<猿ヶ馬場峠からの下りもここで終わり>
善光寺西街道;第3回;第1日目(3);遺構が点在する峠道
(五十三次洛遊会)
2015年6月26日(金)~28日(日)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c1c811a055e0551e5bb565511cd01522
第1日目;2015年6月26日(金) (つづき) 雨
<ルート地図>
■聖高原
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※再掲
<松崎茶屋跡と火打石一里塚>
■松崎茶屋跡
11時45分,昼食を終えて,火打石茶屋跡から歩き出す.いよいよ午後の部の始まりである.相変わらず雨が降り続いている.
11時55分,松崎茶屋跡に到着する.ここには案内文の掲示板が立っているだけで,遺構のようなものは一寸目には良く分からない.
案内文には以下のようなことが書かれている(転写ミスご容赦).
「善光寺街道の難所である猿ヶ馬場峠の中腹で,松代藩が3人の扶持として1000坪の土地を与え,茶屋と旅人の安全をはからせた.その1軒で,他の2軒は,火打石の宮下氏の茶屋と姥捨てへの近道下,八幡村姥諏訪氏の経営する日の出茶屋である.
道下は杉林になっているが,江戸時代は水田や畑が広がり,桑を栽培し蚕を飼うなど農業を営みながらの茶屋商売だった.これは当時の他の茶屋に限らず,何処の旅籠も茶屋も同様であった.
明治後の近代化は顕著なものがあり,宮下氏は中原へ下る.最後まで営業を続けたのはこの松崎茶屋で,仙台源之助氏が小学校の入学を機に下山したのは,大正10年であった.今も残る石積,清らかな水を湛える井戸や泉水に,往時の面影が偲ばれる.
この屋敷の土手の巨岩の上に,氏神として八幡大神が祀られ、大門は杉林の中に街道から真っ直ぐ設けられている.毎年旧八月十五日の夜が大祭で,幟が立ち,燈明と神楽が収められたという古老の話を伝聞する.
その後,昭和15年頃,石祠は大岩の上にそのまま現存するが,根元にあった八幡宮碑は中原神社に合祀された.春秋の祭には,神社に続いて神楽が奉納され,火打石連の特別参拝,中原区民の厚い信仰が続いている」
案内板の説明をザッと読んだだけで,松崎茶屋跡を通過する.
山道は当初想定していたよりは,ずっとなだらかな道なので,私は,雨傘を使用しても構いませんと提案する.正直に言えば,登山の経験のある人には,山道とは言えない程度の下り坂が連続している.
松崎茶屋を過ぎて間もなく,舗装された林道に合流する.舗装の路面が雨でベタベタに濡れている.
<松崎茶屋跡> <路面が雨でベタベタな舗装道路>
■火打石一里塚
11時58分,火打石一里塚に到着する.
こんもりとした土盛が一里塚である.洗馬から14里目.
傍らに立つ説明文によると.「火打石の一里塚は,両側の一里塚の間を直線的に通った善光寺道と共に,昭和38年,開設の林道により4ヶ所のわたって分断され,得の西側の塚は破壊されてしまった.
残る現存の塚の大きさは,直径約6メートル,高さ約3メートルである.この塚の前後は,稲荷山一里山の塚と峠を下った麻績村,市野川の一里塚である.いずれも姿を消し,地名のみとなっている.」
<火打石の一里塚>
■林道を交差して道祖神へ
一里塚跡から再び草道の旧道に入る.そして,12時02分,舗装された林道と交差し,ふたたび草道に入る.
12時05分,道祖神など2基の石塔の前を通過する.
<林道交差> <道祖神>
<「のぞき」と「くつ打ち場」>
■のぞき
12時06分,林道に突き当って左折する.突き当たったところに「のぞき」の立て看板がある.
看板には猿ヶ馬場峠1.9km 中原2.1km 桑原本陣跡3.1キロメートル」と記載されている.
私達は猿ヶ馬場峠から歩き出して,まだ1.9キロメートルしか歩いていないことになる.何という鈍さ加減だろう.驚くべきノロノロだが,これもまた止むを得ないことである.
案内板の記事によると,「ここは大井の茶屋があったところ.峠の中腹に当たり,「のぞき」と呼ばれるように,中原沖や集落はもとより川中島平が望見できた」所である.また,「ここには簡単な望遠鏡が据え付けてあって,的確に善光寺の奔走を捉えていたという.また山ノ神(国道403号線・姥捨)からの林道が,昭和39年に介せ宇された.」
<のぞき>
■くつ打ち場
12時03分,くつ打ち場に到着する.
土手の上に「くつ打ちば」と刻字された石塔が立っている.その下に案内番が設置されている.
案内板の記事によると,「馬に草履を履き替えさせた場所」とのこと.「ときには旅人も草履を履き替えるなど,身支度と気持ちを新たに難所の山に向かった.あたりは捨てられた草履が山をなしていたという.
この大きな岩に上には,文久2年6月創立の馬頭観音が安置されていたが,不心得者により持ち去られてしまった.現在は,かわって和田実男氏の克明のある「くつ打ち場」の碑が立っている.
また移設もあるが,この下の梨窪(ハッキリ読めない)から「くつ打ち場」にかかる坂を女坂という.女・子供にも容易に歩けるところから名付けられた地名であろう.
なお,一体は杉林で小川が流れる.樹下には,オシダ,ジョウモンジシダ,イヌガンソク,ツヤナシイノデ,オオハイイノモトゾウなど,50数種類のシダ植物が分布し,旧更級2郡では最大の群生地である.」
…と書いてあるが,植物のことは私にはチンプンカンプン.
“まあ…ともかくここから左記は女坂と言われるほど楽な坂道だ…”
と一安心.
<くつ打ち場跡>
■しつこい雨
相変わらず雨がしつこく降っている.シトシト雨だが…
緩やかな下り坂が連続する.沿道の至る所に自生するアジサイが丁度見頃を迎えている.アジサイにはシトシト雨はよく似合う.まあ,そんなことでも考えながら雨も良いものだと無理に考えながら歩き続ける.
<ダラダラ下り坂の林道> <満開のアジサイ>
<漸く人里へ>
■鶏小屋
12時27分,前方右手に,突如,小屋があるのを見付ける.
私達は猿ヶ馬場峠から歩き出してから,ここまで全く人にも会わなかったし,生きた人間の匂いのする事物にも全く会っていない.
この小屋をみた途端に,やっと人里近くに来たことを実感し,嬉しくなる.
小屋に近付くと,この子屋が鶏小屋だを分かる.雄鳥が,
「コケコッコウ,コケコッコウ,…」
と勇ましく啼いている.
雄鳥の何とも勇ましいときの声が如何にもユーモラスで懐かしい.鶏の啼き声の向こう側に漂う人の温もりを感じて,生き返ったような気分になる.
ちょっとの間,鶏小屋を覗き込んで,鳥達の仕草を眺める.
<鶏小屋に人の匂いを感じる>
■廻国供養塔
12時31分,廻国供養塔に到着する.
傍らに立つ案内板によると,「一説に,八幡の郷,浦沢家の祖先が修行と国家安全を祈願して,国内の霊地を巡礼したときの祈念碑」とのこと.どうやら寛政9年(1787年)のことらしい.行者名は両国妙園と書いてある.
<廻国供養塔>
■梨窪池
廻国供養塔と道路を挟んで反対側に,綺麗な水を湛える池が見える.地図で確かめると,どうやら梨窪池のようである.
池の畔にちょっと立ち寄りたい気もするが,降り続く雨がそんな気持ちを減退させる.
「水が随分と綺麗な池ですね…」
と同行者のどなたかが言っている.同感.
<梨窪池>
■和田商会
12時34分,和田商会の塀沿いの道になる.ここで,道路は二股に分岐する.地図を見るとどちらの道も少し先で合流するので,どっちへ進むか少々迷うが,近道の右手の道を下る.
地図を見ると,この辺りの篠ノ井線の線路と長野自動車道が,この辺りの地下をトンネルで通過しているようである.
ここまで下ってくれば桑原間ノ宿まであとわずかである.
<和田商会の塀沿いの道を行く>
■視界が開ける
12時39分,前方の視界が開ける.目の前には畑がある.やっと人里まで下山したなという実感が湧いてくる.あともう少しで下り坂も終わりである.
目の前に長野自動車道の高架が見下ろせる.
<視界が開ける>
■中原無人墓地
12時46分,中原無人墓地に到着する.目の前に墓地が広がっている.この辺りのどこかに中原無人墓地があるはずだが,雨の中,わざわざ探す気にもならない.
傍らに立つ案内板によると,「苔むした墓石に,刻まれているのは,一渓道関禅定門(戒名)石見国邑智郡熊見村弥七墓」「1人の旅人が初冬の当初で病のため亡くなった.旅人の名前は弥七.それを手厚く葬ったのが開眼寺住職と中原の人々」だった.
<ここのどこかに中原無人墓地がある>
(つづく)
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
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(編集中)
「善光寺西街道」の目次
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「善光寺西街道」の索引
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