<念珠坂を登る>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回);(2)念珠坂から小仏宿へ
(五十三次洛遊会)
2013年6月9日(日) 晴 (つづき)
<ルート地図>
<念珠坂>
■舗装道路の照り返しが暑い
9時25分,小仏関址での休憩を終えて,再び歩き出す.
相変わらず登り坂が連続する.小仏川右岸沿いの谷間道はいよいよ狭くなり,山道の雰囲気が深まる.
9時32分,バス停新井の前を通過する.相変わらず2台ずつ連なって路線バスが行き来している.
9時36分,バス停蛇滝口を通過する.太陽の光が舗装道路で照り返すので,やたらに蒸し暑い.頭がクラクラしそうになる.こうなると熱射病が絶えず気になる.前方には高速道路が見えている.
地図で確かめると,この辺りは念珠坂と言うようである.
資料1によると,「昔々,この辺りに鬼がいて暗くなると人を襲っていた.あるとき,鬼が数珠を持った老婆を襲うと,数珠の糸が切れ,珠が辺りに飛び散り,鬼はこれに足を取られ,坂下まで滑って大穴に落ちてしまった.これ以来,鬼は現れなくなった」という伝説があるらしい.
<バス停蛇滝口付近>
■「ふじや」と道標
資料1によると,この辺りに「ふじや」があるらしい.どこが「ふじや」か良く分からないが,進行方向右手に何やら立派な石碑が立っている.
“ふじやがどこか分からないが,まあ,いいか.この石碑辺りにあったとしておこう”
と私は勝手に解釈する.勿論,こんな推測は当たっていないだろう.
資料1の説明によると,この辺りに旅籠「ふぢや新兵衛」があったという.小仏川に突き出した舞台造りの建物だったようである.
この辺りに道標があって「是より蛇滝まで八丁」と書いてあるようだが,見落としたのか,無いのか分からないまま通過する.
<立派な石碑>
■高尾道分岐
谷間がますます狭くなる.相変わらず蒸し暑い.
9時42分,高尾道分岐に到着する.分岐点に古い石柱の案内杭が立っている.案内杭には,何か文字が書いてあるようだが,風化していてなかなか判読できない.
<高尾道分岐> <案内杭>
■蜂尾豆腐店
9時47分,バス停摺指に到着する.バス停の真ん前に蜂尾豆腐店がある.
資料1によると,蜂尾豆腐店は寄せ豆腐やおからドーナッツが名物だとのことである.
<蜂尾豆腐店>
■常林寺で休憩
9時48分,常林寺に到着する.曹洞宗の寺である.山号は白雲山.
私たちは常林寺の境内を借用して,立ち休憩を取る.
資料3によれば,御本尊は釋迦牟尼佛.開基は?乘寺四世空山宗印大和尚.開山は初沢町高乗寺4世空山宗印大和尚で,現在職は24世,大正6年の火災により全てを焼失したので,その他は不明とのこと.
また,資料1によれば,この寺の開基は蜂峰氏.蜂峰氏は南北朝時代の南方の重鎮小山氏の末裔.点々とした後,甲斐の武田氏に元で再起を図るにもかかわらず,この地に土着したという.
資料1と資料3の説明が微妙に違うが,私が資料を取り違えているのか,あるいは同じことを言っているのか,ちがうのかは良く分からない.
<常林寺で休憩>
■常林寺の六地蔵
常林寺の境内に立派な六地蔵が祀られている.どうやら,この六地蔵は有名らしいが,由来は良く分からない.
休憩の合間に,参拝.
<常林寺の六地蔵>
■浅川国際マス釣場
休憩を終えて,9時50分,常林寺を出発する.
相変わらずの登り坂である.地図を見ると,途中に小山神社という神社があるようだが,見落としてしまう.
9時57分,バス停裏高尾を通過する.
10時00分,浅川国際マス釣場に到着する.道路から広々とした釣り場の池が見下ろせる.なかなかの眺望である.釣りを楽しむ人達の姿がちらほらと見えている.
浅川国際マス釣場を過ぎると,上り勾配が幾分きつくなり,道路は大きく右にカーブする.
<浅川国際マス釣場を見下ろす>
■バス停日影
9時57分,バス停日影を通過する.
やや急な登り坂が,クネクネと続く.辺りはむせかえるような緑で一杯である.
<バス停日影を通過>
■景信山分岐
10時05分,景信山分岐を通過する.「右小仏峠景信山」と刻字された石の道標が立っている.この道標は新しいもののようである.
<景信山分岐>
■南浅川の滝
相変わらず南浅川の右岸沿いを遡っている,川は次第に渓流の面影が濃くなり,さくさくと岩を噛む水の音が聞こえてくる.そして,小さな滝が幾つも連続するようになる.
渓流の音を聞いていると,だんだんと山の中に入り込んできた気分になる.
資料1によると,この近くに小仏庵という建物があるらしいが,残念ながら見落としたか,無くなっているかのどちらかのようである.
<南浅川の滝>
■中央本線のガードを潜る
10時09分,中央本線のガードを潜る.
これまで数え切れないほど中央本線の電車に乗車しているが,ここが煉瓦造りの素晴らしいガードだとは全く知らなかった.
このガードを潜ると,いよいよ小仏宿も間近である.
<JR中央線のガードを潜る>
<小仏宿>
■小仏宿の概要
資料4には,小仏宿は「日本橋から12番目の宿場となる.小仏関所より下った方にあった. 本陣と脇本陣もなく,集落の退廃は早かった. この宿場の先は最難所とも言われる小仏峠となり尾原宿へ続く.」という簡潔な説明がある.
また,資料5では,「新修五街道細見には,駒木野宿より小仏宿まで26丁とあり, 途中のあらい(荒井)にはふじや新兵衛の旅籠があり,その先のすりさし(摺差)を過ぎると小下沢ばしが架かって, 小仏宿には鈴木藤右衛門の旅籠があったことが記されている. 小仏宿は,小仏峠越えに備えた予備的な宿という意味合いが濃いように思われるが, 宿場業務は駒木野宿と分担して行っていて,小仏宿は月1日から15日を担当した. 駒木野宿より人口の少ない宿場で本陣はなく,問屋が1軒と旅籠が11軒あった.小仏宿から小原宿の間には小仏峠があるが, 江戸時代には多くの富士講の人がこの峠を越えたので,富士峠ともいわれたようである.」と説明している.
また,資料2(p.285)によれば,宿内人口は252人.内,男116人,女136人.宿内惣家数58軒,旅籠11軒の規模であったようである.
■バス停木下
10時12分,バス停木下を通過する.
相変わらず周囲は鄙びた雰囲気である.沿線と所々に民家が点在している.鄙びていると言っても,ここは紛れもなく武蔵国.つまり東京都内である.
<バス停木下を通過>
■雨宿り美術館
前方に小高い尾根が続いているのが見えている.多分,あの尾根のどこかが小仏峠であろう.峠を見上げながら,
“まだ,まだ,先は長いな…”
と思いながら歩き続ける.
私たちのグループの中で,少々足が弱い方が居られるので,その方の疲れ具合をそれとなく眺めながら,ユックリ歩くように,余計なお節介かも知れないが.何回も,何回も注意し続ける.
10時16分,進行方向右手に,「雨やどり美術館」という看板を見掛ける.少々気になるが,今日は天気が良いので,雨宿りをする必要はない.従って,ここには立ち寄らずに通過する.
<雨やどり美術館>
■明治天皇御小休止場所
小仏宿の中心部に差し掛かる.
資料1には,屋敷神,三度屋跡などの所在が記されているが,残念ながらどこにあるのか分からない.それらしい場所に,わずかに「明治天皇御■■…」と刻字された石塔が残っているのを見付けただけである.■■…は草に埋もれていて,全く読めない
資料2(p.286)の説明では,甲州三度飛脚の定宿,三度屋は現在のA木氏宅(実名は伏せる)にあったが新築に家に変わっているという,また,同資料によると「明治天皇御■■」は「明治天皇御休憩所」.明治天皇は,八王子を朝お発ちになり,ここで「板輿にのりかえられたのだろう」と同書の筆者は推察している.
資料1に記載されている名主宅跡も残念ながらどこか分からない.資料1の記事によると,青木家が三度屋の旅籠屋「鈴木藤右衛門」と名主を兼ねていたようである.
<明治天皇御小休止場所>
■小仏バスターミナル
道路の上り勾配がさらに幾分急になる.
10時21分,小仏バスターミナルに到着する.広い駐車場に何台かのバスが停車している.高尾からの路線バスは,ここが終点のようである.バスが到着する度に,登山客がどっと下車している.
ここからがいよいよ小仏峠越えである.
峠越えに供えて,ここで10分ほど休憩を取る.
<小仏バスターミナル>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://hachibutu.com/jyourinji.html
資料4;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BB%8F%E5%AE%BF
資料5;http://outdoor.geocities.jp/mrmaxtokai/kosyu08.html
(つづく)
「甲州道中」の前の記事
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歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回);(2)念珠坂から小仏宿へ
歩いて巡る甲州道中四十五宿;索引(未完)
歩いて巡る甲州道中四十五宿;索引(未完)
(五十三次洛遊会)
2013年3月3日(日)〜未定
**第4回終了時点**
<宿場別索引>
※(1)各宿場の記事が掲載されている回数を確かめる.
(2)対応する回数を下記の回数別索引から選んで,該当するURLをクリックする.
(3)同じ日の記録が数回分けて掲載されているので,目的の記事が出るまで,そ
れぞれの記事の末尾にある「甲州道中道四十五宿」のURLをクリックし続ける.
(4)回数の後ろの数字(n)は,第n日を示す.ただし第1回目から第5回目までは日帰り
なので第n日目の表示はない.
[例]:第8回(1)は,第8回目の第1日目を示す.
■東京都
日本橋 第1回
(1)内藤新宿 〃
(2)下高井戸 〃
(3)上高井戸 〃
布田五宿 第2回
(4)国領宿 〃
(5)下布田宿 〃
(6)上布田宿 〃
(7)下石原宿 〃
(8)上石原宿 〃
(9)府中宿 〃
(10)日野宿 第3回
(11)八王子宿 〃
(12)齣木野宿 第4回
(13)小仏宿 〃
(14)小原宿 〃
(15)与瀬宿 第5回
(16)吉野宿 第6回
(17)関野宿 〃
(18)上野原宿 〃
(19)鶴川宿 〃
(20)野田尻宿 〃
(21)
(22)
(23)
(24)
(25)
(26)
(27)
(28)
(29)
(30)
(31)
(32)
(33)
(34)
(35)
(36)
(37)
(38)
(39)
(40)
(41)
(42)
(43)
(44)
(45)
<回数別索引>
第 1回(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cd35c71b15eb85a2697109fd92bdf5c1
(2)
(3)
(4)
第 2回(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/972cf10c643a5963e180a85d4b73d3ed
(2)
(3)
第 3回(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f52f19b5670625e080dfc9e602b4af87
(2)
(3)
(4)
第 4回(1)http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9b9dffe233f896c6f858c92a6d1540e7
(2)
(3)
(4)
第 5回;
第 6回;
第1日目;
第2日目;
第3日目;
第7回;
第1日目;
第2日目;
第3日目;
第 8回:
第1日目;
第2日目;
第3日目;
<主要項目別索引>
検索項目に該当する第n回(第m日目)を回数別索引をクリックする.
(例) 「」は第回().したがって,回数別索引の第回第日目をクリックする.
あ行
青柳稲荷神社 第3回
青柳地蔵尊 第3回
青柳常夜灯 第3回
浅川神社 第4回
井伊別屋敷跡 第1回(3)
牛窪地蔵 第1回(4)
塩硝蔵地跡 第1回(4)
永福稲荷社 第3回
遠藤由晴 第3回
圓福寺 第2回
大国魂神社 第2回
か行
上高井戸宿 第2回
上石原宿 第2回
金山道祖神 第2回
金子のイチョウ 第2回(1)
観音坂 第1回(2)
覚蔵寺 第1回(4)
熊野神社古墳 第2回
高安寺 第2回
金剛夜叉明王 第2回
小島一里塚 第2回
小仏宿 第4回
小仏峠 第4回
齣木野宿 第4回
さ行
西光寺 第2回
笹塚 第1回(4)
西念寺 第1回(2)
桜田門 第1回(1)
散田一里塚跡 第3回
上人塚 第3回
正受院 第1回(3)
塩地蔵 第1回(2)
常演寺 第2回
浄泉寺 第2回
常林寺 第4回
瀧坂旧道 第2回
昌翁寺 第2回
宗源寺 第1回(4)
仙川一里塚 第2回
千人同心碑 第3回
正受院 第1回(3)
正春寺 第1回(3)
成覚寺 第1回(3)
水道碑 第1回(2)
真教寺 第1回(4)
新宿御苑 第1回(2)
新宿追分 第1回(2)
心宝寺 第1回(2)
た行
太宗寺 第1回(3)
高倉稲荷社 第3回
立日橋 第3回
玉川上水 第1回(4)
高林吉利墓 第2回
長安寺 第3回
長泉寺 第2回
長福寺 〃
常久一里塚 〃
常久八幡神社 〃
照手姫 第4回(4)
天龍寺 第1回(3)
飛田給薬師 第2回
東海自然遊歩道 第4回(4)
富吉本陣跡 第1回(4)
な行
内藤新宿 第1回(2)
日本橋 第1回(1)
廿里原古戦場 第4回
は行
花園神社 第1回(3)
八光山権五郎 第3回
八王子宿 〃
半蔵門 第1回(1)
服部半蔵墓 第1回(2)
日比谷見付跡 第1回(1)
日野宿 第3回
美女谷 第4回(4)
日野渡し跡 〃
府中宿 第2回
評定所跡 第1回(1)
平河天満宮 第1回(2)
法善寺 第4回
宝泉寺 第3回
ま行
水垢離場 第4回
妙円地蔵 第2回
武蔵七棟 〃
武蔵御陵墓地 第3回
や行
谷保天満宮 第3回
八日市宿跡 〃
四谷大木戸跡 第1回(2)
四谷見付 第1回(2)
ら・わ行
了法寺 第3回
瑠璃光薬師 第2回
蓮慶寺 第2回
和田蔵門 第1回(1)
甲州道中ご同行の皆さん
この索引は,毎回少しずつ索引項目を追加していきます.
最終回まで,安全第一で参りましょう.
梅雨の鎌倉;久々にお湿りの鎌倉中央公園
<鎌倉中央公園にて>
梅雨の鎌倉;久々にお湿りの鎌倉中央公園
(単独散策)
2013年6月11日(火) 雨
梅雨に入ってから,今日まで殆ど雨が降らなかったが,今日は久々のお湿りである.
雨はとても有り難いが,台風3号の本州接近で,今週の天気予報は大幅に変わってしまった.そのため,予定していた信州小諸への里帰りは残念ながら中止である.
でも,雨ならば“これ幸い”と午前中にデスクワークに専念する.
午後から,いくら雨でも少しは身体を動かさなければ…ということで,鎌倉中央公園のアジサイの様子を見ながら,大船駅までブラブラ歩きを楽しむ.少々寄り道をして約7500歩ぐらいのプチ散策である.
鎌倉中央公園には,結構綺麗な花が咲いている.ボラティアの皆さんが努力されているのだろう.私は花オンチ.だから例によって花の名前は書かないが,写真だけは披露しよう.
ム,ム,ム・・・・・・
本当は,本当は被写界深度をもっと浅くして,花だけにピントを合わせたいのだが,なにせお値段の安いコンパクトカメラに,下手くそな腕前の組み合わせでは,ロクな写真しか撮れないのが残念である.
今日は雨だというのに,結構,何人かの方々が散策を楽しんで居られる.幼児を連れたお母さん方の姿が目立つ.
アジサイも雨に濡れて生き返ったように元気がよい.でも,見頃はもう少し先のようである.
ハンゲショウは,少し白くなり始めた.
雨の散策路
瑞々しくて気持ちがよい.蓮の葉に水滴が貯まっている.
<この写真の中に,一体何種類の草花が繁茂しているんだろう>
■締めくくりはこれだ
鎌倉中央公園の山崎口から公園の外に出る.
霧雨が降っている.傘をさそうか,さすまいか・・・迷う.春雨だ濡れていこう・・・
間もなく,大船駅前に到着する.序でに文房具屋に立ち寄って小さなノートやインクを購入してから.大船駅構内にあるBecker'sに立ち寄る.
いつも同じものばかり注文するが,オニポテとブレンド.
Becker'sに通い続けている内に,ここのコーヒーの味に慣れてしまった.だから,コーヒーの味に違和感なしに楽しむ.
“私は一体何をしているんだろう”
(おわり)
「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/66ca583c718f0c37355e260bc4712012
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回);(3)小仏峠
<小仏峠山頂>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回);(3)小仏峠
(五十三次洛遊会)
2013年6月9日(日) 晴 (つづき)
<ルート地図>
※前掲図と同じ
<小仏バスターミナルから水垢離場まで>
■小仏バスターミナルを出発
JR高尾駅を8時56分に歩き出した私たちは,10時21分に小仏バスターミナルに到着する.ここは路線バスの終点,ここから先に行くバスはない.
まだ梅雨に入ったばかりだというのに,毎日晴天が続いていて,今日も決行蒸し暑い.私たちは建物の日影に入り込んで,暫くの間,休憩を取る.
5分ほどの休憩を終えて,10時29分,小仏バスターミナルから小仏峠を目指して歩き出す.
<小仏バスターミナルで休憩>
■浅川神社
小仏バスターミナルから先も,暫くの間.道幅は狭いが舗装道路が続く.
10時32分,浅川神社参道の前を通過する.辺りは深い森林である.参道は草道である.少し離れたところに鳥居が立っているのが見えているが,今回は参拝は省略する.
資料3によれば,「祭神大穴牟遅命(おおなむちのみこと),木之花開耶(このはなさくやひめのみこと).例祭日8月17日,天明4年(1784年)6月に小仏峠山上に奉斎した浅間社と麓に鎮座した子之社を明治45年(1912年)3月に合祀し,浅川神社と改称した.昭和43年(1968年)中央高速自動車道建設のため現在地に奉遷.境内地を湧水が流れ浅川の地名の起源とされているところから,浅川神社と名称を付した.水の神として崇敬されている.」という.
なお,浅川神社の社殿の写真や解説などは資料3を参照.
<浅川神社>
■宝珠寺
10時35分,浅川神社の直ぐ近くにある宝珠寺に到着する.
資料4には,「宝珠寺は,小仏峠の山裾にあり,15世紀の開基と伝わる臨済宗南禅寺派の寺で,断食道場としても知られている.本堂へ登る石段左手の斜面地には,都天然記念物のカゴノキの巨木が生え,ダイナミックに枝葉を広げていた.本堂はこぢんまりとした山寺らしい質素な風情だが,寺の脇を流れる小仏川(南浅川)上流の美しい小川のせせらぎが爽やかにこだまし,自然豊かで心安らぐ寺である.」と紹介されている.
また,資料1によれば,この寺は「行基が創建,小さな仏を安置したことから小仏の地名になった」という.また,「三度飛脚が文久2年(1862年)に寄進した常夜塔が立っている」という.
旅籠「三度屋」青木家(前回のブログ記事参照)の菩提寺でもある.
<宝珠寺>
■宝珠寺のカゴノキ
宝珠寺には東京都天然記念物カゴノキがあるというので見物する.このカゴノキは,通りから本堂まで登る石段の中腹,向かって左側に生えている.見上げるような大木である.
木の傍らに立つ案内板の記事によると,主幹は枯れたが,その周囲を枝幹が取り巻いて1束になっているようである.幹周りは4.3メートル,高さは13.0メートルである.根元から1.3メートル辺りから多くの枝が分岐している.
同説明文によると,カゴノキはクスヌキ科に属する常緑樹だという.
資料5によると,カゴノキは「鹿子の木」と書く.樹皮が鹿子模様に見えることからカゴノキと呼ばれる,本州(千葉以西),中国,四国,九州,沖縄,台湾,朝鮮半島南部に分布している.器具,楽器,床柱,薪炭の原料として使われるという.
<天然記念物のカゴノキ>
■宝珠寺の本堂
同行の皆さんが休憩を取っている間に,私は石段を駆け上って,本堂の写真を撮る.こぢんまりした建物だが,沢山の樹木に囲まれた静寂な感じが漂っている.
本堂とその周辺の写真を大急ぎで数枚撮って,すぐに石段を下りて,グループに合流する.
<宝珠寺の本堂>
■宝珠寺で休憩
宝珠寺の第一印象は深い森に囲まれた静寂の寺である.
私たちは緑陰の中で,暫時,立ち休憩を取る.
<宝珠寺で休憩>
■無人スタンドで品定め
10時37分,宝珠寺を出発する.深い木立の中の道を歩き続ける.
10時41分,民家の軒先にある無人スタンドで足を止める.台の上に梅干しや漬物などが並べてある.どれも1パック200円程度.私には高いのか安いのか良く分からない.どなたかが小梅漬けを1パック購入する.
すぐに,小梅1粒ずつ馳走になる.
蒸し暑い中を歩き続けてきた身体に,梅漬けの塩気が実に美味しい.
<無人スタンド>
■旧道(?)を這い上がる
やや急勾配の道を登り続ける.10時43分,道は高い崖に突き当たる,この崖を避けるように道は大きく右カーブし,さらにその先でヘヤピンで左カーブして,崖上10メートルほどの所を通過している.
資料1の地図を見ると,昔の中山道はこのヘヤピンカーブの所を直登しているようである.
「どこかに,昔の道の登り口はないかな…」
と思いながら,草むした崖を注意深く見上げる.すると,何となく踏み跡らしいものが見える.
すぐに,登り口らしいところが見つかる.
「よし! ここを登りましょう…」
夏草に覆われた急坂を這い上がる.途中に虎ロープが張ってあるが,大分古そうなので,
「ロープに頼らないで登って下さい…」
と一同に注意する.
登りきった所のガードレールには,ちゃんと扉が付いている.扉を開けて,
「ウンコラショ!」
と這い上がる.後から登ってくる人には,手を差し伸べて引っ張り上げる.
<旧道らしい所を這い上がる>
■水垢離場
10時52分,水垢離場に到着する.舗装道路はここで終わりになる.駐車場には沢山の自家用車が停車している.ここから先の山道も大分賑わっていそうである.
それにしても水垢離場とは! 多分,“ミズコリ”か“ミソギ”って読むんだろうなと想像する.
「いよいよここからが山道ですね.心を引き締めて参りましょう…」
ここは景信山登山口でもある.
余談だが…
資料6には“ミズコリ”について,次のような説明がある.
「垢離(こり)とは,神仏に祈願する時に,冷水を浴びる行為のこと.水垢離(みずごり),水行(すいぎょう)とも言う.垢離は漢語には見当たらず,純粋な和語と考えられている.
神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に,冷水を被り,自身が犯した大小さまざまな罪や穢れを洗い落とし,心身を清浄にすることである.神道でいう禊と同じであるが,仏教では主に修験道を中心に,禊ではなく水垢離などと呼ばれ行われることが多い.
特に修験道は,神仏習合の山岳信仰による影響から,この水垢離を行うことが多い.これらの垢離の行を「垢離を取る」,「垢離を掻く」などという.」
“なるほど…!”
<水垢離場に到着>
<いよいよ小仏峠>
■頑張ってはダメ! ユックリ登ろう!
11時37分,水垢離場を出発する.いよいよ車が通らない砂利道である.
足の弱い人には,絶えず
「頑張ってはダメ,頑張らないでユックリ登って…」
と言い続ける.
「ツアー会社の山行ではありません…事故が起きたとき,ツアー会社なら事務所に電話をして支援を求めることができるけど,私たちにはバックオフィスはありません.万一事故を起こしたら,その場に事故を起こした人を置いていくしか方法がありません.とにかく熱中症が怖いです.」
と何回も,お節介なことは承知の上で,
「頑張らないで…ユックリ登って…」
を繰り替えず.
私は別にリーダーでもないけれど…
でも,本当に,心底から仲間の事故が怖いのだ(一度,仲間の事故を経験しているので…).
“みんな,事故が怖いことを本当に分かっているんかしら…”
と心底から心配になる.
「額から汗が流れたり,ハアハア呼吸になるのは,完全にオーバーペースですよ! もっとユックリ!」
を繰り返す.それでも,山登りに馴れていない方々の歩行速度はどうしても速くなる.
“そんなに急いだら,すぐに疲れてしまうよ…”
この辺りの心配が,塔ノ岳ご常連と山に登るときと,決定的に違うところである.
<水垢離場から山道に入る>
■標高369メートルの標識
10時59分,「標高369.5m」と書いてある標識を通過する.
小仏峠の標高が560メートルなので,後,標高差で200メートル足らずである.どんなに遅いとしても,標高差200メートルを登るのに40分もあれば十分だろうと,私は胸算用をする.
「小仏峠で,少し早い昼食になりそうですね」
<標高369メートルの標識>
■水場
やがて,沢の右岸沿いのトラバース道になる.11時05分,進行方向右手の崖にある水場に到着する.地下水が直接湧き出ているようなので,この水は飲めそうである.
私は水に触らなかったが,どうやら冷たい水のようである.
<水場>
■小仏峠直前で休憩
11時23分,先頭を行くリーダーが,休憩を取ろうという.後,ほんの少しで小仏峠に到着するのに…と思ったが,休憩を取るには勿論異論はない.
道路に立ち止まって,11時25分まで,ほんの2分ばかり,立ち休憩を取る.
もう目の前に,峠の尾根が見えている.
<小仏峠直前で立ち休憩>
<小仏峠で昼食>
■小仏峠に到着
立ち休憩を終えて歩き出す.たった3分歩いただけで,11時28分に小仏峠に到着する.
峠は緑陰の心地よい広場になっている.高尾山や景信山から来たと思われるハイカーで賑わっている.ここでも山ガールが目立つ.
「少し早いですけど,ここで昼食にしましょう…」
ということになる.
<小仏峠に到着>
■木陰で昼食
小仏峠山頂のベンチに座って昼食を取ることにする.なぜか何時ものように,何となく女性群と男性群が分かれて座る.
まあ…,いいか.
私達が食事をしている間にも,沢山のハイカーが行き交っている.
前回,某旅行社主催の甲州道中の旅に参加したときは,雨の中,小仏峠を越えた.あのときは小屋の片隅で,寒さに震えながら昼食を取った.あのときの惨めさを,ありありと思い出す. あのときに較べれば,今日は少し蒸し暑いものの天気はまずまず.それにまだ厄介な蚊やアブも出ていない.今回は最高!
<小仏峠で昼食;男性群> <同女性群>
■小仏峠で記念写真
昼食後,
“折角だから,記念の集合写真を撮ろう!”
ということになる.
数人のカメラで交替に写真を撮る.
「写真,ブログに載せますよ…」
と全員の了承を得たのが下の写真である.
残念なことにシャッターを押してくれた某さんだけが写っていない.
ここに写っている皆さんは,数年前に実施した「歩いて巡る東海道五十三次」で,同じ釜の飯を食べた仲間である.さらに,ここに写っている大半の方々とは中山道中もご一緒している.その意味では,私にとって,とても貴重で大切なお仲間さんである.
私は,胸の内で,甲州道中の旅が終えたら,また,この方々と,どこかの街道の旅を続けたいなと思っている.
「そろそろ,出発しましょう」
ということで,12時丁度に小仏峠を出発,小原宿に向けて下山を開始する.
<小仏峠で集合写真>
(参考記事)小仏峠の概要
***次の文章は資料7より引用したものである***
1569年(永禄12年)に武田信玄が関東地方へ遠征した際,別動隊の小山田信茂は大月から八王子に向かった.これを迎え撃つ瀧山城の北条氏照は,当時一般的な経路だった奥多摩方面からの侵入を予想して戸倉城などに兵を派遣している.しかし小山田隊は小仏峠を越えてきたため,不意をつかれた北条軍は滝山城に籠城することになった.その後,小仏峠は甲斐国と武蔵国を結ぶ要路となり,滝山城の機能は新設の八王子城に転換し八王子の地名の由来となった.廃城の後は関所が置かれた.特に富士参詣の行者がここを越えることから、富士関とも呼ばれていた.
江戸時代には甲州街道のルートに指定されて交通の要所となり,小仏関が置かれた.しかし勾配が急で車道化が困難であったため,1888年(明治21年)に当時の国道16号(現在の国道20号号)は大垂水峠峠を経由するルートへ変更された.これによって小仏峠を通る通行者は激減した.一方,地形的にほぼ東西に直線的に貫いていることから,直線的なルートが望まれる中央自動車道とJR中央本線は,小仏峠の北側の山を小仏トンネルによって貫いて造られた.
現在は周辺の山々を巡るハイキングコースの要衝となっており,訪れる観光客は多く,通行止区間の近くまでバスも運行されている.峠にはかつて茶店があったが,営業休止中で廃屋と化している.1880年(明治13年)に明治天皇の山梨巡幸の際に作られた「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」の碑などがある.
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://hachiouji.ldblog.jp/archives/2689829.html
資料4;http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=14&id=545&mode=details
資料5;http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-kagonoki.htm
資料6;http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%B0%B4%E5%9E%A2%E9%9B%A2
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BB%8F%E5%B3%A0
(つづく)
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「甲州道中」の索引
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※お願い
この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方は,どうぞ当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回):(4)小仏峠から美女谷へ下る
<小仏峠を下る>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回):(4)小仏峠から美女谷へ下る
(五十三次洛遊会)
2013年6月9日(日) 晴 (つづき)
<ルート地図>
※再掲
<小仏峠を下る>
■杉林の中の下り坂
昼食を終えて,12時00分,小仏峠を出発する.
資料1によると,小仏峠には江戸日本橋から14里目の一里塚があったようである.
登山道というよりは,公園の散策路のような歩き易い土道が続く,杉林の中の緩やかで長い下り坂である.
杉林の中の下草がかなり繁茂しているが,下草の新緑が美しい.
<杉林の下り坂>
■一体,どこを歩いているの?
今回私たちが歩いてきた道を振り返ると,小仏峠までは武蔵国,今の東京都八王子市.そして,小仏峠を越えると相模国である.
私たちは,確かに相模国を歩いているが,今の行政区分では,一体どこの市町村になるのだろうか? その辺りがどうも良く分からない.私が,
「今私たちが歩いているのは,神奈川県のどこの町ですか?」
と周囲の人に伺ってみる.
すると皆さん立ち止まって地図を眺める.
どうやら,ここは相模原市緑区のようである.それにしても,なんと,まあ,相模原市の広いこと.改めてビックリする.
「そういえば,道志村も相模原市?」
「いえ…道志村は山梨県ですよ」
「なるほど!」
<一体,どこを歩いているの?>
■中峠茶屋跡
長い下り坂が連続する.
12時23分,大きな木の洞(うろ)に差し込んである案内杭を見付ける.案内杭には「右小原宿 左小仏峠」と書いてある.
この案内杭だが,もともとこの洞に設置されたものか,誰かが悪戯をして,杭を洞に差し込んだのか分からないが,何れにしても目を引く.
案内杭に大きな字で「中」と書いてあるのが分かる.地図を確かめながら,洞に隠れている文字を推察すると,ここが,多分,「中峠茶屋跡」であろう.
<へんてこりんな案内杭>
■東海自然遊歩道
12時24分,東海自然遊歩道の案内杭の前を通過する.立派な杭である.「底沢バス停2.3km 小仏峠1.2km」と書いてある.
小仏峠から,随分と下ったつもりだが,まだ1.2キロメートルしか下っていない.まだまだ前途は長い.
<東海自然遊歩道の案内杭>
■舗装道路に出る
12時30分頃,下り坂がやや急になり,ジグザグ道になる.仲間のお一人が,“疲れて膝が痛くなりはじめた”という.“さもありなん…”
私は先頭を行くリーダーに,もっとユックリ歩くように進言する.そして,周りの方に,
「自分の後ろの方の様子を見ながら歩いて下さい」
とお願いする.正直なところ,これからが,疲労による転倒事故が興りやすいので怖い.
12時41分,山道が漸く終わって,舗装道路に出る.ここで2分ほど立ち休憩を取る.
下り坂の途中で,私たちを追い越した若い人のグループも,ここで休憩を取っている.
<舗装道路に出る>
<美女谷を下って小原宿へ>
■旧道に拘る
地図を確かめながら,舗装道路を右に曲がる.
私たちのグループの何人かが,若手グループに道を尋ねている.若手グループは別に甲州道中を歩いているわけではないので,旧道には拘っていないだろう.
地図を見ているとはいえ,本当に左折して良いのか自信が持てないので,先に行って正しいかどうか確かめる.
路肩を注意深く見ながら,数十メートル先へ行くと,確かに地図通りに細い下り坂がある.
「お〜〜ぃ…! こっちだよぉ〜っ…!」
と同行者を呼ぶ.
古道は踏み跡程度,道とは言えないほど藪の中で,急傾斜の下り坂,しかも夏草に覆われているので,足許が良く見えない.
“えぇ〜ぃ…構わず降りちゃおう”
先頭の私は覚悟を決める.
でも,暫く下ると,立派なハシゴになる.
“やっぱりこの道で良かったな”
今の道は,旧道のこの急な下り坂を避けるように,S字型に大きくカーブしている.
私たちが旧道を降りて,再び舗装道路を下っていると,大きくカーブした道を辿って降りてきた若手グループにまた追い越される.
<旧道を下る>
■美女谷を下る
高速道路2本の高架を潜ってから,12時53分,道路は墓場を廻り込むように鋭角に左カーブして,美女谷の左岸から右岸に渡る.曲がり角に,「照手姫の手鏡七ッ淵まで550メートル」と書いた案内板と,「照手姫ものがたり」という案内板が立っている.
地図で確かめると,この三叉路を北に数百メートルのぼると美女谷温泉があるはずである.ただ,現在は日帰り客は利用できないようである.
美女谷温泉から,さらに数百メートル遡ると,桂林寺という寺があるようだ.
照手姫の話は,中山道を歩いているときにも,どこかで見聞きしたことを覚えているが,どこだったかハッキリ思い出せない.気になるので帰宅後調べることにする.
<照手姫の手鏡案内板>
■美女谷の由来
案内板「照手姫ものがたり」によると,照手姫は小仏峠の麓,美女谷の生まれだという.「ものがたり」は下の写真の通りである.
資料2(p.288)によると,吉原の紺屋高尾もここの生まれだという.つまり,美女が多いところだから美女谷と言われたようである.
<照手姫ものがたり>
【余談だが・・】
帰宅後,中山道中五十九次を歩いたときの記録を辿ると,2012年6月24日(日),美濃赤坂付近で,照手姫の井戸を見学している.そこには,次のような記録が残っている.
■照手姫の水汲み井戸
…辺りを見回すと広々とした田んぼが一面に広がっている.その中に集落が点在している.
地図を見ると,中山道から,進行方向左手(南側)に少し離れたところに照手姫井戸があるようだ.折角だから,見学しようといういうことになる.
地図を頼りに,多分この辺りだろうと思われる角で左折して集落の中に入る.ところが集落には地図にない細かい道があって,たちまちのうちに自分たちの位置が分からなくなる.
何度か迷うが,13時28分,照手姫井戸に到着する.井戸の脇に案内板が設置されている.この案内板の説明は少々長いので,要約すると次のようなことが書かれている.
「照手姫は相模郡代の娘で美貌だった.そこへ常陸国司小栗判官正清が強引に婿入りした.悲嘆した照手姫は流浪の旅に出たが最後に青墓の長者に買われ,接客を強要されるが拒む.そこで長者は無理難題を次々に言い付けるが,千手観音菩薩の助けで成し遂げる.一方,小栗判官正清は美濃国役人に任命される.その後,照手姫は正清の妻になり幸せに暮らしたという.この井戸は照手姫が籠で水を汲んだと伝えられる・・」
そういえば,昔,どこかで聞いたような話である.
<照手姫の水汲み井戸(美濃赤坂付近)>
※詳しくは.下記のブログ参照.
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0ac597cb44d93355c7229618496b2629
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■再び高速道路を潜る
再び高速道路の高架下を潜る.高速道路が,えらく高い所を通っているのに驚く.それにこんなに深い谷間沿いにも民家が点在しているのにも驚く.この辺りに住まわれている方々は,一体何を生業にしているのだろうか?
私たちの前方には,さきほど私たちを追い越していった若手グループの後ろ姿が見えている.
<高い所を通る高速道路>
■馬頭観音(?)
資料1の地図を見ると,2本の高速道路の間に馬頭観音があるようだ.リーダーと2人で注意深く見ながら歩くが,それらしいものは全く見当たらない.
12時58分,高速道路2本目を潜ったところで,大きな石の上に小さな石塔があるのを見付ける.これが馬頭観音なのだろうか? 良く分からない.
<馬頭観音?>
■板橋
12時28分,「板橋」と書いてある案内杭の前を通過する.
資料2(p.288)にも「板ばし」の記述があるが,ここにどんな謂われがあるのか全く分からない.多分ここに「板ばし」という橋が架かっていたのだろう.
<板橋の案内杭>
■中央本線のガードを潜る
13時02分,中央本線長久保のガードを潜る.いよいよ小原宿も間近だ.
<中央本線のガードを潜る>
■底沢橋を渡る
13時06分,底沢橋を渡る.直ぐ近くにバス停底沢がある.
橋の袂に「山峡のいで湯美女谷温泉」という看板が立っている.たまたま,私たちの仲間のお二人が看板の前にいる.なかなか趣のある写真が撮れた.
なお美女谷温泉は,現在,営業しているんだろうか?
インターネットで美女谷を検索すると,日帰り可能という記事も沢山ある.一方では,「…事前にネットで調べて,美女谷温泉の営業時間が11〜15時,料金700円とのことなので,2時前に着いたら大丈夫.しかし,びしょ濡れで到着すると玄関に何やら貼り紙.当館は日帰り入浴はやってません.ウソだろう!あのネットはなんだよ.」という記事もある(資料3).とにかく,美女温泉を利用する場合は,事前チェックが必要なようである.
<底沢橋を渡る>
■小原宿に入る
底沢橋を渡って間もなく,13時20分に「日本橋から63km」という標識を通過する.
どうやら,私たちは小原宿に到着したようである.
<日本橋から63km>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-187415.html
(つづく)
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(編集中)
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単行本『山男と仙人猫』が発刊される
<尊仏山荘のネコが本になった>
単行本『山男と仙人猫』が発刊される
2013年6月13日(木) 雨
いよいよ本格的な梅雨になった.
雨の日は,塔ノ岳には出掛けない私は,このところ運動不足である.雨は降ってくれないと困るが,やっぱり雨の日は憂鬱である.
そんな憂鬱な日が2〜3日続いているが,今日は嬉しいことがあった.
図らずも表記の本が1冊,私の所に献本で送られてきた.実に嬉しい本である.そこで,何はさておいても,この本をブログの記事にしなければ…と,思った次第である.
***************************
まずは書誌事項を紹介しておこう,
題名;『山男と仙人猫』(ISBN978-4-904248-14-0)(174ページ)
著者:保田明恵 監修;大野 久
発行;有限会社源
発行日;2013年5月30日
定価;本体1143円+税
本の中味をちょっと紹介しよう.
■まずはグラビア
巻頭の塔ノ岳の地図,周辺の山の写真,それにネコのミャ〜君を主題にした写真が沢山掲載されている.
下の写真は,私のカメラで撮したものだが,照明の光が反射してしまい,良く撮れなかった.でも,まあ,本の雰囲気は理解して貰えると思う.
■親しみやすい本文
私はこの本を手にしてから,ほんの1〜2時間で一気に読んでしまった.実に軽妙な文章なので,読みやすいし,面白い.
この本の内容は,次の9章で構成されている.おおむね猫との出会いから,お別れするまでのことが,時の経緯とともに画かれている.読んでいておもわずホロリとさせられる.
第1章 標高1500メートルの山頂に子猫現る
第2章 山小屋のアイドルになる
第3章 動物と友達になりたかった
第4章 山に動物病院はない! さあ困った
第5章 みゃ−,神隠しに遭う
第6章 ついにテレビ局に取材される
第7章 真昼の決闘
第8章 思い出をいっぱい,ありがとう
第9章 猫の恩返し
■豊富な写真
巻頭と各章末に沢山の写真が掲載されている.巻頭の写真はカラーのグラビア,巻末の写真は白黒である.
私が提供した猫の写真も随所に収録されている.
今日の所は,まだ書店を覗いていないので,この本が店頭に置かれているかどうか確かめていないが,塔ノ岳ご常連の皆様には,是非,四で貰いたいなと思っている.
何だか,ミャ〜君もえらく有名になってしまって…
だんだんと近寄りがたい存在になってしまいそう.
(おわり)
「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5312a5139b7447c3551f0f0b5f8dd7cf
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回):(5)小原宿から相模湖駅へ
<小原の里で一休み>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回):(5)小原宿から相模湖駅へ
(五十三次洛遊会)
2013年6月9日(日) 晴 (つづき)
<ルート地図>
※再掲(ただし小原宿周辺は詳細に記載)
<小原宿に到着>
■小原宿の概要
資料3には,小原宿は「東西に2町半(約270m)と小さかったが,難所である小仏峠の甲府側に位置するため,重要な宿場であった.西隣に位置する与瀬宿と対応して片継ぎの宿場となっており,江戸・小仏方面から来た人や荷物は当宿から与瀬宿を通り越して2つ先の吉野宿へと継ぎ立てるが,信州・甲府方面から来た人や荷物は与瀬宿から当宿を通り越して小仏宿へと継ぎ立てられた.つまり江戸方面から甲府方面に向かう場合のみこの宿場を利用できる.旅籠は7軒あり,一般の旅人だけではなく身延山や富士山への参拝客も泊まっていたという.前後の宿場は,小仏宿=(小仏峠)=小原宿=与瀬宿となっている.」という説明がある.
資料2(p.288)によれば,小原宿の宿内人口数は275人.内,男151人,女124人.宿内惣家数61軒,内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠7軒だったという.
■「小原の郷」に到着
13時13分,郷土資料館「小原の郷」に到着する.
広い庭がある立派な建物である.
蒸し暑いので喉が渇く.私は,建物の横にある自動販売機で飲料水を購入して,外のベンチに座って飲む.涼しい微風が吹き抜けて,気持ちがよい.
“もう,ここまで来れば,今日の終点相模湖駅も間近だ…!”
<小原の里>
■「小原の郷」で資料を頂戴する
飲料水を飲み終えてから,建物の中に入る.
大半の仲間が建物の中の椅子にへたり込むように座っている.多くの方は大分お疲れのようである(冒頭の写真).
資料棚にある観光資料を何枚か頂戴する.
<頂戴した観光資料>
■高札場跡
休憩を終えて,13時25分,小原の郷から歩き出す.広い駐車場を抜けると,人通りが殆どない住宅地になる.立派な石垣沿いの歩道を歩く.
13時28分,高札場跡を通過する.
<立派な石垣> <高札場跡>
<小原宿本陣>
■小原宿本陣に到着
高札場のすぐ隣が小原宿本陣である.13時27分,小原本陣着.
資料4によると,
「小原宿本陣は,清水家の建物が使われた.この本陣を利用したのは,信州の高島藩,高遠藩,飯田藩の大名と甲府勤番の役人で,この本陣に泊まりきれない家来たちは,脇本陣や旅籠に分かれて泊まった.
大名の宿であった本陣という建物は,神奈川県下では,東海道と甲州道中で合わせて26軒あったが,現在建物として残っているのは,この小原宿本陣1軒のみで,大変貴重な建物となっている.」
という.
まずは,立派な門構えに驚く.
<小原宿本陣の門>
■小原宿本陣
門を潜って,本陣の境内に入る.
庭の向こうに立派な建物がある.これが神奈川県下に残るっている唯一の本陣かと感銘を覚える.
<小原宿本陣の建物>
■建物の内部
本陣の建物の内部は無料で拝観できる.靴を脱ぐのが面倒なので,2階は見なかったが.どうやら展示場になっているようである.
1階は広い玄関から左手に控えの間,中の間,上段と続く.玄関の奥には納戸,右手には広間,茶の間,お座敷さらにその右奥に土間,勝手がある.控の間には大きな囲炉裏がある.
<小原宿本陣の間取り;パンフレットから引用> <小原宿本陣の1階「控えの間」>
<小原宿散策>
■「かぶとのくわん道」道標(なら嬉しいが?)
13時43分,本陣を出発する.
道なりに歩いて,13時47分,大きな石碑(石の道案内?)を見付ける.何か文字が彫ってあるが,余りに達筆すぎて,悔しいけれども,全く読めない.「湯沢道■かな(?)」 いや,違う.
資料2(p288)によると,この辺りに「かぶとのくわん道」という古道が分岐しているはずだが,分岐の場所は,もっと本陣近くの筈である.だから,多分,この石塔はかぶとのくわん道とは無関係だろう.
同資料によると,かぶとのくわん道は,本陣入口の左手から分岐していて,この道を300メートルほど下ると相模川河畔に出るという.江戸町奉行を勤めた根岸肥前守鎮衛はこの地の出身だという.また,この道は相模湖ができる前の津久井渓谷の面影が残る唯一の場所だとのこと.
<字が読めない石塔>
■ひかえ宿「小松屋」はどこ?
資料1の地図を頼りに,ひかえ宿「小松屋」を探す.資料1の記事によると門構えだけが残っているというが,どこにあるか分からないまま通過してしまう.
資料2(pp.288-289)によると,「ひかえ宿小松屋勇右衛門」は,本陣,脇本陣で足りぬときの控えだという.
そうこうしている内に,まもなく小原宿を通過する.
■旅館「ひらの」の前で右折
13時43分,旅館「ひらの」前の三叉路に到着する.
この三叉路を右折して,緩やかな登り坂を進む.進むにつれて高度が増し,しだいに視界が開ける.
私たちは,もうすぐ与瀬宿に入る.
<旅館「ひらの」>
<与瀬宿>
■与瀬宿の概要
資料2(p.289)によれば,与瀬宿は小原宿より西へ19町のところにある小さな宿場.宿内人口は566人.内,男281人,女285人.宿内惣家数114軒.内,本陣1軒,旅籠6軒の規模である.
今回は与瀬宿の一角にあるJR相模湖駅までの旅である.従って,本陣跡などの見学は次回ということになる.
■えんどう坂
暫くの間,緩やかな登り坂が続く.進行方向右側から道幅が狭い舗装道路が合流すると,やがて峠を越えて下り坂になる.資料1の地図によると,進行方向右手に小さな祠があるようだが,見落としてしまう.
さらにその先で右手から舗装道路が合流する.進行方向左手の谷間に中央本線の線路が見えているが,線路はトンネルの中に消える.私たちはこのトンネルの上を歩いている.
すぐに三叉路になる.どちらの道が甲州街道か少々迷う.
まずは,三叉路を右折して20〜30メートル先へ行ってみる.すると眼下にJR相模湖駅が見えている.道路は真っすく相模湖駅に北側に下るようである.
“この道は違うな…”
と直感的に判断する.
念のため,詳細地図を預けたナビゲーション担当に,道を確かめるようにお願いするが,ハッキリしない.
「多分,こっちですよ…間違っていたらゴメンナサイ,そのときは元へ戻ります」
ということで,三叉路を真っ直ぐ進む.
14時00分,三叉路から100メートルほど進んだところで,「甲州道中えんどう坂」と書いてある案内杭を見付ける.
“この道で良かったんだ!”
とホッとする.
えんどう坂は階段道である.階段の段数は数えていないが,ざっと100段ぐらいはあるだろうか.階段の下に住宅が建ち並んでいるのが見える.
<えんどう坂>
■相模湖駅が見える
えんどう坂を下ると中央本線の線路沿いに出る.すぐ先に,今回の終点,相模駅が見えている.もう,終点も間近である.
今回は,大して迷うこともなく,予定通りに全行程が終わりそうである.ナビゲーション地図を用意した私としては,迷わなくて良かったと心底から思う.
<もうすぐ相模湖駅だ>
■相模湖駅に到着
道なりに南へ向かう.前方に与瀬歩道橋が見えている.跨線橋の先に桂北小学校の校舎が見えている.
“シメシメ,地図通りだぞ…”
与瀬歩道橋のところで右折する.道路の両側は,何となく賑やかで,華やいだ雰囲気になる,駅が近いぞと直感する.すぐそこに駅前の信号が見えている.信号で右折する.
14時07分,私たちは,無事,本日の終点である相模湖駅に到着する.
次回の集合場所や時間などを確認してから解散する.ここからは自由行動である.
<JR相模湖駅前>
<懇親会・そして帰宅>
■喫茶「SAGAMI」で帰宅
希望者だけで…と,言っても,結局は全員が参加で,駅前の喫茶店「SAGAMI」で軽くお茶を飲むことにする.
SAGAMIはそれほど大きなお店ではないので,私たちだけでほぼ満席になってしまう.
例によって,また,男性群と女性群に分かれて着席する.
私は400円也のアイスコーヒーを所望する.私は何時もホットコーヒーしか飲まないが,何となく付和雷同で.今回は飲み慣れないアイスコーヒーである.アイスコーヒーも美味しいが,コーヒーの香りを楽しむのなら,やっぱりホットコーヒーだなと改めて思う.
<こーひーしょっぷ「SAGAMI」> <アイスコーヒー>
■やっぱり?浜線経由だ!
相模湖駅14時39分発上り電車に乗車する.電車や1分ほど遅延しているようである.
15時05分に八王子駅に到着する.ここは大きな駅なので混雑している.私は混雑が苦手だが仕方がない.運良く15時10分発?浜線快速桜木町行電車に間に合う.各自バラバラに空いている席に座る.
私は終点の桜木町で根岸線の大船行に乗り換えるつもりである.多少時間が余計でも乗換が1回で住むので大助かりである.
桜木町で乗り換えるときには,同じ電車に一緒に乗った同行者はどこかに消えていて,私1人になっている.一人旅も気楽で気兼ねなくて良いものである.
結局,17時頃,無事帰宅する.
今回の旅も無事終わった.良かった! 良かった!
<ラップタイム>
8:56 JR高尾駅前から歩き出し
9:05 両界橋
9:15 旧齣木野病院
9:32 バス停荒井
9:42 高尾道分岐
10:00 国際マス釣場
10:21 小仏バスターミナル(10:29まで休憩)
10:31 浅川神社
10:35 宝珠寺(10:37まで見学)
11:52 水垢離場(11:57まで休憩)
11:28 小仏峠(12:00まで昼食)
12:52 美女谷橋
13:11 小原の郷(13:25まで見学・休憩)
13:27 小原本陣(13:43まで見学)
13:48 旅館「ひらの」
14:00 えんどう坂
14:07 JR相模湖駅着
[歩行記録]
■水平歩行距離 11.2km
■累積登攀高度 563m
■累積下降高度 530m
■所要時間(休憩時間を含む)
高尾 発 8:56
相模湖 着 14:07
(所要時間) 5時間11分(5.18h)
水平歩行速度 11.2km/5.18h=2.16km/h
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8E%9F%E5%AE%BF
資料4;http://www.sagamiko.info/honjin/
(第4回終わり)
(第5回に続く)
「甲州道中」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d0893c3b014d09085a29a7283f9db5f4
「甲州道中」の次の記事
(なし)
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58
※お願い
この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.また,不正確な記述もあるでしょう.これらがご不快に思われる方は,どうぞ当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(3):いよいよ碓氷峠
<刎石坂から坂本宿を望む>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(3):いよいよ碓氷峠
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)〜14日(日)
※本稿の初出は2012年11月6日である.
初稿の誤字脱字転換ミスを修正し,本文の推敲を行った.
2012年10月14日(日) (つづき)
<碓氷峠地図> (再掲)
<松の木坂を登る>
■碓氷峠の古道に入る
坂本八幡神社を出発した私達は,坂本宿から続く真っ直ぐな坂道を登り続ける.
10時12分,道路が右にカーブする地点に到着する.前方には円筒形のタンクのような建造物が見えている.カーブに沿って備え付けられているガードレールの左側に細い草道が見えている.ここが,かの有名な難所,碓氷峠道の入口である.
ここから先は山道なので,同行メンバーの中では,多少なりとも登山経験がある私が先頭に立って歩くことにする.そこで,これまでのポチスタイルはひとまず封印して,私が率先して先頭に立つ. 山道で,
“頑張れ・・・”
は絶対に禁句である.一番足の遅い人に合わせて,“ゆっくり”,“焦らずに”登れば,逆に結構調子よく登れる.このことを,私は何回となく山で経験している.ユックリを念頭に置いて,とにかく焦らずに登ることに専念する.
あらかじめ調べていた資料を頼りに,
“まあ,16時30分ぐらいには・・・要するに明るい内に,何とか軽井沢に到着するだろう”
と予想している.
<いよいよ昔の碓氷峠に入るぞ>
■杉林の中の草道に入る
これまでの舗装道路から,一変して草道になる.深い杉林に沿った登り坂が始まる.少々薄気味悪い道なので一人歩きには勇気が要りそうである.
<碓氷峠道の入口付近>
■見慣れた中山道の標識
草道を暫く進むと,小さな緑の板に白字で「中山道」と書いてある標識を見付ける.この標識は,これ以降の中山道でも度々お目に掛かることになる.
果たして間違いなく歩いているのか心配になったとき,この路傍で標識を見付けると随分と安心する.
<お馴染みの標識に励まされる>
■碓氷小屋
10時20分,碓氷小屋に到着する.一寸洒落た建物である.小屋の中には「コ」の字型のベンチが取り付けられている.
私達は八幡神社から歩き出してまだ間もないので,ここでは休憩を取らずにそのまま通過する.
<碓氷小屋>
■舗装道路を横切る
10時21分,先ほど分かれた舗装道路に突き当たる.突き当たったところに中山道の案内地図が掲示されている.
資料3(p.114-115)によると,ここから少し先まで登ったところから中山道明治道が分岐するようだが,案内板に示されている道は江戸道のようである.手許にある大半の資料には江戸道を通るように書かれている.
勿論,私達も江戸道を辿るつもりだが,明治道がどんな道か少々気にはなっている.
私達はここでも休まずに,ふたたび未舗装の山道に分け入る.
<合流点にある中山道案内板>
<刎石山の稜線を行く>
■堂峰番所跡
10時31分頃,刎石山から東南東に延びる稜線に出る.辺り一面は雑木林.木の葉の間からのこぼれ日が明るい.実に心地よい山道である.
稜線に出たところに「堂峰番所跡」という案内板が立っている.案内板の記事によると.この写真の右手の「見晴の良い所にある石垣の上に番所が設けられていた.そして,中山道を挟んで定附同心の住宅が2軒あった.関門は両方の谷が迫っている場所をさらに堀り切って道幅だけにした場所に設置された」という.
<稜線に出る> <堂峰番所跡>
■安政遠足
10時34分,安政遠足と書いてある看板の前を通過する.遠足は「えんそく」ではなく,「とおあし」と読む.暫くの間,中山道の所々で「安政遠足」とか「安政侍マラソン」と書いた案内板を見掛ける.
資料5によれば,「安政遠足(あんせいとおあし)とは,「安政2年(1855年),安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士96人に安中城門門から碓氷峠熊野権現神社まで走らせた徒歩競争.この時の時間や着順,1955年(昭和30年)年に碓氷峠の茶屋で発見された『安中御城内御諸士御遠足着帳』に記されているものの,これは走者に意義を持たせることが目的で,順位やタイムは重要視されていなかった.ゴールした者には餅などがふるまわれたという.安政遠足は,日本におけるマラソンの発祥といわれ,安中城址には「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建てられている.当時は碓氷峠で中間ラップが聞かされた.峠を越えた後は登山道に入り,総走行距離は30キロメートル程度ながら最終的にスタートとゴールの標高差は1000メートル以上ある.
昭和50年(1975年)からは「安政遠足 侍マラソン」が毎年5月第2日曜日に開催されている.仮装をしながら走れることが特徴であり,毎年参加者の半数以上はなんらかの仮装をしているという.しかし,それゆえ東日本大震災が起こった2011年は不謹慎であるという理由で大会は中止になった.」
<安政遠足の看板>
<刎石坂の石塔>
■柱状節理
10時56分,柱状節理の露頭を通過する.
節理とは岩石に発達する割れ目のことであり,マグマが冷却固結する際に生じた板状節理,柱状節理などがある.
なろほど,ここの柱状節理はなかなか見応えがある.
<柱状節理>
■刎石坂の石塔群
柱状節理過ぎて間もなく,11時丁度に刎石坂案内板の前に到着する.
案内板の記事によると,この辺りは刎石坂というようである.刎石坂には多くの石像物があって,碓氷峠で一番の難所でもある.
記事によると,昔,芭蕉の句碑もここにあったが,今は坂本宿の上木戸に移されているという.そういえば,先ほど上木戸を通過したときに,同じ趣旨のことが書かれた案内板があったことを思い出す.
同じくこの案内板によれば,近くに南無阿弥陀仏の碑,大日尊,馬頭観音があり,さらにここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理があると書いてある.
私達は,先ほど柱状節理を見た,したがって,この案内板の説明とは逆の向きに歩いていることになる.
<石柱群を眺める同行者>
<南無阿弥陀仏> <大日尊>
■石垣
石塔群を通過すると直ぐにおびただしい数の石で作られた石垣沿いの道になる.この道は尾根の形状に合わせて,大きく右にカーブして高度を上げていく
<石垣道>
■上り地蔵下り地蔵
11時06分,上り地蔵下り地蔵の案内板を通過する.この辺りは刎石坂を登り詰めた場所である.
案内板には,「板碑のような地蔵があって,旅人の安全を見つめている」と書いてあるが.どこに件(くだん)の板碑があるのか直ぐには分からない.
また,案内板には十返舎一九の,
“たび人の身をこにはたく
なんじょみち,石のうすいの
とうげなりとて”
という歌を紹介されている.
<上り地蔵下り地蔵>
<弘法の井戸を目指して>
■素晴らしい眺望
石垣道を右手に回り込む.11時06分,進行方向左手に素晴らしい眺望が開ける.
眼下には,先ほど私達が通過した坂本宿が見えている.昔の旅人も,多分,ここでこの素晴らしい眺望を楽しんだに違いない.
傍らに立っている案内板によると,小林一茶は,ここで,
“坂本や
袂の下の
夕ヒバリ”
という句を読んだという.
■大きな板碑
11時15分,進行方向右手に大きな板碑が立っているのを見付ける.多分,これが地蔵ではないかと思うが定かではない.
<大きな板碑>
■風穴
11時18分,風穴に到着する.
傍らにある説明文によると,刎石溶岩の裂け目から水蒸気で湿った空気が吹き出しているとか.穴に手をかざしてみるが,空気が吹き出しているかどうか,余りよく分からない.
案内文によると,この辺りに数カ所の風穴があるらしい.
<風穴>
■弘法の井戸
11時23分,進行方向右手にある弘法の井戸に到着する.
井戸の上に掘っ立て屋根が建っている.屋根の両側の柱に弘法の井戸の説明文が取り付けられている.この説明文によると,諸国を廻っていた弘法大師が,刎石茶屋に水がないので,ここに井戸を掘ればよいと村人に教えたという.
水が湧き出て村人が大いに喜び,「弘法の井戸」と命名した.
<弘法の井戸>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E9%81%A0%E8%B6%B3
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f87f9357e1de973e99122fddc0b58c93
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5b663842b736b41c2123c27fb5563d98
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
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誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
梅雨時の鎌倉:鎌倉中央公園のアジサイが見頃かな
<鎌倉中央公園山崎口のアジサイ>
梅雨時の鎌倉:鎌倉中央公園のアジサイが見頃かな
(単独散歩)
2013年6月14日(金) 雨後曇
雨の予報が出ているときに,塔ノ岳に出掛けるのも億劫だ.
例により,午前中は雑務繁多,瞬く間に過ぎる,
午後から,ただコーヒーを賞味するだけの目的で,鎌倉中央公園を抜けて大船駅前までブラブラ歩きを楽しむ.
ところで,鎌倉中央公園は,まだ霧雨が降っているのに,幼児連れのお母さん方で賑わっている.長靴やトレッキングシューズを履いた勇ましい姿のお母さん方も混じっている.幼児達の仕草が可愛いので写真を撮りたいが,このご時世である.うっかりカメラを向けて,“変なジジイ”と勘違いされても困るので,撮影は自粛する.
その代わりに,例により,草花のことは,さっぱり訳が分からないくせに,セッセと花の写真を撮る.これらの写真の中から,少しはマシに写ったものを,数枚だけ,ここで披露しよう.
そうそう! そういえば深沢のI氏邸のアジサイも見頃になった.I氏邸の入口の扉が開放されていて,どうぞご覧下さいという趣旨の案内板が出ていた.
来週は,3グループの方々のアジサイ見物を案内することになっている.そろそろ具体的にコース設定をしなければ…さて,どうしよう!
ハンゲショウが少し白くなり始めた.
葉の上の雨粒が光る
スズメが可愛い
小さな池の畔で…
下の池の薄暗い淵で,ウシガエルが,
{ボーッ…ボーッ…」
と響く声で啼き続けている.
下の池近くのアジサイの見頃は,まだ先のようである.でも,山崎口付近のアジサイは見頃かな(冒頭の写真).
***************************
鎌倉中央公園山崎口から公園の外に出る.
山崎の住宅地を抜けて,大船駅を目指してブラブラ.
途中,跨線橋建替え工事現場を通過する.現在の老朽橋は昭和×年に架けられたもの.私と同じ年である.同い年の橋が建て替えられる…一抹の寂しさを感じる.
大船駅前に到着する.
ついでに少し足を延ばして,ヤマダ電機に立ち寄ってSurfaceなるものを触ってみるが,私にはタッチパネルそのものがどうも馴染めない.それに同じ程度の値段なら,画面が10インチ程度のノートPCの方が良いなと感じる.反面,そんなことを言っているから,時代遅れになってしまうんだなと実感している.
雨の平日なので売り場は空いている.お客より,店員さんの方が多いと感じるほどである.パソコンを眺めていると,すぐに店員が話しかけてくる.いずれはPCを買い換えたいなとは思っているが,まだ当分その気になれない.店員の方には申し訳ないなと思いながら,
「いえ…まだ,買い換えるのは先,見せていただいているだけです」
“そうだ! プリンターのインクを買わなければ…”
それほど沢山印刷物があるわけでもないのに,プリンターのインクがすぐ無くなってしまう,インク台が結構掛かるので,年金暮らしには辛いものがある.とはいえ純粋品のインクしか使ったことはないが…
ルミネ6Fの書店をグルグル回る.書店は注意していないと時間がドンドン過ぎ去ってしまう.
30分ほどで書店を切り上げて,大船駅構内のBecker'sに立ち寄る.例によってホットコーヒーとオニポテ合計290円,五十三次洛遊会の仲間からお裾分けして頂いた割引券が使えるので有り難い.
店内は,リュックを持ったオバサン,サラリーマン,買い物帰りの奥さん方などで,結構混雑している.
夕方,帰宅.
今日のお散歩は,約14000歩.でも,終始,ダラダラ歩きだった.まあ,歩かないよりはマシという程度だろう.これではダメ!
エベレストの三浦さんに見倣って,5年後のトウネントッテ75歳を目標にして,何か具体的で没頭できる明確な目標を立てて,邁進しなければ…と,思い始めてから,もう,2週間ほども経過している.その間,私は何の目標も立てられずに,モタモタと無駄な日々を送っているようである.
“ダメだ! こりゃあ〜!”
(おわり)
「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3e0de81e3948b3baf296e2da25a32baa
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)
歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(4):碓氷峠をひたすら登る
<栗が原で昼食>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(4):碓氷峠をひたすら登る
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)〜14日(日)
※本稿の初出は2012年11月7日である.
初稿の誤字脱字転換ミスを修正し,本文の加除修正を行った.
2012年10月14日(日) (つづき)
<碓氷峠地図とプロフィールマップ> (資料5より引用)
<沢山の遺跡を尋ねながら・・・>
■刎石茶屋跡
弘法の井戸から,なだらかな登り坂を進んで,11時28分に刎石茶屋跡に到着する.
近くにある案内板の記事によると,このあたりに4軒の茶屋があったという.今で茶屋の石垣が残っている.ここでは力餅,わらび餅などが名物だったようである.
資料6(安中市ホームページ)にも,「刎石山の頂上で昔ここに4軒の茶屋(力餅、わらび餅)がありました.垣をめぐらし庭を構え,門を入れば上段の間に案内された茶屋本陣もありました.」という説明がある.
<四軒茶屋跡>
■碓氷坂の関所跡
刎石茶屋跡を過ぎると,杉林の中の長閑な尾根道になる.歩いていても実に心地よい.
11時28分,碓氷坂の関所跡に到着する.ここには案内板が立っているだけで,関所跡を示す遺構のようなものは何一つ見当たらない.案内板によると,ここに関所が設けられたのは昌泰2年(899年)のことだという.
<碓氷坂の関所跡>
■あずま屋
11時31分,碓氷坂の関所跡のすぐ近くにあるあずま屋に到着する.特に休憩を取る必要もない.
周囲の様子から,もしかしたらここが「碓氷坂の関所跡」なのかもしれないと思いながら通過する.
<あずま屋>
■熊たっ!
美しい広葉樹林帯が連続する長閑な道が続く.地元の案内書によると新緑や紅葉の頃は実に綺麗なところだという.
一同,うっとりとした気分で長閑な道を歩き続ける.
このとき,私は一寸したいたずらを思いつく.そのいたずらを何時仕掛けようかと思いながら,虎視眈々とその機会を狙う.
なだらかな尾根道を過ぎると,幾分下り坂になる.小さな鞍部を越えるときに,右手の土手に映えている木の根が張り出していて,その下が手頃な日陰になり,一寸黒く見える.
先頭を歩いている私は,この小さな日陰を見付けて,
“シメシメ・・・今がチャンス!”
とほくそ笑む.
私は後ろを向いて,押し殺すような声で,いきなり,
「熊だ・・!」
と言う.
そのとき,たじろぐ皆さんの姿が,予想以上に凄かったので,
「すまん,すまん,ドッキリ熊ですよ・・」
と直ぐにネタ晴らしをする.
でも,内心では,
“シマッタナ,デジカメのスイッチを入れてから,脅かせば良かった・・・折角のシャッターチャンスを逃してしまった”,
と思っている.
<素晴らしい散策路>
■堀切
相変わらず心地の良いこぼれ日道が続いている.
11時50分,堀切に到着する.
ここは「天正18年(1590年),豊臣秀吉の小田原攻めで北陸・信州軍を,松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で,道は狭く両側が掘り切られている」と近くの案内板に書かれている.
<堀切>
<二つの馬頭観世音>
■南向馬頭観世音
堀切の絶壁を通過して,11時56分に南向馬頭観世音に到着する.道路脇の崖の上に南向祀られている.写真に写っている案内板に書かれているように,この辺りは山賊が出没していたようである.
もっとも,今は熊が出没するのかな…
<南向馬頭観世音>
■北向馬頭観世音
さらに先へ進んで,11時58分,今度は北向馬頭観世音に到着する.
案内板によると,観世音が祀られているところは危険な場所だという.案内板には,「観音菩薩 文化十五年四月吉日 信州善光寺 施主 内山庄左衞門 上田庄助 坂本世話人 三沢屋清助」と書いてある.何のことか明確には分からないが,多分,この観世音のどこかに刻字してあるんだろうなと思いながら通過する.
<北向観世音>
<一里塚跡から栗が原へ>
■一里塚跡
11時58分,一里塚跡に到着する.
資料4(p.20)によると,この一里塚は慶長以前の旧道(東山道)のものだという.案内板の記事によると,「ここから昔は登っていた.その途中に小山を切り開き「一里塚」が作られている」という.ただ,一寸眼には,どこがこの一里塚なのか良く分からない.
私はすぐに,
「まあ・・いいか」
で探すのを諦める.
<一里塚跡>
■座頭コロガシ(釜場)
一里塚を過ぎると,少し急な登り坂になる.
12時09分,座頭コロガシの標識が建っているところに到着する.傍らの案内板には,「急な坂道になり,岩や小石がごろごろしている.それから赤土となり,湿っているので滑りやすい」と書いてある.
資料4(p.20)には,「座頭(注;私としては差別用語のようなきがするので,この言葉はあまり使いたくないが・・)が急坂に足を取られ滑落してしまった,または,谷を急に迂回するヘアピンカーブで,座頭の一行が回りきってしまった先導者の声に従い谷底へ転落した所」という説明がある.
<座頭コロガシ>
■放置された廃車
12時12分,折角の街道歩きの雰囲気をぶちこわす嫌なもの見てしまう.廃車である.
こんな山の中へ,廃車をどうやって運んだんだろう.どの道を通って,どんな機械を使って運んだんだろう・・・しかも,良く見ると,車体は真っ二つに切断され,車体の前と後ろの向きが90度廻った状態で放置されている.ひょっとしたら,動かなくなった車体を二つに切断して,ここから運びだそうとしたのかもしれない.
破棄されているのは白色の乗用車だということは,自動車の素人の私でも分かるが,それ以上のことは分からない.でも,そう古いものでもなさそうである.
何れにしても,見たくないものを見てしまった.
<破棄された自家用車>
<栗が原>
■栗が原に到着
廃車が放置されていた付近からは,道路の道幅も広くなり,四輪駆動車ならば走れそうである.
12時24分,栗が原に到着する.
案内板によると,ここは明治天皇御巡幸道路と中山道の分岐点である,明治8年,群馬県最初の「見回り方屯所」が設置されたところで,交番のはじまりだという.
これ以上の詳しいことはインターネットを調べても分からない.
<栗が原>
■昼食
12時を廻っているので,ここで昼食を摂ることにする.
道路端に適当に座り込む.もうこの時期になると蚊などの忌まわしい虫は居ないし,少々寒いものの快適である.
私は,高崎駅構内“NEWDAYS”で購入した安価な弁当で間に合わせる.年寄りになると,この程度の昼食で十分である.
“何かっこつけているんだ・・・ドケチだから,安い弁当を買ったんだろう・・・”
私の心の中に巣喰うもう一人の私が,私を揶揄する.
“うるせえな・・・食い物にケチるなんて・・・オレはドケチじゃねえぞ”
と無言で怒鳴り返す.でも,
“やっぱり,オレは変なところにケチなのかな”
と密かに反省しながら,安価な弁当を美味しく戴く.
「でも,まあ,どんな食べ物でも好き嫌い無く美味しく戴けるのは,親の躾が良かったからだな・・・・」
私は,今は亡い両親に,密かに感謝しながら,黙々と食事を摂る.
食事を摂りながら,
“大体のところ,当初の予定通りのラップで歩いているな.この分だと明るい内に余裕を持って軽井沢に到着できるな・・・”
と胸算用をしている.
<高崎駅構内NEWDAYSで購入した弁当>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課「旧道日和;旧中山道碓氷の峠越え道」安中市観光協会
資料6;http://www.city.annaka.gunma.jp/kanko_spot/nakasendou.html
[加除修正]
2013/6/16 誤字脱字転換ミスの修正と,本文の追加推敲を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/426b86e9ab008b475708c7ca8ebfbc21
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f51ea367c384c536bf9828a1dd14bd3e
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
鎌倉のアジサイ;もう一つの御霊神社
<深沢の御霊神社>
鎌倉のアジサイ;もう一つの御霊神社
(深沢地区のアジサイ)
2013年6月15日(土) 雨後曇
昨夜ギリギリまで天気予報の推移を見ていたが,塔ノ岳は午前中8時頃と12時頃に雨という予報であった.私がいくら山好きでも,この年になると無理は利かない.“君子危うきに近寄らず”ということで,すんでのところで出掛けるのを諦める.
でも,日が昇る頃には,天気予報の雨など,“クソクラエ”というような勢いで,朝日が昇り始める.
“クソ〜ッ! こんな天気ならば,塔ノ岳に出掛ければ良かった!”
私は随分と悔しい思いをする.ソノバビッチ!天気予報め!
でも,毎度のことながら,こういうのを“後の祭り”という.
結局は,朝でそびれて,家で燻ることになる.
ただ,家に居ればいただけでいろいろな雑務が重なって,結局は午前中はアタフタと過ぎてしまう,
午後から散歩に出る.
でも,そう毎日,大船下(くんだ)りまで出掛けるのも飽きてしまう.
“さて,今日の気晴らしはどこにしようか…?”
またもや,何時ものフラフラパターンである.まあ,取りあえずは山を下って深沢方面にでも行ってみるか.
あまり遠くまで行くつもりもないので,ショートパンツに木綿のTシャツという実に好い加減な服装である.蚊やアブが居る草むらに入ったら,あちこち射されてボコボコになるに決まっているので,いくら足任せの散策だと言っても,おのずから歩くところは限られてしまう.
ところで…
来週,18日は五十三次洛遊会の皆様の鎌倉案内である.昨日は,ウンウン唸りながら,コースの詳細を吟味して,やっと,1枚の地図に仕上げた.念のため,カシミールを使って,懸案のルートを確かめると水平歩行距離13.0キロメートル,累積登攀高度404メートル,累積下降高度401メートルのルートに仕上がった.まあ,この程度のルートなら,このグループには丁度良いだろうと確信する.でも,途中の名刹で見学に予想以上の時間が掛かったら,終着点を適当に縮めれば済みそうである.
私は巨大プリントというソフトウエアを使って,A41枚の大きさの地図を,A3の大きさにプリントする(A4の用紙2枚に分けてプリントする).仕上がったプリントアウトを持って散歩に出発だ.どこかのコンビニに立ち寄って.20枚+αだけプリントするつもりである.
例によって,今日も鎌倉中央公園清水塚口を起点にして歩き出す.
まずは谷筋を下って深沢方面に出掛ける.
途中,I氏邸のアジサイを外から見学する.入口の門には「自由にご覧下さい」という趣旨の案内が出ている.山一面に実に見事なアジサイが咲いている,まさに,これからが見頃である.
私は,早速,愛用のバカカメラを取り出して写真を撮る…が,どういうわけか,帰宅してから再生してみると写っていない,
“やっぱり,オマエはバカか!”
私は自分の腕前が未熟なので,何か操作ミスを下に違いない,写っていないのはカメラのせいではない…そんなことは百も承知で,カメラに八つ当たりする.
でも写っていないものは,どうにもならない.また,2〜3日中に,I氏宅にお邪魔して写真を撮らせて貰えば済むことだ.
深沢に出る.
コンビニで,コピーの倍率を微調整しながら.20枚+αのコーピーを済ませる.これで18日の散策はあまり天気が悪くならないことを祈るだけである.
その足で,深沢地区をデタラメに歩き回る.途中,あだながタモリの喫茶店に立ち寄って400円也のコーヒーでも賞味しようかと思ったが,
”大船まで出れば200円で珈琲が飲めるじゃないか”
という天の声が聞こえるので,私は急にケチになる.
“だから年金暮らしはケチケチしていて嫌なんだ!”
でも,そんな愚痴をこぼしても,どうにもならないことは,当の本人が一番良く知っている.
さて,そろそろ家路に着くか…で,踵(きびす)を返して寺分の方へ向かう.
途中,気が少し変わって,久々に御霊神社でもお参りしようかという気になる.
御霊神社と言っても,長谷寺の近くにある御霊神社ではない.私が尋ねようとしているのは深沢の御霊神社である.不思議なことに,長谷寺近くの御霊神社は「ゴリョウジンジャ」と呼ぶが,深沢の御霊神社は何故か「ゴレイジンジャ」である.そう言えば藤沢の御霊神社も「ゴレイジンジャ」と呼ぶようである.
深沢の御霊神社でもアジサイが見事に咲いている.本数は少ないけど…
<深沢の御霊神社の拝殿とアジサイ>
境内には人の気配はなく静まり返っている.
拝殿の裏手に回ると,さらに長い階段があって,その上に神社が見えている.長い階段を登るのは面倒なので,階段は省略する.
<長い石段>
拝殿を一回りする.
拝殿横に崖沿いに,沢山の石塔が安置されている.私には,これらの石塔の由来は全く分からないが,何か古い時代を感じる.
<沢山の石塔が建ち並ぶ>
***********************
深沢中学のグラウンド沿いの小径に入る.人だけが通れる狭い坂道である.ここは隠れたアジサイの名所だと私は思っている.
坂道を登るにつれて,眺望が良くなる.
やがて,畑の向こうに鎌倉山の山脈(やまなみ)が見え始める.
<アジサイの散策路>
<アジサイの向こうに鎌倉山が見える>
**************************
また,また,文章が冗長になってしまった.
今日の散文は,この辺りで終わりにしよう.明日の日曜日は,どうやら天気も持ちそうである.
“久々に明日は塔ノ岳でも往復してこようか…”
…と,思っていたら,明日午前中の天気予報は雨に変わってしまった.
“ト,ホ,ホ,…”
日曜日も,家で燻っているとするか,
まあ,愚痴をグチグチと並べてしまったが,今日の何とか大過なく過ごすことができた.
感謝! 感謝!…である.
(おわり)
「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b344f3714247c085ecee68d4d59984d8
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)
歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(5):碓氷峠;人馬施行所から峠へ
<人馬施行所を過ぎて川を渡る>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(5):碓氷峠:人馬施行所から峠へ
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)〜14日(日)
※本稿の初出は2012年11月8日である.
初稿の誤字脱字転換ミスを訂正し,本文の加除修正を行った.
2012年10月14日(日) (つづき)
<碓氷峠地図> (再掲)
<まごめ坂から山中坂へ>
■入道くぼの馬頭観音
栗が原で昼食を終えた私達は,12時50分,再び歩き出す.
何時の間にか,私達は随分と高いところまで登ったらしく,樹林の切れ目から上州の山並みが垣間見えている.ただ,私には土地勘がないので,どこの山が見えているのか良く分からない.
13時25分,「入道くぼ」という所に到着する.道から少し離れたところに,大きな石塔が立っている.
石塔の近くにある案内板によると,昼食後,私達が登ってきた赤土だらけの上り坂は「まごめ坂」という所だった.また,ここにある石塔は線彫の馬頭観音だと書いてある.
<入道くぼの馬頭観音>
■山中茶屋跡
13時19分,山中茶屋に到着する.空き地の奥に建物が見えているが,この建物が山中茶屋に関係があるかどうかは分からない.
空き地の入口にある案内板によると,山中茶屋の位置は,「峠」の丁度真ん中だと書いてある.何処から何処までを「峠」というのか私には分からないので,何とも言えないが,地図を見ている限り,旧国道18号線入口から,群馬県と長野県の県境までの距離の優に半分以上を歩いている.
案内板の記事によると,この山中茶屋は慶安年中(1648年から)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた.そして,寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋ができた.寺もあって茶屋本陣には上段の間が2箇所あったという.また,明治の頃小学校もできたが,現在は屋敷跡,墓の石塔,畑跡が残っているだけである.
<山中茶屋跡>
■山中坂
山中茶屋から子持山山麓を陣場が原に向かって登り続ける.
道端の案内板によると,この山中坂は別名「飯喰い坂」とも呼ばれていた.その理由は,空腹のままではとても登れないので,手前の山中茶屋で飯を食ってから登ったからだという.
<山中坂>
■こんな所に廃バスが・・・
13時28分,緩やかな登り坂の進行方向左手の土手の上に廃バスがあるのを見付けて,大変ビックリする.
この辺りは,確かに道幅も広がっていて歩き易いが,とてもバスが通れるような道ではない.どこかにバスが通れるほどの道があるのか大変興味をそそられる.でも,そんな詮索は私達中山道の旅の本筋から外れるので,ビックリしただけで通過する.
<こんなところに廃バスが・・・>
■一つ家跡
緑に覆われた心地よい道が続く.なだらかな道である.
13時34分,一つ家跡を通過する.辺りには遺構のようなものは何もない.ただ小さな案内板が立っているだけである.案内板には,「ここには老婆がいて,旅人を苦しめたと言われている」と書いてある.何をどう苦しめたのかは書いてない.
<一つ家跡>
<子持山>
■陣場が原
13時40分,陣場が原に到着する.例によって少し汚れた案内板が立っている.
この案内板には次のようなことが書かれている.「太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され,戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある.笹沢から子持山の間は萱野■(読めない)でここから古戦場といわれている.」
後ほど,陣場が原の戦いについて,インターネットで調べたが,この案内板以上の情報は今のところ得られていない.
ただ,資料6には,中世に至り,「応永30年(1423年)の国人一揆や永享12年(1440年)の結城合戦では,碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた.永禄4年(1561年)に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し,信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない,永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した.天正18年(1590年)の小田原征伐の際,豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている.」という説明がある.
<陣場が原>
■万葉集の歌の紹介
陣場が原の案内板のすぐ先に「子持山」の案内板が立っている.この案内板には,
万葉集巻第十四東歌中 読人不知
児持山若かえるでの
もみづまで
寝もと吾は思う
汝はあどか思う
(三四九四)
と書いてある.万葉集のことなど殆ど分からない私には,歌の真意など理解困難である.
<子持山>
<笹沢から峠へ>
■明治天皇行幸道との分岐
13時44分,明治天皇行幸道と旧中山道の分岐で,どちらを歩くか少々迷うが,私達の旅の目的から,当然,左側の旧中仙道道を選ぶ.
写真の右が明治天皇行幸道である.私辰は少々薄暗い中山道道に入る.
<明治天皇行幸道を分岐する>
■化粧水跡
旧中仙道に入ると,道幅が幾分狭くなり,再び山道らしくなる.辺りは薄暗い森になる.
13時55分,化粧水跡に到着する.「峠町へ登る旅人がこの水で姿,形を直した水場」と書いた案内板が立っているが,どこがその跡かは一寸見では良く分からない.
<化粧水跡>
■人馬施行所跡
化粧水跡からさらに先へ進むとますます深山幽谷の趣が深まる.
13時58分,人馬施行所跡に到着する.谷沿いの崖に案内板が立っている.案内板によると「文政11年,江戸呉服の与兵衛が,安中藩から間口17間,奥行二十間を借りて人馬が休む家を作った」という.
<人馬施行所跡>
■笹沢を渡る
人馬施行所跡から笹沢に下る.笹沢には橋がない.この先どうなるか少々心配になる.立ち止まって,このまま進んで本当に大丈夫かを確かめる.手許の資料や地図で再確認するが,このまま進んでも大丈夫だと確信する.
私は内心では,
“もしダメなら先ほどの明治天皇行幸道まで戻れば良いな”
と思っている.
飛び石伝いに笹沢を渡る.
<笹沢を渡る>
■長坂道を登る
笹沢を渡ると,人一人がやっと通れるほどの狭い山道になる.上り急勾配の心細い道を登り続ける.足許もかなり悪い山道の連続である.
こんな道が30分ほど連続する.やがて,前方に尾根が見え始める.
「上の方に尾根筋が見えていますよ・・・あの辺りで峠道になるでしょう」
と同行者に話す・・・というよりも自分自身に言い聞かせる.
14時18分,「長坂道」の案内板が立っているところに到着する.案内板には「中山道をしのぶ古い道である」と書いてある.
■仁王門跡
長坂道の案内板を通り過ぎてすぐに三叉路にでる.
この三叉路で,どちらへ行くか迷う.左手の道には「800メートル先行き止まり」と書いてある.右手200メートルほど先に赤い幟旗のようなものが見えている.軽井沢の方向は左側,でも幟旗の方がどうやら正解のようでもある.
私は大いに迷う.
こんなとき,ポチモードが再開する.
Aさんが,
「ちょっと,様子を見てきます・・」
と幟旗の見える右側の道へ偵察に行く.そして,
「こっちです・・・」
と手を振って合図する.
“助かった・・・!”
14時25分,私達は無事に峠の仁王門跡に到着する.向かって左手からは明治天皇行幸道が合流している.
仁王門跡には大木は石柱が立っている.その脇の案内板には,「もとの神宮寺の入口にあり,元禄年間再建されたが明治維新の時に廃棄された 仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている」と書いてある.
ここで,横川を歩き出したときに出会った男性と再会する.
「皆さん,随分と足が速いですね・・」
と男性が言う.
男性に伺うと,彼は明治天皇行幸道を経由してきたが,疲労困憊しているという.男性と暫く雑談する.
<仁王門跡>
<峠に到着>
■思婦石
14時26分,仁王門跡近くにある思婦石に到着する.近くに鼻曲山への案内杭が立っている.この辺りからは公園風に整備されていて,観光客の姿も増え出す.
思妻石の案内板には,「群馬郡室田の国学者関橋守の作で安政4年(1857年)の建立である.
ありし代に
かへりみしてふ
碓氷山
今も恋しき
吾妻路のそら」
と書いてある.
<思婦石とその周辺>
<思婦石>
■力餅「あずまや」
14時29分,力餅「あずまや」に到着する.
私達はようやく観光地「峠」に居る.周囲には観光で訪れている人達が沢山居る.ここまで来れば,いざとなったらバスで軽井沢に出ればよい.気が楽になる.
■熊野神社前のバス停
辺りを見物しながら,バス停の方に移動する.勿論,私達はバスに乗るつもりはないが・・・
さきほど出会った男性が,丁度到着した軽井沢行のバスに乗車している.
私達は,これから,暫くの間,熊野神社など,この辺りを散策してから,旧軽井沢に向かうつもりである.
<峠のバス停>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課「旧道日和;旧中山道碓氷の峠越え道」安中市観光協会
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%93%E6%B0%B7%E5%B3%A0
[加除修正]
2013/6/16 誤字脱字転換ミスの訂正と,本文の加除修正推敲を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
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「中山道六十九宿」の次回の記事
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「中山道六十九宿」の索引
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※記事の正確さは全く保証しません.
この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(6):熊野神社から旧軽井沢へ
<熊野神社>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(6):熊野神社から旧軽井沢へ
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)〜14日(日)
2012年10月14日(日) (つづき)
<碓氷峠地図>
<峠村で観光>
■「峠」の碓氷嶺観光案内図
碓氷峠を越えて,無事旧峠村に到着した私達は,ここで少々時間を取って,界隈を散策することにする.
まず最初に眼に入ったのは「碓氷嶺名所観光案内図(私設)」である.この案内図を見て,峠周辺に地図を頭に入れる.
当初,この辺りも“ザッと見”だけで通過すれば,16時過ぎには間違いなく軽井沢駅に到着すると見込んでいたが,ここで観光の時間を入れると,軽井沢到着時間は,それだけ遅くなる.それでも,折角の観光地だから,少しは観光しようということになる.
■みくにふみの碑
まず最初に眼に入ったのが,「みくにふみの碑」である.
石塔の横には,妙なことが書いてある案内板が立っている.
こ案内板には「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十(よしやよし 何は置くとも み国書 よくぞ読ままし 書読まむ人 み国書) これは峠の社家につたえられていたものを滅失を恐れて昭和30年熊野■■・・■(よめない)建てたものである」と書いてある.
<みくにふみの石>
■県境を跨ぐ
辺りには沢山の観光客が居る.
これまで歩いてきた碓氷峠とは,全く異次元の世界に迷い込んだような気分になる.
何となくブラブラ歩きをしていると熊野皇大神社の参道に辿り着く.長い石段の参道の中央を長野県と群馬県の県境が走っている.
沢山の観光客が,入れ替わりにこの県境を跨いで,片足は長野県,もう一方の足は群馬県に置いてはしゃいでいる.
勿論,私達も県境を跨いでみる.
<長野県と群馬県の県境>
<熊野皇大神宮>
■二つの県にまたがる神社
この神社の位置は長野県(信濃)と群馬県(上州)にまたがっている,
そこで,まずは長野県側の熊野神社をインターネットで検索してみる(資料6).すると以下のような説明がある.
「当神社は碓氷峠頂上標高1200mに位置し,自然豊かな軽井沢に鎮座する神社です.また,当神社は,全国的にも珍しい県境,お社の中央で長野県と群馬県に分かれた神社です
ので,一つの神社でありながら2つの宗教法人が健在し長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれております.その為,神社をお護りする宮司も2人おりそれぞれ神社のお祀りを行っており,御祈祷・お守り・社務所も別になっております.当神社は長野県軽井沢の氏神,長野県熊野皇大神社であります.」
資料7には二つの宗教法人に分かれた経緯について,次のような説明がなされている.すなわち,「第二次世界大戦後に宗教法人法が制定された際,都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになったため,ひとつの神社でありながら県境を挟んで,長野県側が熊野皇大神社,群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となった.そのため,一つの神社だが,宮司や社務所,賽銭箱,お守り,ご祈祷は別々である.」
熊野皇大神社と熊野神社を使い分けるのは面倒である.そこで,このブログでは,了法合わせて熊野神社ということにしておこう.
■長い石段を登る
14時38分,長い上り階段を登り始める.そして,熊野神社を参拝,境内を散策する.
これまでの中山道路とは違って,面食らうほど沢山の観光客で賑わっている.
<熊野神社の石段>
■熊野神社の由緒
境内にある説明文によると,この神社は
「県境にあり,日本武尊東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれたとき,八咫烏の道案内によって,無事嶺に達することができたことにより熊野の大神を祀ったと伝えられる.
碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾妻者椰(あづまや)」と嘆かれたという(日本書紀より).
これらの御由緒より「日本太一」という烏牛王札が古来から起請文や厄難消除の御神札として頒布されている.
歴史大略
鎌倉時代に武士団等の篤い信仰を受け,群馬県最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている.
江戸時代には諸大名を始め,多くの人々が中山道を行き来した.関東の西端に位置し,西方浄土,二世安楽,道中安全を叶える山岳聖地として,権現信仰が最も盛んになった.
「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に唄われ,追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わっていった.」
この説明文を読んだあとで,境内の各神社を参拝する.
また,資料7には,熊野皇大神宮の由来について次のような説明がある,すなわち,「社伝によれば,ヤマトタケルが東征の帰路で碓氷峠に差し掛かった際,濃霧が生じて道に迷った.この時に一羽の八咫烏が椰の葉を咥えて道案内をし,無事に頂上に着いた事を感謝して熊野の神を勧請したのが熊野皇大神社の由来だとされる.」
<熊野神社>
■石の風車一対
熊野神社の境内には,いくつかの見所があるが,その中から「石の風車一対」の写真を撮る.
案内板の説明によると,軽井沢問屋佐藤市右衛門および代官佐藤平八郎の両人が二世安楽祈願のた,神社正面石畳を明暦3年(1657年)築造した.その祈念に,その子市右衛門が佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものだという.
また,同案内文には,「秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として楽しみ,
碓氷峠のあの風車
だれを松やらくるくると
と追分節に唄われて有名になった」と紹介している.
<石の風車>
<峠から旧軽井沢へ>
■見晴台近くから中山道に入る
15時50分,駐車場入口から見晴台入口から碓氷峠の下り坂に入る.
見晴台に立ち寄ろうとも思ったが,また道草をしていたのでは,軽井沢に到着するまでに日が暮れる可能性があるので省略する.
山道にしては良く整備されてる.旧中仙道に入ると,暫くの間は峠沢左岸沿いのトラバース道である.進行方向右手下には国道133号線の道路が見え隠れしている.
<展望台前の路を右折して中山道に入る>
■橋を渡る.
暫くの間は緩い下り勾配の道が続く.すれ違う観光客はほとんど居ない.この辺りの地形の下調べは充分してあるつもりだが,山深い道を歩いている内に,この道で本当に良いのかなと絶えず不安である.でも,まあ,この道以外にそれらしい道もなさそうなので,まあ,何とかなるさで下り続ける.
15時18分,国道128号線に架かる橋を渡る.
今歩いている道が正しいかどうかを確かめるために,地図を首っ引きにする.その結果,まあ,間違いなさそうだということで先に進む.
歩きながら,心の中で,
“迷ったら,また峠まで引き返すさ”
と開き直っている.
<橋を渡る>
■峠沢右岸に渡る
15時38分,立派な吊り橋を渡って峠沢右岸に入る.橋を渡ったところに大きな看板が立っている.そこには「野生熊生息地」と書いてある.
この看板によると,たった今,歩いてきたところが熊生息地の真っ直中ということになる.背筋が寒くなる話である.
でも,まあ,ニセ熊事件はあったものの,本物の熊にも会わずに,ここまで来られたのは幸いである.
<橋を渡って峠沢の右岸へ>
■国道133号線に合流
橋を渡ると別荘地になる.道路の両側には広い敷地の別荘がちらほらと見え出す.そして,
15時49分,私達が歩いている旧中仙道道は,国道133号線に合流する.
<国道133号線に合流>
<観光客で賑わう旧軽井沢>
■矢ヶ崎川を渡る
15時53分,矢ヶ崎川をわたる.いよいよ旧軽井沢の街中である.
道の両側はフェンスに囲まれた広大な敷地の別荘が並んでいる.
<矢ヶ崎川を渡る>
■芭蕉の句碑
15時55分,芭蕉の句碑に到着する.
大きな石に芭蕉の句が刻字されているが,変体仮名なので浅学の私には読めない.
傍らの案内板によると,
“馬をさえへ
ながむる
雪の
あした哉”
という句が彫ってあるようだ.
案内文によると,「雪の降りしきる明け方,往来を眺めていると,多くの旅人がさまざまな風をして通っていく.人ばかりではない,駄馬などまでふだんと違って面白い格好で通っていくよ」という意味だそうである.
この句碑は天保14年(1843年),当地の俳人小林玉蓬によって,芭蕉翁百五十回忌に建てられたものだという.
<芭蕉の句碑>
■つるや跡
15時56分,「つるや跡」に到着する.
資料4(p.21)によれば,往時は茶屋で強飯,ざるそば,煮しめなどを今日していたという.
<つるや>
■神宮寺
16時丁度に,神宮寺参道と思われるところを通過する.狭い路地の奥の本堂らしい建物が見えている.そろそろ時間が押しているので,参道の奥まで行ってみなかったが,地図で判断して神宮寺だろうと思う(違っているかもしれない).
資料8によれば,「神宮寺(じんぐうじ)は,真言宗智山派の寺院で,山号は表白山,院号は釈迦院.本尊は大日如来.碓氷峠にある熊野神社の別当寺であった.」
<神宮寺(?)>
■モダンな商店街
16時10分頃,進行方向右手にモダンな雰囲気の商店街がある.
この辺りから軽井沢までは,私が先頭を歩く必要もないので,ポチモードにして,私はひたすら後ろから無言で付いていくことにする.特に途中の何処でコーヒーブレークを取るかも,主として女性軍にお任せする.
女性軍の後に付いて右折してモダンな商店街に入る.鎌倉や原宿(行ったことないが)に居るような錯覚に陥りそうな雰囲気である.
この商店街の中に雰囲気が良い喫茶店があれば,お茶しようということになる.
しかし,商店街の一番奥の外れに期待はずれなほど小さなコーヒースタンドしかない.結局,コーヒーは後で・・ということになる.
<偉くモダンな商店街>
■旧軽井沢散策
モダンな商店街から本通りに戻る.
本通りは観光客で賑わっている.赤いバスが通りを走っていて,独特の雰囲気を醸し出している.何軒ものギャラリーがあるのに感心する.ただ,町の雰囲気は鎌倉の小町通りと大差ない.
絵が好きな私は,一寸ギャラリーに立ち寄りたいなと思うが,まあ,ここは遠慮する.
要するに軽井沢って一体どんなところ?
この問いに一言で答えるのは中々難しそうである.たとえば,鎌倉なら「武家の古都」と一言で特徴を言える.
…で,軽井沢は.
私が幼少の頃は,軽井沢を一言で言えば「避暑地」だった・・・今の軽井沢は?
そんなことを考えながら,ブラブラと歩き続ける.
<賑わう旧軽井沢の市街>
■今回の中山道の終点
16時19分,中山道と駅前通りの交差点に到着する.今回の中山道の旅の終点である.
私のこれまでの中山道の旅で,抜けていた横川から軽井沢の間を埋めることができた.
すでに,2010年6月12日に軽井沢から先の旅を続けている.これで私の中山道の旅も,抜けたところなしに,江戸日本橋から66次の武佐宿まで繋がったことになる.
「皆さん,ご苦労様でした.ここで私の先導役は終わりです・・・ここから先,軽井沢駅まではどうぞご自由に歩いて下さい・・」
ということで,完全にポチモードに切り替える.私は後ろから付いていくだけ.また,コーヒーブレークを取るか取らないか,どこで取るかもすべて女性軍にお任せする.
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課「旧道日和;旧中山道碓氷の峠越え道」安中市観光協会
資料6;http://www.geocities.jp/kumanokoutai/
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%AE%89%E4%B8%AD%E5%B8%82)
資料8;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%AF%BA_(%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2%E7%94%BA)
[加除修正]
2013/6/16 誤字脱字転換ミスの修正および本文の加除修正推敲を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
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「中山道六十九宿」の次回の記事
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「中山道六十九宿」の索引
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鎌倉のアジサイ;さらにもう一つの御霊神社(藤沢宮前)
<御霊神社>
鎌倉のアジサイ;さらにもう一つの御霊神社(藤沢宮前)
(鎌倉・藤沢市境をお散歩)
2013年6月16日(日) 曇
<散策地図>
<まずは深沢・上町屋>
■I氏邸のアジサイ
梅雨の間で,ちょっと天気が良くなった日曜日.午後の空き時間を利用して,アジサイ見物と洒落込んだ.
例によって歩き出しの出発点は鎌倉中央公園清水塚口である.バス停で言えば鎌倉中央公園入口,成り行き任せのデタラメテクテク散歩である.出掛けるときは深沢地区をほんの20〜30分程度散歩するつもりだったので,木綿のTシャツとショートパンツ,それに潰れそうな運動靴という超ラフスタイルである.
“雨の心配は?”
“雨か! まあ,いいや.もし雨ならば素直に濡れてしまおう”
ということで,邪魔な傘は持たないけれど,防水の安物カメラだけはポケットに忍ばせた.
ブラブラ歩きの始まりである.
独り歩きの楽しさは,すべて足任せで,気儘なデタラメ歩きができることである.登り坂より下り坂の方が歩き易いのだろう,私の足は勝手に坂道を下っている.
“そうだ! I氏邸のアジサイを拝見しよう…”
やっと,足任せでなく私自身の意思が表に出る.
歩き出してから5〜6分で,I氏宅に到着する(個人宅なので冒頭の地図には非表示).
I氏宅の入口に「ご自由にご覧下さい」という案内があるのを確かめてから,そっと拝見する.
今年も素晴らしいアジサイである.ようやく見頃を迎えたところだ.素晴らしい! 暫くの間は楽しめそうだ.私は何枚かの写真を撮らせてもらう.
<I氏宅のアジサイは見頃を迎えている>
■上町屋天満宮
I氏宅のアジサイを拝見してからは,深沢の交差点付近までブラブラしてから,喫茶店タモリ(くれはあだ名)で,ゆっくりコーヒーでも賞味して帰宅しようか…と,何となく思っていた.でも,微風ながら涼しい海風が心地よいので,もう少し歩いてみたくなった.
そこで,成り行きから上町屋の方でも廻ってみようかという気分になる.
まずは上町屋天満宮を訪れて見よう.アジサイはあったかな?
旧国鉄の工場脇の道を上町屋に向かって歩く.自動車の往来は殆どないノンビリとした道が続く.やがて上町屋の集落に入る.上町屋は古くからある集落で,集落の中の道は複雑である.曲がりくねった道を辿って,上町屋天満宮に到着する.
“ありゃ〜! ここにはアジサイは1本もないぞ!”
でも,道路を挟んで反対側の民家では沢山のアジサイが咲いている.
<上町屋天満宮>
■泉光院
続いて上町屋にある泉光院を尋ねる.ここは真言宗大覚寺派の寺で,山号は天守山.青蓮寺の末寺だった寺である.
山門を入ると,今が見頃のアジサイの先に御大師様と本堂が見える.
<泉光院>
■畑中の路地
泉光院から畑中の路地を,長島ふな公園に向けて歩く.路地の両側には畑が広がる.歩いていて,実に気分がよい所である.
路地の出口付近にある民家のアジサイが見頃である.
<泉光院付近の路地を行く>
■長島ふな公園
上町屋の外れにある長島ふな公園に到着する.
アジサイが1本ぐらいはあるだろうと思っていたが見当たらない.残念.
“さて,どうしよう?”
ここから,湘南モノレールの湘南町屋駅までは歩いて6〜7分.そのまま丸山の坂道を登れば,自宅まで20分弱で戻ることができる.
このまま素直に家に戻るか,それとも,もう少し散歩するかで迷う.
“ああ,そうだ! 御霊神社へ行ってみようか”
そういえば,藤沢市宮前にある御霊神社に沢山のアジサイがあることを,フト思い出す.
<長島ふな公園>
<柏尾川を越えて藤沢へ>
■宮前川袋公園と御霊神社の森
長島ふな公園から,柏尾川沿いのバス通りに出る.柏尾川を渡れば藤沢市である.近くにある長島橋を渡るか,それとも少し南にある神鋼橋を渡るかで少し迷うが,どうせなら兜松を見てから御霊神社(ゴレイジンジャ;ゴリョウジンジャではない)に向かうことにする.
柏尾川の左岸に沿って,自動車がうるさいバス通りを3〜4分歩いてから神鋼橋を渡る.そして神戸製鋼の工場沿いの道を歩く.
すぐに宮前川袋公園に到着する.ここから御霊神社の森…というか山が目の前に見える.
<宮前川袋公園> <御霊神社の山>
■鎌倉権五郎景政の兜松
神戸製鋼の敷地内に鎌倉権五郎景政の兜松跡がある.
工場の敷地内には入れないので,金網の外から覗くしかない.どの辺りに兜が埋められたは知る由もないが,まあこの辺りなのだろう.
兜松の由来は,下の写真の通りである.
<鎌倉権五郎景政の兜松>
■鎌倉古道上の道
兜松から東海道本線の線路に向かって歩く.
最初の三叉路を左に入ると,鎌倉古道(上の道)の案内板がある.ここから坂道を登ると,すぐに舗装道路は途絶えて山道になる.古道の面影が色濃く残っている散策路である.
<鎌倉古道(上の道)に入る>
<御霊神社>
■裏参道
鎌倉古道入口から100メートルほど歩くと御霊神社裏参道入口がある.
ここから御霊神社の境内に入る.ここはヤブ蚊が多いところなので,なるべく途中で立ち止まらないように注意する.
境内に入る.坂道を登ると拝殿裏山の尾根に出る.左折して尾根沿いに進むと旗立山である.
<御霊神社裏参道入口>
■御霊神社のアジサイ
御霊神社裏山に入る.
ジメジメとした杉林の中に沢山のアジサイが咲いている.辺りにはヤブ蚊が沢山居るので,一時も停まらずに歩きながら写真を撮る.そのためにどの写真もブレていてろくでもない写真ばかりである.随分気を付けたつもりでも,結果的に2〜3箇所,ヤブ蚊に刺されてしまう.
ろくでもない写真ばかりなのに,結構,ヤブ蚊の射されてしまい痒くて仕方がない.
アジサイの花にも,いろいろあるようだが,私にはここのアジサイが珍しいものか,あるいは一般的なものかは分からないが,とにかく本数だけは沢山ある.もし,この神社が鎌倉駅や北鎌倉駅の側にあったら,きっと観光の名所になったに違いない.
<御霊神社裏山のアジサイ>
■本殿脇のアジサイ
ヤブ蚊が沢山居るので,なるべく早く明るくて広いところに降りよう党思う.
“そんなTシャツと半ズボンでは,ヤブ蚊に食われることなんか,最初から分かっているだろう…”
と私に身体に巣喰っているもう一人の私が,私を叱る.
“はい! ご尤もです…”
と答えるしかない.
でも,私に言わせれば,最初からこんなヤブ蚊だらけの所に来るつもりなどなかった.何となく偶然に来てしまっただけだ.それをとやかく言われる筋合いはない.
“くそ〜っ…,何も好きこのんでヤブ蚊の餌食になっている訳じゃないよ.テメエなんか引っ込んでいろ…”
ともう一人の私を無言で罵倒する.
<御霊神社のアジサイ>
■長い階段の参道
ヤブ蚊を避けるために,早々に切り上げて,長い下り階段の参道を降りる.
ヤブ蚊さえ居なければ,裏参道から再び鎌倉古道に出たかったが,また,ヤブ蚊の洗礼を受けたのでは堪ったものではない.
階段を下ってから見上げると,随分と長い階段だったなと驚く.
鳥井脇のアジサイが丁度見頃である.
<御霊神社参道>
<村岡から大船駅へ>
■御霊神社の森を眺めながら…
宮前から御霊神社の山を一回りして東海道本線沿い道に出る.
ここで,また,藤沢駅に向けて歩こうか,それとも大船駅に向かおうか,あるいはまた兜松の前を通って湘南町屋に出ようかと迷う.ただ,湘南町屋に戻ったのではつまらないので,この案は直ちに却下だ.
ここからだと,大船駅よりは藤沢駅の方がずっと近いが,東海道本線の電車に乗って大船へ戻るもの面倒な気がする.
“では,大船駅へ出よう…”
…と,いうことで,まずは東海道本線沿いの道を北東に向けて歩き出す.左手には先ほど参拝した御霊神社の山が見えている,山の手前は藤沢市民農園の緑が広がっている.
<御霊神社の森と市民農園>
■空と海のガード
東海道本線ガードを潜る.なぜか「空と海のガード」と命名されているようだ…
ガードを潜ると,Takedaの途轍もなく大きな建物がまるで万里の長城のように並んでいる.その前の真っ直ぐな道を,大船方面に向けて,トボトボと歩き続ける.ウンザリするほど長い道である.
ここは,もう,トボトボと歩き続けるしかない.
<東海道本線のガードを潜る>
■遙か遠くに大船駅周辺の建物が見える.
途轍もなく大きな建物の前を,もう4〜5分も歩いている.それでもこの会社の敷地が続いている.
頑丈なフェンス沿いに,何種類かの花が咲いている.花オンチには端の名前など分からないが,ときどきアジサイの花も混じっている.
こんな単調で長い舗装道路をトボトボと歩く人など少ないらしく,ほとんど人とすれ違うこともない.ときどき大船行のバス停がある.どのバス停でも数名の方がバス待ちをしている.
“大船まで一緒に歩きましょう…”
と無言でお誘いする.無言なので,当方のお誘いが相手に通じるはずもないが…
<大船に向けて単調な道を歩き続ける>
■塩竃神社
フラワーセンター前から柏尾川に掛かる小さな橋を渡って,左岸沿いの道に入る.
やがて,塩竃神社前を通過する.
この神社の存在は,地元の人しか知らないので,鎌倉ではマイナーな存在だが,立派な社殿の神社である.
以前,この神社の由来を調べたことがあるが,内容はすっかり忘れた.とにかく軽く頭を下げてから通過する.
残念ながら塩竃神社には,アジサイは無いなあ〜
<塩竃神社>
■美形の大船観音
ようやく,大船駅に近付く.
大船観音を仰ぎ見るようになると,もう大船駅である.何時ものことながら,大船観音は実に美形だなと思う.駅に近付くと,人が増え出す.
15時25分,漸く大船駅に到着する.大船駅前15時35分発のバスに丁度間に合う.駅近くでコーヒーでも…と思っていたが,今日は省略.そのままバスに乗車する.
こうして,水平歩行距離6.6キロメートルのデタラメ散策は無事終わった.総歩数は約2200歩だった.
<大船駅近くから大船観音を望む>
(おわり)
「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cc1eb8f46adba0a1c2f0bb854a438187
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
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鎌倉のアジサイ;深沢の某氏宅のアジサイ
鎌倉のアジサイ;深沢の某氏宅のアジサイ
2013年6月17日(月) 晴
深沢の某氏宅のアジサイが日毎に見事になっていく.
毎日,某氏宅の前を通るのが楽しみになっている.門に
「どうぞご覧下さい…」
と書いてあるが,所在地の詳細は伏せておこう.
冒頭の写真で,アジサイの見事さを一緒に楽しんで頂ければ幸いである.
(おわり)
「鎌倉あれこれ」の前回の記事
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「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)
歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(6):旧軽井沢から帰宅
<コーヒーショップに入る>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(6):旧軽井沢から帰宅
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)〜14日(日)
※本稿の初出は2012年11月10日である.
初稿の地図の差し替え,誤字脱字転換ミスの訂正と,本文の加除訂正推敲を行った.
2012年10月14日(日) (つづき)
<ルート地図>
<旧軽井沢からJR軽井沢駅へ>
■昔と大違いの軽井沢
16時19分,中山道から左折して,JR軽井沢駅に向かう道路に入る.この道は真っすく南へJR軽井沢駅まで続く.
私がこの道を最初に歩いたのは,今から半世紀以上前のことである.今は亡き母と一緒に,軽井沢から旧軽井沢までスケッチブックを片手に歩いたことを,つい昨日の事のように思い出す.あの頃は軽井沢駅近くに数軒の家があるだけで,旧軽井沢までは全く家などはなく荒涼とした原っぱだったように覚えている.
旧軽井沢の三叉路から中山道に入ると唐松林の中に閑静な別荘が並んでいた.もちろん道路は舗装などされていなかった.
帰りは近くの草軽電鉄の駅から小さな電車に乗って軽井沢まで戻った.
私はこのブログでも度々書いたように小諸の出身である.軽井沢は小諸から直ぐ近くにあるが,どういう訳か,その後ほとんど軽井沢を訪れたことがない.つい数年前に,それこそ半世紀ぶりに軽井沢を訪れたが,あまりの変貌振りに唖然とした.
今回,旧軽井沢からJR軽井沢まで歩く途中で,全く切れ目無しに商店や飲食店が連なっているのに改めて驚く.
今歩いている道は,既に中山道から外れているので,私がとやかく言う必要もないので,完全にポチモードで歩き続ける.ここまで来れば,例え軽井沢駅に着くのが暗くなってしまってもどうということはない.
女性群が,
「お茶しましょう・・・」
と言えばそれに素直に従うし,ずるずると軽井沢駅に着いてしまえば,それはそれで良い.きわめて気楽である.
■「軽井沢チョコレート館」でコーヒーブレーク
16時23分,進行方向右手にあるコーヒー店が眼に入る.何となくおしゃれな雰囲気の店である.店頭に「チョコレート専門店Schokokaden burg」と書いた看板が置いてある.なんとコーヒー・紅茶が300円である.私も,
“コーヒーが300円か.土地柄を考えれば,なかなか魅力的な値段だな.ここなら入っても良いぞ”
と思う.
女性群の皆様はどう考えたか分からないが,とにかくここで一休みすることに決定.
お店の中に入る.店内はそれほど広くはないが,若い店員がはきはきと応対してくれる.
<軽井沢チョコレート館のメニュー>
■美味しいコーヒー
私はコーヒーを注文する.
ほどなく,上品なカップに入れられたコーヒーが運ばれてくる.まずはコーヒーの香が漂ってくる.この香りを嗅いだだけで,何となく気分が落ち着くから,コーヒーの魔力とは不思議である.
ユックリとコーヒーを賞味する.
このコーヒーは正に絶品,私は年がら年中コーヒーを賞味しているが,正直なところ,これほど美味しいコーヒーには滅多にお目に掛かれない.
「これは美味しい・・!」
私は思わず率直に感想を吐露する.私と同じようにコーヒーを注文した同行の皆さんも,この店のコーヒーは滅多に味わえないほど美味しいと褒める.
いや,お世辞を抜きにして,こんなに美味しいコーヒーを出す所など,滅多に出くわさないなと思う.
<美味しいコーヒー>
■多種多様なチョコレート
同じ店内にチョコレート売り場がある.
序でに覗いてみる.見ているだけで楽しくなるほど,実に多種多様なチョコレートが陳列されている.同行の一人が随分と沢山のチョコレートを買い込んでいる.お土産だとか.
私はジャストルッキング.もし,購入したら,我慢できずに,その場で食べてしまうに決まっているから・・・・・
<チョコレート売り場>
■JR軽井沢駅到着
16時57分,軽井沢コーヒー店を出発する.
このまま,少し急ぎ足で歩けば,軽井沢17時24分発あさま542号に間に合いそうである.
ここからは,強力なポチモードで,先頭がグングンと歩行速度を上げて,全員を引っ張る.前と後ろの間隔が広がると,振り返って無言の内に“早く歩け”とボデーランゲージで檄を飛ばす.
そして,17時14分,無事,JR軽井沢駅に到着する.
<JR軽井沢駅>
<長野新幹線で無事帰宅>
■大混雑の新幹線
新幹線の発車時刻まで,少し時間がある.そこで駅構内の売店に立ち寄る.お一人が買い物に手間取ったので,列車の時間に間に合うかヤキモキするが,どうにかこうにか「あさま542号」に滑り込む.勿論自由席.
余談だが・・・・
休日午後の新幹線自由席に軽井沢から乗ったら絶対と言って良いほど座れない.だから,私は故郷の小諸から東京に帰るときは,必ず佐久平から乗車するようにしている.
今日も,当然,満席所か軽井沢に到着したときに,既にデッキまで立ちん坊の人で一杯である.乗る前から立ち席を観念していた私は,デッキに座り込んでジッとしていることにする.幸か不幸か,この列車の次の停車駅は,なんと大宮である.早く東京に到着するのは有り難いが,すくなくとも大宮までは立ち席のままである.
列車が大宮に到着すると沢山の乗客が下車する.ようやく大宮で座席に座る.
<大混雑の新幹線>
■東海道本線に乗り継いで無事帰宅
「あさま542号」は,18時32分,東京駅に到着する.
東海道本線東京18時42分発の電車に乗り換える.東京駅は沢山の乗降客でごった返している.構内の照明が明るくて,なんとなく華やいでいる.
今日は日曜日.通勤客で一杯の平日に比較すると,電車は空いている.やれやれやっと帰れるぞと思うと,気分的にもホッとする.
19時過ぎに無事帰宅する.
これで,念願の高崎と軽井沢間の中山道の旅がやっと終わった.これで,江戸日本橋から,66次武佐宿まで,連続して踏破したことになる.
まずは良かった! 良かった!
この場を借りて,ご一緒頂いたA夫妻,A川さんに深く感謝する次第である.
*********第3日目のまとめ*********
<ラップタイム>
8:39 JR横川駅歩き出し
8:47 碓氷峠関所(8:55まで見学)
9:07 川久保薬師堂・薬師の清水
9:17 白髭神社
9:34 原駐在所
9:36 坂本宿下の木戸
9:44 脇本陣
9:47 坂本公民館
9:50 たかさご屋
9:52 コンビニ(9:57まで買い物)
10:02 坂本宿上木戸
10:04 坂本八幡宮(10:07まで参拝)
10:12 旧中仙道に入る
10:20 碓氷小屋
10:31 堂峰番所跡
10:56 柱状節理
11:00 刎石坂の石塔群
11:06 上り地蔵・下り地蔵
11:15 地蔵菩薩
11:18 風穴
11:23 弘法の井戸
11:28 刎石茶屋跡・
11:28 碓氷坂の関所跡
11:31 あずま屋
11:50 堀切
11:56 南向馬頭観音
11:58 北向馬頭観音
11:58 一里塚跡
12:09 座頭コロガシ
12:24 栗が原(12:50まで昼食)
13:19 山中茶屋
13:34 一つ家跡
13:40 陣場が原
13:44 明治天皇行幸道分岐
13:55 化粧水後
13:58 人馬施行所跡
14:25 仁王門
14:26 思婦石
14:38 熊野皇大神社(14:45まで参拝・見学)
14:50 見晴台脇から旧中仙道に入る
15:53 矢ヶ崎川を渡る
15:55 芭蕉の句碑
15:56 つるや跡
16:19 今回の中山道終点
16:23 軽井沢チョコレート店(16:57までコーヒーブレーク)
17:14 JR軽井沢駅着
[歩行記録]
■水平歩行距離 14.0km
■累積登攀高度 915m
■累積下降高度 359m
■所要時間(休憩時間込み)
横川 発 8:39
軽井沢着 17:14
(所要時間) 8時間35分(8.58h)
水平歩行速度 14.0km/8.58h=1.63km/h
******3日間の記録******
1日目 2日目 3日目 合計
■歩行距離(km) 10.5 17.7 14.0 42.2
■累積登攀高度(m) 179 312 915 1,406
■累積下降高度(m) 21 61 359 441
■所要時間(h) 5.88 8.73 8.39 23.0
■水平歩行速度(km/h) 1.79 2.03 1.63 1.83
(第7回おわり)
(第8回に続く)
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b74a5bec19d2b4c258f3f9b2741b34b3
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事(第8回)
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/ec726d0bcbaa3089ea728484f3541193
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
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歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(2)天和から吉野宿へ
<猛暑の中の難行苦行>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(2)天和から吉野宿へ
(五十三次洛遊会)
2013年7月7日(日) つづき
<ルート地図>
※再掲
<とにかく蒸し暑い>
■横道の集落
9時52分,小さな橋を渡る.地図を見ると,どうやらこの辺りは横道という所らしい.私たちは時々,濃い緑の木々で覆われた場所があるアスファルト道をひたすら歩く.
とにかく蒸し暑い.特に日が当たっているアスファルトの照り返しは,身体に堪える.メチャクチャに蒸し暑い.それでも,緑陰に入ると,蒸し暑さもいくらかはマシになる,有り難い.
歩いていても,たえず熱中症が気になる.
<横沢を渡る>
■石塔群と馬頭観音
9時54分,石塔群の脇を通過する.この石塔群が何かは,私には分からないが,ひょっとしたら墓石かも知れない.何だか分からないが,とにかく写真を撮る.
続いて,9時56分,道路際の土手に祀られた立派な馬頭観音の前を通過する.馬頭観音の周りの掃除が行き届いている.
<石塔群> <馬頭観音>
■橋沢と子の入を通過
9時57分,「甲州道中橋沢」と書かれた案内柱の前を通過する.さらに,10時01分,案内柱「甲州道中子の入」の前を通過する.
手許に準備した地図では,ここまで詳細な地名は分からない.
<橋沢> <子の入>
■天奈橋
なだらかな坂道を下っていると前方の斜面にカラフルな住宅地が見え出す.住宅地のところで少し道幅が広い歩道道路に合流するが,廻り込むようにして,すぐに左側の枝道に入る.
やや急な下り坂が続く.
10時04分,高速道路の上に架かる天奈橋を渡る.道路からの照り返しが強いの何のって…
<天奈橋を渡る>
<椚戸の集落を行く>
■加宿の天和
地図で確かめると,今私たちが歩いているところは天和というところらしい.
資料1の説明によると,天和は,これから訪れる吉野宿の加宿(かしゅく)だったところのようである.
資料3によると,「加宿(かしゅく)とは,主に江戸時代,五街道や脇往還において駅逓事務を取扱うため設定された宿場(宿駅)において,人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの.この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う.」とのこと.
なお,地図で確かめると,この辺り全体を椚戸というようだが,天和が椚戸に含まれるかどうかは,余所者の私には分からない.
■赤坂と桜野
10時08分,「赤坂」の案内柱,続いて,「桜野」の案内柱を通過する.
ここまで,マイナーな地名になると,普通の25000分の1の地形図ではとても補足しきれない.
<赤坂> <桜野>
■甲州古道椚戸
防火水槽看板のところで,細道路から土道に入る.土道に入ると幾分涼しくなる.そして,突き当たりで左折する.さらに舗装道路に出たところで左折する.そして,10時12分,「甲州古道椚戸」の案内杭の前に到着する.
<椚戸の案内杭>
■観福寺
10時14分,土道は再び舗装道路に突き当たる.舗装道路にでてから,進行方向左手にある観福寺を見上げながら,再び土道に入る.
なお,帰宅後,インターネットで,観福寺の故事来歴に関する情報を調べたが,今のところこれといった情報は入手できていない.
<観福寺の下を通過する>
■再び土道に入る
観福寺を過ぎると舗装道路は右カーブの下り坂になっている.
10時15分,カーブの手前にある「甲州古道上(?)」と書いてある案内杭の前に到着する.「?」の所は繁茂する夏草に隠れていて読めない.
この杭の直ぐ下に緑色の金網に囲まれた二つのゴミ箱がある.このゴミ箱の間で左折して,再び土道に入る.やや急な下り坂である.薄気味悪いほど鬱蒼とした緑に囲まれた道である.
<この案内杭の所から土道に入る>
■鬱蒼とした谷間の道
谷の名前は分からないが,私たちは谷の左岸沿いの小径を下る.鬱蒼とした茂みの中の道である.
10時17分,谷底の小川に架かる木橋を渡って,川の右岸沿いの道に入る.
<鬱蒼とした谷沿いの道を行く>
■石塔群
川の右岸沿いの道を川下に向けて歩き始める.
10時19分,進行方向右側の石塔群の前を通過する.石塔群の中に「廿三夜」や「馬頭観音」があることが確認できる.
資料4によると,二十三夜は「…子安講とか子安観音の講などと呼ばれるものである.二十三夜は〈三夜講〉といい,正月,5月,9月,11月や,正月,6月,9月,または正月,11月の23日夜に行い,隔年に大祝いしたり,〈廿三夜塔〉と刻んだ石塔などを立て,近世には各地で盛大に行われた。このほか,満月と新月は潮の干満がもっとも大きく大潮と呼ばれる.…」とのことである.
”なるほど…!”
<石塔群>
<吉野宿>
■吉野宿の概要
資料5では,吉野宿について次のように紹介している.
「新修五街道細見によると,与瀬から吉野宿へ三十四丁二十八間とあり,角屋の西横丁より二タセ越しの近みちあり. 舟賃四文づつ,二ヶ所吉野宿へ出る.」 とあり,勝瀬経由の近道を紹介している.また,甲州街道を利用した場合は,横道,橋沢を経て,大指ばしを渡り,なら本,椚戸を経て,吉野に至るルートが書かれている.
吉野宿は,本陣一軒,脇本陣一軒,旅籠三軒の小さな宿場で,桂川(相模川の別名)流域のため,古くは桂の里と呼ばれたところである.」
資料2(p.291)によれば,吉野宿の宿内人口は527人.内,男247人,女280人.宿内惣家数104軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠3軒.明治29年に大火があり,現在残っている古い建物も明治中期以降のものだという.
また,同資料(p.291)によれば,長谷川伸の『関の弥太ッペ』は,吉野宿を舞台にしているとのこと.残念ながら,私はこの本を読んでいない.日頃の不勉強さが悔やまれる.
■いよいよ吉野宿
下り坂を進んで三叉路左に入り集落の中の道を辿る.
10時21分,下り坂の途中で小麦を干している農家の方と出会う.
「あ〜ら…懐かしい!」
思わず立ち話.
「…この小麦は無農薬だよ…」
と説明してくれる.
丸い石を積んだ石垣が続く集落の中を下り続ける.
<小麦を干している農家の方> <石垣が印象的な集落>
■高札場跡
10時26分,高札場跡に到着する.草むした石垣の前に「吉野宿高札場」と書いた案内杭が1本立っているだけである.
<高札場跡>
■コンビニで一休み
高札場跡を過ぎると,直ぐに自動車の往来が激しい道路に出る.
平素,自動車に余り乗らない私には,この道路の名称は分からないが,相模川の右岸沿いの道路である.多分,国道20号線だろうと思うが定かではない.
ただでさえ蒸し暑くて往生しているのに,自動車の排気ガスや騒音で,ますますイライラしてくる.
10時27分,コンビニに到着する.誰からとはしに,必然的に,ここで休憩を取る.
私も早速店内に入って,ガリガリ君を1本購入する.涼しい店内で一休みしたかったが,営業妨害になるのを恐れて.敢えて滅多矢鱈に暑い外で休憩を取る.
ガリガリ君の美味しいこと! ガリガリ君を嘗めていると生き返ったような気分になる.
<コンビニで一休み>
■本陣跡
コンビニでの休憩を終えて,10時37分に再び歩き出す.
コンビニの直ぐ隣が吉野家本陣跡である.本陣跡は沢山の木立に囲まれた公園風に整備されている.
方綿に立つ説明板によると,吉野家は承久の乱のとき,一族は天皇方に従い,宇治瀬田の戦いに敗れて,故郷の大和の吉野を去り,この地に住み着いたという.江戸時代末期には本陣の造りは木造5階建の威容を誇っていた.また,明治13年の明治天皇行幸の際は,行在所になったという.「御本陣問屋吉野十郎右衛門五楼閣」と言われたが,明治に入ってから焼失した.
なお,資料1によると,本陣跡の直ぐ脇に船橋脇本陣跡があるはず.見落とさないように,注意深く辺りを見ながら歩いたが,残念ながら見落としてしまう.
<本陣跡>
■吉野神社
10時42分,吉野神社近くを通る.郵便局近くで右折して坂道を登れば吉野神社があることは分かってはいるが,あまりに蒸し暑いにで,意欲減退.とても坂道を登る気になれない.
“多分,この辺りの高い所に吉野神社はあるだろうな…”
と思いながら,リーダーのONさんと示し合わせて通過してしまう.メンバーの誰からも苦情はでない.
資料1によると,吉野神社のご神体は吉野家の先祖,吉野重信.神社は吉野家に向かって建てられているとのこと.
<吉野神社近くの丘>
■吉野橋を渡る
10時43分,相模川の支流,沢井川に架かる吉野橋を渡る.相模湖に近いためか,この辺りは淀みになっているらしく,釣り船が何艘か浮いている.
私たちは,吉野宿を後にして,いよいよ関野宿に向けて歩き出す.
<吉野宿を渡る> <相模川の支流>
■再び裏道へ入る
資料を見ると,吉野橋を渡った近くに,小猿橋跡があるようだが,蒸し暑さでボーッとしているせいか見付けられないまま通過する.
10時46分,SATELLA電気というお店の前で左折して裏道に入る.相変わらず蒸し暑い.少し登り坂になるが,暑いと一寸した登り坂でも結構堪える.
10時51分,進行方向右手にある藤野中学校に到着する.地図を見ると,この辺りに三角点があるようだ.この三角点の標高は215メートルである.
<SATELLA電気の先から右折する><藤野中学>
■巨大なエノキ
藤野中学を過ぎると,なだらかな下り坂になる.そして,再び自動車道路と合流する.
資料1には,この合流点に道祖神があるような記載があるが,どうしても見当たらない.多分暑さで,ボーッとしている私たちの探し方が悪いんだろう.
2車線の自動車道路に沿って,歩き続ける.ときどき通過する自動車に気を付けながら,暑いな,暑いなを連発しながら歩き続ける.
10時58分,大きなエノキの前に到着する.
近くに立っている案内板によると,この気の高さは12メートル,樹齢推定300年だという.
エノキとは道路の反対側から写真を撮るが,木が大きすぎるので,残念ながら木全体を撮ることはできない.
<巨大エノキの案内板> <巨大エノキ>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E5%AE%BF
資料4;http://kotobank.jp/word/%E5%BB%BF%E4%B8%89%E5%A4%9C%E5%A1%94
資料5:http://outdoor.geocities.jp/mrmaxtokai/kosyu11.html
(つづく)
「甲州道中」の前回の記事
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「甲州道中」の次回の記事
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「甲州道中」の索引
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この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方が,どうぞアクセスをご遠慮下さい.
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(3)関野宿
<草道を行く>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(3)関野宿
(五十三次洛遊会)
2013年7月7日(日) つづき
<ルート地図>
<藤野駅>
■階段を下って…
10時59分,巨大なエノキの前を通過する(前回の地図参照).
暫く進むと,左から信号日連入口で,日連大橋からの道路が合流する.なだらかな登り坂を歩き続ける.辺りがだんだんと街らしくなり賑やかになり始める,直ぐに,右上から道路が合流する.
11時05分頃,JR藤野駅近くから,左に降りる階段を下る.下りながら,
“あれ〜っ…この道で良いのかな?”
と心配になる.でも,大多数の皆さんは,何の躊躇もなく先頭に付いてくる.
“山だったら遭難しちゃうよ…”
多少迷いながら,階段を下りると谷へ向かうトラバース道になる.すると前方の視界が開ける.この辺りに土地勘がない私には,地図がなければ自分がどの辺りを歩いているのか,皆目見当が付かない.
谷間には沢山の住宅が建ち並んでいる.その先には半円形のアーチ橋が見えている.なかなかの絶景である.でも,相変わらずクソ暑い.
<藤野駅近くの坂道を下る>
■草道の手前で,たまらず休憩
坂道を下り終えた一番低いところが十字路になっている.この十字路を過ぎると登り返しの坂道になる.そんなに長い登り返しではないが,とにかく蒸し暑いので,結構堪える.
11時11分,坂道を登り切ったところにあるわずかな木陰で給水休憩を取る.
何回も同じことばかり言っているようだが,今日の猛暑は飛んでもないレベルである.ついに,ここでお一人がリタイアすることになる.こんな酷暑の日には無理は禁物.リーダーのONさんが,リタイアする人を近くの藤野駅まで見送ることになる.
成り行きで,ONさんが戻るまで,この辺りで待つことにする.
近くの民家の犬が頻りに吠える.犬が苦手な私の気分は余り良くない.
<わずかな木陰で給水休憩>
■草道に入る
20分ほどで,リタイアされた人を藤野駅まで見送ったONさんが戻ってくる.歩き続けのONさんに休憩を取って頂いてから,9時40分に再び歩き出す.
すぐに森の中の狭い草道になる.木陰に入ると随分と涼しい感じになる.でも,茂みの中を歩くので,蚊に刺されないかが心配になる.
<関野宿>
■関野宿の概要
資料2(p.293)によると,関野宿の宿内人口は635人.内,男323人,女312人.宿内惣家数130軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒旅籠3軒であった.
資料3では,「関野宿も本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠3軒,街道沿いの戸数わずか25戸という小さな小さな宿場であった.今の関野は,かつて宿場町であったことを忘れてしまったかのような静かなたたずまいの町である.ただし国道20号を大型トレーラーが行き交い騒音だけは凄い.」と紹介している.
■迷うのを心配する
地図を頼りに歩き続けるが,地図によると,どこかで右折して中央本線を横切った辺りからが関野宿である.ところが,地図だけ見ていると,どこで右折したらよいのかが,どうも判然としない.私はナビゲーション係の方に,詳細地図を良く見ているように依頼する.そしてグループの先頭に立って,右折する場所を見落とさないように依頼する.
ところが実際に右折する場所に行ってみると,下の写真のように立派な跨線橋があって,誰が行っても絶対に迷う心配はない.
“なあ〜んだ! こう言うことか…!”
私は安堵すると同時に,“産むは案ずるより易し”という諺を思い出す.
11時45分,跨線橋を渡り始める.いよいよ関野宿である.
<中央本線の跨線橋を渡ると関野宿である>
■関野本陣跡
跨線橋を渡って自動車道に突き当たる辺りに関野本陣跡がある.下の写真のような案内板があるだけで,辺りには現代風の民家があるだけで,昔の面影は殆どない.
資料2(p.298)によると,脇本陣跡と本陣跡は並んでいるとのことなので,まあこの辺りに脇本陣と本陣があったのだろうと想像して通過する.同資料によると,どちらも中村姓で家は新しくなっているという.
<関野宿跡>
■増珠寺
関野本陣跡から先はなだらかな下り坂になる.相変わらず蒸し暑い.
11時51分,増珠寺(ぞうしゅじ)の入口に到着する.増珠寺は,進行方向右手にある小高い丘の上にある.
私は折角ここまで来たのだから,せめて増珠寺本堂だけでも写真に撮っておこうと思う.
そこで,やや急な登り坂をほんの1〜2分登って.本堂の写真を撮る.広々とした境内に立派な本堂が建っている.
資料4によれば,龍渕山増珠寺は曹洞宗の寺.山号は龍淵山.本尊は延命地蔵菩薩。永正年間(1504〜1520)ここから北約2km大日野原の古寺に功雲寺7世潮翁能音大和尚 により開創され,黒沢山隠棲寺と称したが,後,天明5年、8世一堂快鞭大和尚の時,現在地に移転改築されたという.
また,資料5によれば,増珠寺の位置は桂川の河岸段丘中段標高215メートルの場所のようである.南向の境内の30ヘクタールほどの範囲から縄文時代,古墳時代の土器,石鏃が数点出土しているという.経塚の経文石が出土しているが,経塚の跡形はないようである.
<増珠寺>
■増珠寺石垣の日影で立ち休憩
増珠寺の石垣沿いに,わずかな日影がある.
私が,増珠寺の写真を撮っている間,どうにも蒸し暑くて堪らない一同は,この日陰に入って一休みしている.
“熱射病にならないように気を付けなければ…”
と改めて思う.
<増珠寺石垣の日影で一休み>
■力士追手風喜太郎
11時53分,増珠寺を過ぎてほどなく,力士追手風喜太郎の案内板の前に到着する.
この案内板には,追手風喜太郎が関野の出身であり,天保2年(1831年)に西大関になったことや,引退後相撲会館の要職を歴任したことなどが書かれている.
<追手風喜太郎の案内板>
■をとめ坂(御留坂)
やがて南西に向かう坂道にさしかかる.
“そろそろ昼食を撮る場所を探さなければ…”
と思いながら,坂道を下って,11時58分.また先ほどの舗装道路に合流する.合流点近くに御留坂の案内杭が立っている.合流点で右折.やがて道路は大きく左カーブする.
<御留坂の標識>
<三柱神社で昼食>
■神社の入口が分からない
地図を確かめると,この辺りの三柱神社があるようである.行ってみないと,どんなところか分からないが,もし神社の境内を借りて昼食が摂れれば好都合だなと思う.
ところが神社への入口が何処にあるのか分からない.
道路が左へカーブするところの右手に草道がある.何の標識があるわけではないが,神社の位置は確かにこの辺りである.見上げると森の木がこんもりと盛り上がっている.何となく神社があるような気配がある.
とにかく草道に入って見る.草道は直ぐにフェンスに突き当たる.突き当たりから右手にやや急な登り坂の道が続く.この道は100メートルほど先で左にカーブして,その先は見えない.
「とにかく,この道を登ってみましょう…」
ということで,ONリーダが先頭に立って登り始める.
やがて,左カーブに差し掛かる.
“やっぱり神社は無いか…”
と諦め掛けたときに,先頭のONさんが,
「神社がありますよ…」
と安堵したように言う.
“好かった!”
左カーブを曲がったところに,三柱神社の立派な参道がある.
12時03分に三枝神社の到着する.
「正に,ドンぴたりの時間ですね…」
と良いながら,長い石段を登る.石段脇に三柱神社の由来などを記述した案内板があるが,読むのは後回しにして,とにかく石段を登って,神社を参拝する.
<三柱神社の参道>
■神社の境内で昼食
神社の参拝を済ませてから,神様の通り道を避けるようにしながら,日影を探す.日陰に入ると,涼しい風が吹いている.これまでの猛暑が嘘のように涼しい.
私たちは適当な場所に座り込んで,各自,思い思いに昼食を撮る.
<三柱神社社殿>
■冷たい饂飩
私は,今日が猛暑の中の歩きになることを予想して,コンビニで.冷たい饂飩を購入していた.正に正解.美味しく頂戴する.
<私の昼食>
■三柱神社の由来
30分ほどで昼食を終える.
出発間際に三柱神社の案内板をザッと読む.
案内板の記事によると,この神社の創立年代は明らかではないが,秦氏の氏神である唐土明神が祭神である.関野,小渕地区の鎮守として崇敬されているという.
嘉永2年(1849年)6月,炉記し追手風喜太郎の寄進によって本殿が再建された.その後,明治6年に大牟礼神社と八坂神社が合併し三柱神社となったという.また,参道周辺の木々は杉,モミ,松など樹齢200年余りの大木で,リス,ムササビなどが生息しているという.なお,現在の拝殿は昭和53年に改築されたものだという.
<追手風喜太郎と三社神社>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://home.h01.itscom.net/tokaido/6kousyu/16sekino.html
資料4;http://www2u.biglobe.ne.jp/~shgkj-hk/reijou-25.htm
資料5:http://www.e-tanzawa.jp/contents/dl/support/info/tiiki-info/tsukuigaku/HTML/T07970.HTML
(つづく)
「甲州道中」の前回の記事
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「甲州道中」の索引
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富士山を見ながら登る猛暑の丹沢;塔ノ岳(今年34回目)
<塔ノ岳山頂から富士山を望む>
富士山を見ながら登る猛暑の丹沢;塔ノ岳(今年34回目)
2013年7月10日(水) 晴
■猛暑なので出掛けるを迷うが…
つい先日の日曜日,猛暑の中,山梨県内の甲州道中を歩いてから,暑い最中に歩き回るのが如何に辛いかを経験したばかりである.あの日以来,関東地方の各地では猛暑が居座っている.
毎週,出来るだけ水曜日と土曜日に丹沢塔ノ岳に登ろうと決めている私にとって,今日は塔ノ岳に出掛ける日である.でも,相変わらす猛暑が居座っているので,さてどうしたものかと思案する.
とはいえ,折角,4時前に起床したのだから,やっぱり塔ノ岳に出掛けようと思う.どはいえ,クソ暑い最中に,例の小田原駅での階段2段跳びは遠慮したい.そこで,いっそのこと朝の涼しい内に自宅から大船まで歩いてしまおうと思う.バスの料金でいえば240円の距離である.
でも,朝とはいえ,外の空気は何となくベットリとしていて気持ちが悪い.温度計を見ると,まだ4時30分だというのに24℃もある.
大船発5時10分の電車に乗車する.小田原では,何時もの“江戸の借りを長崎で返す”ような気分で,超ユックリと6時04分発の小田急電車に乗り換える.電車はガラ空き.6時20分に渋沢駅に到着する.
いくら何でも早すぎるのか,大倉行バス停には誰も居ない.ボンヤリバス停に立っていても仕方がないので,駅前をブラブラした後,再びバス停に戻る.どうやら下り電車が渋沢に到着したらしく常連ばかり数名の方がバス停に来られている.やがて次の下り電車が到着して,何人かの登山客が列に並ぶ.
さすがに酷暑のためか,1番バスの乗客は10名程度で空いている.その中で,ご常連はTGさん,TDさん,KMさん,NGさん,Hさん,NMさん,STさん.
■見晴階段
7時05分,たまたま居合わせたTGさん,TDさん,NGさんと一緒に大倉から歩き出す.
良く晴れてはいるが,湿度が高いためか,何となく湯気が立ちこめているようなねっとり空気が漂っている.案の定,今日は厳しい山登りになりそうである.
雑談をしながら,ユックリペースで登るが,次第にNGさんが遅れて見えなくなり,ここから暫くの間は残りの3人だけで登り続ける.
7時48分,見晴茶屋を通過して,いよいよあ大倉尾根第一関門の見晴階段に差し掛かる.階段下から坂の上を見上げた写真を撮る…が,帰宅後,映像を確かめると,極端にブレていて.何が撮れているのか全く分からない.残念ながら,ブログで公開できるような代物でない.
坂を見上げても,珍しいことに,今日は全く登山者の姿が見えない.
“そりゃ〜そうだろう.こんな蒸し暑い日に,わざわざバカ尾根などに登ろうという酔狂な連中はお前さん達だけだよ”
と誰かが言っているような気がする.
■駒止茶屋
一本松を過ぎて,平らな道に差し掛かる.8時05分,早々と下山してくるKSさんとすれ違う.例によって,
「やあ,やあ,…暫く振りですね」
と挨拶.
「山頂の気温は20℃.涼しくて気持ちが良いですよ…」
と教えてくれる.期待しよう.
いよいよ駒止階段に差し掛かる.
急な坂道は特に身体に注意しながら登ろうと思う.私は,齢(よわい)“トウネントッテ”ウン十歳の高齢者である.万一,トラブルでも起こしたら,
「だから言わんこっちゃない! 少しは自分の年令を考えて,暴挙は慎みなさい…」
と避難揶揄の猛攻を受けるに違いない.だから,極力,極力,何のトラブルもなく登るように絶えず注意している.
駒止階段の急坂は特に厳しい.超ユックリで,エッチラホッチラ登り続ける.その間,汗などかきたくないが,残念ながら汗ビッショリ.リュックの中のハイドレーションシステムには冷やした水が2リットルほど入っている.それを少しずつ飲みながら,時々は梅干しを口に入れる.
8時21分,ようやくの思いで堀山の家に到着する.大倉から歩き出して1時間16分も掛かっている.
“蒸し暑いから仕方がない…ドンマイ,ドンマイ…”
■堀山の尾根
いよいよ待望の堀山の尾根である.尾根道に入ると,気分的には,いくらか涼しいような気もするが,殆ど無風で,相変わらず暑い.
8時27分,下山してくるYZさんとすれ違う.暑いためかYZさんの駆ける速さが幾分遅いようである.
富士山が見える場所で,例によって富士山の写真を撮る.私,これでも昔技術屋.いつも富士山の写真が撮れないのは,多分,露出オーバーになっているんだろうと,勝手に判断する.そこで,まずは最も明るい青空にカメラを向けてから,シャッターを半押しする.それから富士山の写真を撮ってみる.
案の定,我が愛する馬鹿カメラでも,なかなかうまく富士山が写っている.シメシメ…である.まだ大気が淀んでいるためか,富士山には雲一つ掛かっていない.でも,こんなに太陽が照りつけていたら,何れ地面が熱せられて,上昇気流が富士山を吹き上がるだろう.そうだとすれば,間もなく雲に隠れるに違いない.今のうちに富士山の写真を沢山撮っておくことにする.
<堀山の尾根から富士山を望む>
■萱場平
9時37分,堀山の家に到着する.小草平からも相変わらず富士山が良く見えている.
ここまでご一緒したTGさんとTDさんが,ここで給水休憩を取るという.ハイドレーションシステムで絶えず給水している私は,
「ユックリ先に登っています」
とお二人に挨拶して,そのまま登り続ける.
私の標準時間では,堀山の家から花立山荘までの所要時間は40分である.今日は蒸し暑さを想定して,速度を一段と落として,42分程度を目安にしようと思う.
ところが,登り始めると汗が絶え間なく流れ出して,ズボンに汗が滲み始める.
“こりゃ〜…ダメだ!”
私は早々と42分は諦め,今日の登山の目標を.とにかく安全に山頂まで到着することに切り替える.礫混じりの道を登っていると,堀山の家で給水休憩を取っていたお二人の話し声がだんだんと後ろから近付いてくる.そして,階段道にさしかかるところで,お二人に先を譲る.それからは,お二人の後ろ姿がだんだんと小さくなり,やがて私の視界から消える.
8時57分,萱場平を通過する.私を追い越したお二人は,萱場平から階段道に差し掛かっているだろう.辺りには誰も居ない.厳しい日射しの中で,萱場平は静まり返っている.木道の間で繁茂するアザミは,こんなに蒸し暑いにもかかわらず元気に葉っぱを広げている.私はアザミから元気をもらいながら,アザミの写真を撮る.
<萱場平>
■後7分坂の富士山
萱場平を過ぎても,一向に涼しくなる気配はない.
勿論,私は数分おきに冷水を2〜3口ずつ補給しているが,相変わらず汗もかきっぱなしである.山学校では「流れるような汗をかかないように歩け」と教わっているが,涼しい北アルプスの山々ならいざ知らず,炎暑の塔ノ岳では,この教えを守るのは至難の業である.
私は,内心で,
“こんなに汗をかいていてはマズイナ…”
という自責の念もあって,一層歩行速度を落とす.
後7分坂(花立階段のこと)の手前にある大岩のところで下山してくる韋駄天のNMさんとすれ違う.何時もなら,後7分坂を3分の2ほど登ったところですれ違っている.それだけ,私の登山速度が遅くなっているんだろう.
9時14分,ようやく後7分坂に到着する.相変わらず富士山が良く見えている.まだ雲は沸いていないようである.早速,ここでも富士山の写真を撮る.
ノソノソと後7分坂を登っていると,もう少しで花立山荘に到着するところで,YUさんに追い抜かれる.
<後7分坂の下から富士山を望む>
■花立山荘
後7分坂を8分掛けて登って,ようやく9時25分に花立山荘に到着する.前方には,先ほど私を追い越したYUさんの後ろ姿が見えている.山荘前の広場からは相変わらず富士山が良く見えている.まだ時間が早いためか広場には誰も居ない.
大倉を歩き出してからの所要時間は2時間20分.堀山の家からは47分.いずれも大変な遅さだが,まあ,とにかく何事もなくここまで登れたことに感謝しなければ…
<花立山荘>
■花立山
花立山に差し掛かる.ちっとも涼しくならないので,シンドイ.
とにかく熱射病が怖いので,絶えず無理をしないように心掛ける.何時もは花立山荘から9分程度で登っている花立山まで12分も掛けてユックリ登る.
相変わらず富士山が良く見えているので心が和む.良く見ると富士山の山裾で雲が湧き始めているようである.
9時37分,花立山を通過する.
<花立山から富士山を望む>
■塔ノ岳山頂
9時47分,金冷シを通過する.ここまで来れば,いくら鈍足の私でも,塔ノ岳山頂まで15分もあればユックリ登れる.
“どうやら今日も無事に山頂まで登れそうだ…”
私は気分的に随分と楽になる.
金冷シから最初の長い階段を,ノロノロと登る.青息吐息と言った方が正しいかも知れない.
長い階段を登り切る頃,後ろからいきなり,
「おや,FHさん…」
と声を掛けられる.
驚いて振り返るとFTさんである.FTさんは,私が乗車したバスより30分後の2番バスで来られたのに,もう追い付かれてしまう.FTさんの脚力が実に羨ましい.
長い階段を登り切ると,私を追い越したはずのFTさんが私を待っている.そして,冷たい紅茶を一口分けてくれる.火照った身体に,この一杯がなんとも美味しい.感謝,感謝である.
後は,マイスピード…というよりは,これ以上速く歩けない.忽ちの内にFTさんの後ろ姿は見えなくなる.
青息吐息で登り続けて,10時03分,ようやく塔ノ岳山頂に辿り着く.山頂の気温は20℃.涼しい微風が吹いている.大倉からの所要時間は2時間58分.よくもまあ,こんなに時間が掛かったものだと呆れてしまう.でも,まあ,考えようによっては,熱中症にもならずに,無事,山頂に到着したんだから,素直に喜ぶべきだよと自分に言い聞かせる.
家から2リットルの水を持参していたが,登りで既に1.5リットルほど飲んでいる.下山は残り0.5リットルでナントカしなければ…
まずは山頂から周囲の写真を撮るという儀式を済ませる.湿度が高いためか,辺り一面に靄が掛かっていて,辺りの風景はハッキリとは見えない.案の定,富士山山頂には雲が掛かり始めている.
<塔ノ岳山頂からの富士山>
■涼しい山頂
山頂の気温はそれほど低いわけではないが,涼しい風が吹いている.
山頂の一角で私より先に山頂に到着した常連さん達が涼んでいる.韋駄天のSTさんも珍しくまだ山頂に居られる.
私も常連さんに加わって暫くの間雑談に興じる.
<山頂で雑談>
■尊仏山荘
STさんとTGさんは下山開始.
残りの3人は,尊仏山荘に立ち寄る.先客は常連のYUさん.今日の小屋番はWDさん.ネコはどこかで昼寝をしているらしく客席には現れない.
私は,水分補給を兼ねて,300円也のお茶を所望する.ときどき登山客が小屋で飲み物などを購入するが,外の方が気持ちが良いのか,小屋に留まらずに外へ出て行く.
暫くの間,取り留めもない雑談に興じる.
■色々な方とすれ違いながら下山
10時31分,そろそろ下山しようと思う.
FTさん,KMさん,TDさんと一緒に下山開始.
最初の階段で,同じバスに乗車していたHさんとすれ違う.さらに,金冷シ手前の長い階段で,NGさんとすれ違う.登り初めでは,私たちもNGさんと一緒に歩いていた.
NGさんは,
「今日は,4時間の登山ですよ…」
と苦笑する.
さらに下り続けて,花立山のガレ場で,大きな荷物を背負ったチャンピョンとすれ違う.写真を撮らせて…というと,両手を広げてポーズをとってくれる.
<重い荷物を背負ったチャンピョン>
■白いネコ
駒止茶屋を過ぎる辺りから,だんだんと蒸し暑くなる.まだ,蚊やアブの数が少ないけれども,これからの季節は,山麓で蚊やアブに悩まされることになる.
今日乗車するバスは12時52分発と決めているので,時間はタップリある.ユックリとした調子で下山し続ける.途中,観音茶屋で休憩を取っていたTGさんとバッタリ会う.
大倉の集落に入ったところで,白いネコを見付ける.早速,このネコの写真を撮ろうとするが,手前の木が邪魔で,なかなか上手く撮れない.尻尾が魅力的なネコだが,尊仏山荘のミー君とは血縁関係はなさそうである.
<白いネコ>
■無事帰宅
12時31分に大倉に下山する.12時52分発渋沢行のバスまで少し時間がある.靴を洗ったり,清涼飲料水を飲んだりしながらバスを待つ.
渋沢駅,小田原駅での接続も円滑で,14時25分頃,無事,大船に到着する.
大船も相変わらず暑い…といっても,微風なが海風が吹いているので,大倉辺りと比較すると,大分過ごしやすい.
14時45分頃,無事帰宅する.
登山で汗ビッショリの衣類を全部洗濯機に放り込み,シャワーを浴びて汗を流す.乾いた衣類に着替えると,実に爽やかな気分になる.
■思わぬ出来事
私は,ほぼ1ヶ月毎に,近くの内科医を訪れて,血圧を中心に身体のチェックをしてもらっている.私は特にこれといった持病はないが,血圧だけは少々高めである.
何とか薬剤に頼らずに血圧を低く保とうとしているが,なかなか大変である.
診断を終えて,代金を支払うときに,私の財布が汗でベトベトしているのに気がつく.塔ノ岳に登っている間にかいた汗を,ポケットに入れていた財布がタップリと吸い込んでいて.財布の中の1000円札も汗でベタベタ,ビショビショになっている.困った! でも仕方がない.
「どうもスミマセン…先ほど丹沢の山に登っていたんですが…そのときかいた汗でお札がベタベタになっちゃいました…」
と詫びを入れる.
窓口の看護師は,大笑いしながら,
「別に構いませんよ…お札が何枚か一緒に張り付いていたら貰っちゃいますよ」
と冗談を言う.傍らにいた患者さんも大笑いである.
ハズカシイ! でも,どうしようもない.
看護師はティッシュ箱からティッシュを取り出して,ベタベタのお札をティッシュに挟み込む.
勿論,診断結果は異常なし.
(おわり)
「丹沢の山旅」の前回の記事
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「丹沢の山旅」の次回の記事
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歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(4)上野原宿
<諏訪関跡の日影で一休み>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(4)上野原宿
(五十三次洛遊会)
2013年7月7日(日) つづき
<ルート地図>
※再掲
<上野原宿に入る>
■上野原宿の概要
資料2(pp.294-295)によれば,上野原宿の宿内人口は784人.内,男386人,女398人.宿内惣家数159軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠20軒.「この上野原宿はさきの国道と甲州道中が一緒になったところから80メートルの地点から始まる」と説明している.
「天文23年(1554年),武田信玄の娘が北条氏政に稼いだ際は,武田側一万数千,北条方も五千の兵をここ上野原に送り,娘を北条氏に吹き渡した」という.当時は「それだけの兵力を収容できる能力があった」宿場だったようである.
また,同資料によると,江戸時代に入ると,上野原は機織りの産地として発展し,甲斐絹として有名だったようである.
■諏訪関跡
三枝神社境内で昼食を終えた私たちは,12時30分過ぎに再び歩き出す.
往路の参道を通って自動車道路に戻る.道路は大きく左にカーブする.緩やかな下り坂である.左カーブを通過すると,今度は大きく右にカーブする.アスファルトの照り返しがますます強くなる.
12時52分,諏訪関跡に到着する.「諏訪関跡」と刻字された立派な石柱が立っている.その脇に「鎮魂碑」という小振りの石柱が並べて立ててある.脊柱の周りは緑が美しい雑木林になっている.
資料2(pp.293-294)によると,諏訪関は別名境川御関所とも言われているようである.「諏訪の関有り.相甲の堺なり.関は甲斐の国のよし.信玄公の御在世には上武両州の軍勢の守りとして,人数を多く置かれし由,今は関守人もたえだえのよし」で,信玄が北条氏への備えとして設けたものらしい.この関所跡には夜泣き桜があるようだが,私たちは見落としてしまう.
ここは甲州25関のひとつである.
何れにしても私たちは,どうやら相模国から甲斐国に入ったようである.
とにかく蒸し暑くて参ってくる.
一同,諏訪宿跡のわずかな日影に入り込んで一休みする(冒頭の写真).
<諏訪関跡> <諏訪番所跡の説明板>
■甲州街道史跡案内図
諏訪関石塔と道を挟んで反対側に,攻守街道史跡案内図が立っている.
早速写真を撮るが,どうもボケていて,残念な蛾阿ハッキリとは読み取れない.いろいろな資料を調べると,この地図は,これから歩くところで何回もお目に掛かれそうなので.今度見掛けたときは,もっとハッキリ写るように努力したいと思っている.
<甲州街道史跡案内図>
■ますます気温が上がる
午後になって,ますます気温が上がっているようである.手許に寒暖計がないので,正確な気温は分からないが,私にはついぞ経験したことがないほどの暑さである.アスファルトの照り返しもあるので,多分,39℃程度に達しているのではないかと思う.とにかく夏場の甲斐路はメチャメチャ暑いように思う.
地図を見ると,もうすぐ先に慈眼寺(じげんじ)という寺があるようである.私はONリーダに,
「間もなく,慈眼寺という寺があるようです.ここで給水休憩を取りましょう…もっとも,慈眼寺がどんなところか分かりませんが…」
と提案する.
炎暑の路をトボトボと歩いていると,13時02分,電信柱に「慈眼寺」の看板があるのを見付ける.とにかく慈眼寺を訪れて見ることにする.
<慈眼寺の案内板>
<慈眼寺と諏訪神社>
■慈眼寺で休憩
慈眼寺の看板のところで右折すると慈眼寺がある,小さな寺である.曹洞宗.山号は護国山.
資料3によると,「開基は桂岸祖仙首座で,慶長7年(1602念)に本山保福寺二世が退隠して当寺の開山となる.大正5年(1916年)倒壊し,大神田寅吉が昭和5年(1930年)に独力にて私財を喜捨して本堂を再建した.昭和16年鐘楼堂および庫裏を再建して今日に至っている.」
「梵鐘に「洪鐘之起其始、甲州都留郡上野原村現住十七世徹龍,時天保5年(1834年)11月吉日,鋳物師,新田村足立惣右衛門,加藤勘米兵衛,藤原高伴作」とあったが,戦時中供出して現在はない.」とのこと.残念.本尊は十一面観音.
一同,寺の廊下や木陰にヘタヘタと座り込むように休憩を取る.私もかなりの疲労感があるが,一行の皆さんも大分疲れているようである.私は,
“これはあまり無理できないな…”
と判断する.そこで私はリーダに,
「今日は無理しないで,西光寺で終わりにしましょう」
と提案する.
リーダも,
「そうしましょう…」
ということになる.
<慈眼寺で休憩>
■船守弥三郎碑
境内一角に船守弥三郎碑が立っている.傍らに説明文があるが,半ば消えていて大変読みずらい,
資料4には,「日蓮大聖人御在世当時の信徒.伊豆伊東の河名の漁師.大聖人が弘長元年(1261)5月12日に伊東に流罪された時,夫妻そろって大聖人を外護した.初め伊東の河名の津についてから地頭の伊東八郎左衛門の屋敷に移るまでの30余日の間,大聖人を保護し,多くの供養をして,門下の一人となった.船守とは「船頭の頭」「漁師頭」のこと.」という説明がある.
船守弥三郎は上野原の出身である.
資料1によると,弥三郎の遺骨を伊豆川奈から分骨して,この寺に祀ったという.
<船守弥三郎碑の説明文><船守弥三郎碑>
■諏訪神社
13時09分,進行方向右手にある諏訪神社に到着する.余りの蒸し暑さのため,わざわざ境内に入って参拝する気にもなれない,私たちは立派な鳥居の前で,ちょっと立ち止まっただけで,何となく通過する.
資料1によると,この神社には大きな杉の木が5本並んでいるようである.この地を支配していた古郡氏が諏訪神社を勧請したところから,古郡神社とも呼ばれているとのこと.
資料5には,「諏訪神社の社暦は創立 久安年中(1145〜1450年)といわれている.
古郡郷に古郡氏より2〜3年後に信州諏訪の旧家 上原氏が農商2集団を率いて古郡に入った(故山梨学院教授 守屋 千尋「桂川を中心とした歴史・地理」HPによる).古郡氏は上原氏に諏訪土着を要請し,上原氏もまた諏訪文化の普及が本来の目的であったことから利害が一致し,神社創建が実現したと思われる.
古郡神社の名称発生の起因は古郡氏が武の神といわれる諏訪神社を郷の守り神として,古郡神社に改め正式に社名として名乗らせたと想定される.上原氏も郷主が古郡神社を正式名称として主張すれば,譲歩を余儀なくされ,古郡神社を公称として認めその後に諏訪大明神と記することで合意したと想定される.」という説明がある(一部省略).
<諏訪神社>
<上野原駅周辺を行く>
■旧甲州街道碑
13時14分,旧甲州街道碑を通過する.とてつもなく大きな石に「旧甲州街道」と刻字してある.私は,この碑を見て,私たちが間違いなく旧甲州街道を歩いていることを確認する.
<旧甲州街道の碑>
■諏訪橋を渡る
13時18分,中央高速道路上に架かる諏訪橋を渡る.午後の日射しはますます強くなっている.何の変哲もない橋を,ただ黙々と渡る.
橋を渡ると,いよいよ上野原の中心部に近付く.
<諏訪橋を渡る>
■疱瘡神社と一里塚跡
13時17分,疱瘡神社に到着する.まっ赤な社殿が印象的である.
資料6によると,疱瘡を流行させる悪魔が自村に入らないように,村堺に「しめ縄」を張り,赤い紙や布をぶら下げた.家の玄関の屋根に「さん俵」に小豆ご飯を供え,赤い「御幣」を建てたり,それを川に流して,悪魔の退散を祈った.
疱瘡神社には,疱瘡神として,「牛頭天王(ごずてんおう)」,「大山祗命」などを強い神を祭神として祀ることが多いという.
赤い色をした社殿を見ていると,往時の人達の疱瘡への苦悩が分かるような気がしてくる.
疱瘡神社の鳥居の脇に一里塚跡の案内板が立っている.ここは江戸日本橋から17里目の一里塚があった場所である.
<疱瘡神社>
■お寺道
13時25分,お寺路という路地と交差する.路の名前が素敵だったので,立ち止まって「お寺路」の奥まで見通す.道路の遙か先,緩やかな上り坂の先にお寺の大きな屋根が見えている.
蒸し暑くなければ,ちょっと寄り道して,奥にあるお寺を拝観したいところだが,今はその元気もない.
帰宅後,この寺の位置を手持ちの地図で確かめた,この寺の位置は確認できたが,寺の名称や故事来歴は,今のところ分からない.
<お寺道を見通す>
■牛倉神社は通過
進行方向左手に少し入ったところに牛倉神社があることを確認するが,クソ暑いのに,わざわざ脇道に入るのは真っ平ゴメン.という訳で牛倉神社参拝は省略する.
資料7には,牛倉神社の「境内入口には社号標「牛倉神社」「幸燈明神」と銅製靖国鳥居が立ち,入母屋造りの拝殿には二重の千鳥破風が付き,神明造りの本殿は大きく厳かな感じがする.その他,境内には末社や碑等が点在し,神楽殿も建てられていた.上野原市の市街地に鎮座する神社だが,大きな木も聳えた清々しく厳かな感じの神社であった.
御祭神:保食神、建速須佐之男尊、天兒屋根命、武甕槌命、経津主命
祭礼日:例大祭・9月5日、歳旦祭・1月1日、節分祭・2月3日、建国祭・2月11日、祈念祭・2月17日、大祓・6月30日 12月31日、新嘗祭・11月23日、月並祭・毎月1日 15日
境内社:聖徳社、祖霊社等
由緒:上野原市の中心部に位置する牛倉神社は創立年月は詳ではないが,人皇三十四代舒明天皇2年(630年)秋9月初めて祭事を営んだと伝えられる.延喜式外の古社で日本風土記又和名抄(応和年間1621年源順著)に古郡の郷に幸燈明神と記載されている.」
という説明がある.
資料1によると,ここは鎌倉時代以前からの古刹で,400貫(約1500キログラム)の大御輿が有名だという.
牛倉神社は,上野原では見落とすことができない神社のようである.また,機会があったら,是非,拝観したいなと思っている.
■脇本陣跡
歩き進むにつれて,だんだんと賑やかな街並みに変わる.
13時31分,ルートインコート相模湖上野原に到着する.資料1によると,ルートイン付近は若松屋脇本陣跡のようである.
皇女和宮降嫁の際,荷扱いを行い,その折に下賜された屏風があるという.
余談だが…
今年(2013年)9月に,今回に引きつづき2泊3日の予定で.甲州道中を歩くことになっているが,そのときこのルートインで2連泊することになっている.
そのとき,もし時間があったら先ほどの牛倉神社を訪れてみたいなと思っている.
<ホテルルートイン上野腹;脇本陣跡>
■大ケヤキ
13時33分頃,進行方向右手に少し入ったところに大ケヤキがある場所に到着する.
何回も同じ様なことばかり愚痴るが,とにかく蒸し暑いので,大ケヤキが直ぐそこにあると分かっていても,わざわざ寄り道をする気になれない.
“多分,あの辺りに大ケヤキがあるんだろう”
ということで,それらしい場所の木の写真をデジカメに収める.でも,これが目指す大ケヤキかどうかは全く分からない.
<大ケヤキかな?>
<鶴川宿を目指して>
■草道を下る
13時33分,上野原本町歩道橋を通過する.ここはY字型の大きな道路の交差点に道幅が狭い道路が3本交差する五叉路になっている.
地図を頼りに,道幅が少し狭い道路に入る.道なりに緩やかな下り坂を進む.
13時39分,コンビニの前を通過する.ここのコンビニは立ち寄らずに通過する.地図で確かめると,この辺りの地名は「原」というらしい.
道なりに進むと,やがて道路は大きく左にカーブする.このカーブが始まるところから右折して草道に入る.進行方向右手が高い土手になっている.
草道を下って,13時58分一旦舗装道路に飛び出る.ここはY字型の三叉路になっている.この三叉路を左に入る.そのまま道なりに進む.
1大きくS字型に曲がる道路をショートカットするように交差して,14時04分,鶴川の河岸沿いの道に合流する.
<鶴川の河岸沿いの道に降りる>
■鶴川橋を渡る
14時02分,鶴川に架かる鶴川橋を渡る.
この橋を渡れ阿,いよいよ鶴川宿である.
橋の上から,鶴川を覗き込む.このあたりは水浴びができるらしく,沢山の人が川の中で遊んでいる.如何にも涼しげである.
“一緒に水浴びをしたいな”
という気分になる.
<鶴川橋を渡る> <鶴川で水浴び>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www.takahashi-sekizai.co.jp/bosyo-syokai/yamanashi/jiganji/index.htm
資料4;http://www2.atpages.jp/gosho/person/06-03.html
資料5:http://kofucity-lc.com/memberreport/060813_furugori/furugouri_jinja.html
資料6;http://www.city.uenohara.yamanashi.jp/shokokanko/pamphlet.html
資料7;http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/yamanasi/uenoharasi/ushikura/ushikura.html
(つづく)
「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9378653e2b3476e11dea35279b586d34
「甲州道中」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/59f89f4ad294a7d72213ac5bb556921b
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58
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