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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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善光寺西街道;第1回;第3日目(2);刈谷原峠

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                               <刈谷原峠付近からの眺望>

      善光寺西街道;第1回;第3日目(2);刈谷原峠
            (五十三次洛遊会)
       2014年4月24日(金)~26日(日)

第3日目;2015年4月26日(日)  (つづき)

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  ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/274fd7af90e8d35e7e7e3c5d02c9f1a1

<ルート地図(再掲)>


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<刈谷原峠を目指して>

■閑静な山道;サクラが見頃だ
 8時48分,鹿除け(かな?)のゲートを潜る.その先も閑静な山間の路が続く.沿道の至る所で自生しているサクラが見頃を迎えている.
 「のんびり歩きましょう…」
 
<閑静な山道が続く>                           <沿道のサクラが見頃だ>

■石切場
 8時52分,石切場に到着する.
 案内板の記事によると,昭和20年代(1945~1955年)の終わり頃まで,この辺りから土木工事用の石が切り出されていたようである.また,馬飼峠方面から大きな石が産出された.文禄2年(1593年),松本城主石川玄藩頭康長が天守築城の折,太鼓門の石垣に伊深産の大石を使ったという説があると説明している.
 “なるほど…”
と思いながら,この案内板の周囲を見廻したが,大石のようなものは一寸目には見当たらない.
 昭和20年代というと,日本が第2次世界大戦戦後の頃である.鎌倉では光明寺に鎌倉アカデミアの前身である鎌倉文化大学ができた頃だ.私は生まれ故郷の小諸から上田まで汽車通学をしていた.そして戦後改編された駅弁大学に通っていた.私は,案内番の記事を読みながら,貧しかった戦後の頃を連想する.
 石切場で5分だけ給水休憩を取る.そして,8時57分,再び歩き出す.

<石切場>

■小さな池と念仏供養塔
 8時59分,小さな池の側を通過する.鎌倉の矢戸池に何となく似た雰囲気の池である.
 この池を通過してすぐの所に,立派な念仏供養塔が立っている.この供養塔にどのような由来があるかは,私の手許の資料では今のところ全く分からない.
 資料2(p419)に示されている地図には,この辺りに岩井堂が掲載されているが,本文の方には何の記述もなく素っ気ない.ひょっとしたら,この岩井堂と念仏供養塔と何らかの関係があるのだろうか.何となく気になる.
 歩き進む内に次第に山が深くなる.                               
 
<小さな池>                                 <念仏供養塔>

■草道になる
 地図を片手に,私達は一体どの辺りを歩いているんだろうか…私は,こんなことを絶えず気にしている.
 その内に仲間のお一人が少々バテ気味になってくる.
 「リュックを持ちましょう…」
と再三申し出る.
 …が,断固として断られてしまう.
 正直,これには参ってしまう.
 “四の五の言わずに,リュックを持たせてくれ…! その方が,皆,安心するし,速く歩けるのに…この辺りが山仲間と違うところだな…”
 私は,万一,何かあっても救えないな,困ったな…と.とつくづく困惑する.
 気温は暑からず寒からず.実に心地の良い散策路である.ただ,鳥の囀りがほとんど聞こえてこない.聞こえてくるのは仲間の女性お二人の話し声だけ.辺りがとても静かなところなので,数メートル前の方を歩いている男性群にも,お二人の話が明瞭に聞き取れる.
 「…それにしても,のべつ幕なしにお話しすることがあるなんて,感心するよ…」
と一人の男性が独り言のように言う.すると,もう一人の男性が,
 「話の内容があっちへ行ったり,こっちへ行ったり…凄いですね」
と呆れている.
 私は,咄嗟に,『オーストリアの村ツバメ』(だったかな?)というワルツを連想する.村娘が井戸端会議をしている有様を表現した曲だと聞いている.
 若い頃,私はワルツを聴くのが好きだった.そんなこともあって,心の中だけでこのワルツの曲を口ずさむ.
 でも,私としては,できることなら,折角,こんなに静かな所を歩いているんだから,お喋りもほどほどにして,心の奥底からこの静けさを味わいながら,心静かに歩いて貰いたいなと思っている.でも,こんなことを口にしたら,多分,気分を害するだろうから,知らんぷりをしている.(こんなことを,ここで書くのはまずいかな.)
 9時04分,これまでの舗装道路が終わって,ここからは草道になる.逆に,この辺りから少し開けて,田んぼや民家が見え始める.
 “随分山奥に田んぼがあるな…”
というのが率直な感想である.
 でも,この峠は,衰退したとはいえ昭和の初期までは重要な交通路だったところである.そう考えると,沿道が山奥まで開けているのも何となく理解できる.

<舗装道路が途絶えた辺りから田んぼが広がる>

■少々蒸し暑くなる
 日が高くなるにつれて少々蒸し暑くなる.知らない間にだんだんと汗ばんでくる.
 9時14分頃,サクラの木の側で立ち休憩を取る.お疲れの方には深呼吸をして貰って,体調を整えて貰う.
 地図を確かめると,刈谷原峠まで後約1.5キロメートル程度.私は内心で,
 “この調子なら,ナントカ予定通り刈谷原峠に到着できるな…”
と胸算用する.
 2~3分の立ち休憩の後,またユックリペースで登り続ける.

<サクラの木の側で立ち休憩>

■商人石
 9時24分,ようやく商人石(あきんど)に到着する.ここには下の写真のように石垣がある.
 傍らに立つ案内板には.この商人石について「こぶしぐらいの石の群れがあって,それを商人石と呼んでいた.景気が良いときには,この石の群れが道より上にあるが,景気が悪いときには道より下にある」という主旨の説明が書かれている.
 なお,同案内板の記事によると,大石一帯には石畳が残っていたが,今は取り壊されてしまったようである.
 なお,事前調査で使用した資料1や資料2には,この辺りの全くといって良いほど記述がない.もっともそのために,予期していない新しい遺構に次々に遭遇する.その度に,
 “おや,おや,…こんな遺構があったのか…”
と新鮮な驚きを味わう,
 “新鮮な驚き,これもまた一興だな…”

<商人石>

■若者に追い越される
 私達が喘ぎ喘ぎ坂道を登っているときに,後ろから数名の若者が迫ってくる.そして瞬く間に追い越されてしまう(9時26分).
 追い越し際に,私達に「こんにちは」と元気よく挨拶をする.その瞬間,一服の清涼剤を味わったような気分になる.
 ”若さって,良いな~ぁ…!”
 私達の仲間が,
 「どちらまで行かれるんですか…」
と若者に聞く.
 どうやら彼らは長野の善光寺まで昼夜を通して歩き続けるようである.
 いやはや,大したものである.私達は2泊3日の旅を,3回も繰り返して,延べ9日間掛けて,やっと歩く道のりを,ぶっ通しで歩いてしまうんだから…

<若者に追い抜かれる;後ろから元若者がトボトボと>

■馬頭観音
 9時28分,馬頭観音の脇を通過する.傍らに馬頭観音の由来などを説明した案内板が立っている.
 残念ながら,この馬頭観音も,事前の調査では所在を把握していなかった.思わぬ所で馬頭観音に遭遇して,ちょっと驚く.
 私は手許の地図にこの馬頭観音の位置を記入する.

<馬頭観音>

■馬頭観音群
 事前調査では,今歩いている道が,もう少し先でS字型に大きく曲がりくねるはずである.この曲がり角まで到着すれば山頂まで後僅かなはずである.でも,この辺りから上り勾配がこれまでより幾分急になる.
 先ほどから疲労気味の方の息遣いが随分と荒れているのが気になる.私はこの方のリュックを背負う.そして,リュックのあまりの重さにビックリする.
 “次回からは持ち物を極力軽くするように注意しなければ…”
と思う(…が,忘れてしまうかもしれない).
 9時32分,待望のヤピンカーブに到着する.ここで大きく左へ曲がる.
 「あと,もう少しで刈谷原峠ですよ…頑張らずにユックリ登りましょう」
と一同を促す.
 余談だが…
 私は,山道では決して”頑張れ”とは口が裂けても言わない.”ユックリ登りましょう”の一点張りである.
 年寄りが頑張ったら,ほんの2~3分でダウンしてしまう.それに一旦ダウンすると,そう簡単にはリカバリーできないことを,経験的に知っているからである.それよりも頑張らずにユックリ,ユックリと昇った方が,結局は速く歩くことになるし,疲労も格段に少なくて済む.
 9時38分,今度は右回りのヘヤピンカーブに到着する.
 このカーブ付近に沢山の馬頭観音が並んでいる.これも,刈谷原峠が人馬ともに苦労したことの証しであろう.

<馬頭観音群>

■視界が開ける
 S字型のヘヤピンカーブを通過する.
 目の前に急な勾配で大きな弧を描きながら左にまがる道が見える.地図で確かめると,このカーブを登りきった所が刈谷原峠である.
 「このカーブを登りきった所が刈谷原峠ですよ.もう少しです.焦らずユックリ登りましょう」
と一同を勇気付ける.
 カーブに差し掛かると,進行方向右手の視界が急に開ける(9時39分).
 「うわ~…,素晴らしい風景だ…!」
ということで,2~3分展望休憩を取る.

<急に視界が開ける>

<刈谷原峠>

■ようやく峠だ
 峠がすぐ目の前に見えているのに,なかなか到着しない.焦れったい気持ちになるが,焦りは禁物である.
 ゆっくり,ゆっくり,登って,9時51分にようやく刈谷原峠に到着する.
 峠口を歩き出したのが8時26分であった.したがって,1時間25分の山登りであった.

<鳥井峠に到着>

■峠で一休み
 峠には私たち以外,誰も居ない.
 峠に設置されているベンチに座り込む.
 どうやら,ここまでは順調に歩いてきたようである.地図を見ると,これから先,ちょっと急な坂を1.5キロメートルほど下れば,今日の目的地,刈谷原宿に到着する筈である.標高差は約200メートル.
 “この調子なら大丈夫…十分に予定通りの時間に到着する”
と確信する.
 そこで,折角の峠なので,少々長めに休憩を取ることにする.
 早速,皆さんからお菓子やチョコレートの提供を受ける.またもや私は皆さんにお配りするものを何も持っていない.何時もながら“うっかり”準備をし忘れている.でも,頂戴できるものは何でも頂戴しよう…この辺りが私の卑しいところである.
 峠付近は,下草が丁寧に刈り込まれている.辺りの雑木林も手入れが行き届いている.
 柔らかい春の日差しが枝の間を抜けて降り注いでいる.無風.なんとも心地よい.

<峠のベンチで一休み>

■3軒の茶屋と井戸の跡
 峠の片隅に案内板がある.
 この案内板の記事によると,かつて峠には3軒の茶屋,それに井戸があったようである.この井戸の名残があるようだが,一寸目には見当たらない.残念だが仕方がない.
 なお,この案内板によると,昭和30年代まで,石畳があったようだが,地下ケーブル敷設のために破壊されてしまったという.これまた残念なことである.
 昭和30年代といえば私はまだ学生だった.外食券がなければ食事もできない時代だ,遺跡の保護どころではなかった時代である.あの頃の世相を回想すると,破壊されてもやむを得なかったなと思う.
 この案内板に出てくる稻倉(しなくら)峠については,資料3に詳しく掲載されている.

←クリック拡大

■峠を下り始める
 峠での休憩を終えて,10時05分,刈谷原峠から,刈谷原宿を目指して,やや急な下り坂を下り始める.
 果たして故障中の私の右膝が,これからの下り坂に絶えられるだろうか,一抹の不安がある.

[参考資料]
資料1;完全踏査海道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;http://ja1klb.web.fc2.com/tabi/kaidou2/shinagura.html
                                       (つづく)
続きの記事
  ↓
(編集中)

「善光寺西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺西街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f71644979892cd488cd56360b380d188

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