<岡田一里塚跡>
善光寺西街道;第1回;第2日目(4);刈谷原峠登り口伊深まで
(五十三次洛遊会)
2014年4月24日(金)~26日(日)
第2日目;2015年4月25日(土) (つづき)
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<ルート地図>
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(再掲)
<伊深地区を行く>
■保福寺越道との分岐
14時19分,岡田宿の枡形を通過する.
枡形で,右へ真っ直ぐ進むと保福寺越道になる.資料1によると,保福寺越道は上田に至る道で,松本藩が参勤交代に利用したという.
資料2(p.422)には「『此処追分有.左はひなくら峠を越,保福寺へ出る』とあるように,途中まで善光寺道に並行して北へ上り,稻倉峠・保福寺峠を越え,浦野を経由して上田に出るいわゆる保福寺越え道であった.松本藩主の参勤交代は,本来は中山道塩尻経由の定めであったが,実際にはこちらが使われたほど,重要な街道である」と紹介されている.
私は,幼少の時代,生家のある小諸から上田の中学(後に新制高校)で汽車通学をしていた経験がある.上田と聞くと懐かしさが込み上げる.もし上田に抜けられるなら,いつの日にか,保福寺峠越えの街道を歩いてみたい.こんな思いがみぞおち付近から強く込み上げてくる.
[参考地図;保福寺越道の概要] ※正確かどうか全く分からない.
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■岡田仲深一里塚跡
枡形を過ぎる辺りから,今日は何処まで歩こうかと迷い始める.私は地図を眺めながら,折角だから,刈谷原峠の手前まで歩いてしまおうと思い始める.
「まだ,14時を廻ったばかり…もう少し先まで歩きましょう…」
と私は皆さんを促す.ある意味では,もう破れかぶれである.
勾配はなだらかとはいえ,ずっと登り坂が連続する.どなたかが,
「知らぬ間に,随分と登っていますよ…」
と後ろの方で言っている.
14時29分,進行方法左手に建っている大久保商店の前を通過する.資料1と手許の地図を照合しながら現在地を確認する.そして,峠の登り口まで後1キロメートル足らずの道のりであることを確認する.私はこの時点で,
”これで良かった…ここまで歩けば明日は随分と楽になるぞ…”
と確信する.
大久保商店の看板は大分はげ落ちていて,ここが大久保商店だろうという予断がなければ多分読めないほどである.建物も大分老朽化していて,現在営業しているかどうか分からない.でも,この建物のお陰で,地図上の現在地を確認することができる.
14時32分,岡田仲沢一里塚跡に到着する.ここには古びた2本の石柱が立っている.向かって右側の石柱にかすかに「■■一里塚■」という刻字が見える.傍らに新しい一里塚跡の案内板が立っている(冒頭の写真).
この案内板の説明によると,「松本城下では安原木戸の一里塚の次が伊深の一里塚であった.ここにも当時はエノキと松の木があったと伝えられる」とのことである.
<大久保商店> <岡田仲沢一里塚跡>
■石塔群
14時33分,沢山の石塔が綺麗に「コ」の字型に並べられている所に到着する.一際大きな石塔が道祖神のようである.道祖神の頭には注連縄が巻かれている.
この石塔群は信仰心の篤い方に守られているらしく綺麗に手入れされている.
<石塔群> <道祖神>
■塩辛遺跡
14時35分,一面の畠の中にある塩辛遺跡に到着する.
私の事前の文献調査では,この塩辛遺跡はついつい見落としてしまった.
塩辛遺跡の案内文によると「古代,伊深・洞・稻倉からなる一帯を塩辛と称していた,縄文時代中期から平安時代までの竪穴住居跡,古代から平安時代の大型・中型の掘立柱建物跡などや,多量の遺物が出土している.7世紀代の集落の発見は岡田では初めてである.古代の集落は来たから徐々に南へ広がっていったようだ」とのこと.
<塩辛遺跡>
■塩辛遺跡の分布
塩辛遺跡の分布図が掲示されているので,以下に収録しておこう.
この図によると,現在私たちが居る場所から西から南にかけて沢山の遺跡が分布していることが分かる.
<塩辛遺跡の分布図>
<伊深>
■ガードを潜る
14時36分,国道254号線のガードを潜る.ガードの先はやや勾配がきつい登り坂になっている.この辺りは伊深という所らしい.
資料1によると,ガードを潜った直ぐ近くの左手に伊深公民館があるはずだが,残念ながらどうも見当たらない.
今日の所は,この辺りを終点にして,タクシーを呼んで,松本まで戻ろうと思う.タクシーを呼ぶときの目印に,伊深公民館が丁度良いなと思っていた…が,見当たらない.
<国道254号線のガードを潜る>
■田畑の向こうにコンビニ
私が地図を眺めながら,どうしようと途方に暮れているとき,誰かが,
「…あそこにコンビニがありますよ…」
と叫ぶ.
なるほど田畑を挟んで200~300メートル先に,コンビニがある.
「コンビニならタクシーにも良く分かるでしょう…」
ということで,大変申し訳ないが近道をするために畦道を等させて貰う.
「畦に乗らないように草野の上を歩こう…田舎で畦作りに苦労したから畦が大切なことが分かるよ…」
と私の後ろの男性が,一同に注意を促す.
この田んぼの所有者には大変申し訳ないが,ここを通らないと,鋭角三角形の頂点を迂回するように,ぐっと長い距離を歩かなければならない.それに何より癪に障って心臓に悪いのは,たった今しゃにむに歩いてきたところを,200~300メートル戻らなければならないことである.
田んぼの畦脇の雑草を歩いて,14時44分にコンビニに到着する.
“やれやれこれで何とかなるぞ…”
<畠の向こうにコンビニ>
[参考資料]
資料1;完全踏査海道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
(つづく)
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(編集中)
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