<佐久平を行く>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第2日目(4):岩村田から塩名田宿へ
(五十三次洛遊会)
2010年6月12日(土)〜14日(月)
※本稿の初出は2010年7月5日である.
初稿の地図の差し替え,本文の誤字当て字転換ミスの修正,本文の推敲を行った.
第2日目:6月13日(土) (つづき)
<ルート地図>
<浅間連峰を眺めながら西へ>
■荘山稲荷社
11時29分,進行方向右手のあぜ道に右折して入る.残念ながら,この手前にあるはずの平塚の一里塚跡は見過ごしてしまった.またまた残念.右折して,夏草が一面に生えているあぜ道を少し奥へ進む.再び右へ曲がると突き当たりに一段と高い小山がある(前回地図参照).
この山の上に荘山(かがりやま)稲荷社がある.稲荷社へ登る手前に右手に芭蕉の句碑が立っている.碑に刻まれている文字は,風化が進んでいた全く見えない.もっとも見えたところで私には殆ど読めないだろう.
資料1によると,この句碑には,
“野を横に
馬引きむけよ
郭公(ほととぎす)”
という芭蕉の句が刻まれているようである.
神社を見学してから往路を引き返す.歩き疲れた一部の方々は,あぜ道の入口で,私たちが引き返してくるのを待っている.
「折角,ここまで来たのだから,チラリとでも見ておけばよいのに・・」
と心の中で思うが,お節介になるので,口にはしない.
<荘山稲荷社:右の石碑が芭蕉の句碑>
■閑静で懐かしい家並み
閑静な街道が続く.そろそろ昼時でもある.街道の途中に適当な食堂かレストランがあったら,そこで昼食を摂ろうということになる.
道路の両側には,確かこの地方では真壁造り(「心壁造り」と書くかもしれない)と呼んでいる造りの家が建ち並ぶ.
私の生まれ故郷である小諸でも,昔は真壁造りの家が大半であった.真壁造りの構造では,柱や筋交いの材木が壁の外に出ている.これらを壁の中に埋め込み大壁造りと違って,柱や筋交いが実に優雅に見えている.小諸でも昔懐かしい真壁造りの建物は少なくなってしまった.今,ここで懐かしい真壁造りの家を目の当たりにして,私は震えるような懐かしさを覚える.
<昔懐かしい街並み>
■百万遍供養塔
11時45分,百万遍供養塔に到着する.この供養塔の由来は,良く分からない.
この辺りから,ごくごく緩やかな下り坂の道が続く.
<百万遍供養塔>
■諏訪神社と如意輪石碑
道路の両側に,ときどきリンゴ畑が現れる.佐久平の長閑な風景が続く.進行方向右手(北側)には,浅間連峰が霞んでいる.残念ながら雲が多い.
11時50分,諏訪神社の前を通過する.
続いて,11時55分,如意輪石碑に到着.大きな石碑である.
<諏訪神社> <如意輪石碑>
■塚原岩屑と水準点
相変わらず進行方向右手に浅間連峰が大きく見えている.私の生まれ故郷の小諸は,あの辺りだろうかと想像しながら歩いている.この辺りは一面の田園地帯.地図を見ると,近くには緑川用水が流れているようである.また,道路の脇には用水路がある.豊富な水が流れている.浅間連峰の伏流水だろうか.
11時57分,進行方向左手にある塚原岩屑に到着する.岩の上に御嶽碑が立っている.岩屑に近付きたいが,道路との間に用水路がある.この用水路を飛び越えて,御嶽碑を拝観する.さらに岩屑の裏手に廻ってみると四隅に丸い石を埋め込んだ水準点がある.地図で確かめると,この水準点の標高は670メートルである.軽井沢の標高に比較すると,知らない間に300メートルほど標高が低くなっている.
<塚原岩屑> <水準点>
■妙楽寺
12時06分,妙楽寺に到着する.参道脇に六地蔵が並んでいる.茅葺きの屋根にトタン板を被せたと思われる屋根の本堂がある.この寺も真壁造りである.真壁造りの家が多い街で育った私には,真壁の本堂というだけで親近感が沸く.
資料6によると,妙楽寺は「貞観八年(866)『信濃の国に五ヶ寺を定額に列する』と日本国史に明記されてある信濃五山の一寺に当る.妙楽寺では1月8日,薬師如来を本尊に蘇民将来を祈願する法要を1000年以上今日まで執り行っている」という.
資料3によると,妙楽寺は「若い修行僧の学問寺,疫病除け,害虫駆除の守護神を祀っていた」ようである.
<妙楽寺>
■分岐を左へ
12時12分,Y字の分岐に到着する.旧中山道は左側の道なので,左へ入る.地図で確かめると,この辺りは下塚原という所らしい.私たちは,人気が全くない真壁の集落の中を歩いている.
立派で大きな真壁の2階屋が建っている.素晴らしい家である.
<分岐を左へ> <真壁の立派な民家>
<重要文化財の駒形神社>
■駒形神社
12時16分,先ほど分岐した道と合流する.この合流点近くに駒形神社がある.境内に入って,5分ほど見学を兼ねて休憩を取る.
資料7によると,駒形神社の概要は以下の通りである(「・・である」調に修正).
「両側を川に囲まれた往時の城跡のような丘の上に駒形神社がある.中山道の塩名田宿(浅科村)と岩村田宿(佐久市)の間にあり,立地的に街道を往来する人々がお参りしていたと考えられるような好位置になる.
祭神は騎乗の男女神像で宇気母智命を祀っており,文明18年(1486)佐久郡の耳取村鷹取城主大井新左右衛門政継が再建したものである.この頃の京都周辺では,駒形神人(こまがたじにん)と呼ばれる神馬(しんめ)を扱う神社の隷属民の活動が活発で,しだいに力を持つようになり,みずから馬匹商人となって,各地で莫大な利益を得ていた.駒形神社の周辺は,古来から馬の産地で,この駒形神人と何らかの関係があるといわれている.駒形神社本殿は覆屋の中に置かれているが,彫刻,建築技法については簡素なものである.ほぼ同様な形体を持つ各地の本殿等が,重要文化財指定されていないのに,何故この本殿が重要文化財に指定されたのか疑問が湧いてくる.そこで,他の無指定の本殿と比較し,その違いを見てみたい.」
駒形神社の境内は広い.境内を散策しながら,暫くの間,休憩を取る.本殿脇に「説明文」という表題の立て看板がある.この看板には次のようなことが書かれている.
・・駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないがこの地方は,いわゆる信濃牧の地であり,祭神には騎乗の男女神像を安置しているので「牧」に関連した神社と推定される.
昭和22年5月30日国宝保存法により国宝の指定を受けたが,文化財保護法の施行による現在は重要文化財に指定されている.
再建は1476年(文明18年)と伝えられるが形式手法から見てもその頃の建物と考えられている(以下略)・・・
<駒形神社>
■信濃国の牧
駒形神社に関連する「牧」は,信濃国にあった16カ所の牧の中では最大のものだったようである.資料8には,次のような記載がある(「・・である」調に修正).
「信濃国には16の牧(官営牧場)があった.その中で最大のものが『望月牧』である.
望月牧は,蓼科山2530mの広大な裾野が北東へ延びて千曲川にぶつかる地形と,東が千曲川(ちくまがわ),西が鹿曲川(かくまがわ),南が布施川(ふせがわ)に囲まれた御牧原台地である.川に囲まれた天然の地形だが,さらに馬が逃げてしまうような部分には柵,土塁,溝などを造って管理し,恵まれた草や水で優秀な馬を生産していた.現在でも数キロメートルの野馬除が残っている(東御市指定文化財).ここで生産された馬は都へ運ばれ,多くの歌人が望月の牧を題材にした歌を残している.
望月牧がいつ頃成立したのか定かではないが,『延喜式』が制作され始めた延喜5年(905年)以前には存在していた.
牧場の南には古東山道が東西に走り,その道沿いに高良社(浅科村、国重要文化財)がある.元々は高麗社と呼ばれていたらしく,朝鮮半島から渡来した人々が,望月牧の牧場経営に携わり,ここに社を造ったといわれている.
望月牧の周辺には特に馬具を副葬した古墳が多く,御馬寄,駒寄,牧寄,駒込,厩尻などの地名が残っている.さらに,馬具に関係すると思われる鍛冶田,タタラ,吹上などの地名もあり,いずれも望月牧に関係する馬の厩舎,蹄鉄製造所,牧田,管理舎などがあった場所として想定されている.
同じく南にある駒形神社(佐久市)は,望月牧の封境とされ,元来望月牧を管理した望月一族である根井氏に関係する神社で,根井氏は多くの馬と兵の動員力を持っていた.950年頃に,滋野氏から海野氏(うんのし),祢津氏(ねつし),望月氏(もちづきし)が分派して,望月牧監という牧場を管理する役職に就いていたようである.海野氏は望月牧の北部地域を拠点とし,望月氏は望月牧の南部地域を拠点とし,これは戦国時代まで続いた.海野氏の一族が真田氏になる.」
ここでは引用を省略するが,資料5には,この記事に関連する地図も掲載されている.
たまたま,私が通学していた旧制中学校(途中で新制高校に変わった)は,海野氏の末裔,真田氏の居城跡の一角にある.こんなことから,「牧」を通じて,駒形神社と多少の関連があることが分かり,感慨深い.
<いよいよ塩名田宿へ>
■ベンベン草の小径
12時22分に駒形神社を出発する.道路端にある「中山道」の案内杭に従って,右側の小径に入る.雑草が繁茂する人一人通れるだけの細道である.
小径に踏み入れると,何となくホッとした気分になる.
暫く進むと,小径は再び元の中山道と合流する.
<右手の細い小径に入る>
■塩名田道標と道祖神
やや急な下り坂を進む.前方には江戸日本橋から23番目の宿があった塩名田の集落が見え始める.
12時32分,塩名田道標に到着する.道標の傍らには道祖神が安置されている.
既に,12時を廻っている.あともう少しで塩名田である.私たちは,塩名田の街中で適当な食堂を探して昼食を摂ることにする.
進行方向右手の向こうに長野新幹線の高架が,まるで城壁のように連なって見えている.
<塩名田道標> <道祖神>
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://home.b05.itscom.net/kaidou/nakasendo/7basyokuhi/basyoukuhi1.html
資料6:http://uct01.uctec.com/furusato-commonPF/page.cgi?lang=ja;ucode=00001C000000000000020000020009BB;area=WEB東信州 中山道の会 ;page=detail
資料7:http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/koma.html
資料8:http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sakugun.html
(つづく)
[加除修正]
2013/7/16 地図の差し替え.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c01edf80bbdb9244cabde084731fe730
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4787ec6c0d235f5b30aa683d880cf30b
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第2日目(4):岩村田から塩名田宿へ
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