の見物を終えて,弁天堂の前に戻る.目の前には急で長い上り階段がある.この階段を登り切ると不動堂がある.
 階段を見上げる.この階段は,さらに左折して,々ぐらいの長さが続く.炎天下,この階段を登るのは如何にも辛い.
 「どうします? 登りますか?」
と一同に伺う.
 さすがに山仲間である.全員が登る.長い階段を一気に登るとさすがにシンドイ.不動堂前のベンチにヘタヘタと座り込む.
 不動堂の扉が閉まっているので拝観できないが,お堂の前で合掌.すぐ後ろの階段に安置されている十六童子像を見学する.
 もう,10年以上前になるだろうか,以前は十六童子像の階段を登って裏山を一周できたが,今は残念ながら通行止めになっている.
 
<不動堂>                                     <十六童子像>

<テニスコート脇から百八ヤグラ前十字路へ>

■やたらに蒸し暑い舗装道路
 13時35分,浄妙寺の拝観を終えて,もとの道に戻る.
 ここから,ゴルフ場に抜ける登り坂の舗装道路をひたすら歩く.ときどきゴルフ場を往来する自家用車が通過するので鬱陶しい.もっとも,自動車道を歩いている私たちが文句を言えた義理ではないが…
 13時46分,今泉トンネルを潜る.
 トンネル先の日陰で小休止後,テニスコート脇の草道に入る.
 「そんなところに道があるの…」
と同行者のどなたかが言っている.
 
<今泉のトンネルを潜る>                          <テニスコート脇の草道に入る>

■坂道を登って今泉台へ
 テニスコート沿いの川岸を辿ってから,今泉台住宅地に抜ける急坂を登る.
 途中,工事現場風の階段がある.階段脇には,両手で手すりにしっかり掴まって登って下さいという注意書きがある.喘ぐようにして,急階段を登って,13時54分に今泉住宅地の一角に出る.
 住宅地内の道は,紛らわしくて,何階通っても正確には覚えられない.唯一の頼りは周囲の風景である.進行方向左手に天園ハイキングコースがある尾根が見えている.
 かんかん照りの舗装道路をトボトボと歩く.昼下がりの一番暑い時間帯なので,外を歩いている人は誰も居ない.まるでゴーストタウンを歩いているような気分である.

<今泉台に抜ける急坂>

<十王岩から山道を経由して第2中学へ>

■百八ヤグラ脇の十字路
 頭上を走る高圧送電線を頼りに,今泉住宅地内を歩いて,14時23分,天園ハイキングコース入口に到着する.ここは一寸した広場になっている.広場の一角に水飲み場があるので,一寸ばかり立ち休憩を取る.そして,急階段を一気に登って,14時26分,百八ヤグラ脇の十字路に到着する.ここは何時来ても涼しい風が吹き抜けているところである.勿論,風を受けながら,ここで10分ほど休憩を取ることにする.
 木の根や標識に腰を掛けて,涼しい風を楽しむ.
 丁度そのとき,初老と思われる男性が大平山方面から十字路に到着する.暫くの間,この男性と雑談を交わす.
 
<天園ハイキングコース案内標>                        <百八ヤグラ十字路>

■大窪寺薬師如来像
 百八ヤグラ脇の十字路から,瑞泉寺に向かうか,それとも覚園寺へ向かうか,お一人から,
 「十王岩付近の道端に倒れていた古い石の道標が,最近,チャンと立て直してあったので,その道を歩いてみたい…」
とのリクエストがある.
 この道は,数年前に,一時,通行禁止になっていたこともあったが,今は自由に通れるようになっているので,この道を通るのに特段の異論もない.
 「では,その道を下りましょう…」
ということで,休憩を終えた私たちは,14時32分に百八ヤグラ脇の十字路から,天園ハイキングコースを建長寺方面に向けて歩き出す.
 14時39分,鷲峰山(しゅぶぜん)山頂に八十八ヶ所巡り大窪寺薬師如来像の前に到着する.石段を登って参拝したいという人が居るので,ここで小休止する.

<大窪寺薬師如来>

■修復された古い道標
 14時43分,修復された古い道標に到着する.
 特段通行禁止ではないが,ここから先の道を子細に記述するのは憚られるので省略するが,緑陰の山道を道なりに下る.途中,朱垂木ヤグラ,覚園寺裏山ヤグラ群などがあるが,私たちのような素人がむやみに立ち寄るのは良くないので,勿論通過する.
 14時57分,建長寺回春院に下る道と交差する.この交差点を左折すれば住宅地内の急な下り坂を下って,西御門に降りることができる.でも,山道を歩きたいという希望が多いので,
 「急な起伏が沢山ありますよ,一寸ヤブ道がありますよ…それでもいいですか」
と念を押してから直進する.
 尾根を外さないように注意して下るが,今は夏.途中に,足許が良く見えないほどのヤブ道もある.少々迷いそうになりながら,南へ下って第二中学の生徒が通るグリーンロードに合流する.山裾に第二中学のグラウンドが見え隠れする.生徒達の元気な声が聞こえてくる.この辺りからは山道も歩きやすくなり,15時28分,無事,第二中学正門横に下山する.
 正門前の日陰で立ち止まって,
 「やれ,やれ…やっと下山した」
 日陰に入って,しばらく休憩.体中が汗まみれゴミだらけになっている.若井オバサン達は蚊に刺されて痒そうである.もう年で干からびている私は,蚊の被害一切なし.蚊の立場になってみると,私など不味くて仕方がないんだろう.その点,オバサン達は痩せても枯れても,むくつけき男に較べたら美味しくて堪らないのだろう.
 そう,蚊の多いところを歩くときは,蚊から見て美味しそうなオバサンにピッタリ寄り添って歩くのが一番.下手な防虫剤より効果があるかもしれない.

<古い道標>

<鶴岡八幡宮から鎌倉駅へ>

■鶴岡八幡宮でひと息
 第二中学から西御門の住宅地に降りる.私が,
 「もうすぐ鶴岡八幡宮ですよ…」
と言っても,
 「FHさんのもうすぐは,いつも長いんだから…」
と信用がない.
 「いえ,本当にもうすぐですよ…」
 「また,また,…まだ大分あるんでしょう」
 私は内心で,
 “コリャダメだ,私は信用がない”
で諦める.
 でも,論より証拠.15時46分,鶴岡八幡宮に到着する.
 源平池の畔の日陰で取りあえず一休み.私も売店の自動販売機で冷たい飲み物を購入する.

<源平池と白旗神社>

■久々の小町通り
 16時05分,鶴岡八幡宮から小町通りに向かう.
 「久々に小町通りを全部歩きませんか…」
という希望があるので,なるほど,何時も裏道ばっかり通っていたなと再認識する.
 私は鎌倉市民でありながら,小町通り全部を通して歩いたことは殆どない.こんな機会でもないと,なかなか…
 久々の小町通り散策である.何時の間にか道の両側の電柱が消えている.従来に比較すると,何となくおしゃれな雰囲気になっている.見たこともない新しいお店もあちこちにオープンしている.
 “なるほど,たまには小町通り散策も良いな”
と思いながら,鎌倉駅に向かう.
 今日は蒸し暑い平日.観光客の多くは海の方へ行っているのだろう.小町通りの人出は,随分と少ないように思える.

<小町通りに入る>

■鎌倉駅前「扉」でコーヒーブレーク
 16時20分,予定通りの時間に鎌倉駅に到着する.
 お一人の提案で,鎌倉駅近くの喫茶店「扉」でコーヒーブレークである.この喫茶店,まだ私が現役時代に,打ち合わせのために入ったことがあるが,何となく高いなというイメージがあったので,その後,全く訪れていない.今日は久々の利用である.
 店内に入る.客席のほぼ全員が中高年女性である.先客の中で男性はお一人だけ.
 “やっぱり,むくつけき男性には入りにくいな”
と思いながら,着席する.
 メニューを見る.鎌倉の土地柄としてはリーズナブルな値段だが,Beck's系の店を愛用している私には,500円也のアイスコーヒーは,やっぱり分不相応な気がしてくる.
 でも,出されたアイスコーヒーを見てビックリ.まずはタップリのお膳立てである.ビーカーみたいな入れ物にアイスコーヒーが入っている.大きなコップに沢山のアイス,それにミルクなど.これにはビックリ,ドギマギ…
 私が面白がって,氷をガラガラしていると,
 「まるで子どもみたいだね」
と笑われてしまう.でも,私は内心では,
 「うん…こんな仕掛けなら500円でも悪くはないな…これからはこの店を利用するか…」
と思うようになった.

<500円也のアイスコーヒー>

■無事帰宅
 17時20分,お開きになる.
 私は鎌倉市役所前からバスに乗車.17時45分頃,無事帰宅する.今日の歩行距離は約10キロメートル,累積標高は約380メートル,一寸した里山登山程度の山行になった.歩数は2300歩程度.
 今日も良かった,良かった.

<ラップタイム>

 9:35  大船駅歩き出し
10:01  常楽寺
10:16  多聞院
10:47  六国見山(10:57まで休憩)
11:02  稚子塚
11:32  散在ヶ池森林公園入口(12:59まで昼食と散策)
13:06  称名寺(13:35まで参拝見学)
14:26  百八ヤグラ脇十字路
15:28  第二中学
15:46  鶴岡八幡宮(16:05まで参拝)
16:20  鎌倉駅着

[散策記録]

■水平歩行距離   10.1km

■累積登攀高度    377m

■累積下降高度    380m

■所要時間(休憩時間込み)
  大船駅発      9:35
  鎌倉駅着     16:20
  (所要時間)  6時間45分(6.75h)
  水平歩行速度  10.1km/6.75h=1.50km/h
                                     (おわり)

「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8fcd875d9869d67ae0d6cf9633fd2989
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)

歩いて巡る中山道六十九(第8回):第2日目(6);布施から野趣溢れる山道を辿る

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                  <野趣溢れる瓜生峠手前の中山道>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九(第8回):第2日目(6);布施から野趣溢れる山道を辿る
              (五十三次洛遊会)
         2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月9日である.
 初稿の地図を訂正番に差し替えて,本文の加除修正を行った.

第2日目:6月13日(土) (つづき)

<ルート地図>

■八幡宿・望月宿

※再掲

■望月宿詳細図


<素晴らしい布施の集落>

■満腹になって上機嫌
 やっと有り付いた「くまさん」での昼食を終えて,14時06分,「くまさん」を出発する.
 威勢の良い女主人が,お店の外まで出てきて,私たちを見送る.
 「・・いいですか.中山道は,あそこの右側の道を行くんですよ・・」
と,まるで母親がドラ息子を諭すような口調で,私たちに注意する.
 私たちは,絶えず地図と首っ引きで歩いているので,指示されなくても,先刻から自分の行き先ぐらい分かっているが,女主人の諭すような口調に,ある種の懐かしさを感じる.
 目の前の広い道から,やや道幅が狭い道が右手に分岐しているのが見えている.ゆるい登り坂である.
 私たちは,女主人にお礼を言ってから,14時06分に歩き出す.
 残念ながら,先ほど女主人の車でピックアップしてもらった場所まで,戻って歩きなおす気力もないので,車で移動した1キロメートル余りの区間は歩かないことになる.これも致し方ない.

<フェンスの向こうにこれから歩く道が見える>

■立派なお屋敷が続く
 14時13分,三叉路を右へ入る.緩い登り坂が続く.すぐに道の両側に白壁の家並み続く集落に入る.地図で確かめると,望月町百沢という所らしい.
 とにかく閑静な所である.真壁の立派なお屋敷が続く.道には全く人影はなく,静まりかえっている.道路の両側には,側溝が作られていて,水量豊富で綺麗な水が,コロコロと音を立てながら流れている.

<立派な家並みが続く>

■祝言道祖神
 14時17分,進行方向右手に安置されている祝言(しゅうげん)道祖神に到着する.
 道祖神の傍らに設置されている案内板の記事によると,「祝言道祖神は長野県安曇地方で発生した道祖神で,宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である.
 安曇系は主尊が日本神話も神々で,着衣も神々の装束で造像されるのが通例であるが,この道祖神は宮廷貴族風の精緻な造像である.発祥地安曇地方にも類例のない貴重な遺産である.」ということである.
 資料2によると,ここにある大小3体の道祖神は「縁結び夫婦和合の神」のようである.
 また,資料4(p.67)によると,この「王朝貴族様の百沢の双体道祖神.伊那の?遠石工による秀作が周辺に多い」という.
 
<微笑ましい祝言道祖神>

■若宮大権現と二十三夜塔
 14時19分,若宮大権現と二十三夜塔に到着する.立派な石塔が2基並んで安置されている.これらの石塔の由来は分からない.
 石塔の先に,先ほど分岐した道路が見えている.そして,直ぐ先で,私たちが歩いている道と合流する.

<二十三夜塔>

<迷い道の瓜生峠;いよいよ望月宿>

■旧中山道元禄の道標
 百沢の聚落を抜けると現中山道の道路を横断する.現中山道は上り勾配になっている.私たちは右手の土手上に続く現中山道を眺めながら,長閑な田園が広がる田舎道を進む.
 14時25分,旧中山道元禄の道標を通過する.草むらの陰に元禄の道標が見えている.大多数の仲間は,この道標には興味を示さずに,どんどん先へ行ってしまう.
 道標近くの案内板には,「元禄十一年三月吉日,右中仙道 左□施谷」の記がある 旧中山道は,ここから・・・・・月宿に通□□・・望月町教育委員会」と書いてある(「□」は消えて読めない字).

<旧中山道道標>

■ヤブの中の中山道
 元禄の道標で道路は左右に分岐する.私たちは案内杭に従って,右側の細い道に入る.何となく心細い道である.路面は草に覆われている.こんなところを通っても良いのだろうかと迷うほど鄙びている.
 路面に天然芝が生えている登り坂を進む.
 やがて,「中山道」と書いた道標がある舗装道路に出る.旧中山道は,この道路を越えてヤブの中につながっているようである.
 舗装道路沿いに,ポツンと1軒屋が建っている.何かの事務所のようである.丁度,建屋から男性が出てくる.仲間の一人が,
 「・・中山道は,この道で良いんですか・・?」
とこの男性に伺う.
 「・・このヤブの中が中山道らしいですが,今は通れないようです・・」
 私たちも,予め用意した地図を確かめているが,どうもハッキリしない.
 暫くの間,地図を眺めながら迷いに迷う・・・が,現地に設置されている案内標識を信用して,
 「・・どうも違うなあ・・」
と思いながらも,標識通りに進む.
 標識通りに進むと,旧中山道ではなく,観光中山道になってしまうのではないがという懸念がある.

<疑心暗鬼で旧中山道に入る>


<待てよ・・この道で良いのかな>

■瓜生坂一里塚
 次第に上りの坂道になる.地図を確かめながら進む.やがて,道は大きく左にカーブする.
 進行方向右下に,先ほど分岐した現中山道の自動車道のトンネルが見える.地図で確かめると望月トンネルのようである.このトンネルを抜けると,間もなく望月町に到着するようである.
 相変わらず地図を確かめながら先へ進む.カーブの頂点が谷の奥で曲がるところに小さな枝道が合流している.私たちがカーブを歩いていると,この枝道から年配の男女数名が下りてくる.山菜採りでもしていたようである.
 ひょっとして,この枝道が旧中山道ではないかと聞いてみるが,違うようである.
 暫く進むと,道が,今度は,大きく右にカーブする.勾配がだんだんと緩やかになって,峠に達する.14時51分,進行方向左手の瓜生坂の一里塚跡を通過する.江戸から45里目の塚である.
 この塚の近くで,元禄時代の中山道と合流するはずだが,目を懲らして見続けるが,そのような道は見当たらない.

<中山道一里塚>

■百万遍念仏塔
 一里塚を過ぎてから,暫くの間,下り坂の舗装道路を道なりに進む.
 14時55分,百万遍念仏塔に到着する.大きな木の根元に立派な石塔が2基並んでいる.その脇に,中山道瓜生坂と書いた案内柱が立っている.
 
<瓜生塚の百万遍念仏塔>

■途中から土手を下りる
 地図を見ると,旧中山道は,途中から左手の枝道に入るようになっている.そこで,目を皿のようにして,分岐を探す.やがて,土手を下りてつながる踏み跡程度の分岐を見つける.林の間から下を覗くと谷間に畑が見えている.畑があるからには,かならず道路があるはずだと判断して,枝道に入る.
 少々歩きにくい下り坂の山道が林の中に続く.物音一つしない静かな細道である.頭上を緑の樹木が覆っている.実に心地よい散策路である.
 でも,この路もほんの僅かで,また,大曲して下ってくる元の道に合流する.
 資料1によると,この辺りに瓜生峠茶屋跡がある筈だが,見落としたのか,どこだか分からない.

<静かな草道を行く>

■望月町遠望
 15時丁度.私たちは,野趣ある旧中山道から,舗装された現中山道に飛び出る.そのご,暫くの間,道なりに道路を下る.やがて,眼下に望月の街並みが見え始める.
 第2日目の行程も,もうすぐ終わりである.

<望月の集落を見下ろす>
                              (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
                                             (つづく)
                               
[加除修正]
2013/7/19  地図の挿入.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d8504035407090fce3fd8b50b676967d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f9f2432f277764e16569b68a500632c6 
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.

小雨の中,ヒルを気にしながら登る丹沢;塔ノ岳(今年37回目)

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                                     <霧の花立山>

     小雨の中,ヒルを気にしながら登る丹沢;塔ノ岳(今年37回目)
             (常連と前後しながら…)
          2013年7月20日(土)  小雨後曇

■余り天気は良くなさそうだ
 先週の土曜日はメチャメチャ暑かったが,今日,土曜日は先週ほどの暑さではなさそうである.
 今朝も自宅のある山の尾根から大船駅までブラブラと歩いて行こうかと思っていたが,ついつい二度寝して,“ハッ”と目が覚めたときには,もう4時を過ぎていた.大船まで歩くんなら,4時10分頃には出掛けないと忙しい.では,仕方がないなということで,湘南モノレールの初電を利用する.
 もう,夏至を過ぎてから,1ヶ月近く経っているので,朝,明るくなるのが心なしか遅くなったような気がする.
 5時10分に家を出る.夜半に雨が降ったらしく路面が濡れている.でも,今日の天気予報は終日曇なので,雨には会わないと思いながら,小田原経由で小田急線渋沢駅へ向かう.車窓から丹沢方面の山を眺めると,雨雲が山麓まで低く垂れ込めている.
 渋沢駅で大倉行1番バスに乗車する.バスが5分ほど遅れたこともあって,登山客で超満員である.でも,最盛期のように臨時バスはでないようである.車内を見回すとご常連も沢山乗車しておられる.韋駄天のTGさん,編集長のYKさん,TTさん,KIさん,MTさん,SKさん,YDさん,Hさん,HNさん,STさん,HMさん,NGさん,YUさんなど,まさにオールスターキャストである.

■ヒルが出そうなベタベタ道
 7時08分,沢山のご常連さんと相前後して大倉から歩き出す.霧雨が降っている.雨具を着るほどの雨ではないが,こんな天気の日に登るのはちょっとイヤだなと躊躇する.居合わせたNGさんが,
 「まあ,大した雨ではないでしょう…そのうちに止むでしょう」
と私を慰めるように言う.
 路面はベタベタに濡れている.手持ちの寒暖計では気温23℃.湿度は正確には分からないが,もの凄く高いことは確かである.
 “やっぱり,今日も蒸し暑いな…熱射病には注意しながら登らなければ…”
と自分自身を戒める.
 “よぉ〜しっ! 今日も公園を歩くような気分でリラックスして登ろう”
 登山道に入る前に,もう一般の登山客,数名に追い抜かれる.あんなスピードで登ったら早晩リタイアだなと思いながら,道を譲る.登山道はベタベタに濡れている.今日は山ヒルに遭遇しやすい日のようである.
 登山道に入って間もなく,SSさん,TGさん,YGさん,KIさん,YDさん,MTさんなどのご常連に合流する.
 
<登山道は雨でベタベタ;一般登山者に追い抜かれる>      <程なく数人の常連に追い抜かれる>

■私の足は三浦大根
 暫くの間,私もご常連グループに吸収されて,一緒に登り続ける.
 実は,今日の私は,暑さを和らげるために,半袖のシャツに,すね丸出しの半ズボン姿である.私が師事した山岳ガイドからは,長袖,長ズボンで登山するように教えられているが,暑くて仕方がないので,この教えを破っていることになる.
 私のすぐ後ろを歩いている常連の女性から,
 「FHさんの足は,さすがに山を歩いておられるので,素晴らしいですね…」
と褒められる.私は予期しない足などを褒められたので,少々戸惑う.
 「いや飛んでもない! スが入って干からびた三浦大根ですよ…美味しくないですよ」
とドギマギしながら咄嗟に答える.すると,
 「三浦大根ではなく,かまくら野菜でしょう」
という答えが返ってくる.
 なるほど! 確かに私は鎌倉の住民である. 
 …ま,それはともかく,丹沢ベース付近の“山ヒル銀座”を,ヒルが居ないか注意しながら通過する.山ヒルに会えなければそれはそれでラッキー,もし山ヒルを見付けたら,是非,写真に撮りたいなと思っている.
 でも,今日はヒルには全く出会わなかった.

■見晴階段
 7時52分,見晴山荘を通過する.そして,大倉尾根最初の難所,見晴階段に差し掛かる.丁度雨雲の中に入ったのか,辺り一面に濃い霧が掛かっている.坂の上の方は濃い霧で全く見えない.それでも,儀式として見えない坂の写真を撮る.
 私の目の前には,常連さん数名の後ろ姿が見えている.でも,さきほど観音茶屋を過ぎた辺りで,私をもの凄い勢いで追い抜いて行ったSKさんとHGさんは,もうずっと上の方を歩いているらしくて,私の視界から完全に消えている.
 気温はそんなに高くはないが,湿度が高く無風である.どんなに自重して歩いていても,汗が止めどもなく流れる.私はハイドレーションシステムを使っているので,歩きながらも少しずつ水を飲むように心掛けている.そして,ときどきは梅干しを口に入れて塩分を補給する.

<濃い霧の見晴階段>

■霧の尾根道
 8時27分,一本松を通過する.
 相変わらず霧雨が降っている.路面は濡れたまま.視界も悪い.殆ど無風なので,スッキリ感がないまま,駒止階段に差し掛かる.その間,沢山の若手登山者に追い抜かれる.
 駒止階段に差し掛かると,私の先を行く常連グループとの距離が開き始める.私はだんだんと遅れ気味になるが,これは仕方がないことと諦める.
 8時22分,ようやく駒止茶屋を通過する.大倉からの所要時間は1時間14分.ちょっと時間が掛かりすぎているが,
 “まあ,こんなところが妥当かな…他の常連さんが速すぎるんだよ”
と自分に言い聞かせる.
 堀山の平坦な尾根に差し掛かる.平らな所はそれなりに歩行速度を上げるのが私の歩き方である.程なく,KIさん,MTさん,NYさんなどのグループに追い付く.
 「堀山の家から花立山荘までは40分ほど掛けてユックリ登ります…そのかわり,平らな所では,とりあえず,先に行かせてもらいます」
ということで,先に行かせてもらう.
 晴れていれば富士山が見えるはずの場所では,儀式として見えない富士山の写真を撮る.もちろん変哲もない数本の木が写っているだけ,
 “こんな写真を撮るなんてバカみたい”
 私は自嘲するが,こんな馬鹿な習慣が止められない.
 
<霧の堀山の尾根道>                            <富士山は雲の中>

■萱場平
 8時37分,堀山の家を通過する.
 私は,ずっと先を登っているSKさん,TGさんのグループと,私よりすぐ後ろのKIさん,MTさん,YDさん達のグループとの間に挟まって登っているようである.
 堀山の家から先も,ごくごくユックリのペースで疲労を感じないように留意しながら登り続ける.その間に,沢山の若い登山者に追い抜かれる.追い抜かれるたびに少々癪に障るが,所詮,若い人と同じペースで登ろうなんて考えるのが馬鹿げている.
 “身の程を知れ!”
と天の声.
 戸沢分岐に差し掛かる頃,後ろからヒタヒタと迫ってくる足音に気がつく.そろそろKIグループに追い付かれたかと思って,道を譲る.すると私より1本か2本遅いバスで来られた韋駄天のMGさんである.勿論,すぐに道を空けて先に行ってもらう.
 「今日,帰りに渋沢駅でお茶しましょう…」
とMGさんに誘われる.もちろん大賛成.
 「行きましょう…行きましょう」
 8時57分,萱場平を通過する.
 雨は何時の間にか止んでいるが,相変わらず濃い霧が立ちこめている.私の前後には誰も居ない.
 木道の間に大きく成長したアザミはますます元気である.

<萱場平>

■花立山荘
 長い階段道をマイペースで登り続ける.時々後ろから足音が聞こえるので,ご常連かな思いながら道を譲るが,私を追い越して行くのは,若手の登山者ばかりである.なかなかご常連が現れないのでヤキモキする.
 やがて後7分坂に差し掛かる.相変わらずの霧で視界が利かない上に,結構,蒸し暑い.どうしても意気消沈.でも,ユックリながら階段を登り続けて,9時18分に漸く花立山荘に到着する.
 大倉からの所要時間は2時間10分,堀山の家〜は41分.ちょっと遅いが,でも,まあ,この時期としては,私にとってそう遅いラップでもない.
 霧の中で,もっとずっと先を歩いておられるかと思っていたSKさんとTGさんが,ヌッと現れる.大変ビックリする.お二人は,どうやら,途中で2回ほど休憩を取られていたようである.
 ここからお二人の後に付いて登り続ける.
 花立山荘を過ぎてすぐのところで,ご常連で写真家のIHさんが下ってくるのにバッタリ.
 IHさんは,最近,丹沢をテーマにした写真集を出版されている.

<写真家のIHさんとバッタリ>

■塔ノ岳山頂・尊仏山荘
 花立山に登る途中でSKさんが立ち止まる.SKさんと同行されているTGさんも一緒に立ち止まられたので,私は一足先に行かせてもらう.
 9時29分,花立山山頂を通過する.続いて,9時35分に金冷シを通過する.例のセミのような虫の鳴き声が聞こえ始める.ここまで来れば,もう山頂に到着したのと同じである.私は周囲の風景を写真に撮りながら,ゆっくり,ゆっくりと登る.
 途中,何かを調べておられるYUさんとバッタリ.
 「おや,何か調べ物ですか…」
で先に行かせてもらう.
 9時49分,塔ノ岳山頂に到着する.
 山頂では,戸沢分岐付近で私を追い越したMGさんが,石の上に腰を下ろして私たちの到着を待っている.私もMGさんの隣に腰を下ろす.程なく,ご一緒していた常連の皆様も次々に山頂に到着する.
 山頂の気温は20℃.風は殆どないが,ほどほどに涼しくて気持ちがよい.
 大倉からの所要時間は2時間41分.前回登った水曜日よりは3分余計に掛かっている.
 大倉へ降りてから食事を摂るというMGさんは,尊仏山荘には立ち寄らずに,そのまま下山開始.たまたま居合わせている常連さんと一緒に尊仏山荘に入る.
 尊仏山荘の今日の小屋番はオーナーのHさんと若手のFYさん.何時ものように300円也のお茶を所望する.お茶を飲みながらしばし雑談.やがて私たちより5〜6分遅れてKIさん,MTさん,FTさんのお三方も山荘に到着する.
 まだ時間が早いためか,山荘には常連以外の客は居ない.

<霧の塔ノ岳山頂>

■途中から走るように下山
 10時18分,私はSKさん,TGさん,それに山頂で休憩を取っていたNYさんと一緒に下山開始.
 尊仏山荘入口近くで,同じバスに乗られていたNGさんとすれ違う.
 私たちはSKさんを先頭にやや速い速度で下り続ける.
 戸沢分岐を過ぎた頃,尊仏山荘の小屋番WDさんが登ってくる.WDさんと,山ヒル対策で立ち話をする.まずは,WDさんが,靴の足首のところに山ヒル除けのテープを巻いているのに注目.
 “なるほど,このテープで山ヒルが靴を伝って登ってくるのを防ぐのか”
 これから,私も真似しようと思う.

<山ヒル対策で雑談>

■ネーチャーコールズミー
 11時15分,堀山の家を通過する.今日から学校が夏休みになったのか,中学・高校の生徒さんの集団が次々に登ってくる.
 下り続けて,標高が下がるにつれて,気温が上がってムシムシ感が次第に強くなるる.
 見晴山荘を過ぎる頃,急に腹が痛くなり,無性にトイレに行きたくなる.そして,観音茶屋を過ぎる辺りから我慢しきれなくなり,同行の皆さんにお断りして,半ば走るようにして下山.12時19分に大倉に到着する.すぐにトイレに駆け込む.
 トイレで用事を済ませた途端に,これまでの腹痛が収まり,先ほどまでの慌てようが嘘のように落ち着く.
 私より先に下山したMGさんとYDさんが,ベンチに座っている.靴を洗った後,私もお二人に合流する.

■渋沢駅近くでお茶
 一同,渋沢13時12分発大倉行バスに乗車する.
 渋沢駅南口近くの某喫茶店で,暫くの間,ティーパーティ.つまり雑談.私は400円也のホットコーヒーを賞味する.特にこれと言った話題はないが,とりとめのない雑談もまた楽しい.
 私は,ときどき,街道歩き,山旅,同窓生などのグループとお茶をすることがあるが,それぞれのグループに特徴があるのが面白い.
 渋沢でのお茶は,これで3回ぐらいになるが,沢山の常連の中で“渋沢でお茶”のサブグループが出来かけているようである.これも面白い成り行きだなと思っている.
 少々余談になるが……
 リプナックという人の著書に『ネットワーキング』という題名の本がある.お茶を飲みながら,この本の内容を思い出す…が,ここで,杓子定規でつまらない話題に筆を走らせるのは止めておこう.
 
<400円也のコーヒー>       <暫くの団欒>

■心地よいシャワー
 14時30分頃,ティーパーティは終了する.
 渋沢駅から小田急電車へ,小田原で特別快速高崎行電車に乗り換えて,15時30分過ぎに大船に到着する.私には,電車の中の冷房が利きすぎていて,とても居心地が悪かった.大船駅からまた冷房の利いたバスに乗るのは嫌だったが,今日は時間が押しているので,やむなくバスを利用して帰宅する.
 早速,シャワーを浴びて汗でべたべたな身体を洗い流す.乾いた着物に着替えると生き返ったような気分になる.
 今日も,良かった! 良かった!

<ラップタイム>

 7:08  大倉歩き出し
 7:25  観音茶屋
 7:52  見晴山荘
 8:22  駒止茶屋
 8:37  堀山の家
 9:18  花立山荘
 9:35  金冷シ
 9:49  塔ノ岳山頂着(20.0℃)
10:18      〃  発
10:30  金冷シ
10:43  花立山荘
11:15  堀山の家
11:30  駒止茶屋
11:52  見晴山荘
12:05  観音茶屋
12:19  大倉着

 [山行記録]

■水平距離       7.0km(片道)

■累積登攀下降高度   1269m

■登攀所要時間(雑談時間を含む)
  大倉   発       7:08
  塔ノ岳  着       9:49
  (所要時間)  2時間41 分(2.68h)
  水平歩行速度   7.0km/2.68=2.61km/h
  登攀速度    1269m/2.68h=473.5m/h

■下降所要時間(休憩時間を含む)
  塔ノ岳  発      10:18
  大倉   着      12:19
  (所要時間)  2時間01分(2.02h)
  水平歩行速度     7.0km/2.02h=3.46km/h
  下降速度     1269m/2.02h=628.2m/h
                                   (おわり)
「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9d9d916665d9fd0c3811bdd752bf593e
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)

歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(7):望月宿

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                                         <長坂石仏群>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(7):望月宿
                       (五十三次洛遊会)
             2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月16日である.
 初稿の地図を修正版に差し替えた.さらに本文の加除修正を行った.

第2日目:2010年6月13日(土) (つづき)

<ルート地図>

■望月宿詳細

                                                                   ※再掲

<寛保大洪水の爪痕>

■中山道長坂石仏群
 下り坂の土手道を辿ると,再び大曲して下ってくる元の道に合流する.そして,眼下に望月の街並みが見え始める.
 道なりに進むと,かなり急な下り坂になる.
 15時03分,私たちが下っている坂道の右手に御嶽山権現など中山道長坂石仏群が続く.どれもこれも立派な石仏ばかりである.この石仏群の由来は,今のところ,私には良く分からない.

<長坂石仏群>

■中山道長坂分岐点
 15時05分,中山道長坂分岐点を通過する.ここには立派な案内板が立っている.この案内板には次のような記事が記載されている.
 「瓜生坂から下る中山道は,自動車道を横切ってほぼ直行するように進んでおり,途中大応院跡や長坂の石仏群をとおり,ここに至っている.
 大応院は,当山派の修験寺で,寺社奉行から出る命令や交渉ごとを司った触頭(ふれがしら)も勤めていた(上田市横谷家文書).ここから2キロメートルほど下った古宮の鹿曲川左岸の断崖にあった佐久補陀山観青寺の別当も兼ねていたが,末裔滋田家の本尊馬頭観音座像や飯綱権現立像など,また長坂の古碑群を残して明治5年に廃寺になった.
 中山道は,ここから望月新町のあった鹿曲川右岸を下流に向かって進み,西に折れて中之橋を渡り,大通りの望月本町に至っていたが,寛保2年の大洪水で新町が道ごと流されてしまい,その後,道とともに森町が移転された.そして中山道はこの長坂橋を渡り,枡形を通って森町が移転された東町に上り,北側にやや進行して望月本町をとおる旧来の道とつなげられた.
 したがって,ここは初期中山道と変更後の中山道の分岐の場所である. 佐久市教育委員会」
 この案内板の記事によると,これから私たちが訪れる望月宿は,寛保2年(1742年)以降の宿場跡ということになる.なお,寛保2年といえば,江戸3大大洪水のひとつである寛保二年江戸洪水があった年である(資料5).資料5によれば,「1742年(寛保2年)の7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害「寛保の洪水・高潮」で江戸地方の被害も甚大」だったようである.

<望月宿に到着>

■望月宿の概要
 15時06分,私たちは鹿曲川(かくまがわ)に架かる弁天橋を渡る.いよいよ望月宿に入る.
 望月宿は,資料6によると「平安時代からこの地を収めていた豪族望月氏の姓や,その望月氏が朝廷や幕府に献上していた馬の名産地として蓼科山裾野の「望月の牧」から,「望月」の名が付いたとも言われる.(なお,望月氏の由来は,望月の牧からであり,望月の牧の由来は,一族が毎年旧暦8月15日の満月の日(望月)に馬を朝廷や幕府に献上していたためである。)」という.
 資料6および資料3(p.68)によれば,「天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,望月宿の宿内家数は82軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠9軒で宿内人口は360人(男89人,女171人)であった.」という.

■御牧ヶ原
 資料3(pp.144-145)によると,望月宿の北側の山手一帯は御牧ヶ原あるいは今牧の原という官牧であったという.貞観7年(865年),ここで飼育された貢馬が紫宸殿で天皇の叡覧を賜ったという.ここは飛鳥時代から鎌倉時代末まで栄えたようである.現在でも御牧ヶ原周辺には,当時の馬除けの土手跡が残っているらしい.
 余談になるが…
 私には「御牧ヶ原」と聞くと,何となく身近で懐かしい心の残滓がある.多分,第2次世界大戦(大東亜戦争と呼んだ方がピンと来るが)中のこと,私は小学校(当時は国民学校と言っていた)の高学年の小国民であった.その頃は「鬼畜米英」を打倒して,八紘一宇,大東和共栄圏を実現することが理想であった.小諸近隣の小国民が御牧ヶ原に集まって,何かの行事を盛大に行ったことを,今での良く覚えている.ただ,どんな行事だったか,行事の内容は殆ど覚えていない.
 とはいえ,あれから半世紀以上も経った今でも,御牧ヶ原という言葉を聞くと,戦争中のことをフラッシュライトのように思い出す.あの頃の日本は,今の北朝鮮に良く似ていたな…勿論,私見だが…

■望月バスターミナル
 弁天を渡って,やや急な坂道を登る.道なりに左手に曲がって,十字路を右折する.坂道を登り切ると,道路の両側に望月の街並みが広がる.緩やかな下り坂になっている.
 15時15分,望月バスターミナルに到着する.ここが第2日目の終点である.今日は,ここから路線バスに乗ってJR佐久平駅前のホテルに宿泊する予定である. 
 私たちは,佐久平駅行のバスが,16時15分に発車することを確かめてから,望月宿を見学することにする.
 まだ,バスの発車時間までに,約1時間の待ち時間がある.バスの時間まで自由行動である.
 まずは,全員でバスターミナル近くにある望月民俗資料館に移動する.何人かは資料館に入る.勿論有料である.私はケチって資料館には入らずに,時間が許す限り,望月の名所史跡を 見て回ることにする.

<望月宿を散策する>

■歴史民俗資料館
 資料館で,まず目に付いたのが,庭に展示されている木樋である.傍らにある説明文によると,「蓼科山の五斗水水源地から引いた用水に設置されていた」ものらしい.「禅水量の9分(1尺8寸)を布施村(現望月布施)へ流し,1分(2寸)を五郎兵衛新田村(現浅科甲)へ分けられた.明治11年から17年にかけて水争いが起こり,その結果,9分と1分の分水が決められた.木樋は昭和18年,畳石用堰として布施村によって設置された.天然カラマツを削り貫いた見事な樋で,これによりはるか村まで水が運ばれた」という.
 昔の人は凄いことをしたなと感心させられる.


 
<脇本陣跡・資料館>                            <木樋>

■御本陣跡・高札場跡
 資料館隣に大森小児科医院がある.ここは本陣兼問屋跡である.医院の玄関に,2枚の看板,「御本陣」と「大森小児科医院」が下がっている.なるほど,ここに本陣があったのかと納得する.
 本陣の表には高札場があったらしいが,今はその面影は全くない.

<望月宿本陣跡>

■井出野屋旅館
 バスターミナル近くの井出野屋旅館の前を通過する.資料4によると,この旅館の建物は,1916年(大正5年)に建築されたものだという.木造3階建ての立派な建物である.

<井手野屋旅館>

■脇本陣・問屋場
 道路を少し下って,本陣跡と道を挟んで反対側,進行方向右側に脇御本陣と書いた家がある.2階部分に格子戸が残っていて,何となく風情がある.ここは鷹野脇本陣跡である.鷹野家は問屋も兼ねていたようである.
 資料3(p.145)では,「脇本陣の名残で,それでも軽い京風の建物に昔の面影が残っている.間口16メートル,左端は通り土間で,中央に奥行4.5メートルの問屋場がある.その奥に茶の間や客室,勝手などを配し,2階の前座敷には通りに面して障子や手すりを供えている」と紹介している.

<脇本陣跡>

■真山家大和屋
 脇本陣の直ぐ近くに真山家の住宅がある.ここは昔の旅籠.資料3(pp.145-146)によると,この建物は望月町で最古の建物で,重要文化財に指定されている.「家の西側の卯建(うだつ)には大和屋と漆喰で浮き出しており,2回の連子格子もよく旧態を残している」と紹介している.

<真山家大和屋>

■大伴神社
 さらに先へ進む.望月の集落が終わりかける頃,進行方向左手に大伴神社(おおとものじんじゃ)の参道がある.長い石段が続いている,百段余りあるだろうか.石段を見上げると,ちょっと気が引けてしまうが,折角だから石段を登ってみる.石段を登りきると綺麗に整備された境内に出る.意外に広い境内である.立派なお社が建っている.
 資料4によると,「本殿は春日造り.1677年(延宝5年)に建立.この地の産土神」だという.
 資料3(p.146)によると,「景行天皇御宇の鎮座.境内には古い道祖神がある」とのこと.
 
<大伴神社階段>                   <大伴神社拝殿>

■望月町を一望
 大伴神社は高台にある.境内から望月の町が一望できる.町の方からは物音一つ聞こえてこない.不気味なほど閑静である.
 暫くの間,眺望を楽しんだ後,何処へ通じているのか良く分からない断崖沿いの道を下りてみる.クネクネと下っている内に,先ほどの石段下に出る.
 丁度このとき,幹事役のIさんが石段の下に到着する.
 「・・この階段を登ってから,そちらへ下りられるんですか・・?」
という質問を受ける.

<望月町展望>

■馬頭観音
 まだ時間がある.
 前方を観ると登り坂になっている.この登り坂を少し登ってみることにする.
 5分ほど登ると,高台に出る,進行方向右手には,田植えが済んだばかりの水田が広がる.田圃の畦に「中山道」と書いてある小さな案内板が立っている.お馴染みの案内板である.
 「あれ,こんな所を中山道が通っているのか・・」
 私は案内板の指示に従って,脇道に入ってみる.すると数軒の聚落の中を細い道がクネクネと続き,先ほどの登り坂の下につながっている.坂との分岐に馬頭観音が安置されている.
 「なるほど,昔の中山道は,こっちを通っていたのか・・」
私は,図らずも旧中山道を通ることができて大満足である.
 ただ,1時間ほど散策している間に,ほとんど人に会わなかった.それに飲食店はおろか,自動販売機すら見当たらなかった.

<中山道案内杭>

■上田道と城光院
 そろそろ,バスターミナルに戻ろうと思う.
 往路を辿って緩やかな坂道を下る.坂道を下りきったところが,さきほど訪れた大伴神社の階段下である.
 大伴神社と道を挟んで反対側に,上田道の分岐がある.地図で確かめると,分岐から鹿曲川を渡ってすぐ右手の高台に望月山城光院がある.どうやらここは望月氏の菩提寺のようである.
 時間があれば,この寺まで足を延ばしてみたいが,残念ながら参拝は諦める.
 
                                          (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E4%BF%9D%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B4%AA%E6%B0%B4
資料6:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%AE%BF

                                        (つづく)
                               
[加除修正]
2013/7/21  地図の差替え.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/154ee89453f6109510d7eecf4e22f995
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6dd89cc3a1a5063dbcce4b6dd78a6674 
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.












 

歩いて巡る中山道六十九宿巡り(第8回):第2日目(8):望月から佐久平へ

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                   <千曲バスに乗って佐久平駅に到着>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿巡り(第8回):第2日目(8):望月から佐久平へ
             (五十三次洛遊会)
       2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月17日である.
 初稿に地図を追加し,本文の加除修正を行った.

第2日目:2010年6月13日(土) つづき

<ルート地図>



<千曲バスで佐久平へ>

■道祖神
 望月宿を一回ししていたが,そろそろ,佐久平行のバスの時間が近づいている.この辺りで,バスターミナルへ戻ろうと思う.
 中山道の道筋を示す小さな道案内板を頼りに枝道に入る.住宅地の中のクネクネ道が中山道のようである.クネクネ道は丘を下るように続き,直ぐに先ほど歩いていた道に合流する.
 その合流点近くに,道祖神がポツンとある.道祖神が転倒しないように縄で笹えっれている.回りは綺麗に掃除されていて,草花が植え込まれている.一目見て,この道祖神が,この辺りの住民によって大切に保護されていることが分かる.

<路傍の道祖神>

■白壁の蔵がある風景
 バスターミナル近くに白壁の蔵がある.地元の人にとっては,何の変哲もない「しもた屋」に過ぎないかもしれないが,大都市近郊の住宅地に住んでいる私には珍しく感じる.
 この家の曰く因縁は知るよしもないが,とにかくデジカメに収めることにする.


<土蔵のある素敵な家>

<佐久平駅に到着>

■千曲バスに乗って佐久平へ
 今まで歩いてきた道を逆に辿って,15時53分にバスターミナルへ戻る.仲間達も集まっている.私と同じように望月宿を見物した人も居れば,バス停の待合室でひたすら座って待っていた人など様々である.
 千曲バス16時15分発佐久平駅行のバスが定刻に望月を発車する.綺麗な色彩で小振りのバスである.バスには私たちを除くとほんの数人の乗客しか乗っていない.
 バスは,私たちが今日一日苦労して歩いてきた道と,ほぼ同じ経路を辿って,16時40分にJR佐久平駅に到着する.たった25分のバスの旅である.あんなにお腹を空かせて歩いた遠い道程を,たった25分で走るとは! いかにもあっけない.

<ホテルに到着>

■東横イン佐久平浅間口へチェックイン
 16時45分,JR佐久平駅近くの東横イン佐久平浅間口へチェックインする.残念ながら昨夜泊まったルートイン軽井沢のような大風呂はない.狭い室内のバスタブにお湯を入れて,今日一日の汗を流す.風呂に入ると,今日一日の疲れが綺麗にとれる.
 部屋が狭いとはいえ,部屋の細部まで掃除が行き届いている.それに歯ブラシ,ひげそりなどの小物はバッチリ揃っている.お湯のでもなかなか良い.

<狭いながらも設備が整っている客室>

■イオン佐久平ショッピングセンターで夕食
 18時30分,ホテルロビーへ集合する.そして,佐久平駅近くのイオン佐久平シッピングセンター内の食堂で夕食を摂ることにする.つい先ほどまでは,野趣溢れる野道を歩いていたのに,今はもう現代風の変哲もない都会に居る.土地勘がないので,とにかく,ショッピングセンターに入ってみる.
 とてつもなく広い店である.鎌倉辺りでは,ついぞ経験したことがないほどの規模である.たちまちの内に,自分たちが建物の何処にいるのかが分からなくなる.
 店内はどこから沸いて出てきたのかと驚くほど沢山の人達で溢れている.店内には,ありとあらゆるものが売っている.
 私たちはショッピングセンター内の某日本料理店に入る.


■ゆっくりと夕食
 ここも子ども連れの家族が沢山集まっている.つい先ほどまで,ほとんど人気のない聚落ばかり辿ってきた私たちには,全く異質の世界に迷い込んだような錯覚に陥る.
 私はお付き合いのグラスビールで乾杯,ついで天丼を賞味する.
 ところで,私たちの仲間の中で,あんパンをこよなく愛している方が居られる.男性である.何かというと,あんパンを購入している.彼のことを仮にアンパンマンと呼ぶことにしよう.
 アンパンマンが,甘いデザートを注文する.私たちもアンパンマンにつられて,同じものを注文してみる.普段はベタベタものは食べないのに・・
 
<大して飲めないのにグラスビールを注文>   <夕食>


<デザート>

■こうして2日目は終わった
 昼食後,ジャスコ店内を散策.明日のコースでも,多分,道中,食べ物,飲み物には有り付けないだろうと思って,若干の副食物を購入する.
 ショッピングセンターから外に出る.雨が降っている.大急ぎでホテルへ戻る.
 終日,人気がないところ,というよりも食べ物,飲み物に有り付けないところを,のたのたと歩き続けて,いささか変になっていたが,最後にショッピングセンターの人混みを味わったので,気分が正常に戻っている.
 21時過ぎに就寝.
 こうして,第2日目は,まあ,無事に終わった.

<第2日目ラップタイム>

 8:23  ルートイン軽井沢 発
 8:41  おはる地蔵
 8:47  宝珠院(8:53まで休憩)
 8:55  本陣跡・問屋跡
 8:58  脇本陣跡
 9:00  問屋跡
 9:06  白山比?神社
 9:11  馬頭観音
 9:13  小田井南・国道に合流
 9:17  皎月原
 9:29  一里塚
 9:35  ショッピングセンターこうじま(9:50まで休憩)
10:10  千手観音
10:13  住吉神社
10:20  龍雲寺(10:30まで休憩)
10:31  西念寺(10:42まで見学)
10:48  西宮大神
10:50  道祖神
10:51  曲道神社(石塔)
10:56  若宮八幡(11:02まで参拝)
11:05  御嶽神社
11:10  岩村田高校
11:16  相生松
11:21  道祖神
11:29  稲荷社(芭蕉の句碑)
11:45  百万遍供養塔
11:50  諏訪社
11:55  如意輪石碑
11:57  塚原岩屑塔・水準点
12:06  妙楽寺(12:09まで休憩)
12:16  駒形神社(重要文化財)(12:22まで休憩)
12:32  塩名田道標・道祖神
12:38  本陣跡・問屋跡
12:41  高札場跡(旧道に入る)
12:45  十九夜供養塔
12:46  船つなぎ石説明板
13:04  大日如来像
13:10  御井大神
13:12  神社(名前不明)
13:13  佐久市浅科支所
13:15  生井大神
13:18  常泉寺
13:22  八幡神社
13:25  本陣跡
13:25  「くまさん」の自動車で拾われる
13:21  「くまさん」(14:06まで昼食[カレー])
14:17  道祖神
14:19  若宮大権現と二十三夜塔
14:51  瓜生一里塚
14:57  中山道石塔
15:01  御嶽山権現
15:03  中山道長坂石仏群
15:15  望月バスターミナル
15:25  民族資料館・本陣跡(15:35まで休憩)
15:38  大伴神社(15:45まで参拝)
15:50  馬頭観音
15:53  望月バスターミナル
=========================================
16:16  望月 発(千曲バス)
16:40  佐久平 着
16:45  東横イン チェックイン

[歩行記録]

■水平歩行距離      18.7km

■累積登攀高度      207m

■累積下降高度      348m

■所要時間(休憩時間を含む)
  ルートイン  発     8:23
  望月バスターミナル着  15:53
 (所要時間) 7時間30分(7.50h)
 歩行速度 18.7km/7.50h=2.49km/h
                            (第2日目終わり)
                            (第3日目に続く)
                              
[加除修正]
2013/7/22  地図の追加と誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.


 「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f9f2432f277764e16569b68a500632c6
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2b8422914559cc6a941096ab09d29e45
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.









歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(1);望月宿から歩き出す

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                            <野趣溢れる中山道:望月宿郊外>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(1);望月宿から歩き出す
              (五十三次洛遊会)
       2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月19日である.
 初稿の地図を差し替え,本文を加除修正した・

第3日目:2010年6月15日(月) 

<ルート地図>

■第3日目のルート地図

 第3日目の歩行概要は以下の通りである.
   水平歩行距離 11.4km
   累積登攀高度 366m
   累積下降高度 361m

■ルート地図(茂田井)


<佐久平から望月宿へ>

■ホテルの朝食
 朝早くから目が覚めてしまう.無理矢理,目を瞑るが,ほんの数分ウトウトするだけで目が覚めてしまう.堪らず,5時30分に起床.
 昨夜,一晩中降っていた雨も何時の間にか止んでいる.テレビを観ながら,朝食の時間を待つ.
 7時少し前に,ロビーまで下りる.すでに宿泊客向けの朝食のサービスが始まっている.ホテルの女性スタッフが甲斐甲斐しくオニギリを作っている.デジカメを持参するのを忘れたので,朝食の写真はないが,小さなお盆にお皿,味噌汁,お茶が乗っている.
 オニギリは海苔巻き.炊きたてのご飯をオムスビの型に入れて作る.そのオムスビにノリを巻き付ける.出来た順に客に提供する.仲間の誰かが,
 「・・オニギリ,普通は2個取るけど,3個欲しいな,でも3個は,一寸遠慮してしまうな・・」
と独り言を言っている.
 件(くだん)のオニギリは,やや小さめ.私は迷わず3個頂戴する.
 ロビー備え付けの腰高の円テーブルに座って,ソソクサと朝食を済ませる.

<ホテルの部屋から佐久平を望む>

■佐久平駅前バス停
 8時25分,ロビーに集合する.そして,JR佐久平駅前のバス乗り場に移動する.
 望月行のバス乗り場で並んでいると,小太りの男性が私たちの何かと話しかけてくる.私たちをやや見下すような態度を示す.不愉快.
 やがて,望月行のバスが到着する.この男性,列を無視するように真っ先にバスに乗り込む.「郷に入っては郷に従え」っていう訳か.でも,私もここから近い小諸出身である.何となくハズカシイ気分になる.バスの乗客は,私たちを除くとほんの2〜3人.普段はそれほど沢山の乗客は居ないようである.

<望月行きバス停>


<野趣豊かな野道を歩く>

■馬頭観音
 バスは,昨夜通った道を順調に走る.そして,9時21分に望月バスセンターに到着する.
 望月宿の見所は,昨日のバスの待ち時間に,一人歩きの間に,大体,全部,見終えている.ただ一つ心残りは望月城趾を見ていないことである.でも,まあ,今回は中山道中宿場巡りが主目的なので,これも致し方ないことである.
 身支度を調えてから,9時27分に望月バスセンターから歩き出す.
 宿内の見所はすべて素通りする.歩き出して直ぐに,大伴神社を通過して,その先の鞍部に到着する.ここから上り坂に差し掛かる.
 「私は,昨日,この先の馬頭観音を見ていますが,どこにあるか分かりますか・・?」
と一同に伺う.さすがにIさんは,すぐに馬頭観音の在処を見つける.大多数の方は無反応.
 まるで他人の家の庭先に入り込むような感じで,坂道を右折する.そして綺麗に手入れがされている馬頭観音を見ながら,曲がりくねった聚落の中の道を抜け,再び今の中山道に合流する.

<馬頭観音>

■野趣豊かな道に入る
 辺りは高台になっている.なだらかな上り勾配の道が続く.
 途中から,左折してガードレールのある細い急坂の道に入る.直ぐに気持ちよい高台の道になる.地図を見ると,直ぐ近くに老人ホームがあるはずだが,どこが老人ホームなのか余りよく分からないまま通過してしまう.

<中山道の旧道に入る>

■寒念仏供養塔
 9時47分,進行方向右手にある寒念仏供養塔に到着する.草深い土手に寒念仏供養塔が立っている.資料4によると,この供養塔は延享年間(1744〜1748年)に作られたものらしい.帰宅後,ホームページなど調べたが,これ以上詳しい説明は,今のところ見当たらない.
 さらに,寒念仏とは何かを知りたいが,まだ良く分からない.

<寒念仏供養塔>

■右御巡礼道
 9時48分,国道142号線の地下道を潜って,国道の反対側に渡る.道路は緩い登り坂である.坂の途中で,進行方向左手に,広い本牧小学校跡地が広がっている.跡地は高台にあるので,中の様子は分からない.
 9時54分,本牧小学校跡地と道を挟んで反対側に,意味ありげな石塔が立っている.
手許にある資に掲載されている写真では,この石塔が黄色い野花に囲まれて立っているが,今はすっかり整備された空き地に立っている.
 でも,石塔の格好から,この石塔が右巡礼道と書かれた昔の案内標に違いない.
 この石塔に続いて,沢山の石で囲われた庭のような畑のような台地が続いている.どなたかの私有地だろう.

<右巡礼道>

■峠の武重歯科医院
 9時57分,左手に武重歯科医院の広い敷地が広がる.こんな辺鄙なところに歯科医とは,ちょっと意外な感じがする.
 この辺りが峠になっているようである.ここから先は,なだらかな下り坂になる.

<武重歯科医院>

■にごり池
 10時丁度,進行方向右手に,木の枝の間から,大きな池が見え始める,「にごり池」という名前の溜池である.
 もうすぐ,間の宿の茂田井宿に到着する予定である.

<にごり池>

[補足記事]:望月城趾
 今回,見学できなかった望月城趾について資料5 に,次のような記事が記載されている.機会があったら,是非,訪れてみたいと思っている.
 「戦国時代,信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏の山城だった.城主郭部の標高は780メートル,市街地の標高が670メートル程度であるため,比高は110メートルほど.主郭部の東側は浅い谷津であり,比高は30メートル程度に過ぎない.城主郭部(山頂)から南西2キロメートルほどの広さに,主郭から三の郭までが構築され,南方の支城には五の郭までは確認できている.雄大にして堅固な山城で,腰曲輪や帯曲輪,空堀など整然と構築され,比較的保存状態も良い.」

<大伴神社から見える山が望月城趾である>
                                                                              [参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%9F%8E

                                        (つづく)
[加除修正]
2013/7/23  地図の差替え新規挿入.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

 「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6dd89cc3a1a5063dbcce4b6dd78a6674
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5fa70eabad873523eac122b21df6deec
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.




歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(2);茂田井間ノ宿

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                      <江戸時代にタイムスリップしたような茂田井の街並み>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(2);茂田井間ノ宿
           (五十三次洛遊会)
      2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月20日である.
 初稿の地図の差し替え,本文の加除修正を行った.

 第3日目:6月15日(月) (つづき)

<ルート地図>


                                                               ※再掲

<茂田井間ノ宿に到着>

■江戸道と明治道
 にごり池脇の緩やかな下り坂を歩き続ける.
 10時02分,にごり池畔で茂田井入口交差点を渡る.ここで,左手の道を辿ると明治道,右手は江戸時代の中山道である.私たちは江戸時代の中山道を辿る.交差点には「中山道茂田井入口」と書いた立看板が立っている.この立看板には,次のような記事が書かれている.
 「東の望月宿と西の芦田宿の間にある旧村で,現在は間ノ宿とも呼ばれる.ここは茂田井への入口で,坂を下りはじめると,江戸時代の面影が残る民家や造り酒屋が軒を連ねている.
 寛保2年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり,本町も大きな被害を受けたため,茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある.元治元年11月19日,天狗党水戸浪士の中山道通過に際しては,茂田井村が小諸藩兵士400人程の宿となっている.
 また文久元年11月7日には,徳川14代将軍家茂に,公武合体の犠牲となって降嫁される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井をつうかするなど大きなできごとがあった.
 一里塚は,瓜生坂を上りきった左右に位置しているが,現在は痕跡がみられるだけである.」
 資料1には,茂田井は「良質な米と清冽な水に恵まれ信州でも有数な酒所」と紹介されている.

■茂田井のマンホール
 10時08分,神明社に到着する.足許には,茂田井独特のマンホールの蓋がある.このデザインが面白いので,思わずデジカメに収める.

<茂田井のマンホール>

■神明社
 神明社は進行方向右手の10数段ほどの石段を登ったところに本殿がある.
 境内にある案内板によると,「神明社の祭神は天照大神,雨乞いの霊験として崇拝されている.宝永6年(1709年),茂田井村初代名主となった大沢茂右衛門が願主となり建立された」という.
 境内で2分ほど立ち休憩を取る.
 
<神明社の参道>                            <神明社の本殿>

 <茂田井間ノ宿>

■茂田井間ノ宿の概要
 資料2によると,茂田井宿の概要は,以下の通りである.
 「茂田井宿; 長野県佐久市,中山道の望月宿と芦田宿の間にある間の宿である.今でも国道より外れて古い土蔵などがならぶ昔の面影が色濃く残る宿場である.武重本家酒造と大澤酒造という二つの蔵元がある.大澤酒造は茂田井村の名主を代々勤めた家柄で,1689年(元禄2年)より酒造を始めた.しなの山林美術館(大澤邦雄、神津港人の絵画を展示),民俗資料館(小諸藩より拝領した甲冑などを展示)を併設している.武重本家酒造の裏に映画「たそがれ清兵衛」のオープンセットが作られ,撮影が行われた.」

<茂田井間ノ宿の地図>

■武重酒造
 10時13分,武重酒造を見学する.立派な門構えの建物が建っている.敷地内の入るのは憚られるので,門の外から,敷地内をそっと拝見する.
 武重酒造は,資料1によると「1670年(元禄2年)創業,地酒大吉野の蔵元」のようである(詳細は資料3参照).

<武重酒造>
 
■若山牧水歌碑
 武重酒造から坂道を少し登った反対側,つまり進行方向右手に,若山牧水歌碑がある.大きな石に3枚のプレートが填め込んである.それぞれのプレートには若山牧水の歌が刻まれている.
 資料4によると,3首の歌は,以下の通りである.
    “よき酒とひとのいふなる御園竹われもけふ飲みつよしと思へり”
     “しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり”
     “ひとの世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにの楽しみ”
  資料4によと,「若山牧水が大の酒好きで1日1升程度の酒を呑んでいた.1922年(大正11年),牧水は佐久地方に逗留した際に,此処の酒を愛飲した」ようである.

<若山牧水の歌碑>

 ■江戸情緒豊かな聚落
 なだらかな登り坂が続く.側溝には豊かな水が流れている.狭い道路の両側には白壁の立派な家並みが続いている.私たち以外に全く人気がない.まるで映画のセットの中を歩いているような気分になる.

<白壁が見事な集落>

 ■大沢酒造資料館
 10時16分,大沢酒造資料館に到着する.大きな門構えの建物である.敷地内に全く人気がない.入口の門から中を覗くが,そのまま通過する.
 大沢酒造のホームページ(資料5)によると,「元禄二年(1688)年創業.銘柄は“明鏡止水”.善光寺秘蔵酒の銘は,善光寺御貫主の宿をつとめた御縁より命名された.仕込み水は蓼科山伏流水」だという.

<大沢酒造>

 ■下組高札場跡
 10時17分,高札場跡に到着する.
 土塀に案内板が取り付けられている.この案内板の説明文は以下の通りである.
   「江戸時代,庶民に法令を徹底させるため,ここに高札を掲げた.高札場は名主宅前に設けられることが多い.
 大沢家は元文2年(1737年)より明治4年(1871年)に至るまで茂田井村名主を勤め,元治元年(1864年)11月19日,水戸浪士(天狗党)中山道通過の際,それを追って来た小諸藩兵士の本陣となった.」

<高札場跡>

■馬頭観世音
 10時23分,馬頭観世音を通過する.大きな石塔である.
 
<馬頭観世音>

■無量寺
 明治道を進むと,丁度この辺りに無量寺がある. 私1人の旅ならば,少々,道から離れて見学するところだが,同行の一部の方々に疲労の色が見えるので割愛する.   
 資料6によると,この寺の由来は以下の通りである.
 「無量寺は,天台宗比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の末寺(まつじ)で,本尊は薬師如来(やくしにょらい)とされ来迎山無量寺という.この寺は長保(ちょうほ)五年(1003)三月創立といわれる.開山は僧恵心院源信(そうえしんいんげんしん)とされているが,中期に兵火を被(こうむ)り,かつて茂田井(もたい)南側にあったものを現在の地に移したといわれる.兵火に遭(あ)う前の無量寺は正林寺白山(しょうりんじはくさん)堂の仏閣があったことから旧地を現在大字無量寺とよんでいる付近には正林寺・白山堂・五輪沢(ごりんざわ)・五輪窪・大門(だいもん)脇・塔婆(とうば)等の地名が残っている.」 

<無量寺の案内板>

■上組高札場跡
 10時26分,上組高札場跡に到着する.案内板によると「茂田井宿は戸数が多く,上組,下組の2人の名主がいた時代があり,ここ上組の名主宅前に上組高札場があった」.

<高札場跡>

■石割坂
 10時28分,石割坂の案内板に到着する.ここには,「石割坂 勾配がきつく大きな石があり交通に不便だったが,その石を割り中山道を開通させたので石割坂と呼ばれている」と書いてある.

<登ってきた石割坂を振り返る>

■茂田井の一里塚跡
 10時29分,茂田井の一里塚跡を通過する.傍らに一里塚の詳細な説明文が掲示されている.江戸日本橋から46里目の一里塚である.

<一里塚跡>

■木神と茂田井間ノ宿を通過
 10時30分,進行方向右手土手の草むらに「木神」という刻字のある石塔が立っている.この石塔の由来は全く分からない.
 あるいは「水神」と書いてあるのだろうか? 水神なら“なるほど”と分かるような気がするが.どうも「木神」と読む方が妥当のように思えるが,さてどっちだろう,
 10時34分,中山道茂田井間ノ宿入口の案内柱に到着する.
 バス停茂田井上で,明治道と合流する.
 
<「木神」それとも「水神」>                                                             <茂田井間ノ宿入口>

 <茂田井から芦田へ>

■長閑な田園風景
 茂田井間の宿を抜けると,長閑な田園風景が広がる.東の方にうねうねと続く山並みが連なっている.
 私たちは茂田井間の宿を抜けて,次の芦田宿に向かって歩き続ける.

<長閑な田園風景>

■レストラン笠取で休憩
 10時35分,レストラン笠取に到着する.残念ながら,営業はしていない.私たちはレストラン前の広場で,暫く立ち休憩を取る.

<レストラン笠取>

                                     (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E4%BF%9D%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B4%AA%E6%B0%B4
資料6:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%AE%BF

                                        (つづく)
                               
[加除修正]
2013/7/24  地図の差替え.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/154ee89453f6109510d7eecf4e22f995
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6dd89cc3a1a5063dbcce4b6dd78a6674 
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.



閑話休題:白内障顛末記(19):手術を受けてから1年経過した

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  閑話休題:白内障顛末記(19):手術を受けてから1年経過した

         2013年7月23日(火)

 昨年(2012年)7月23日に白内障手術を終えてから,今日で萬1年が経過した.手術後暫くの間は,近所の眼科医の診察を定期的に受けている.手術直後はかなり頻繁に診察を受けていたが,今は3〜4ヶ月程度の間を空けて,定期的に通院している.
 その間,視力は多少の変動があったが,今はまずまず安定している.ただ相変わらず左目の視力は右眼より少々落ちる.また,今のところ,緑内障など目の怖い病気の兆候はなさそうである.

 では,完全に良く見えるかというと,そうでもない.微妙である.
 以前,このシリーズでも書いたことがあるような気がするが,パソコンなどに長時間向かい合っていると,やっぱり視力が落ちてくるし,手許用の凸レンズのメガネを遣っても,細かいものはどうも見にくい.新聞程度の文字ならば,メガネを着用すれば十分に読めるが,それより細かい文字は,手相見の易者のように天眼鏡を使いたくなる.
 眼科医に伺うと,
 「若い人なら良く見えるんですが,高齢者になると,どうしても若い人と同じようには見えなくなります」
とのことである.
 白内障手術で目の中には固定焦点のレンズが入っているが,依然水晶体を動かしていた筋肉は動いているので,その動きによって,挿入したレンズの位置が微妙に動くという.そのために,良く見えたり,少し見えにくくなったりするという.
 また,眼球の形も時の経過とともに微妙に形が変わることがあるようで,手術直後には綺麗に干せされていた乱視も,1年経過すると新たな乱視が多少現れているようである.ただ,日常生活では,この乱視は殆ど気にならない.

 話は変わるが…
 白内障手術から1年目の7月23日,私は鎌倉市内の某自動車学校で,自動車運転免許証更新のために,高齢者講習予備検査(認知機能検査)と高齢者講習を受けた.
 実は…自分も良い年になっているので,もうこの辺りで運転免許証は返納しようかと随分迷った.交通事故の被害者になるももイヤだが,加害者になるのはもっとイヤだからだ.でも,一方では,不器用な身で折角苦労して取得した免許証なので,返納してしまうのは如何にも惜しい.
 白内障手術を受ける気になったのも,白内障がスス腕,矯正視力0.7があやしくなり,運転免許証の更新もおぼつかなくなったのが最大の理由だったはずである.
 私は迷いに迷った.
 実際の所,3年前の前回,免許証を更新してからも,鎌倉市内の移動は専らテクテク歩きが主体で,自家用車があるにもかかわらず,前回の更新以来,1回も自動車を運転したことがない.もう,完全なペーパードライバーになり果てている.
 “いまさら,億劫でシンドイ講習など受けなくてもいいじゃないか,返納したら”
と1人の私が言う.すかさずもう1人の私が,
 “自動車に乗らなくても,折角だから,ちょっと辛抱して講習を受けて,更新しなさいよ…折角の免許なんだから…”
と私を急(せ)かせる.
 もし,免許を更新するのなら,もうそろそろ件(くだん)の講習会を受講しなければならない.
 私は意を決して,先週,木曜日に,私の出身校でもある某自動車学校に電話で受講を申し込む.多分1〜2ヶ月先にしか予約は取れないだろうと思っていたが,欠員があったらしく,7月23日に受講することになった.
 “今回だけはシンドイ講習を受けよう”
これ,正直なところ,かなりの決心である.

 受講日の前日(7月22日),私は家の近くを10分ほど自家用車を運転してグルグルと回ってみる.もちろんどの入っていない伊達メガネを掛けて…だって,免許条件に「眼鏡等」と書いてあるから…
 久々に自動車を運転してみて,身体で覚えた技能は,3年間のブランクがあっても,そうそう簡単に衰えるものではないことが分かる.
 “まあ,何とかなるな…”
で一安心.

 …で,講習会当日を迎える.
 集合時間に講習会場に出頭する.受講者は十数人.私より年配者と思われる方々も結構居られる.
 講習会が始まる.あらかじめ免許証,警察署からの講習会案内ハガキ,筆記用具を持ってくるように注意があったが,免許証を忘れてきた方が2人も居られる.筆記用具を持ってこなかった方が1人…皆さん,私同様にだんだんと年を取っているな.妙な話だが,この様子を見て私もちょっと気楽になる.
 “やっぱり…皆,年を取ると,オレ同様に,物事がなかなか思うように進められなくなるな…”
 実際の所,私も,最近,うっかりミスには絶えず気を付けていないと,ついついしくじることが多くなっている.
 実技講習は,狭いところでの車庫入れに手こずった,何回も何回も出たり引っ込んだりしながら,やっと車庫に入れた.ただ,脱輪したりはしなかった.そろそろ運転だが,赤信号ではチャンと停まったし,一時停止もチャンと守った.その結果,まことに下手くそな運転ながら,
 「中々良かったですよ…」
という評価を指導員から貰った.
 “なるほど! 安全運転とは,単に運転の上手下手で判断するんではないな”
ということを再認識した…とはいえ,私はとてもとても日常的に自動車を乗り回す気にはなれない.

 つづいて,講習予備検査.
 予備検査の最初は認知機能検査.結果は記憶力・判断力が少し低くなっているとのこと,
 “さもありなん…”
と納得する.実は16種類のイラストを見せられる.それを,後になって幾つ思い出せるかというテストが,ガッカリするほどできなかった.つまり覚えられないのである.後で思い出せたのはわずかに半分程度.このテストで自分の記憶力が如何に落ちているかを思い知らされた.

 次は目の検査.
 まずは視野テスト.私の視野は,同年代の人より,ちょっと狭くなっているという.
 「あなたの視野は一寸狭くなっていますが,首を回せば済むことですから,安全運転に気を付けて下さい…」
と,まるで子どもに諭すように,指導員が私に言う.

 さて,白内障の本題に戻ろう.
 今回の目の検査で,白内障の手術前より.かなり改善された項目がある.それは,夜間視力と動体視力である.
 もともと,私は若い頃から強い近視だった.そんなこともあって,これまでは,夜間視力,動体視力のどちらも同年齢に比較して“やや劣っている”という評価を受けていた.
 ところが,白内障手術を受けた後の今回のテストでは,
   ■夜間視力は,同年第では“普通”,30〜59歳での比較では“劣っている”
   ■動体視力は,同年代では“やや優れている”,30〜59歳での比較では“普通”
という評価になり,随分と改善された.
 指導員から,
 「動体視力はなかなか良いですよ…」
というコメントを頂戴した.
 若い頃から私のアキレス腱は「眼」であった.例え1項目でも,「眼」に関する項目で“良いですよ”と言われたことは率直に嬉しい.これも白内障の手術のおかげだと思っている.
 プライベートな数値なので,そのままここで記述することはしないが,頂戴した運転適正結果票の総合判定(選択反応,注意配分・複数作業)では,
  ■「同年代との比較」では“優れている”
  ■「30〜59歳との比較」では“やや注意”
という判定結果を頂戴した.老いぼれの私には,この程度の評価で,もう十分.
 この成果は,多分,白内障の手術と,日常的に繰り返している丹沢塔ノ岳登山が利いているんだろうなと思っている.

 17時過ぎに,半日掛かった講習会も無事終わる.
 “あ〜ぁ…,,,やっと終わった”
というのが正直な感想である.実にシンドかった.
 別れ際に,指導員が,
 「(講習会重婚社の)最高年齢の方は94歳です.どうぞ安全運転に心掛け,また3年後にお会いしましょう」
と挨拶する.
 “うェ〜・・・90歳以上でまだ現役か! 世の中には凄い人が居るなあ…”

 さて,白内障手術の結論を言おう.
 手術から1年経過した私の体験では,この手術を受けて,100パーセント良かったなと思っている.

 ちなみに,家内も,今年になって白内障の手術を受けた.ただし私とは別の病院である.家内の場合は,手術そのものは成功したが,術後に使用する数種類の目薬の中でアレルギーを起こした薬があって,その処置について多少のトラブルがあった.
 これから白内障の手術を受ける方の中にアレルギー体質の方が居られたら,こんなトラブルもあるということを知っておく必要があろう.

 実は,白内障の検索語で,私の拙いブログ記事にアクセスして戴く方が,長い間,切れ目無く継続している.それだけ,白内障に関心を寄せる方が多いと言うことだろう.
 これを機会に,この拙い体験記を少し整理して,近々,記事の冒頭に目次を付けるようにしたいなと思っている.

「白内障顛末記」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/1ec425a7bf6294d394db30bcd5223ec8
「白内障顛末記」の次回の記事
(なし)
「白内障顛末記」の最初の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/38e84c7c3722327f3fc022dc72b713a0

 

歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(3);芦田宿

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                                                                   <芦田宿本陣>

 [改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(3);芦田宿
                    (五十三次洛遊会)
          2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月21日である.
 初稿の地図を改訂版に差し替え,本文の加除修正を行った.

第3日目:2010年6月14日(月) (つづき)

<ルート地図>

■芦田宿・笠取宿

                      ↓
■芦田宿拡大図               拡大


<芦田宿に到着>

 ■芦田宿入口
 休業中の「レストラン笠取」の庭で立ち休憩を取った後,10時44分に出発.
 緩やかな下り坂を進み,芦田川を渡る.川を渡ると,ごく緩やかな登り坂になる.
 10時47分,中居という交差点に到着する.交差点手前左側に「芦田宿入口」という案内杭が立っている.その傍らに常夜灯を模した塔が立っている.辺りは田畑と民家が混在している田園地帯である.自動車の往来も殆どなく,人気もない.

<芦田宿の常夜灯を模した案内塔>

■大庭遺跡
 地図で確かめると,信号中居から南へ100〜200メートルほど下ったところに大庭遺跡がある.私としては,一寸だけ立ち寄って見たかったが,先頭を行く2人がどんどん先へ行ってしまうので,とりつく島がない.いつの日にかチャンスがあったら立ち寄ることにして,やむを得ずここには通過する.この辺りがグループ行動の辛さである.
 資料10によると,「大庭遺跡は、芦田川の氾濫原である沖積地に形成された縄文時代,古墳時代,奈良時代,平安時代わたる複合遺跡である.
 平成元年の発掘調査により検出された遺構は,縄文時代前期中葉・後期初頭(約6500年〜4000年前)の竪穴式住居が17棟,墓壙(ぼこう)(墓)が85基検出され,古墳時代末(約1400年前)〜奈良平安時代の住居址(じゅうきょし)(約1200年前)が18棟,掘立柱建物址(ほったてばしらたてものし)(高床式倉庫)(たかゆかしきそうこ)が1棟検出された.
 特徴は,各時代の過渡期に形成された遺跡あり,中でも縄文時代中期〜後期にかけての集落は,南北60メートル,東西40メートルの範囲に11棟の大型で円形・楕円形の住居が配置され,その内側に墓壙(ぼこう)群が巡っている典型的な環状集落遺跡である.沖積地で湿気が多かったことにより墓壙内には骨片(こうへん),さらに柱穴(ちゅうけつ)には木材の一部が残存し,甕(かめ)の埋設,鉄平石(てっぺいせき)を敷いた屋内祭壇(おくないさいだん),玉斧(ぎょくふ),丸石(まるいし),石棒(せきぼう)等信仰に関わる遺物が祭壇周囲から出土している.
 現在は貴重な遺跡保存のため、調査跡地は原形のまま覆土し史跡公園として保護・保存に努めている.」

■芦田宿概要
 いよいよ芦田宿に入る.
 資料5によると,「芦田宿は,中山道六十九次のうち江戸から数えて26番目の宿場.現在の長野県北佐久郡立科町芦田にあたる.難所であった笠取峠の東の入口にある.生糸の産地でもあった.天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,芦田宿の宿内家数は80軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠6軒で宿内人口は326人であった。」.
 資料3(p.148)によれば,芦田宿には本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠6軒を含めて80軒の家屋(惣家)と326人(男177人,女149人)の人口があったようである.

■道祖神
 10時51分,進行方向右手の道端にある道祖神の前を通過する.
 登り坂がやや急になる.交差点を渡る.両側に芦田宿の民家が建ち並んでいる.静かな街である.

<道祖神>

■立科町役場
 先ほど休憩を取った場所にはトイレがなかったので.立科町役場に立ち寄って,トイレを拝借することにする.
 中山道から左折して,広々とした2車線の道路を200メートルほど歩いた突き当たりに,立科町役場がある.周囲の鄙びた環境には不釣り合いなほどの立派で四角いコンクリートの庁舎である.
 庁舎の入口の階段を登る.建物の周囲には全く人気がなく,広場に駐車している車もない.庁舎に入るのは,何となく気後れがするが,まあ,叱られることもあるまいと思って,建物の中に入る.
 天井が高くて広々とした事務所である.私が平素行き馴れている鎌倉市役所は,立科町役場に比較するといかにもゴチャゴチャ,チマチマしている.
 事務所は静まりかえっている.受付らしいところで,
 「芦田宿の資料があったら頂戴したいんですが・・・」
と声を掛ける.
 近くに居た若い女性職員が,
 「どうぞ,そちらにあります・・」
と右手の手のひらを上にして資料のあるところを指し示す.
 「・・トイレも拝借します・・」
 厚かましくも私たちは,町役場のロビーで,ユックリと休憩を取らせて貰う.昨日今日と人の気配のないところばかり歩いていると,人の姿のある役場がとても居心地がよい.
 立科町が観光に力を入れているのか,宿場跡や,この地方に関連する有益な資料を入手することができた.役場に備え付けられている冷たい水をご馳走になって,11時08分,役場から外に出る.私たちが休憩を取っている間に,役場を訪れる方は1人も居なかった.絶えず沢山の市民が出入りしている鎌倉市役所とは大分違うなという印象を持つ.
 親切に応対して戴いた立科町役場の職員の方に,この場を借りて厚く御礼申し上げたい,
 往路を引き返して,もとの中山道に戻る.

<立派な立科町役場>

<芦田宿本陣土屋家>

■立派な門構え
 11時10分,本陣跡に到着する.長屋門って言うのだろうか.白壁の立派な門構えのお屋敷である.門の入口,向かって右側の門柱に「芦田宿本陣」と書いた立派な門札が下がっている.
 門の外から中を覗いてみる.人気は全くないが,敷地内にも説明文がある.どうやら中も見学できそうなので,恐る恐る庭に入ってみる.

<芦田宿本陣跡>

■本陣庭園
 鬱蒼とした植木の間に通路がある.その通路を辿ると,「芦田宿本陣」と書いてある木柱と案内板が立っている.案内板には,次のようなことが書いてある.
 「芦田宿は,慶長2年(1597年)に設立,江戸幕府の交通政策施行(慶長6年)より4年前で北佐久郡では一番早くできた.
 本陣土屋家は,問屋を兼ね,芦田宿の開祖でもあった.
 本陣御殿(客室)は寛政12年(1800年)に再建されたもので,イチイの木を使った京風上段の間があり,大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され,往時をそのまま伝える建物は,中山道唯一と言われている.」

<本陣跡の庭>

■建物の様子
 建物の内部は見学できないが,往時の間取りや,建物の特徴などの詳しい図面が表示されている.私には,建築のことは全く分からないが,間取り図を見ると,その規模の大きさに驚かされる.

<本陣の図面>

■建物の概要
 案内板の説明によると,「客殿は,間口5間(約9メートル)奥行11間(約20メートル)の切り妻造り.妻入り,桟瓦葺で屋根の前後に鯱をかかげている.玄関は唐破風・・(略)・・江戸後期の様式を良く表している.建物全体の規模が大きく,・・(略)・・,原型がほぼ完全に残され,江戸時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存されている」.

<脇本陣など>

 ■脇本陣山浦家
 11時14分,本陣と交差点を挟んで筋向かいにある脇本陣山浦家を訪れる.「脇本陣山浦家」と書いてある案内柱が立っている.
 資料7によると,「芦田宿には脇本陣が2軒あったが,そのうちの1軒が本陣の向かい側にあった山浦家脇本陣である.残念ながら昭和52年(1977年)の火事で焼失してしまい,今は駐車場の奥に「芦田宿脇本陣」と記された標柱があるのみ」とのことである.


■酢屋茂
 脇本陣と道路を挟んで反対側にある酢屋茂の建物を拝見する.木造の立派な建物である.私には,酢屋茂の由来は皆目分からないが,資料5によると現在も「みそ醸造 しょうゆ醸造 」をしているようである.
 酢屋茂の製品の評判は良さそうである.資料7には,「もう10年も昔の事ですが,この近くの宿で出された味噌汁がとてもおいしかったので詳しく聞いたところ,このお店の味噌でした.宿の人曰く,別に普通の味噌汁だけど? きょとんとしていましたけど...いつもおいしいもの食べているので特別だとは思わなかったのでしょう.『本当においしいお味噌はダシなんかいらない』って聞いた事ありますけど,ほとにそう思います.しょっぱい味がきつくなくて,まろやかなかんじです.」という感想文がある.
 何だか酢屋茂の味噌を味わってみたくなった.

<酢屋茂>

■正明寺
 11時22分,正明寺参道入口に到着する.長い敷石の参道を進むと,突き当たりに質素な造りの本堂がある.
 正明寺の宗派,山号,開基,開山などの情報をインターネットで調べたが,今のところ,全く分からない.ただ,この寺の境内にある枝垂れ桜が有名なようである.

<正明寺>
 
■芦田宿入口と常夜灯
 11時29分,国道142号線と斜めに交差する.交差点を渡ったところに常夜灯がある.ここで芦田宿も終わりである.
 私たちは,三十町の登り坂笠取峠に差し掛かる.今回最大の難所である. 
 
<芦田宿入口>                               <常夜灯>

                                        (つづく) 
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%AE%BF
資料6:http://www.takeshige-honke.co.jp/
資料7:http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/59370212.html
資料8:http://www.dynax.co.jp/sinsen/sake/kura/js_e/js_e_zenkoji.html
資料9:http://www.town.tateshina.nagano.jp/gaiyo/bunkazai/236/000212.html
資料10;http://www.town.tateshina.nagano.jp/gaiyo/bunkazai/238/000217.html

                              
[加除修正]
2013/7/25  地図の差替えと追加.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5fa70eabad873523eac122b21df6deec
 「中山道六十九宿」の次回の記事
 (改訂版編集中)
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.

ジメジメ・ベトベト・まるで蒸し風呂の丹沢;塔ノ岳(今年38回目)

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                                <霧の堀山尾根>

  ジメジメ・ベトベト・まるで蒸し風呂の丹沢;塔ノ岳(今年38回目)
             (単独山行)
     2013年7月25日(木)  霧雨・無風・高湿度

■朝からドンヨリ雲だ
 この所,水曜日,土曜日に塔ノ岳に登るようにしている私は,今週月曜日辺りから水曜日(7月24日)の天気がどうなるか気になっていた.残念ながら水曜日の天気予報は雨だというので,塔ノ岳行を1日延ばし,今日,木曜日に出掛けることにする.
 今日は平日である.平日ならば,苦手な小田原駅階段二段跳び乗換がある.これを避けるためには,何時もより1本早い東海道本線の電車に乗る必要がある.つまり,大船発5時10分東海道本線熱海行電車に乗らなければならない.でも,自宅近くを通る湘南モノレールの始発電車では,この電車には間に合わない.
 とはいえ,どうせ朝早くから起床している私は,さっさと大船駅まで歩いてしまえば良いじゃないかということで,4時10分に自宅を出発する.
 今日は,もう,夏至を過ぎて1ヶ月余り過ぎている.その間に,日の出の時間が大分遅くなっているようである.私が自宅から歩き出したときは,まだ,薄暗く,夜は明けきっていない.気温はさほど高くはなさそうだが,じっとりとした空気が肌に纏わり付く.空を見上げると,今にも雨が降り出しそうな雨雲が低く垂れ込めている.
 “ありゃ,今日の天気,大丈夫かな?”
 私は少々不安になったが,天気予報では日中は曇.山の天気予報では塔ノ岳山頂は晴で最高気温24℃とのことである.私は天気予報を信じて,予定通り出掛けることにする.
 大船発が,何時もより30分以上早い電車なので,渋沢までの時間の余裕はタップリ悠々.電車もガラ空きである.「早起きは三文の徳」どころの話ではない.実に気分が良い.ただ,家から大船駅まで40分ほどの山下りがちょっと余計だが…
 小田急線に乗り換えて,6時21分,渋沢駅に到着する.大倉行バス乗り場には誰も居ない.私が一番乗りのようである.
 大倉行1番バスの乗客は,韋駄天組のNMさん,STさん,それにTGさん,Hさんのご常連.もう一人見馴れぬ中年男性の登山客,それに私を含めて,たった6名だけ,

■大倉のネコ
 7時06分,TGさんと一緒に大倉から歩き出す.気温25℃.蒸し暑い.
 路面は,昨夜雨が降ったのか,ビッショビショに濡れている.そして上空には雨雲が低く垂れ込めている.湿度もベラボーに高いようである.しかも,さらに悪いことに全くの無風.気温は23℃とそれほど宅はないが,ヌッタリとした空気が肌に纏わり付いて,実に不快である.
 歩き出してすぐ,近所に住んでいるネコが,私の方をじっと見ている.ネコは私に,
 「オマエ,アホか! こんな日に塔ノ岳に登るなんて…」
 と言っているように思える.ネコは,1〜2秒,私の方を見ていたが,そのままスタスタとどこかに消えてしまう.
 どうやら,私はネコにもバカにされているようである.
 
<ネコが私を見つめる>                         <スタスタとどこかへ行ってしまう>

■今日は完全な単独山行
 TGさんは私など遠く及ばない俊足の方である.鈍足の私など,到底,ごっしょするの葉無理,無理! 私は,ご一緒して,TGさんに迷惑を掛けたくないので,
 「私は自分の速度でユックリ登ります…宜しかったら,どうぞお先に…」
ということで,今日はそれぞれが自分に合った歩きをすることにする.
 TGさんとお別れしてから,じわりじわりとTGさんの後ろ姿が遠のいでいく.
 
<TGさんとお別れ>                         <後ろ姿がジワリジワリと遠ざかる>

■墨絵のような霧の世界
 登山口を過ぎる頃,霧雨が降り始める.雨具を着用するほどでもないので,雨具なしで歩き続ける.足許は濡れていて,とても滑りやすくなっている.湿度はさらに高まる.湿度計を持っていないので,正確な湿度は分からないが,体感的には,とにかくベラボーに高い.その上,風は全くなく,重くてベタベタな空気が容赦なく身体に纏わり付く.
 正確な湿度は分からないが,予報などを勘案すると,多分,80パーセントは優に超えているだろう.とにかくベトベトとした空気が,粘っこく肌に纏わり付く.その上,少しでも空気が動けば,随分と楽になるのだが,全くの無風である.
 まだ,登山道に入ったばかりだというのに,辺りは濃い霧に覆われている.どうやら,今,私は雲の中に入ったようであるる.
 ただ,こんな悪天候でも,悪いことばかりではない.辺りの杉林は,まるで墨絵のような幻想的な雰囲気になっている.
 “こんな情景を墨絵風の水彩画に纏めてみたい…”

<幻想的な霧の世界>

■ヒルを探すぞ
 今日の蒸し暑さは尋常ではない.どうやら熱射病に十分な注意が必要だ.それに,山麓ではヒルが沢山出てきそうな雰囲気である.私はこんな雰囲気を逆手にとって.
 “よおしっ! 今日はヒルの写真を撮るぞ!”
と張り切る.そして,眼を皿のようにして.足許にヒルが居ないかを探しながら.歩き続ける.
 7時22分,丹沢ベースを通過する.私は,ヒルに取り付かれないように,登山道の真ん中を,立ち止まらないように注意しながら歩く.もし,足許でヒルを発見したら,すぐに写真を撮ってから,塩攻撃をするつもりである.
 この辺りから暫くの間が大倉尾根の“ヒル銀座”とも言えるヒル多発地帯である.でも,結局は1匹のヒルにも会うこともなく多発地帯を通過してしまう.ヒルに会わなくて良かったような写真が撮れなくて残念なような,妙ちきりんな気分である.

■見晴階段
 7時49分,漸く見晴山荘に到着する.大倉を歩き出してから43分も経過している.もうすでに何時もより2〜3分時間が余計に掛かっている.でも,このベトベト天気では仕方がないだろう.
 すぐに見晴階段に差し掛かる.
 この辺りは完全に雲の中である.辺りには濃い霧が立ちこめている.坂の上を見上げても,殆ど何も見えない.
 私の前後には人っ子1人居ないようである.もっとも濃い霧でハッキリは分からないが…
 私より先を歩いているTGさんは,今頃,多分,モミジ坂を登っているだろうと想像する.
 階段を登り始めると,一層,蒸し暑くなる.私は,塩分補給のために,ポッケから梅干しを1個取り出して口にほおばる.そして,ハイドレーションシステムを使って,ほぼ数分おきぐらいに水分を1〜2口補給する.
 熱射病のの前駆症状は,肌のねとねと感,目眩,喉の渇き,手足の痺れだと教えられている.私は自分の体調を注意深く見極めながら,ソロリ,ソロリと坂道を登る.できれば流れるような汗はかかないようにしたいが,これほどネットリとした空気が肌に付きまとっていると,ジッとしていても汗をかいてしまう.なので,熱射病の前駆症状である“肌のねとねと感”は,どうしても避けられない.
 “登るのが嫌になったら,すぐに下山しよう”
と開き直ると,気分も軽くなる.

<見晴階段>

■夏の霧氷?
 8時06分,やっと一本松を通過する.大倉を歩き出してから,丁度1時間経過している.本来ならば駒止階段を登っている時間である.
 8時08分,2本ストックで下山してくるYZさんとすれ違う.
 とにかく蒸し暑いので意気消沈.相変わらず霧雨が降っている.
 下の写真.一見,何の写真か分からないだろうと思う.実は私の左腕である.平素は腕のい薄い毛など気に留めたことはないが,今日はこの薄い毛にビッシリと水滴が付着している.これは,今日の湿度が極めて高いという証拠だろう.もし冬ならば私自体が霧氷になってしまいそうである.
 ビッシリ付着した水滴はなかなか見事で美しい.平素,うぶ毛など全くないと思っていた自分の腕が,水滴で見事に化粧されているのに驚いている.

<うぶ毛に水滴がビッシリ>

■見えない富士山の写真
 駒止階段を登り切って,8時25分,ようやく駒止茶屋に到着する.ここまで登ると,では,もう少し気張って,堀山の家まで行こうかという気になるから不思議である.
 大倉から駒止茶屋までの所要時間は1時間19分.ずいぶんと余計に掛かっている.やっぱり難儀な時間である.
 つづいて,堀山の尾根道に差し掛かる.ここまで来ると,蒸し暑さがほんの少し和らいだような気がする…が,まったく無風なので,何時ものような開放感は全くない.
 尾根歩きを始めて数分で富士山が良く見える場所に到着する.勿論,今日は富士山はおろか,ごく近くの山も全く見えない.でもここで,儀式としての写真を撮らないと気分が悪い.
 8時34分,堀山を通過する.足許がかなり泥濘になっている.

<堀山から見えない富士山の写真を撮る>

■誰も居ない小草平
 8時42分,ようやく小草平の「堀山の家」に到着する.
 余談だが…
 時々,この猫の額ほどの場所を小草平っていうのかという質問を受ける.勿論,私は地元に人間ではないので,そんなこと知る由もない.ただ,エリアマップを見ると,ここが小草平になっている.また,この小さな平らだけでなく,この辺り一帯を小草平と呼んでいるようである.つまり小草平は,この辺りの地名である.
 堀山の家付近には人影がなく静まり返っている.堀山の家の温度計は21℃を指している.やっぱり気温はさほど高くはないが,何しろ湿気が強いので,ムシムシしてかなわない.
 それでも,まあ,折角,ここまで登ってきたんだから,もう少し登って見ようという気分になる.
 “所要時間などどうでも良い…とにかく,登るのが嫌になるまで登ろう”
 平素は堀山の家から花立山荘まで40分掛けて登ることにしているが,今日は何時間か掛かろうと構わない…とにかく,花立山荘までの急坂をエッチラホッチラ登り始める.

<誰も居ない小草平>

■萱場平
 私の前後には全く登山者は居ない.こうなると私を抜いていく人も,私の前を行く目障りな人も居ない.この状態は実に気楽である.だから,完全にマイペースを維持できる.
 岩稜地帯を過ぎて長い階段道になる.相変わらず完全な無風で焦熱地獄.これには参ってしまう.霧のような雨が降ったり止んだりしている.私は,相変わらず,雲の中を登っているようである.
 私は,ほとんど止まりそうになるほどのユックリ速度で,とにかく登り続ける.そして,9時04分,漸く萱場平に到着する.アア,シンド!
 萱場平には,相変わらずかなり濃い霧の中.ほとんど見通しが利かない.私の先を行くTGさんは,多分,後7分坂を登っている最中だろうなと想像する.
 木道の間に繁茂するアザミは雨滴を沢山貯めてますます元気である.このアザミ,一体,何を考えているんだろうか.もし可能ならば,このアザミと是非話をしてみたいなと思いながら,通過する. 

<萱場平>

■花立山荘
 後7分坂(花立階段)にもうすぐということろで,下ってくる韋駄天のNMさんとすれ違う.NMさんは片手に団扇を持っておられる.
 “なるほど団扇か,オレも真似しよう”
と思いながらすれ違う.
 「今日は蒸して大変ですね…」
とNMさんが言う.
 何時もならば,後7分坂を3分の2ほど登ったところで,NMさんとすれ違っているが,今日は何時もより大分下の方ですれ違っている.それだけ私が遅いということだろう.
 長い階段をヤットコサットコ登って,9時28分,ようやく花立山荘に到着する.大倉からの所要時間は2時間22分.堀山の家からは46分掛もかっている.
 花立山荘の小屋番が開店準備をしている.でも,今日は平日.そういえば先週水曜日にも開店していた.花立山荘は平日でも営業することになったのかな.確かめようと思っていたがついつい忘れてしまう.
 山荘周辺には,小屋番さん以外の人影はない.辺りには,相変わらず,濃い霧が立ちこめている.

<開店準備中の花立山荘>

■花立山
 花立山荘の小屋番に挨拶して,山荘を通過する.私にとって,ここから花立山までが一番きつく感じる場所である.短いようで結構長い階段道が延々と続く.
 “花立山荘を過ぎれば涼しくなるぞ”
と期待していたものの,相変わらず暑さは厳しく,期待外れである.
 登山道周辺は降りしきる霧雨で濡れぼそり,濃い霧で霞んでいる.
 “蒸し暑い山道はイヤだな…登りたくないな”
と思いながら,ノソノソと惰性で登り続ける.
 そして,花立山荘から11分もかけて,漸く花立山山頂に到着.正に辿り着いた感じである.

<霧の中,花立山山頂が見えている>

■塔ノ岳山頂
 9時38分,やっと花立山山頂を通過する.ここまで登ると,さすがにいくらかは涼しくなる.何時の間にか汗も引っ込んでいる.ここまで登れば,もう,しめたもの.ここから塔ノ岳山頂までは大したことはない.やっと元気が出てくる.
 花立山手前で,下山してくる韋駄天にSTさんとすれ違う.
 9時43分,金冷シを通過する.ここから塔ノ岳山頂までは,ユックリ登ってもせいぜい15分程度.今日も確実に山頂まで登れるぞ.
 疲れないように,一歩一歩,階段道を丁寧に登り続ける.そして,9時59分,漸く塔ノ岳山頂に到着する.大倉からの所要時間は2時間53分である.実に冴えないが,まあ,3時間を切っただけで良しとしよう…所要時間など関係ないという私の建前だから.
 霧が深いので,山頂からの眺望は全くないが,儀式なので四方の写真を撮る.そして,KIさんが山頂のポールに取り付けた寒暖計を見る.山頂の気温は20℃.ムシムシ,ベタベタ空気に散々悩まされたにしては,意外に低い気温である.霧雨と汗で着物はベトベトになっていて,実に気分が悪い.
 私が山頂でモタモタしていると,TGさんが尊仏山荘から出てくる.
 「ボチボチ,下っていますよ…」
と私に言って下山を開始する.
 私もこのまま尊仏山荘に立ち寄らずに帰ろうかと思ったが,“ままよ…”と思いとどまる.
 “折角だから20〜30分,尊仏山荘に立ち寄ろう”

<塔ノ岳山頂;ちょうどTGが出てくる>

■尊仏山荘
 尊仏山荘に立ち寄る.
 今日の小屋番はWDさん.客は私1人.何時ものように300円也のお茶を所望する.
 「…ネコ,生きていますか?」
と伺う.
 「ええ…元気ですよ.でも,今は虫が入ってくるんで2階の窓を閉め切っているんです.それで2階が暑いもんで,隣の小屋の2階で寝ていますよ…あの窓からこっちを見ていることが多いです…」
とのこと.
 華伊達美弥尾氏(ネコのこと)も大分年である.元気なことが分かれば,とくに姿を見る必要もない.
 つづいて,
 「今年はどこかの山へ行かれますか」
と質問を受ける.
 もちろん,一度ぐらいは北アルプスかどこかの山へ行きたいなと思っている.
 「…でも,費用が掛かるので中々…」
とシケた返事しかできない.
 シケついでに…私の場合,塔ノ岳に1回登れば約3000円かかる.北アルプスに1回行く費用で,塔ノ岳なら10回行ける.1回海外登山ツアーに参加すれば,北アルプス20回分の費用が掛かる.つまり塔ノ岳200回分の費用を捻出しなければならない.これは大変なことである.年に60回塔ノ岳に登るとして,3年以上,塔ノ岳に登るのを止めないと,海外へは行けない勘定になる.
 “こりゃ,参った!”
 …で,今日はユックリ下って,大倉発12時52分のバスに乗ろうかと思う.そのとき,小屋番さんが,
 「(一緒のバスに乗っていた)Hさん,中々現れないですね」
と独り言のように言う.私もHさんが山荘に到着するまで待っていようかと思ったが,大倉発12時52分のバスに乗りたい.
 …で,私は,10時25分,下山開始.
 尊仏山荘の前で沢山のホタルブクロ(だろうな?)が咲いている.実に可愛いので,数枚の写真を撮る.

<山頂には沢山のホタルブクロが咲いている>

■濃い霧の中を下山
 相変わらず霧雨まじりの曇り空である.山頂付近では,さすがに蒸し暑くはないが,ベトベト感がいやらしく身体に付きまとう.
 山頂から2番目の階段を下りているところで,先ほど尊仏山荘で話題になったHさんとバッタリ.
 「お先に降りてます…」
と挨拶してすれ違う.
 不快なベタベタ感は,標高が低くなるにつれ大きくなる.終始霧の中を下り続ける.今日は登山者の数も疎らで,ときどきすれ違う程度.若い登山者が多い.

<濃い霧の中の登山道>

■予定通り帰着
 途中,ついついユックリしすぎて,時間が押してくる.観音茶屋辺りから,少し急いで,12時47分に予定通り大倉に到着する.下り所要時間は2時間22分.何時も2時間程度で下っているのに比較すると,実にノンビリとした下山である.
 同じバスに乗り合わせた登山客は,私を含めてたった2名.途中の乗り降りもほんの2〜3人.
 渋沢,小田原での電車の接続も良く.14時22分に大船に到着する.
 ただ,いくら速乾性の衣類を着用していても,汗でベトベトになった衣類は気持ちが悪い.特に車内の冷房が堪える.大船で電車から降りると,いくらか爽やかな海風が吹いていて,ホッとした気分になる.
 冷房したバスには乗りたくなかったが,早く家に帰って,不快な衣類を脱ぎ捨てたい.バスの乗車時間はたった10分.我慢してバスに乗って早く帰宅する.
 帰宅後,すぐさまシャワーを浴びて,衣類を着替える.気分最高. 
 今日も良かった! 良かった!

<ラップタイム>

 7:06  大倉歩き出し
 7:30  観音茶屋
 7:49  見晴山荘
 8:25  駒止茶屋
 8:42  堀山の家
 9:28  花立山荘
 9:43  金冷シ
 9:59  塔ノ岳山頂着(20.0℃)
10:25      〃  発
10:40  金冷シ
10:52  花立山荘
11:27  堀山の家
11:46  駒止茶屋
12:11  見晴山荘
12:26  観音茶屋
12:47  大倉着

 [山行記録]

■水平距離       7.0km(片道)

■累積登攀下降高度   1269m

■登攀所要時間(雑談時間を含む)
  大倉   発       7:06
  塔ノ岳  着       9:59
  (所要時間)  2時間53分(2.88h)
  水平歩行速度   7.0km/2.88=2.43km/h
  登攀速度    1269m/2.88h=440.6m/h

■下降所要時間(休憩時間を含む)
  塔ノ岳  発      10:25
  大倉   着      12:47
  (所要時間)  2時間22分(2.37h)
  水平歩行速度     7.0km/2.37h=2.95km/h
  下降速度     1269m/2.37h=535.4m/h
                                   (おわり)

「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/49c313bd6828e3c0e1c2e06bf6c9eceb
「丹沢の山旅」の前回の記事
(なし)

中山道六十九宿巡り(56):第8回目(18):笠取峠を越える

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                               <笠取峠>

       中山道六十九宿巡り(56):第8回:笠取峠を越える
              (五十三次洛遊会)
         2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月22日である.
 初稿の地図を更新版に差し替え,本文の加除修正を行った.


第3日目:2010年6月14日(月)  (つづき)

<ルート地図>


                                                                 ※再掲

<松並木公園>

■道祖神
 常夜灯と道を挟んで反対側の少し離れたところに,道祖神がある.可愛い.この道祖神も祝言道祖神の一種なのだろう.

<道祖神>

■素晴らしい松並木
 11時32分,私たちは松並木公園の入口に到着する.目の前には広々とした公園が広がっている.入口近くに道祖神が祀られている.公園の真ん中に緩やかな上り勾配の道が真っ直ぐに延びている.
 私たちはこの真っ直ぐな道をゆっくりと登り続ける.多少登り坂になっているためか,歩きが遅くなる人も出始める.世話役の1人が,
 「・・・予定より大分遅れちゃった・・」
と小さな声でぼやく.

<素晴らしい松並木が始まる>


<路傍の石像>

■笠取峠の松並木
  11時38分,登り坂の途中にある松並木公園に到着する.公園の中に休憩所がある.ここでトイレ休憩.
 休憩所は一寸した広場になっている.広場の一角に「笠取峠の松並木」という表題の説明板が設置されている.説明文の内容は以下の通りである.
     *************************
         長野県天然記念物 笠取峠の松並木
 この峠道は,近世五街道の一つ中山道の笠取峠である.徳川政権は,関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)東海道に伝馬制を実施し,翌7年には中山道などにも着手した.

           慶長9年幕府は諸街道の改修,一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木を作らせた笠取峠は雁取峠とも呼ばれ,慶長2年(1597年)に設けられた芦田宿と,およそ1里半(約6キロメートル)の距離を隔てた長窪宿の間にある.
 笠取峠の松並木は,小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を,近隣の村民とともに峠道約15町(約1.5キロメートル)にわたって植樹し,その後も補植を行い保護・管理を続けてきた.歌川広重の「木曾街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である.
 長い歳月の間,風雪に傷み枯れ,大正13年(1924年)長野県の調査によると229本があった.昭和49年(1974年)長野県天然記念物に指定された.
 現在は110本である.立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め,往時の姿をとどめている.
        平成5年3月
                   立科町教育委員会
      ****************************

<松並木の案内板>

■若山牧水の歌碑 
 広場の一角に,歌碑がある.変体仮名混じりの草書は私には読めない.何だか分からないまま分,多分,これが若山牧水の歌碑だろうと思う.

<若山牧水の歌碑>

■金明水
 傍らに水飲み場のようなものがある.「金明水」というらしい.昔の旅人は,この水で喉を潤したらしい.近くに道祖神も祀られている.

<金明水>

<笠取峠へ>

■是より小諸領
 11時44分,休憩所から歩き出す.
 11時46分,路傍の道祖神,および「是より小諸領」の石塔を通過する.石塔の脇に小さな案内板が立ててある. 

<道祖神>


<是より小諸領の石塔>

■国道142号線に合流
 11時51分,笠取峠松並木の碑を通過する.直ぐに国道142号線に合流する.相変わらず,やや急な登り坂が連続する.ときどき自動車が通り抜ける.

<笠取峠を登る>

■笠取一里塚跡
 12時03分,笠取一里塚跡を通過する.少し高いところに大きな一里塚石碑が置かれている.この辺りがどうやら笠取峠の最高地点のようである.江戸日本橋から47里目の一里塚である.
 多少の山歩きを予想していた私には,随分と呆気ない峠越えだなという印象を受ける.

<笠取一里塚跡>

■峠の石塔群
 笠取峠の「峠」には,沢山の石塔や案内板が立っている.その中から適当な案内杭を選んで,記念写真を撮る.
 石塔の中には「学者村」というのもある.元ヘボ教員の私に,
 「FHさん向きの所ですね・・・」
と誰かが茶々を入れる.今はグウタラ人間.「学者」なんて烏滸がましい.グウタラ人間に成り下がった私は苦笑する.
 これから峠を下れば,第3日目の最終目的地の長窪宿まで,あと僅かである.

<峠で記念写真>

                                         (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
                              
[加除修正]
2013/7/27  地図の差替えと追加.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/96dba4df370071ba4c866a45fb8503d5
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5a33c781588dbe87204320bfd46d8564
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.

歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(18):長久保宿

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                               <中山道の元道>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(18):長久保宿
            (五十三次洛遊会)
      2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月24日である.
 初稿の地図の差し替えと追加および本文の加除修正を行った.

第3日目:201年6月15日(月) (つづき)

<ルート地図>

■長久保宿とその周辺


■長久保宿詳細図

 

<笠取峠を下る>

■ショートカット道を下る
 峠の茶屋跡付近で,しばらく休憩を取った私たちは,12時11分,笠取峠を下りはじめる.やや急な下り坂である.暫くの間,舗装された自動車道路が続く.
 途中から案内標識に従って,クネクネと迂回する自動車道をショートカットする形で,草深い小径を下る.野趣豊かな散策路である.頭上は周囲の樹木の緑に覆われている.実に気持ちの良い散策路が続く.
 心地よく小径を歩いていると,いきなりガッカリさせるように自動車道に飛び出る.暫く進むと,また,緑豊かなショートカット道になる.
<心地よいシュートカット道>

■しだれ桜
 12時24分,立派なしだれ桜の脇を通過する.
 やがて道路は大きく迂回する.ところどころに中山道を示す道標が立っている.これらの道標を見逃さないように注意をして,坂道を下り続ける.
 
<中山道道標>                                           <立派なしだれ桜>

■川の右岸のトラバース道
 12時27分,大きくカーブする道端に馬頭観音を眺めながら下り続ける.
 その後,私たちは草ぼうぼうの土手を降りて,旧国道と並行する古道を,暫くの間,進む.進行方向左手には小さな川が流れてる.私たちは川の右岸のトラバース道を下っている.

<馬頭観音>

<松尾神社>

■松尾神社に到着
 再び,旧国道と合流する,旧国道を200メートルほど下ったところで,再び細い中山道に入る.暫くの間,クネクネと曲がる細い道を下り続ける.そして,12時44分,松尾神社の裏手に飛び出すようにして到着する.

<そろそろ松尾神社だ>

■酒の神様
 松尾神社の境内は広くて立派である.資料1によると,この神社は酒の神様のようである.
 資料5によれば,「長久保宿の入り口には酒の神様「松尾神社」がある.京都,松尾神社を本社に持つ酒造守護の神で,古くより酒造家の尊信あつく多くの酒造に関係した人達の参拝が絶えなかった.毎年夏に行なわれる松尾神社の例祭で奉納される「大山獅子」は,唄や笛及び太鼓は京都を思わせる優雅なもので舞い方も古式を伝えている」という(「・・である」調に書き換えた).

<松尾神社>

■立派な本殿
 まずは本殿でお参りを済ませる.立派な本殿である.
 傍らに設置されている案内板には,「この本殿は諏訪の宮大工,三代立川和四郎富重の建築で,万延元年(1860年)に再々建されたもので,総欅で三社の高床造りである.本殿の欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ,鶴が舞い遊んでいる姿や,貫の木鼻には像のはななど,実に見事な彫刻がしてある.神社は旧郷社で,祭神は大山昨命であり,本社は京都市右京区松尾町の官幣大社松尾神社で,酒造守護の神として往古より酒造家の尊信あつく遠くより参詣する人が多かった.以前は長久保の町裏地籍にあり,その当時は大欅の森があったが小学校校庭拡張のため昭和33年5月現在地に移転した.その際略式の四神の際紀のあることが発見された」という説明がある.

<松尾神社本殿> 

■大井廣の歌碑
 境内の傍らに立派な歌碑がある.大きな石に綺麗な変体仮名の和歌が刻まれている.戦後,きちんとした教育を受けていない私には,とても読めない.
 歌碑の近くにある説明文によると,
  “のぶどうのみのりてあらんふるさとや
      しなののくにの□□かりけり”(□は読めない)
と書いてあるようだ.
 この説明文によると,「大井廣は1910年(明治43年)長久保新町生まれ.京都大学卒.兵庫県立第一女学校教授立命館大学教授兼任.1943年(昭和18年)逝去.歌壇でも活躍.この詩碑の文字は大井廣の自筆」ということである.
 なお,帰宅後,インターネットで「大井廣」を検索したが,関連記事は見当たらなかった.

<大井廣の歌碑>

<長久保宿>

■大鳥居を潜る
 12時49分,松尾神社の立派な鳥居を潜る.すぐに五十鈴川に架かる橋を渡る.この辺りから長久保宿である.

<大鳥居>

■長久保宿の概要
 12時53分,交差点近くの堅町バス停を通過する.こうして,私たちは,3日目の終着地,長久保宿に到着する.
 資料6によれば,長久保宿の概要は,以下の通りである(「・・である」調に書き換えてある).
 「長久保宿は,江戸板橋宿から二十七番目の宿場町である.笠取峠をくだったところにあり,現在も本陣や当時の名残りをとどめる建物が残されている.また,この場所は共に難所であった和田峠と笠取峠との間にあって,最盛期には旅籠が50軒近くある比較的大きな宿場であった.
 宿場の発展と共に町並みが横丁の先に広がり,カギ型に曲がった珍しい形の宿場町であった.宿名「長久保」の本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」であったが,宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し,久しく保つの意味の「久保」に縁起をかついで変化していったと言われている.1859年には宿方から代官所へ宿名変更の願書が出されたらしいが,すぐに許可はおりなかったらしい.そのため,以降も公文書には「長窪宿」と記されているものが多く,認められたのは明治になってからのことであった.」
 資料3(pp.152〜155)によれば,長久保宿には,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠43軒を含み宿内惣家数は187軒.宿内人口721人だったという.
 なお,「惣」は,資料4によると「室町時代,農村の自治組織.名主の中から選ばれた乙名(おとな)・年寄・沙汰人(さたにん)などを中心に,寄合によって掟(おきて)を定め,入会地(いりあいち)・灌漑(かんがい)用水などの共同管理や年貢納入の請負いを行った.惣村(そうそん).惣中.」のことという説明がある.
 門外漢の私には分かったような分からないような話だが,長久保という「惣」に入っている家が187軒あったということだろう.

<静かな長久保宿>

■長久保宿歴史資料館
 12時58分,長久保宿歴史資料館に到着する.
 古風な建物である.通路に面した格子戸の前に「長久保宿」と書いた屋根付きの案内が2個置かれている.資料館が開いているかどうか分からない.
 傍らの案内板によると,ここは「一福処濱屋の建物.明治時代初期に旅籠として建てられたが,中山道の交通量が減ったために開業には至らなかった.間口は9間と広く,総二階建で,延床面積400平方メー散る程の宿内でも大きな建物だった・・(略)・・2000年(平成12年)建物所有者福永家から寄付された・・」とある.

<長久保宿資料館>

■旧本陣石合家住宅
 12時59分,旧本陣石合家に到着する.傍らに高札場跡の表示がある(一部平易に書き換え省略).
 傍らに立っている案内板によると,この建物は「江戸初期の本陣建築で,上段之間,二之間,三之間,入側などが現存する.1850年(寛永3年)の本陣絵図には,上段之間ほか客室,茶之間,台所など22室が主要部分で,ほかに問屋場,代官詰所,高札場を併置し,御入門ほか幾つかの門,御番所2カ所,御湯殿4カ所,雪隠7カ所,土蔵,馬屋などがあった.(町重要文化財)」.

<旧本陣・高札場跡>

■脇本陣跡
 13時01分,脇本陣跡を通過する.
 脇本陣跡と書いた木杭が立っているだけである.

<脇本陣跡>

■釜鳴屋
 旧本陣の直ぐ近くにある釜鳴屋を,外から見学する.
 資料2によれば,「釜鳴屋は寛永年間から酒造業を許可されていた家柄で主屋の間口が9.5間と長久保宿の中では大型な建物である.江戸時代初期に建てられたとの伝承があり,軒が低く1階正面を下屋で張り出し,両脇には”本うだつ”を上げるなど同じ長久保宿の町屋とは一線を画す建物である.建物は切妻,平入,桟瓦葺,間取は片側住居2例に”通りにわ(土間)”が敷地奥まで通っている.竹内家住宅(釜鳴屋)は1978年(昭和53年)に長和町指定有形文化財に指定された」(「・・である」調に書換).

<釜鳴屋>

■長久保宿石碑
 13時04分,長久保宿石碑の前に立つ.大きな石碑である.いよいよ3日目の終点が間近である.

<長久保宿石碑>

<長久保バスターミナル>

■漸く長久保バスターミナルに到着
 13時06分,私たちは,やっと本日の終着点,長久保バスターミナルに到着する.広々としたターミナルである.ここにも人影は見当たらない.
 今日は終日中山道沿いに歩き続けたが,その間,全く人に会わなかった.人口過密な東京近郊に住んでいる私たちにとって,こんなに人に会わないとは,事前に全く予想できなかった.

<長久保宿バスターミナル> 

■疲れ切ってヘタヘタと
 長久保宿は,バスターミナル付近で鍵の手に左折してさらに続いている.しかし,左折後の宿場見学は次回のお楽しみである.今日の所は,バスターミナルで一休みすることになる.
 一同,狭い椅子にヘタヘタと座り込む.ちなみに私は立ったまま.
 本日,3日目の水平歩行距離は11.4キロメートルと大分少なめ.ただ,累積登攀高度366メートル,累積下降高度361メートルで,まあ,一寸した里山歩きと同程度.平素,山歩きをしている私には,平地を歩くのと大差ない.しかし,平素,山歩きをしていない人には,それなりの負担になっているだろう.
 私たちはこれから路線バスで上田に出る.もし,上田で時間あったら,ほんの少しだけ上田市内を見学してから,長野新幹線に乗って帰る予定である.
 上田は,私が旧制中学から新制高校までの6年間,青春時代を過ごした懐かしい所である.当時,私は小諸から上田まで汽車通学をしていた.第2次世界大戦が終わったのが旧制中学1年の時.だから,戦後の混乱期に上田と6年もお付き合いしていた.
 上田は実に懐かしい.上田に着いたら,時間が許す限り,上田城趾を中心に精一杯,皆さんを案内しようと思っている.

<長久保宿バスターミナル>

                               (つづく)

 [参考資料]

資料1:『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料2:インターネットで「長久保宿: 竹内家住宅(釜鳴屋)」を検索
資料3:今井金吾,1994,『新装版今昔中山道独案内』JTB日本交通公社出版事業局
資料4: http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%83%A3&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=12416210689200
資料5:http://www.town.tateshina.nagano.jp/nakasendo/history/temple.html
資料6:http://www.town.tateshina.nagano.jp/nakasendo/area/nagawa.html

[加除修正]
2013/7/27  地図の差し替えと追加,本文の加除修正を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/82cb15566c7f823fd576f462683cccc9
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2aa5d30269a4f67cbfdb73df139530d8
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
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