<塩名田宿の街並み>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(5)塩名田宿から八幡宿へ
(五十三次洛遊会)
2010年6月12日(土)〜14日(月)
第2日目:2010年6月13日(土) (つづき)
※本稿の初出は2010年7月6日である.
初稿の地図の差し替え,本文の誤字脱字転換ミスの修正,推敲を行った.
<ルート地図>
※再掲 ↓
拡大図
<塩名田宿を行く>
■塩名田宿の概要
12時32分,塩名田宿道標に到着する.江戸日本橋から23番目の宿場町,塩名田宿は,この辺りから始まる.
ここは五叉路になっている.資料によるとこの辺りが上の枡形跡だというが,私には,あまり良く分からない・・が,まあいいや,で通過する.
佐久市のホームページ(資料5)には,塩名田宿について,次のような説明文が掲載されている(「・・である」調に変えて引用).
資料2には,塩名田宿の隣の八幡宿についても,一緒に記述されているので,そのまま引用する.
「近世の街道は,徳川家康によって,関ヶ原の合戦前後に整備が始められ,塩名田宿・八幡宿のある中山道は,東海道の次に整備が進められた.
宿場の役割としては,運輸・通信の業務と宿泊業務とがあり,前者を問屋が,後者を本陣・脇本陣及び旅籠が行っていた.
浅科地区にある塩名田宿は,中山道第23番目の宿場で,江戸時代の天保15年(1844)年には,本陣が2軒,脇本陣が1軒,問屋が2軒あったということが記録として残っている.」
■小諸道分岐と古い街並み
いよいよ塩名田宿に入る.真壁の立派な家が建ち並んでいる.
古い街並みをほんの数分歩くと,小諸道の分岐に到着する.頭上に「小諸市街 懐古園」と書いた案内板が取り付けられている.小諸出身の私は,懐かしさが胸の内に込み上げてくる.
資料3(p.138)によると,「この道を辿ると,善光寺道の小諸東外れに至るという.この道を北に2,2キロメートル進むと耳取の玄江院という寺がある.玄江院の開基は,この土地の豪族大井氏.小諸義塾で島崎藤村と同僚だった水彩画家の丸山晩霞の釈迦一代記の壁画8枚が見もの」だという.
私は,ある縁(えにし)から丸山晩霞に強い関心を持っている.幼少の頃,誰と一緒に行ったのかは,全く覚えていないが,耳取の玄江院を訪れたことがある.今,思えば,多分,法事にでも出掛けたのだろう.大人達が歓談に明け暮れている内に夜になる.真っ暗な境内の森の中を蝙蝠が待っていたのを今でも覚えている.
塩名田の街を歩いていると,道路が舗装されているのを除いて,まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような気分になる.それにしても,辺りには全く人の気配がない.思い出したようにごくたまに自動車が通り抜ける.まるで,映画のセットの中を歩いているような気分になる.一体,ここには人が住んでいるんだろうかと疑いたくなるぐらい静まり返っている.辺りにはコンビニはおろか,自動販売機すら1台もない.
<小諸道分岐> <古い街並み>
■問屋本陣跡
そんな街中を歩いて,12時38分,大きな字で「問屋本陣」と書いた看板が掛けられている家に到着する.真壁造りの大きくて立派な家が建っている.
直ぐ近くに「問屋・本陣跡」の説明板が取り付けられている.
この説明板の記事によると,「塩名田宿は岩村田と望月の中間に位置し,街道筋でも難所の一つ,千曲川を前に一宿が必要として,北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現位置に40軒ほど移して形成した(慶長7年,1800年).問屋新左衛門・文左衛門.名主彦兵衛,本陣新左衛門,善兵衛,脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた.寛政12年(1800年)の宿内総家数は126軒.問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり,宝暦6年(1756年)に再建されたが,現在は御殿部分が改装した住宅になった.丸山家には宿場関係資料が多数保存されている」という(「」内引用).
ちょっと読んだだけでは,内容が良く分からないが,まあ,大体の様子は,この記述で理解できる.
<問屋本陣跡>
■高札場跡
12時41分,高札場跡に到着する.案内杭と案内板の前に到着する.案内板の記事によると,道路拡張のために,高札場は元々の位置から北へ後退し,用水路には蓋が被せられたようである.
<高札場跡>
■昔は花街
直ぐ近くに「花街塩名田」という案内板が立っている.この案内板には,「明治30年代から塩名田が活気を帯びてきた.八幡から料理行2人が移転して営業,真角屋は上等の芸妓屋で32年に塩名田一流の料亭として開業して名声が挙がった.塩名田が花街として形成された要因は,地理的に北佐久郡の中央,千曲川の川畔にあり,当時の交通事情も良好で,他地域より営業に参加しやすかったのであろう.また商家もここへ営業を求めてつめかけた.製紙工場もできた.劇場「塩名田座」も出現した.住民も養蚕に精を出し始めた.昭和3年(1928年)時点で川原宿に5軒,中宿に3軒あった.しかし,昭和10年代になると,いままでの平穏な世相は一変してしまって,三味線の音も消えていった.」と書いてある.
<塩名田宿を行く>
■お滝不動
高札場跡から右に分岐する旧中山道に入る.急な下り坂になっている.下り坂の入口に「中山道」と書いてある小さな案内杭が立っている.
この案内杭から少し下った左手にお滝不動が祀られている.
案内板によると,「ここはもと瀧大明神の境内で,ケヤキの大木の根元から大量の清水が湧き出ていた・・・傍らの休茶屋の看板は,「かどや」の名が残る三階建ての家である.・・・十九夜塔は,4月21日頃,女性が集まって(講),十九夜念仏を唱和する行事があった・・・この河原町道祖神像は明治40年(1907年)頃建立された・・」と書いてある.
<お滝不動>
■飲食店が見付からない
さらに,急な下り坂を進むと,すぐに千曲川の川岸に突き当たる.ここで塩名田の中心街は終わりである.
「塩名田へ行けば,どこか食事をするところが見付かるだろう・・」
と安易に考えていた私たちは馬鹿だった.結局,食べ物に縁のあるお店はおろか,とにかくお店は一軒もない.
資料によると,突き当る直前の右側に竹廼家という川魚料理のお店がある筈である.確かに竹廼家はあるが,お店は閉まっている.
「ありゃ,ありゃ,・・困ったな・・」
と思っている内に,道なりに進んで,橋の下を潜って,再び中山道まで戻るようにつながっている.
■舟つなぎの石
千曲川に突き当たったところに「船つなぎの石・千曲川舟橋」の案内板が立っている.この案内板によると,「明治初年水害で千曲川橋が落ちた.明治6年(1873年)船橋会社に通行を請負制で運営させた.このとき通行には橋銭が必要であった・・・」という説明がある.
<千曲川舟つなぎ石>
<八幡宿に入る>
■八幡宿の概要
資料2によれば,「八幡宿は,中山道第24番目の宿場で,周辺の八幡・蓬田(よもぎだ)・桑山地域の住民が移住してつくられた.この八幡宿には,天保14年(1843年)には,本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠3軒,問屋2軒があった.
また,八幡本陣には,幕末動乱期に「公武合体」の象徴として,第14代将軍の徳川家茂に降嫁した皇女和宮が泊まっており,宮から下賜(かし)された品物などが現在も伝えられている.」
資料6によれば,「八幡宿は,江戸から数えて24番目の宿場である.現在の現在の長野県佐久市八幡.千曲川の西岸にあたり,対岸の塩名田宿との距離は1里もないが,川止めになったときの待機地として,また千曲川沿いの米の集散地として江戸時代初期の慶長年間に整備された宿場である.天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,八幡宿の宿内家数は719軒,うち本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠3軒で宿内人口は719人であった.」
また,資料3(p.141)によれば,宿内人口719人.内,男372人,女,347人.宿内惣家数143軒.内,本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠3軒.
資料6と資料3では,数字に若干の誤差があるが,八幡宿のおよその規模は,これらの数値から想像することができる.
■中津橋を渡る
12時48分,千曲川に架かる中津橋を渡り始める.昼食に有り付けないので,気分的にもだんだんと消沈してくる.何だか疲れもドッと出てきたような気がする.
立派な橋である.さきほどの案内板によると,この橋は1931年(昭和6年)に架けられたものである.3分ほどで橋を渡りきる.
渡りきってから,中山道を外れて,ほんの少し千曲川沿いに下れば大円寺という寺があることは,分かっているが,腹が減ってくると,寄り道をする気にならない.
また,近くの河原には「舟つなぎ石」という遺構があるのも分かっているが,見に行く気にならない.
<中津橋を渡る>
■腹が減った! コンビニを見つけたぞ!
橋を渡りきると河岸段丘を登る坂道になっている.大した坂ではないが,空きっ腹には堪える.それに気温も随分と高くなっている.たとえ昼食に有り付けなくても,何か冷たい飲み物が欲しい.
ふと前方を見ると,登り坂の途中に,コンビニの看板が見える.
「やったぁ〜・・・コンビニがあったぞ・・・」
私を含む先頭組は,後ろから来る人たちに知らせる.そして,歩行速度を上げて,コンビニに到着する.ところが,とっくに閉店してしまったらしく,埃まみれのショーケースが数台転がっているだけ.
これには参った.なまじ期待したので,返って落胆も大きい.
後ろを振り返って,両手で×を作りながら,
「・・ダメ,ダメ,・・開いていないよ・・」
と合図する.後続の人たちは,上半身を大きく揺さぶりながら消耗しきった顔で,坂道を登ってくる.
■大日像
数分,坂道を登る.Y字型の分岐に到着する.この辺りは道路工事をしてから,まだそれほど日が経っていないらしくて,コンクリートが真新しい.道路標識に沿って右側の道を進む,間もなく峠の上に出る.どうやら,千曲川左岸段丘の上に出たようである.進行方向右手が広場になっていて,広々と視界が開ける.この広場の向こうに大日像と思われる石像が見えている.
一同,空腹なので,この像の近くまで行ってみる気力がない.
<大日像>
■一切れのチョコレートに感謝感激
行けども,行けども,お店は一軒もない.空腹になると思考力も鈍るし,意欲も減ってくる.
私は,山へ行くときは,必ず行動食と非常食を持参している.しかし,今回は街道歩きなので,沿線には必ずコンビニや飲食店があると思い込んでいた.そのため飲み水は持っているものの,食料は全く持たないまま,歩き出してしまった.大多数の同行者も同じである.
空腹のため時間の記録も投げやりになってしまったので,何時かの記録は残っていないが,同行者のお一人が,持参していたチョコレートを,ほんの一切れずつだが,全員に配る.蒸し暑いので半ば蕩け始めているチョコレートだが,心底から,「有り難いな」と思う.
ほんの一切れのチョコレートだが,随分と元気になったような気がする.
■食堂「くまさん」に予約を入れる
相変わらず食堂もコンビニもない.このままでは,今日は昼食抜きになってしまう.一食ぐらい抜いても,特段,どうということもないが,でも意気消沈する.
幹事のOさんが,地図に載っている飲食店「くまさん」に,営業しているか確かめるために電話する.今,私たちがいる地点から2キロメートル余り先にある飲食店である.ただ,営業時間は14時でお仕舞いだという.急いで行けば何とか間に合いそうである.
「営業時間内に行きます・・・」
ということで,予約する.
■御井大神
13時10分,進行方向左側に立つ御井大神を通過する.大きな石碑である.石碑の胸の辺りにしめ縄が巻かれている.
この辺りから,やや急な下り坂になる.この坂を下り終えて中沢川を渡ると,江戸日本橋から24番目の八幡宿に到着するはずである.
<御井大神>
■八幡神社高良社
13時12分,八幡神社前を通過する.ここには国重要文化財に高良社があるはずである.「くまさん」に14時までに到着しないと昼食が食べられなくなる.もう境内を見学する時間はない.参道入口から写真を一枚撮っただけで通過する.きわめて残念.
資料2によると,高良社は1491年(延徳3年)に建立されたようである.
<八幡神社高良社>
■常泉寺
13時18分,八幡山常泉寺の前を通過する.時間がないので,参道入口の写真を撮るのがやっと.
<常泉寺>
■生井大神
13時15分,進行方向左側の金網越しに生井大神の石碑が見える.この石碑にもしめ縄が巻かれている.
そして,13時18分頃,中沢川に架かる橋を渡って,八幡宿の入口に到着する.
<生井大神>
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://www.city.saku.nagano.jp/kankou/shinaimeguri/asashina-2.htm
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%BF
(つづく)
[加除修正]
2013/7/16 地図の差し替え.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/76748e5b5b21fe9b70584f49cef72044
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d8504035407090fce3fd8b50b676967d
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(5)塩名田宿から八幡宿へ
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