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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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善光寺西街道;第3回;第1日目(4);雨の桑原間ノ宿

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      善光寺西街道;第3回;第1日目(4);雨の桑原間ノ宿
             (五十三次洛遊会)
        2015年6月26日(金)~28日(日)   

前回の記事
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8eea9ef5b4a12101689e9efa1564cf36

第1日目;2015年6月26日(金) (つづき) 雨

<ルート地図>


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<中原の集落に入る>

■詳細な案内板
 雨の中を猿ヶ馬場峠を下り続けて,やっと人里が見える所まで下って,ホッとした気分になっている.
 12時50分,詳細な情報が記述されている案内板の立っているところに到着する.この案内板と手持ちの地図を参照しながら,現在地の確認と,今後の行程を予想する.この案内板に限らず,聖湖周辺の案内板が実にきめ細かく配置されているのに感心させられる.

<詳細な案内板>

■開眼寺と宮下氏邸
 案内板のすぐ先が,如何にも宿場町らしい風情が残る集落の始まりである.なだらかな下り坂で,曲がりくねった道の両側に閑静な住宅が並んでいる.
 聖湖から心配しながら下ってきた峠道がやっと終わって,これからは起伏が少ない道がずっと続くと思うと,随分と気が楽になる.ただ,残念なことに,シトシト雨がしつこく降り続いている.
 12時52分,千曲市循環バスのバス停開眼寺を通過する.
 開眼寺が直ぐ側にあることは分かっているが,雨の中,しかも峠を下ったばかりの私には,わざわざ開眼寺に寄り道する気にもなれないので,そのまま通過してしまう.後でちょっとばかりシマッタナと思ったが後の祭りである.
 資料1によると開眼寺は信濃三十三番観音札所の第13番札所である.
 また,近くに宮下氏宅があるはずだが,多分,このお宅がそうであろうと見当を付けただけで写真も撮らずに通過する.宮下氏は,前回のブログ記事で記した火打石茶屋の経営していた子孫の家である.
 12時55分,篠ノ井線第5西街道踏切を渡る.
 
<宿場の雰囲気のある街に入る>                    <篠ノ井線第5西街道踏切>

■土蔵と土壁のある風景
 12時56分,バス停中原踏切下に到着する.目の前に半ば朽ちかけた土蔵と土壁のある家がある.実に風情のある眺めである.どこかノスタルジックで,私の琴線に触れるものがある.
 私が幼少の頃,小諸の在に住んでいた祖父の家が丁度こんな感じだった.そんな幼少の頃のことを連想しながら,思わず写真を撮る.
 
<バス停中原踏切下>                          <風情ある土蔵と土壁>

<長野銘醸>

■苗字帯刀を許された和田家
 12時59分,長野銘醸に到着する.
 広い間口の入口に青地に白抜きで「姨捨正宗」と書いてある幟旗が立っている.中に入ってはいけないことは分かっているが,ほんの1~2メートルだけ敷地の中に入らせて頂き,お庭の写真を撮らせて貰う.
 入口脇に案内板が立っている.その案内板の記事によると,「信濃の御家人,和田石見入道佛阿の末裔であり,当地の豪族和田弾正正俊の四世孫,和田三郎右衛門正成の次男和田興惣右衛門が分家し,七頭の清水を引き入れ酒造業を興す.江戸期には松代藩屈指の豪農,酒造業として繁栄し苗字帯刀を許されていた.幕末期から明治にかけて佐久間象山,伊藤弘文,東郷平八郎,有栖川宮熾仁親王などと親安が深かった.銀行の設立,小学校の建設,信州りんごの導入等,当地方の近代化の中心的な役割を担った」という.

<長野銘醸入口>

■七曲の松
 案内板の記事によると,長野銘醸の前庭に「七曲の松」という銘木があるという.早速,多分この木だろうと見当を付けて,入口から,デジカメの望遠で,写真を撮らせて貰う.
 この松の木は「『善光寺名所図会』(天保14年(1843年)刊)に紹介されている」とのことである.

<七曲の松>

<桑原間ノ宿>

■和田橋と道祖神
 13時07分,和田橋を渡る.橋を渡ってすぐの所に注連縄が施された道祖神が立っている.いよいよ桑原間ノ宿の中心部に入る.
 資料1には,桑原間ノ宿に関連して桑原伝説が紹介されている.その記事によると「昔,桑原に雷が落ち,通りかかった領主桑原左近将がとらえたところ,雷は“今後決して桑原には落ちませんから許して下さい”と詫びたので,これを許した.雷が鳴ったとき“桑原,桑原”と唱えると落ちないと請う伝説はここからうまれた」という.
 
<和田橋を渡る>                                <道祖神>

■庚申塔と天満宮
 13時08分,庚申塔の前を通過する.
 13時10分,天満宮に到着する.側に立っている案内板の記事によると,「中世,当地を支配した地主桑原氏の先祖が,古谷の館の近傍へ長徳4年(998年)に,鎮守として創建したといわれ,ご神体は坐像,98センチ」とのこと. 
 
<庚申塔>                                   <天満宮>

■宮崎一氏胸像と桑原村道路元標
 13時18分,宮崎一氏胸像の前に到着する.宮崎なにがしとはどんな方なんだろう?
 この立派な胸像は,私の興味をそそる.帰宅後,インターネットで調べると,どうやら千曲市桑原生まれの謡曲観世流師範のようである(資料3).
 道路のほぼ反対側に桑原村道路元標がある.
 
<宮崎一氏胸像>                     <桑原村道路元標>

■本陣跡
 13時19分,本陣跡.茶屋本陣だった.
 現在は当時の面影を偲べるような遺構は残っていないが,本陣の大きな写真が掲示されている.その隣に本陣の間取りや説明を記述した案内板が立っている.
 本陣跡の手前が脇本陣跡である.
<本陣跡>

■伴月桜記念館
 本陣跡と道路を挟んで反対側が関氏宅,伴月記念館である.資料2(p.410)によると,佐久間象山がここに立ち寄り,路用の金子を借りたという.また,その質に置いたという夫人の着物などが今も残っているようである.
 資料1によると,この建物は安政3年築の武家屋敷のようである.

<伴月桜記念館>

■治田神社上宮鳥居と親子像
 13時25分,治田神社上宮の大鳥居に到着する.地図で治田神社の位置を確かめると,
ここから随分遠いところにある.残念ながら参拝は省略する.
 13時30分,ちょっと魅力的な印象の親子像を見付ける.
 
<治田神社上宮鳥居>                        <親子像>

■桑原宿標識
 13時31分,「是より桑原宿」の善光寺街道標識に到着する.
 何時の間にか家並みが途絶えて,辺りは広々とした農地が広がっている.相変わらずシトシト雨が降り続いている.

<善光寺街道標識>
                                      (つづく)
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;http://chikuma-hakkenden.com/kyodo.html
                                      
続きの記事
  ↓
(編集中)

「善光寺西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺西街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f71644979892cd488cd56360b380d188

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