<日枝神社>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第2日目(4):八本木から郷原へ
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)〜14日(日)
※本稿の初出は2012年10月17日である.
久々に初稿の本文の加除修正を行って,再登録する.
2012年10月13日(土) (つづき)
<安中原市と松井田宿地図>
■安中原市地図(再掲)
■松井田宿地図
<八本木>
■八本木戸長役場跡
12時53分,八本木戸長役場跡を通過する.
一般の住宅なのだろうか,敷地に中に「八本木戸長役場跡」の案内杭が立っている.周りには遺構のようなものは何も残っていまい.
<八本木戸長役場跡>
■道祖神
13時02分,大きな石の道祖神前を通過する.この辺りの道祖神は,丸い形の大きな石を素材に道祖神を作っているのが特徴のようである.
地域により,道祖神の形状がどのような特徴を持っているかを調べたら面白そうである.
<大きくて丸い石の道祖神>
■馬頭観世音
続いて,13時10分,馬頭観世音の前を通過する.こちらも丸くて大きな石に馬頭観世音と刻字してある.
先ほどの道祖神や,この馬頭観音に使われている石は,碓氷川の河川敷で産出されたものなのだろうか.
<大きな石の馬頭観音>
<日枝神社>
■日枝神社の立派な鳥居
13時12分,村社日枝神社に到着する.立派な鳥居から奥に参道が続いている.ここは村社.立派なお社なので,少し時間を掛けて参拝する.
境内にある案内板によると,「日枝神社は旧号山王と称し古文書の絵図にもその所在が明示されているが創建の年代は不詳である.現在の社殿は明治四十四年に再建され,拝殿,向拝殿共十三坪六合余,・・・主祭神は大山咋神.明治四十年代には神社統合により,村内の白山神社,諏訪神社などを合祀し,大正十三年に指定村社になった」という.
<村社日枝神社の鳥居と参道>
■日枝神社社殿
立派な鳥居を潜って参道を奥に進む.突き当たりに紅白の幕を張った社殿がある.
周りの樹木の深い緑が厳かな雰囲気を醸し出している.辺りには私達以外に人影はなく静まり返っている.
私達は少し改まった気持ちになって参拝を済ませる.
<日枝神社>
■七福神
日枝神社の境内を一回りする.境内の片隅に七福神が並んでいる.
改めて七福神の像を眺めると,どの神様が福禄寿?,毘沙門天はどれ? 七福神の記憶があやふやなので,どの像がどの神様か殆ど見分けられない.
「なんだ! お前は・・・何年鎌倉に住んでいるんだ! 毎年七福神詣でをしているくせに.何で見分けられないんだよ・・」
と,また,もう一人の私が私を責める.
「カンベンしてくれ〜ぃ! 頭が悪いんだよ! 特に花や人の名前が覚えられないんだよ・・・自分でも情けないんだよ・・」
と愚痴のような言い訳をする.
七福神の像を見ていると,私の鎌倉の山の知人,愛称「仙人」に,姿形が全くそっくりの神様を見付ける.“これは縁起が良い!” 早速,知人のお姿をデジカメに収める.
<日枝神社の七福神> <鎌倉の山の知人「仙人」そっくり>
<沢山の石像群>
■立派な庚申供養塔
13時17分,日枝神社近くの立派な庚申供養塔を拝見する.この供養塔を中心に4基の石塔が並んでいる.
昔の人達の信仰心の強さが偲ばれる.
<庚申供養塔と石柱群>
■自性寺
13時20分,自性寺に到着する.
傍らにある案内文によると,この寺は,だれが開基したのか良く分からないが,一般に1134年(1134年)開創ということになっている.
だだっ広い墓地の片隅で,彼岸花が満開である.遠くに見える山は,何という山だろうか.赤城山かな? 榛名山かな? 地理に疎い私には良く分からない.
資料6によると,「自性寺には2基の宝篋印塔があり,応永3年(1396年)のものは95cm,嘉吉3年(1443年)のものは93cmである.いずれも相輪,笠,身,基礎からなる関東形式の宝篋印塔でである.」
<自性寺の彼岸花>
■また道祖神と供養塔
自性寺の直ぐ近くに,また大きな丸い石の道祖神がある.その隣に,梵字1字の下に「百■(千?)川供養」と刻字した石塔が並んでいる.これは何だろう?
この辺りには実に沢山の石塔があるなという印象を受ける.
<道祖神と供養塔>
<郷原と妙義道>
■郷原の妙義道常夜灯
やがて,中山道は国道と合流する.13時40分,合流点近くの郷原の妙義道常夜灯に到着する.案内杭の後ろに立派な常夜灯と道祖神の石柱が置かれている.
近くにある案内板の説明によると,「この常夜灯は1808年(文化5年)に碓氷郡碓氷村(現安中市郷原)を中心とする「妙義講」の人々が,信州伊奈郡の石工,向山民吉に建立させたものだという.常夜灯の露面4面と笠の正面には十六辨の八重菊の紋章が彫られている.また,塔身の正面には「白雲山」,東面に「文化五年戌辰四月七日」,西面には「当所講中」,台石には「是より妙義道」と刻まれている.妙義神社への参拝者のための道しるべとなっていたことがわかる.切石積みの台座には,妙義講中六十七名と石工の名前が刻まれている.当時の妙義山への深い信仰心を示している.なお,元々この常夜灯はここから東へ五十メートルの中山道から妙技道への入口にあったが,昭和六十年三月に現在地に移転したものである.」
<妙義道常夜灯>
■山中貞輔氏の碑
常夜灯に向かって右手に山中貞輔氏の碑がある(写真省略).
傍らの説明文(上の写真右手)によると,「中後閑より郷原の山中氏へ養子に来て十二代目をつぐ剣撃の師範山中秀次郎の父板鼻の山中三郎の祖先である.学問にたけており江戸時代から明治の初めにかけて寺子屋を開いていた弟子たちが師を偲んで建てた碑である.
短歌
月の入る西の都を
さし行ば
帰らぬ旅に
迷路もなし」
書いてある.
■ゆっくり走ろう・・
自動車の往来がうるさい国道沿いの歩道を歩く.
13時43分,歩道沿いに沢山のコケシが並んでいるところを通過する.白くてのっぽなコケシがズラリと並んでいて,とても眼に付く.
良く見ると,1本1本のコケシに1字ずつ文字が書いてある.
振り返ってみると,「ゆっくりはしろうあんなか」と読める.なかなか面白い.中山道歩きの目的とはちょっと外れるが面白いので写真に撮っておく.
<国道沿いのコケシ>
■展望の枝道を楽しむ
13時41分,国道から左手の細い道に入る.この細い道も国道とほぼ並行に西へ向かってから,また国道と合流する.
細い道に入ると,たちまちの内に自動車の騒音が聞こえなくなり,長閑な雰囲気になる.眼下には碓氷川沿いに広がる集落や田畑が見下ろせる.その向こうには榛名山(かな?)と思われる群馬の名峰が見えている.
素晴らしい展望である.
<枝道からの展望>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課,発行年代未詳,「旧道日和(パンフレット)」安中市観光協会
資料6;http://www.annaka-city.com/index.shtml
[加除修正]
2013/5/21 誤字脱字転換ミスの修正および本文の加筆.引用資料の整理など
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