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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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善光寺西街道;第3回;第1日目(2);猿ヶ馬場峠を下る

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     善光寺西街道;第3回;第1日目(2);猿ヶ馬場峠を下る
             (五十三次洛遊会)
        2015年6月26日(金)~28日(日)   

前回の記事
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/26856c71e0d053c7a0bf0b98d0f8c0b6

第1日目;2015年6月26日(金) (つづき) 雨

<ルート地図>

■聖高原

←クリック拡大

<猿ヶ馬場峠の草道>

■踏み跡不明瞭な草道
 雨降りしきる中,村会石碑を見てから,10時48分,いよいよ猿ヶ馬場峠を下り始める.当面の目標は,峠を下ったところに位置する桑原間ノ宿まで無事に下山することである.
 勿論,予め地形図などを頼りに可能な限り沢山の情報を調べてはいるが,実際に現地を歩いてみないと,この先,どんな山坂があるのか全く分からないので,一刻も基が抜けない思いである.
 暫くの間,ほとんど人が通っていないような草道が続く…と思ったが,ほんの3分ほど歩いたところで,10時51分,草道は舗装道路に突き当たって終わる.この舗装道路は国道403号線.先ほどジャンボタクシーで通ったばかりの道である.
 
<村境石碑前から歩き出す>                    <草道から舗装道路に出る>

■現地の案内板
 草道から舗装道路に出たところに案内板が立っている.
 この案内板を見ると,今,私達が通ってきた道が,立派な道路のように描かれているので,思わず苦笑する.
 私達はこの図の麻績方面から歩いて,丸の所で左折し,さらにT字路を左折し村境石碑を見てからT字路まで往路を戻り,今,赤丸印の所に居る.この図によると,ここから林道に入り,320メートル先で再び左折し,さらにその先の分岐を右折して念仏石方面に向かうことになっている.


<遊歩道を下る>

■駐車場から遊歩道へ
 この案内板から100メートルほど進んだところで左折するとかなり広い駐車場がある.手許の地図では,この駐車場付近で左折することになっている.どちらが正しいのか,あるいはどちらも正しいのか分からないが,とにかく私が先行して確かめることにする.
 駐車場を抜けると三差路になる.そこに遊歩道(北国西街道)と書いてある白い案内板が立っている.
 ”この道で良かったんだ…”
 私は自分の”勘”が当たったので,ホッとする.後ろで待っている同行の皆さんに向かって手を振りながら,
 「…こっちで良いようです…来て下さい」
と合図する.

<遊歩道の看板>

■再び草道へ
 遊歩道は草道である.降りしきる雨で下草が濡れているので,靴やズボンの裾はずぶ濡れになる.緑に囲まれた静かな草道が続く.カッコウの啼き声が木霊しながら聞こえてくる.雨でなければ素晴らしい散策路だろうに…
 10時56分,「善光寺道」の案内板の前を通過する.
 ”それにしても,随分,丁寧にあちらこちらに案内板が設置されているな…”
と感心しながら,案内板の前を通過する.ご当地が観光に力を入れていることが,肌を通じて伝わってくる.
 
<再び草道へ>                             <善光寺道の案内板>

<念仏石と馬塚を経由して猿飛池へ>

■念仏石
 11時05分,舗装道路に突き当たる.合流点に念仏石が立っている.
 資料1によると,桑原間ノ宿方面から猿ヶ馬場峠を目指して,この辺りまで登って来ると,ようやく善光寺平が見下ろせるようになるので,ここで念仏を唱えたという.
 もっとも今日は雨雲が低く垂れ込めていて,折角の眺望も全く楽しむことができないのが残念である.

<念仏石>

■歩道道路に出る
 念仏石から先は舗装道路の下り坂になる.だらだらと続く長い下り坂である.相変わらず雨が降り続いている.
 聖湖から歩き出して,ここまで人はおろか車一台ともすれ違わない.私たち以外に人の気配は全くない.やや単調な下り坂を,ひたすら下り続ける.

<念仏石から舗装道路を下り続ける>

■馬塚
 11時11分,馬塚に到着する.
 夏草の中に塚が埋もれるように立っている.その脇に案内板が立っている.
 案内板には,「火打石茶屋跡0.2km 念仏石0.2km」と書いてある.地図で現在地を確かめながら,もうすぐ火打石茶屋跡だなと確認する.
 案内板の記事によると(誤写ご容赦),
 「毎年,水不足に悩み,潅漑用水に聖湖の欲しい市野川村と麻績村が,八幡村の地積に馬塚を築き村(郡)境とした.八幡村および松代藩の厳重な抗議にもかかわらず,麻績村は松本藩で,解決がつかず幕府の評定所へ提訴した.
 というのが従来の言い伝えであった.しかし,判決文によれば,『麻績・水(永かな?)井,市野川三ヶ村百姓訴候』とある.馬塚近傍の湯(ハッキリ読めない)光坊七枚の畑と,菖蒲池(一本松街道西)の段々畑を,八幡村の人々は『当方の領分である』として,掘り返し,麻績村側の抗議に耳を貸さず,堪り兼ねた麻績村が元禄七年(1694年)6月,幕府へ訴状を提出したのが発端である.
 以来,再三の村役人の出府,評定所役人の実地検証のあったことはいうまでもない.一夜にして築いたという馬塚の存在に,前述の畑など出作者が多く,かつ水帳にのせ年貢諸役をつとめ,湯光坊という麻績村の寺の末寺があるなどの理由により,麻績側三ヶ村の全面勝訴(元禄10年7月22日)となった.
 八幡村は峰池が奪われたばかりでなく.郡(村)界.更正で45町1反3畝歩(4513ヘクタール)と共に尾根境に戻ったのは,明治28年であった.また,馬塚の山林の苗樹畑,数反歩の,返還は,さらに遅く,昭和の時代になってからという.
 なお,石を積み上げた馬場は,数年前の林道新設により取り壊されて跡形もなくなった」

<馬塚>

■猿飛池と即位記念林碑
 11時16分,進行方向右手の木々の間から池が見え始める.猿飛池である.
 「…ちょっと立ち寄ってみようか…」
と何人かお誘いしたが,入口に金網があって入れないようになっている.諦める.
 猿飛池の由来などは,手許の資料では全く不明.猿ヶ馬場峠,猿飛池など,猿が付く地名が続くのは,この辺りに猿が多いのだろうか.
 11時20分,御即位記念林碑に到着する.手許には,この記念林に関する資料が全くない.
 
<猿飛池>                                 <即位記念林碑>

<火打石茶屋跡で昼食>

■火打石茶屋跡の吾妻屋
 11時21分,火打石茶屋跡に到着する.
  資料2(p.410)に「中原からいよいよ猿ヶ馬場峠の登り道となる.全長3.5キロメートルの急坂で,是を暫く登ったところ,右手の叢の中に残るのが,人の丈ほどもある大きな火打石.いわゆる火打石茶屋の跡で「燧石に茶屋あり.明月屋寅蔵といふ.」と紹介している場所である.私達は,この引用文とは逆方向に歩いているので,後もう少し下れば中原というところに到着する筈である.
 火打石茶屋の跡には,小さな吾妻屋が建っている.私は咄嗟に,この吾妻屋で昼食にしようと閃く.ここから先,雨の中で,立ち食いするより,屋根の下で食事をする方がよほどマシである.
 私は,同行の皆さんに,
 「…ここで昼食を摂りましょう…」
と突然提案する.
 「えぇ~ェ…! 昼食ですか.昼食には,まだ,一寸時間が早いですが…」
と何人かの方が戸惑うが,結局,唐突にも,ここで昼食を摂ることにする.勿論,提案した私自身,自分の突然の思いつきに戸惑っている.でも成り行き任せも満更でもない.

<火打ち石小屋跡の吾妻屋>

■狭いながらの楽しい昼食
 東屋の中には,テーブル1台と長椅子が2脚備え付けてある.私達8人が何とか座れるだけのスペースはある.私は,雨露が凌げるだけマシだと思って,大船駅前のコンビニで仕入れた弁当(ニギリメシ2個と小さなアンパン)を摂る.
 昼食後,何人かの方々からオヤツを頂戴する.食べ物に卑しい私は,頂戴したものを次々に平らげてしまう.内心では,
 ”そんなに暴食したら胃が悲鳴を上げるぞ…”
と思ってはいるのだが…

<吾妻屋で昼食>

■石塔2基
 昼食後の休憩時間に,吾妻屋の直ぐ側にある2基の石塔を見物する.
 向かって左側の石塔には火打石と大きく刻字してあるのがわかる.しかし右側の石塔の刻字があるのかないのかもハッキリしない.あるいは石像だろうか.
 私には石のことは良く分からないが,火打石の石塔が立っている大きな石が,多分,明月屋寅蔵茶屋の建物に組み込まれていた石であろうと想像する(次の「火打石茶屋の由来」参照).
 この茶屋に宿泊した旅人が,部屋の隅に組み込まれていたこの石を叩いて火が出るのを楽しんでいたのであろう.それが今では何の変哲もない苔むした石に戻っている.
 
<石塔「火打石」>                              <石塔>

■火打石茶屋跡の由来
 吾妻屋脇に立っている案内板には,以下のような説明文が書いてある(誤写あればご容赦).
 「屋号,明月屋寅蔵茶屋
 火打石周辺には,最盛期に9戸の茶屋があった.内3戸(1戸は火打茶屋宮下静雄)は松代藩真田公の命により,旅人の難儀を救うため,領内から選んだ3人にそれぞれ1000坪の山野を与えられ,のちに「三〇〇〇坪」の地名となった.3人は農業を営む傍ら茶屋を出し,旅人を山賊から守り,また,面倒をみたと云われる.
 中でも明月屋は御休憩本陣として格式を誇り,入口には六紋銭の紋があり,殿様お越しの時は一休したり,また,宿泊もした.茶屋は別名,火打石茶屋と云われ,燧石を利用して建てられていた.
 善光寺道名所図会,巻之二
 猿ヶ馬場の頂きに左記(以下)の記事がある.十八丁降りて燧石に茶屋あり.明月屋寅蔵という.座敷の床に大岩を作り込んで壁の代わりに用いたり,小石を以て是を叩くに,火の出ること速かなり.往昔八幡村八幡宮の神燈及び神供を調るに,今に至る迄,燧石の名残れりとぞ,と記されている.
 明月茶屋には,「をばすてはこれからゆくかかむこどり」の芭蕉の句碑が立てられていた.貞享5年(1688年)8月,芭蕉が更級紀行の際にこの峠を越し,火打石茶屋にて姨捨長楽寺に通ずる,八幡峠の間道の情景を詠んだ句である.
 宮下家には,当時,道行く旅人の現在のロードマップにあたる,姨捨十三景の地図を茶屋で売っていたが,木版の保存も良く,今に残されている.宮下静雄記」
                                       (つづく)
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
                                      
続きの記事
  ↓
(編集中)

「善光寺西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺西街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f71644979892cd488cd56360b380d188

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