<豆腐料理「うかい」の脇を通過>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第3回):(3)日野宿から八王子へ
(五十三次洛遊会)
2013年5月6日(月・振替休日) つづき
<ルート地図>
※前掲図
<日野郊外を行く>
■大坂上中学校
日野駅周辺で自由昼食を済ませた後.12時50分,日野駅前から午後の部を開始する.
日野駅前で,どちらが旧中仙道の道か少し迷ったが,JR線路脇の南南西に向かう.なだらかな登り坂である.この坂は,どうやら大坂と呼ばれるようである(未確認).
JR線路の上を通るガードの下を潜ると,幾分緩やかな坂道になる.
13時08分,大坂上中学校脇に到着する.中学校の前の通りには,見事なツツジの並木が続く.
<大坂上中学校>
■上人塚は工場の中
13時18分,日野自動車の工場に到着する.
この工場の敷地内に,上人塚と古墳がある.工場入口の守衛室で上人塚が見学できるか伺うか,当然のことながら“No.” 残念ながらやむを得ない.
資料1によると,美濃佐藤家の浪人が名主になった際,連署を埋めたところとと言われているようである.
<日野自動車の守衛室にて>
■ファミリーマートで休憩
日野自動車の大きな工場際の道を西南西に向かって歩き続ける.蒸し暑い.
ついで,日野自動車の工場と道路を挟んで反対側にあるコニカミノルタの工場の前を通過する.
13時32分,ファミリーマートに到着する.ここで,10分ほどトイレ休憩.
余りに蒸し暑いので,私はここでガリガリ君を賞味する.
<ファミリーマートで休憩>
■旧家の門
13時42分,休憩を終えた私たちはファミリーマートから歩き出す.
13時43分,旧家門のある家に到着する.「土方」の門札が掛かっている.
<旧家の門>
■高倉稲荷社
14時47分,高倉稲荷社に到着する.木立に囲まれた立派なお社が建っている.
資料4によると,この神社の「総本社は伏見稲荷大社(京都).御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)[別称]倉稲魂命.宇迦之御魂神:生産の神/五穀豊穣の神である.ご利益は商売繁盛、五穀豊穣など.享保3年(1719年)高倉新田の鎮守として創建」されたようである.
資料3(p.41)によると,この神社の立派な鳥居は明神鳥居という様式の鳥居らしい.
<高倉稲荷社>
■豆腐料理「うかい」
13時56分,八高線上の高架橋を通過する.
傾斜の緩い下り坂を少し進むと豆腐料理で有名(らしい)「うかい」に到着する(14時02分). ここがどのようなお店か知る由もないが,大きな敷地に立派な塀が巡らされている.
<豆腐料理「うかい」>
<八王子へ>
■浅川を渡る
14時12分,浅川に架かる大和田橋に到着する.かなり長い橋である.橋の中央に立ち止まって浅川の上流を眺める.
かなり強い風が下流の方から吹いてくる.帽子を飛ばされないように頭を押さえながら橋を渡る.橋を渡りきるのに3分ほどの時間が掛かる.
<浅川を渡る>
■新町の枡形と新町竹の鼻一里塚
大和田橋を渡って,ほぼ直角に右に曲がる.12時21分,市立五中の前を通過する.
五中の敷地が終わるところで,左手の狭い道に入る.
資料1によると,この辺りは森町の枡形と呼ばれているようである.
14時22分,「史蹟一里塚址」と大きな字が刻字してある石柱の前に到着する.ここは新町竹の鼻一里塚跡,江戸日本橋から11里めの一里塚である.
一里塚跡の後ろは公園になっている.広場には滑り台やベンチが備え付けられている.
広場の先は高台になっていて,小振りながら立派なお社が建っている.
<新町竹の鼻一里塚跡>
■永福稲荷社
新町竹の鼻一里塚跡の隣の高台に鎮座するのが永福稲荷社である.
資料5には,この神社に掲示されている案内板を引用して,「永福稲荷神社は八王子市新町の鎮守で祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)です.古くはこのあたり一帯は竹の鼻と呼ばれていたところから,竹の鼻稲荷神社とも言われていました.厄除け,開運,出世,勝運,商売繁盛,心願成就.縁結び,家内安全,交通安全など,霊験あらたかな神様です.宝暦6年8月2日(1756年)力士八光山権五郎が再建し落成と同日に相撲を奉納したといわれています.江戸時代甲州街道八王子宿の入りロに位置しているために,江戸からの往来客による信仰が厚く寄進された鳥居,天水桶等が境内に現存されています.例祭は「しょうが祭」と呼ばれ毎年9月第1土曜日に執り行われます.当日神社で軍配(勝)御守札を授与します.縁起物として「しょうが」が売られます.」とのこと.
たまたま,神社の前に居られるご近所の老婦人に伺う,
「9月2日に「しょうが祭り」をしますよ…とても賑やかですよ」
とのこと.
<永福稲荷社>
■力士八光山権吾郎の像
神社の境内に力士八光山権吾郎の実物大の像が立っている.この像が実物大だとすると,とてつもない大男である.
資料5によると「八光山権五郎は江戸時代中期(寛延,宝暦)に活躍した八王子出身の力士です.身長6尺3寸(191センチ)体重不詳,嶋屋という絹問屋の後継ぎで商売をしながら相撲をとっていました.当時は大坂,京都で勧進相撲が盛んに行われていました.現在のように相撲協会はなく,相撲が開かれる場所へ自前で出かけて行き日本各地の力自慢腕自慢が,日本を東西に分けて地元出身地を背負って対戦しました.その時の番付には八光山の出身地は「江戸」とのっています.八光山は八王子から相撲が開かれる場所へ旅立つ前には,必ず稲荷神社へ参拝し旅の安全と必勝を祈願し亦帰郷した折にも境内で勧進相撲を奉納しました.当時の力士は現在の力士が締めている半分位の丈で出来ている化粧回しを締めたままで柑撲をとりました.相撲は神事と深いかかわりがあることから,五穀守護の神「倉稲魂命」の神前で願いを込めて相撲を奉納したものとおもわれます.八王子史実を著してある塩野適斎の桑都日記には,八光山権五郎が神明の霊徳によって天下第一の力士になれば,神祠を再造して永くこの所において相撲を興行し神を祭ると祈誓し,故郷を辞し去って三都及び四国九州を遊歴し,強くカのある者に逢えば相撲を試み,遂には敵する者が無く,これを賞され時の天皇から御盃と錦のまわしを賜り,帰郷後稲荷神社境内で相撲を興行したと記録されています.」とのことである.
さらに,「力士八光山権五郎が62歳で没した後,毎年8月2日には近郷の力自慢によって相撲が奉納されるようになりました.(案内板より)」とのことである.
<力士八光山権吾郎像>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;外山晴彦;サライ編集部(編),2002,『神社の見方』小学館
資料4;http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=1737
資料5:http://ps.55555.to/tokyo/eifuku_inari_jinja-hachioji/
(つづく)
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