<力士雷電之生家>
善光寺街道;第2回;第1日目(3);滋野界隈と力士雷電の生家
(五十三次洛遊会)
2015年10月27日(火)~2016年10月29日(木)
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第1日目;2015年8月25日(火) (つづき)
<ルート地図>
■滋野・布下
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■滋野駅・力士雷電の生家
<牧家を行く>
■牧家郵便局
国道18号線沿いにあるセブンイレブンの駐車場で昼食を終えた私達は,12時36分,セブンイレブンから歩き出す.
いよいよ午後の部の始まりである.
まずは国道18号線から,もとの善光寺街道沿いのJAうえだ滋野店付近に戻る.そして,善光寺街道を西に向けて歩き出す.
12時47分,牧家郵便局の前を通過する.瓦屋根葺きの立派な建物である.
私は歩きながら,雷電為右衛門の生家を見物するか,それとも真っ直ぐ千曲川沿いに下って布引観音を見物して小諸まで歩いて戻るか…,でも小諸まで歩くと16キロメートルほどに長丁場になるし,最後に千曲川から小諸駅付近まで一寸長い登り坂がある.
”どうしよう…?”
私は,歩きながら,あれこれと考える.そして,小諸駅付近まで歩くのは無理だと判断する.
”よし…それならば雷電為右衛門の生家を見物しよう.そして布引観音からはタクシー相乗りで小諸まで戻ろう”
と決断する.
<牧家郵便局>
■牧家一里塚
歩き出してすぐの12時48分,牧家一里塚址に到着する.
傍らに立つ案内板の記事によると,ここは江戸日本橋から43番目の一里塚である.江戸幕府は東海道,中山道に次いで北国街道の整備を行ったとのこと.当時,1日6~7里歩くとして,ここから江戸間では1週間を要したという.1日6~7里というと24~28キロメートルということになる.私は心の中で.
”今の私達には,とても,とても…そんなには歩けないな…”
と驚いている.
今回の旅は,1日辺り14キロメートル程度を上限として計画している.もっとも名所旧跡の見物を兼ねているが…
それにしても,私達現代人は,随分と歩けなくなっているなと再認識させられる.
余談になるが…
江戸時代の人達が,1週間掛けて江戸間でテクテク歩いているのとほぼ同じ所要時間で,私は,つい先日,カナダのアシニボインを旅をしてきた.江戸時代と言えばそれほど昔のことではない.わずかの間に,飛行機,コンピュータなどの発達によって,生き様が随分と替わってしまったなと改めてビックリさせられる.
混雑する電車の中で,過半数の乗客がスマホと睨めっこしている情景を,江戸時代に予測した人は間違いなく皆無であろう.こんなことを連想しながら,一里塚を通過する.
なお,往時はここに雷電為右衛門の碑があって,この辺りは盛況だったようだが,今はこの碑も別の所に写されたとのことである.
<牧家一里塚跡>
■牧家橋を渡る
12時50分,西沢川に架かる牧家橋を渡る.西沢川は小さな川だが,清流がサクサクと流下している.
私は地図で西沢川と牧家橋の位置を確かめる.そして,もうすぐ雷電為右衛門の碑が立っている交差点が近いことを知る.同行の皆さんに,
「もうすぐ来店為右衛門の碑があるはずです.見落とさないようにしましょう…」
と注意する.
<牧家橋> <西沢川>
■雷電為右衛門の碑
12時51分,雷電為右衛門の碑が立っている交差点に到着する.随分と大きな碑である.こんなに大きいのなら見落とすはずもない.
私達は大きな碑の廻りで,一休みする.
この碑は東御市史跡に指定されている.碑の脇に立つ案内文の説明によると,「雷電は文政2年(1790年)の初土俵から,文化8年(1811年)の引退までの成績が,勝ち星254,負け星10,勝負預り等21であった.「力士雷電之碑」は佐久間象山の撰文並びに書による.南面するのが新碑で,西面するのは旧碑である.この碑を欠き取って身につけると,立身出世するとか,勝負事に勝つとかの迷信が生まれ,打ち欠いて持ち去る者が多く,碑文が読めなくなり,新しい碑が建てられた」とのこと.
私は先ほど通過した牧家一里塚から移動されたという雷電之碑は,ここにある碑ことかなと思いながら,この碑を見上げる.
雷電と言えば,前回の街道歩きで参拝した小諸市内の養蓮寺に雷電が寄進した釣り鐘があったことを連想する.
<雷電為右衛門の碑2本>
<東御嬬恋線を遡る>
■山浦清麿墓
12時53分,雷電為右衛門の碑が立っている交差点を右折して,東御嬬恋線に入る.やや急な上り坂を登り始める.
12時55分,国道18号線を横断する.さらに坂道を登って,13時05分に山浦清麿の墓があると思われる場所に到着する.空き地の奥まったところに沢山の石塔や墓石が並んでいるが,どれが山浦清麿の墓か分からない.資料3に掲載されている写真を見ると清麿の墓は先が尖った三角形の墓石のようだが,ちょっと見渡した範囲では探せないまま,見付けるのを諦めてしまう.
資料1によると,山浦清麿は刀匠として有名な人物だったようである.
また資料3によると,山浦清麿は源清麿(みなもと きよまろ)とも称し,「文化10年(1813年) -嘉永7年(1855年)は江戸時代後期に活躍した刀工である.本名山浦環(やまうら たまき).初銘は正行,ついで秀寿.兄は刀工の山浦真雄.水心子正秀,大慶直胤と並び「江戸三作」と称された名工.波乱に富んだ人生を送ったことから,新々刀期の刀工の中でも特に人気が高い.師匠である旗本の兵学者・窪田清音(くぼたすがね)より「清」の一字をもらう.本来は「すがまろ」と言うが,現在は「きよまろ」で広く名が通っている…」という解説がある.
<刀匠清麿之墓入口の石塔>
■慈眼視衆生
やや急で長い登り坂が連続する.
13時05分,慈眼視衆生(じげんししゅじょう)という額が飾られたお堂の前を通過する.小振りながら立派な建物である.この建物の後ろには古い石塔が積み重ねられるようにして祀られている.
示現し衆生とは言うまでもなく,慈しみの眼をもって衆生(つまり世の中や人)を見るという意味である.
このお堂を,誰が,何時頃,建立したのか,手許の資料やインターネットを調べても定かには分からない.
<慈眼視衆生のお堂>
■枝道に入る
坂道を大分上がり続けて,そろそろイヤになりかけた13時07分,道路際に「力士雷電の生家」という案内板を見付ける.
私,内心で,案内板を見付けてホッとする.
案内板の指示に従って右折,道幅が狭い枝道に入る.
<力士雷電生家への案内標識>
<力士雷電の生家>
■力士雷電の生家に到着
枝道の先は道路工事中である.暫く進むとまた案内板がある.今度の案内板に沿ってさせ.さらに長い坂道を登り続ける.
13時12分,前方左手に力士雷電の生家が見え始める(冒頭の写真).2階建ての立派な家である.
13時13分,力士雷電之生家に到着.
昔々,それこそ60~70年ほど前,私が小学校(国民学校になっていたかな?)低学年のときに,遠足で力士雷電の生家を訪れたことがある.微かな記憶を辿ると,畠中の細い道を歩いて,もっと粗末な家を訪れたような気がする.昔の記憶が如何に不確かなものかを物語っている.
もっとも資料4によると,現在の建物は昭和59年(1984年)に復元した建物のようである.
<力士雷電の生家>
■雷電に鋤石
庭先に雷電の鋤石と称する大きな石が置かれている.
石の後ろに東御市教育委員会の案内板が立っている.そこには雷電が足腰を鍛えるために,この石を鋤の棒にぶら下げて歩いたという主旨の説明がある.いくら何でも,この話は眉唾に思える.伝説としてはおもしろい話だが,教員委員会の説明ならば史実として認めなければならない.
”本当だろうか…!?”
この石の比重は多分5~6だろう.体積は?…目の子で約1/4立方メートル.水は1立方メートルで1トン.この仮定で計算すると,石の質量は,概算で,
1(トン)×(1/4)×(5から6)=1.25トンから1.50トン
いくら大男で力持ちの雷電でも1.25~1.50トンの石を木の棒にぶら下げて歩くなんて…本当かな.大体,1.25~1.50トンもの石をぶら下げても折れない木の棒などこの世に存在するのだろうか.
”…まあ,そう向きになるなよ…”
と私の心の中に巣喰っているもう一人の私が,私を宥める.
勿論私もこんな些細なことに向きになるつもりはないが,この案内文を書いたのが「教育委員会」というところが引っかかる…事実と物語は峻別して説明しなければ…
一つの誇張記事が,その他の正確な記事の信憑性を台無しにしてしまう.そうでないことを望むだけである.
”まあ,いいか…”
余談になるが…
資料4によると,雷電は松江藩松平治郷に召し抱えられ8石3人扶持を与えられたという.引退後は松江藩相撲頭取に任ぜられた.そして,雷電の墓は松江市にある松平家累代の墓の一隅にあるという.
<雷電の鋤石>
■室内の土俵
建屋の中に入る.
土間に,りっぱな土俵が作られている.
”はて…? 小学校時代に訪れたときに土俵があったかな?”
私には土俵があったのか,なかったのか,全く記憶はないが,資料4を見ると,当時からあったに違いない.
土俵の脇に一段と高い部屋がある.この部屋の前の縁側に座って一休みする.
「…この土俵,本当の土俵より少し小さいんじゃないの…」
とどなたかが言う.
「(国技館の土俵も)こんなもんじゃないの…」
と別の方が言う.
私は本物の相撲を見たことがないので,何とも分からないが,この土俵が作られた経緯から考えて,本物と同じものだと信じている.
”そういえば徳俵って,どこにあるんだろう…”
その内に女性群の一人が土俵に入ろうとする.
「女性が土俵に入ってはダメだよ…」
とどなたかが言う.
<雷電の生家に作られている土俵>
<滋野駅を経由して千曲川へ>
■素晴らしい眺望
13時20分,雷電の生家を出発,往路を滋野駅方面に戻る.
長い,長い下り坂である.前方には雄大な風景が広がっている.前方に見える一段と高い山は蓼科山だろうか.
手前に見えている山裾に千曲川が流れているはずである.これから長い下り坂を,千曲川の河畔まで下らなければならない.ここから見下ろすと随分と長い道のりのように見える.
単調で長い坂道を下って.13時35分頃,国道18号線との交差点を横切る.
<長い下り坂が連続する>
■しなの鉄道のガードを潜る
引き続き善光寺街道を横切って,しなの鉄道滋野駅に向かう下り坂を歩き続ける.
13時41分,枝道の真ん中で,ネコが1匹,ちょこんと座って,こちらを見ているのを見付ける.私はネコの写真を撮るのを趣味としているので,すかさずこのネコの写真を撮る.このネコ,どうやら飼い猫らしく,人懐こそうである.
さらに,下り坂が続く.道の両側には民家が軒を連ねている.
滋野駅の手前で右折する.さらにすぐ先で,左折して,しなの鉄道のガードを潜る.
<路地で出会ったネコ> <しなの鉄道のガード>
■断崖沿いの坂道
ガードを潜ると,緑豊かな断崖沿いの下り坂となる.素晴らしい散策路である.
「…うわあ~…素晴らしい所ですね…」
異口同音に素晴らしい所だと絶賛する.紅葉には未だ早いが,緑陰の散策路を楽しみながら下り続ける.
<九十九折りの散策路に差し掛かる>
■木の枝の間から千曲川が見える
進行方向右手を見ると,木の枝の間から千曲川が見え隠れする.木々の緑が,私達の荒みそうな気分を和らげてくれる.
私は緑陰の坂道を下りながら,自分の故郷にこんな素晴らしい散策路があったのかと再認識させられる.
13時51分,断崖沿いの坂道を下り終えて,千曲川沿いの平地に降りる.降り口に「団体営桜圃場整備事業竣工記念碑」と刻字された大きくて立派な石塔が立っている.
<緑陰の向こうに千曲川が見える>
■千曲川を渡る
急な下り坂が終わると,千曲川流域の田園地帯が広がっている.
区画整理がされている田んぼの中を農道が縦横に規則正しく直行している.その農道の先に,真っ赤な橋が見えている.
「…あの橋を渡ります…」
と一同にお知らせしてから,田んぼの中の路を2度ほど直角に曲がって,13時55分,赤い橋を渡る(橋の名称は不明).
<千曲川に架かる赤い橋>
■千曲川の流れ
橋の真ん中で,千曲川の写真を撮る.
綺麗な水が,ザワザワと音を立てながら流れている.この川が,川中島で犀川と合流して信濃川になる.そして新潟市内を抜けて日本海に注いでいる.日本で一番長い川である.
橋を渡り終えたところで,給水休憩を取る.
休憩後,千曲川の左岸沿いに,布引観音の参道まで,川を遡る予定である.
<千曲川>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B8%85%E9%BA%BF
資料4;東御市教育委員会教育課文化財係(他),発行年不詳,リーフレット「無双力士雷電為右衛門」
(つづく)
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(編集中)
「善光寺街道」の目次
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【参考資料】
「善光寺西街道」の目次
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