<眼下に刈谷原宿が見え始める>
善光寺西街道;第1回;第3日目(3);刈谷原宿
(五十三次洛遊会)
2014年4月24日(金)~26日(日)
第3日目;2015年4月26日(日) (つづき)
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<ルート地図>
■刈谷原峠(前掲)
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■刈谷原宿
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<刈谷原峠を下る>
■快適な下り坂
刈谷原峠で休憩を終えた私達は,10時05分に刈谷原宿を目指して歩き出す.事前にプロフィールマップを作った段階では,やや急な下り勾配が連続することだけは分かっていたが,果たして荒れた道か,それとも歩き易い道なのかまでは分からなかった.ただ,多分山道が連続するだろうと予想していた.
ところが,歩き出してみると,未舗装ながら,道幅も広い立派な砂利道である.正直なところ,内心で“良かったナ”と思う反面,なんとなく拍子抜けする.
登山道には,雑木林を通して,少し西に傾き始めた日光が差し込んでいる.気分最高.
<心地よい下り坂>
■石塔群
10時15分,進行方向右手の土手に,石塔が最初に2基,少し離れて4基ほど並んでいる.資料1によると,この石塔は嘉永6年(1853年)に造立されたようである.
1853年といえば,ペリーが来日し,吉田松陰が下田の黒船に乗ろうとして,瑞泉寺に立ち寄った年である.そして,幕府が鎌倉周辺の海岸の警備を強化していた頃だ.また,島崎藤村の『夜明け前』の舞台となった時代でもある.
このような騒然とした世相の中で,誰がどんな思いでこの馬頭観音を造立したのだろうか.ここの石塔群は苔むしているだけで,私に何も語ってくれない.
<石塔群;最初の2基> <石塔群;次の4基>
■刈谷原峠一里塚
進行方向左手は深い谷になっている.ただ路肩には灌木が繁茂しているので谷の様子は全く見通せない.
相変わらず砂利道が連続する.後ろの方から一行が砂利を踏む音が”ザッ,ザッ,…”と,規則正しく聞こえてくる.
すると,突然,“ザザッ”という音と,“ぎゃぁ~”という叫び声が聞こえる.どなたか女性が,石車に乗って,尻もちを付いたようである.
「ステップを小さくして…踵から着地したらダメですよ…」
私は山岳ガイドから教えて貰った歩き方を,またもや,遠慮がちに,皆さんにお話しする.でも,そんなこと,皆さんも理屈ではちゃんと分かっている筈である.ただ,馴れないと,どうしても踵から着地してしまうだけ.
その内に,2回も転倒する人が出てくる.
そうこうしている内に,10時31分,刈谷原峠一里塚に到着する.洗馬から7里目の一里塚である.
資料1によると,善光寺街道の一里塚は比較的小さいものが多かったという.
資料2(p.421)には,古文書を引用して「…さて宿を出ると,善光寺道は山間の道をたどり始める.岡田へ1里半,此間をあだ坂といふ.登り二十丁,下三十丁,かりや原峠といふなり…」と紹介している.さらに「この峠にへ登り始めると450m,川を越したところに一里塚の跡がある.」という記述がある.ただし,この本の著者は,私達とは反対の方向に歩いている.
資料2の記述で分かるように.刈谷原峠は別名仇坂というようである.
私は事前にこの本を読んでいたので,一里塚に到着した瞬間,
“あと450メートルほどで刈谷原宿だ”
と内心ではホッとする.
<刈谷原峠一里塚跡>
■砂防ダムを迂回する
10時40分,突然目の前が開ける.進行方向右手に砂防ダムが見え出す.この辺りで今までの土道から舗装道路に変わる.
もともとの善光寺西街道は,この砂防ダムの中を通っていたが,今はダムの左岸を迂回するガードレール付きの立派な道になっている.
<ガードレール付きの立派な道に出る> <砂防ダム>
■ゲートを越えて馬飼峠道と合流
10時42分,シカ除けのゲート(かな? それとも自動車除け?)を通過する.
10時47分頃,三叉路に突き当たる.
“突き当たった道は,多分,馬飼峠経由の道だろう…”
と確信するが,本当かどうか分からないので,一同には何も言わないことにする.ただ,もうすぐ刈谷原宿に到着するとだけ伝える.
余談だが,資料1,資料2ともに馬飼峠道について,ほとんど記述がないのが残念である.
ゲートを通過した後も,相変わらず新緑が滴り落ちてくるような素晴らしい道が連続する.
<鉄柵越える> <馬飼峠道と合流>
<刈谷原宿へ>
■眼下に刈谷原宿
10時47分,進行方向左手に,山間の集落が見え始める.刈谷原宿である.昔の旅人も,今の私達と同じように,この辺りで刈谷原宿が見えだしてホッとしたことだろう.
遠くに高い山が見えている.豊かな緑に埋もれている集落は,なんとも住み心地がよさそうな雰囲気である.
私は振り返りながら,皆さんに,
「やっと,刈谷原宿ですね…」
と独り言のようにつぶやく.
<刈谷原宿を見下ろす>
■砂防ダムに遮られた旧道
10時48分,旧道入口に到着する.入口から,砂防ダムの方に向けて,歩いたらいかにも気持ちよさそうな草道が伸びている.砂防ダムがなければ.この旧道を歩いて刈谷原宿に到着したはずである.
ということは,ここが本来の馬飼峠越えの道との分岐点だったのだ.
旧道を少し遡ってみたいなという衝動に駆られるが,今回は団体行動である.やめておこう.
<旧道入口>
■サクラのトンネル
行く手に見事なサクラの木がある.私達は満開のサクラの下を潜りながら刈谷原宿へと向かう.
もう集落が近いのか,物置小屋か掘っ立て小屋のような建物が見え始める.これまでとはちがって,辺りからなんとなく人間くささが漂い始める.この人間くささに,ホッとすると同時に,ああまた人間世界に戻ったなという残念な気分もする.
<満開のサクラの木の下を通過する>
■いよいよ刈谷原宿だ
10時49分,中部北陸自然歩道の標識と刈谷原峠の案内板が立っているところに到着する.
この案内板には,「古くは,仇坂とよばれた.中世に東山道の近道として栄えた交通の要衝であった…」というような説明が縷々書かれているが,案内板全体に風化していて,文字は殆ど読めない.ただ,刈谷原峠が別名「仇坂」と言われていたことだけは判読できる.
<宿の入口にある中部北陸遊歩道の標識> <刈谷原峠の案内板>
■宿の入口にて
10時50分,Y字型の三叉路に到着する.私達は,この三叉路の左側の道に入る.相変わらず,やや急な下り坂が連続する.
左側の道に入ったすぐの所,道路右側に紅色の美しい花が咲いている(花の名前を聞いたがすぐ忘れた).花のある畑で地元の男性が農作業をしている.
同行の女性が.この男性に話しかける.
「こんにちは,綺麗な花ですね…こんな素晴らしい所でお仕事できるなんて…」
すると,
「いやあ~…(この花より)皆さんの方がずっと綺麗ですよ…」
と意表を突いた返事が返ってくる.
私はこの返事にビックリする.そして内心で,
”ああ,なるほど! そう見えるとは気が付かなかった.見直さなければ…”
とニタニタする.
勿論.私はこの男性の意見に賛成でも反対でもない.中立である.
<美しい花の下で…>
<刈谷原宿内を歩く>
■はっきりしない本陣跡と脇本陣跡
宿内に入る.
資料1によると,宿内に入ってすぐ右手にある中沢宅が「御本陣上の問屋」だと書かれている.また資料2(p.421)には「本陣兼上の問屋を務めた中沢資雄宅も,すっかり現代風に改装されてしまい「御本陣,上問屋」と大書した昔の看板が残るだけ」という記事がある.しかし,残念ながら,私達は,この看板すら見付けられないまま,それらしい場所を通過してしまう.
10時53分,本陣とおぼしき場所の少し北,土蔵のある家の前まで来てしまう.どうやら,この辺りに下の問屋兼脇本陣の中沢宅だろうか.
”多分違うだろうな…”
と思いながら,真壁作りの大きな建物に沿って右折する.そして,そのすぐ先で左折する.
本陣跡も,脇本陣跡もはっきりしないまま,刈谷原宿の核心部を通過してしまったようである.残念だが致し方ない.
<真壁の家に沿って右折と左折を繰り返す>
■北国西街道古屋
10時54分,真っ白な真壁の家の脇を通過する.この家の玄関脇に,「北国西街道古屋」という表札が取り付けられている.
“はて? 古屋? 何だろう?”
残念ながら資料1にも資料2にも古屋の記述はない・
”まあ,いいや,とにかく写真だけ撮っておこう…”
ということで写したのが下の写真である.
<北国西街道古屋>
■御大典記念と玉成小学校跡
10時55分,御大典記念という刻字のある石柱の前に到着する.どうやら昭和3年(1928年)に作られたもののようである.残念ながら,戦前の歴史を知らない私には,御大典記念が何なのか良く分からない.
昭和3年の鎌倉では菅原通斉が常磐山文庫を作った年である.また鎌倉国宝館が作られたのもこの年であった.さらに,私の家の近くにある妙法寺が山梨県から山崎に引っ越して再建されたのも昭和3年である.
御大典記念石柱のすぐ脇に,玉成小学校跡という案内杭があるが,この小学校の由来などは全く分からない.
<御大典記念> <玉成小学校跡>
■鷹巣根の古城跡
地図を見ると,私たちが今居る場所から西の方へ500メートルほど離れた所に鷹巣根の古城跡があるらしい.ちょっと訪れて見たい気もするが,街道からかなり離れているので,残念ながら立ち寄るのは割愛する.
資料2(p.421)には,「鷹巣根の古城は文明十八年(1486年)に太田道灌の一族,太田弥助がここに落ちてきて小笠原氏に属し,この城に住む.しかし天文二十一年(1552年),武田の軍勢小県(ちいさがた)郡より攻め入り,八月五日より合戦あり.甘利左衞門が手に米倉丹後といふ者,武略に運し竹束を拵えへ仕寄とせし故に,日あらずして城際に取詰まる.城主是を追い払わんと九度まで突い出けれども後詰なければ耐えがたく,同十三日末の刻に城を払いて討死し,終に落城せしなり」という説明がある.
天文21年といえば,鎌倉では浜の大鳥居が建てられたという年である.
<昭和公園>
■バス停公園前
これといった遺構が見当たらないまま刈谷原宿を通過してしまったようである.私達は何時の間にか,集落の外の下り坂をトボトボと歩いている.道幅は狭いけれども綺麗に舗装された道路が続く.
11時間06分,バス停公園前に到着する.この辺りは昭和公園というらしい.
「…ここが(今日の)終点ですか…?」
とどなたかが言う.私は,
「いえ,もう少し先の大門というところまで歩きましょう…」
ただ,大分疲労も貯まってきたようなので,ここで10分ほど休憩を取る.
<長閑な郊外> <バス停公園前>
■立派な道祖神
11時05分,立派な道祖神に到着する.
廻りには,綺麗な花が咲いている.この辺りの野辺の美しさに私は感動を覚える.それにこの道祖神の格好が良いこと.一体,どんな方々が,どんな思いを抱きながら,この道祖神を造立したんだろう.
<立派な道祖神>
■横山不動明王
バス停公園前のすぐ脇に鳥居がある.鳥居から先は急傾斜の階段が続く.地図で確かめると,この階段を登ったところに横山不動が祀られているようである.
「せっかくだから御不動産を御参りしましょう…」
と誘うが大半の方はバス停付近のベンチに座ったまま.
階段を登る.すぐに小高い断崖の上に不動明王が祀られている.
小高い崖の上に登ると,視界が開ける.下のベンチに座っている皆さんに,
「景色が良いですよ…登ってきませんか」
とお誘いする.
私の誘いに,何人かが階段を登ってくる.
<鳥居と階段> <崖の上の社殿>
■筆塚と石塔
不動明王の鳥居の近くに大きな石の筆塚がある.この筆塚の由来などは不明である.
筆塚の近くに中沢融君頌徳碑がある.インターネットを使って.中沢融という方のことを調べたが,今のところ,どんな方なのか良く分からない.
<筆塚> <中沢融君頌徳碑>
<バス停大門へ>
■神明社
11時20分,神明社入口に到着する.
地図を見ると,社殿は大分奥の方にあるらしいので,今回,参拝は省略する.
<神明社参道入口>
■洞光寺
11時21分,洞光寺参道に到着する.ここも参拝は省略.
入口に設置されている案内板の記事によると,県宝絹本著色真言八祖像八幅がこの寺にあるとのこと.さらに,案内板には「真言密教を印度,中国,日本と伝えた竜猛,竜智,善無畏,金剛智,一行,不空,恵果,空海の八人の祖師を画像にした者で,画面上部に指揮し形の枠を設け,賛文を書している…」という説明がある.でも,浅学の私にはこの文章の意味があまり良く分からない.でも,まあ,いいか,で読み飛ばす.
資料2(p.420)には,「木曾義仲が入口右手の石に兜を置いて,洞光寺の薬師堂を参拝した」という説明がある.
<洞光寺入口>
■バス停大門
地図を頼りに,緩やかな下り坂を進む.やがて前方に三叉路が見え出す.バス通りである.この三叉路の直ぐ近くに,本日の終点,バス停大門があるはずである.
三叉路で,辺りを見回すと,左折したすぐ左にあるバス停大門がすぐ見つかる.
11時24分,私達は,今回の終点,バス停大門に到着する
こうして,第1回第3日目の行程は,無事終わる.後はバスかタクシーを利用して松本まで戻るだけである.
<三叉路に突き当たる> <バス停大門に到着>
[参考資料]
資料1;完全踏査海道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
(つづく)
続きの記事
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(編集中)
「善光寺西街道」の目次
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「善光寺西街道」の索引
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