<千人同心碑の前で一休み>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第3回):(4)八王子宿
(五十三次洛遊会)
2013年5月6日(月・振替休日) つづき
<ルート地図>
<八王子宿の概要>
■八王子宿の規模
資料2(p.277)によれば,八王子宿の宿内人口は6,026人.内,男3,112人,女2,914人.宿内惣家数1,548軒.内,本陣2軒,脇本陣3軒,旅籠34軒の大きな宿場だったようである.また,大概帳による宿場の正式名称は八王子宿ではなく横山宿のようである.
■八王子宿の成立経緯
資料4の説明によると,「1590年,後北条氏が豊臣秀吉と敵対し,八王子城は上杉景勝・前田利家らの北陸勢の猛攻を受けて落城した.その後小田原城が降伏し,北条氏照が兄の北条氏政とともに敗戦の責任をとって切腹すると,没収されたこの地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられた.家康もまた後北条氏と同じく,家康の居城が置かれる江戸を甲州口から守るための軍事拠点として八王子を位置付けた.
しかし徳川氏は後北条氏のように八王子に支城を置かず,八王子城を廃城とした上で八王子を直轄領とした.八王子には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり,武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発を担当した.長安は甲州街道を整備し,八王子城下より東の浅川南岸の街道沿いに新たに八王子町を設けて旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させた.
徳川氏による八王子の開発の結果,1650年代までに現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し,八王子十五宿(八王子横山十五宿)とよばれるようになる.この宿は街道中最大の宿となった.八日市・横山・八幡などの地名は滝山城の城下町から八王子城の城下町へ,そして八王子町へと受け継がれたものである.また徳川氏は武田氏や後北条氏の遺臣で軽輩の者を取り立てて八王子宿周辺の農村に住まわせ,普段は百姓として田畑を耕し,日光警護など特別な軍事目的の場合には下級の武士として軍役を課す八王子千人同心とした.
八王子宿への代官の駐在は1704年に廃され,関東御料の代官は江戸に移住する.なお,八王子宿は幕府直轄の天領であったが,江戸近郊の常として周辺の村には旗本や小大名の相給地も多く,一元的領域支配は行われていない.」(以上コピペ).
<八王子宿を行く>
■八王子市の中心街
永福稲荷社で休憩を取った後,12時35分に再び歩き出す.永福稲荷社前の緩やかな登り坂をほんの100メートルほど進むと三叉路に突き当たる.
この辺りに市守神社があるはずだが,見学は省略する.
資料5によれば,市守神社は「天正18年(1590),八王子城落城後の新しい八王子の宿を整備するにあたって,倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を守護神として創建された.市守稲荷とも呼ばれ,商売繁盛の神として信仰されている.のちに天日鷲神(あまのひわしのみこと)も祀り,現在でも毎年11月の酉の日に商売繁盛を祈願する「お酉さま」が行われている.」とのことである.
14時42分, 三叉路を左折して南へ向かう.2〜300メートル歩くと大きな通りと交差する.ここで右折して再び西へ向かって歩き出す.資料1によると,この曲がり角辺りに八王子宿入口の木戸跡があるはずだが,どこにあるのか分からないまま通過する.
この辺りはJR八王子駅の北側に位置している八王子の中心街である.資料4の解説にもあったように,この辺りは甲州道中最大の宿場であった八王子宿があったところである.
道路の両側には大きくて立派なビルが建ち並んでいる.道幅も広く,自動車や人の往来も至って賑やかである.鎌倉の山の中に住んでいる私は,大都会のど真ん中を歩いているように思えて,何となく落ち着かない.
街角に,可愛い男の子の立像が置かれている.可愛さに惹かれて写真を撮るが,この立像は一体何なんだろう? 良く分からない.
<八王子の中心街> <可愛い立像>
■八日市宿跡
立派で広い道路に圧倒されながら西に向かって歩き続ける.
資料1の地図を眺めながら,14時52分に川口脇本陣跡らしいところを通過するが,痕跡は見当たらない.
14時55分,絹の道との交差点を通過する.資料1によると,絹の道は安政6年(1859年)?浜開港にともない明治に入ると八王子は絹織物の町となったという.
この近くに高札場があったようだが,これも痕跡すら見当たらない.
14時58分,八日市場宿跡碑に到着する.この碑は八王子夢美術館があるビルの前に立っている.
資料4によれば,八王子十五宿は.十王堂宿(新町),横山宿,八日市宿,本宿,八幡宿,八木宿,子安宿,馬乗宿,小門宿,本郷宿,上野(上野原)宿,横町,寺町,久保宿,嶋坊(嶋野坊)宿から成り立っている.この八日市宿は,八王子十五宿のひとつである.
八日市宿跡碑のすぐ西,信号八幡町付近に山上脇本陣(日本火災海上保険付近)や新野本陣跡などがあるはずだが,残念ながら痕跡すら見当たらない.
<八王子夢美術館> <八日市場宿跡の碑>
■千人同心碑
さらに西へ歩き続けると,繁華街の喧噪さは次第に薄れて,何となく落ち着いた雰囲気に変わる.
14時16分,信号本郷横町を通過する.ここは秋川街道の分岐である.
この辺りの南に,産千代稲荷があるはずだが,ちょっと探しあぐねる,もう,時間も押しているので,ここは参拝せずにそのまま通過する.
15時16分,追分歩道を渡る.5叉路の大きな交差点である.
歩道を渡っていると,いきなりパトカーがサイレンを鳴らして,交差点内に停車中の1台の乗用車を近くの交番脇へ誘導している.同行者の方の話だと,どうやら車線変更禁止の場所で,車線を変更したらしい.
15時15分,交差点沿いにある千人同心碑に到着する.大きくて立派な石碑である.
千人同心は,この稿の冒頭で引用したように,武田氏,後北条氏の遺臣で軽輩をこの辺りに住まわせ,普段は百姓,日光警護など特別な軍事目的の場合は武士として軍役を課された人達のことである.
ここで10分ほど休憩を取る.
<千人同心の碑>
■高尾山分岐
休憩を終えて,15時30分に千人同心碑を出発する.5叉路を斜め左に曲がってすぐに高尾山分岐道標の前を通過する.歩道沿いの並木の緑陰が心地よい.
<高尾山分岐>
■了法寺
15時31分,了法寺の前を通過する.時間が押しているので,参道入口から本道の写真を撮っただけで通過する.
資料6によると,山号は松栄山,日蓮宗.開祖は啓運日澄上人で,延徳元年(1489年戦国時代)に隠居する寺として開山されたと伝えられる.その後,延徳2年(1491年)に,元八王子に改めて開かれ,のちに天正18年(1590年安土桃山時代)に現在の八王子日吉町に転寺した.
<了法寺>
■散田一里塚跡
15時40分,信号長房団地入口で右折,散田一里塚跡に到着する.一里塚跡を示す大きな石柱が立っている.ここは江戸日本橋から12里目の一里塚である.高尾山道標もある.
資料1によると,この辺りには田んぼが散らばっていたことから散田という地名になったという.
道標裏の細い道に入る.細い道の両側には住宅が並んでいる.この細い道も長安寺付近で,また元の道に合流する.
<散田一里塚跡>
■長安寺
15時57分,長安寺に到着する.
資料7によれば.山号は祥雲山.曹洞宗.本尊は準提観音菩薩.寺宝は聖観世音菩薩(卯歳のみ開帳).開基は陽山嶺暾大和尚.開創年は正保(1644)年以前.創建年は不詳,武蔵風土記によれば開山は陽山嶺暾大和尚,正保2年(1645年)3月示寂.本堂建立の年代も不詳,ただし戦災等による焼失の記録の無いところを見ると江戸時代後期から明治初期のものと考えられる.昭和55年(1980年)11月に位牌堂・開山堂が完成.12年に1回卯歳に聖観世音菩薩様のご開帳を行うとのこと.
<長安寺>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;外山晴彦;サライ編集部(編),2002,『神社の見方』小学館
資料4;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%AE%BF
資料5:http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/bunkazai/shiseki/8218/007176.html
資料6;http://ryohoji.jp/
資料7;http://hachibutu.com/cyouanji.html
(つづく)
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