敗戦前後の余話;授業は野良仕事・一斉に”肩を変え~・・・ッ”!
(敗戦前後の思い出)
2020年9月3日(木) 曇時々雨・残暑
台風9号が沖縄に近づいている影響で、雨が降ったり止んだりを繰り返している。でも、せっかく癖になった午後からのお散歩を止めるのも、勿体ないので、傘をさしたりたたんだりを繰り返しながら、大船駅往復定番コースを歩いて、11,500歩だけは何とか歩いた。でも、毎日同じような記事ばかり残すのも”腹がふくれる”ので、今日はもう少し戦争末期の話を追加しておくことにしよう。
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さて、時間軸を、また、昭和20年頃に戻そう。私が旧制中学1年生の頃の思い出である。私たちの中学は千曲川の段丘の上にある。広い校庭は段丘のすぐ上にあり、段丘沿いにたくさんの防空壕が作られていた。たぶん、私たちの先輩達が苦労して作ったもののようである。
戦争末期になると、海から遠く離れた信州にも敵機が頻繁に現れるようになった。その都度、「東部防空警報」という報道がラジオで流れる。授業中に警報が発せられると、先生の指示で、すぐに割り当てられた防空壕の中に逃げ込んだ。
防空壕は地下式。出入り口が土手側にある。防空壕の中は10人程度の生徒が入れるほどの広さだったと思う。出入り口に蓋があったかどうかは覚えていないが、防空壕の中が真っ暗ではなかったので、たぶん、蓋などなかったのではないかと思う。
何事もなく警報が解除されることもあったし、真っ青に澄み渡った青空の高いところを飛ぶ敵機が日を浴びてピカピカ光っているのを何回も見た。防空壕の中からでは見えるはずもないので、たぶん、防空壕からそっと抜け出して見ていたのかもしれない。そのあたりの事情はほとんど覚えていないが、敵機ながらピカピカと光る美しい姿だけは目に焼き付いている。
後々になって、新潟県の長岡を空襲した敵機が信州の上空に飛来したという話を聞いたが真偽のほどはわからない。
平均してどの程度の時間、防空壕の中で過ごしたかははっきり覚えていないが、授業の進捗に多大な影響を与えていたことは確かであろう。
そのうちに、上田あたりの地方都市に爆弾が落とされることもなかろうと思うようになった。ならば防空壕の中で雑談しながら過ごす方が。怖い先生から叱られているよりマシだなと思うこともあった。
ある日、いつものように防空壕に飛び込んだ。
半時ほど経って警報が解除された。生徒の一人が、
「あ~ぁ・・! もう解除か。つまんねぇな・・」
と思わず本音を漏らす。
それをたまたま近くにいた先生に聞かれてしまい、
「この非国民! 何を言っているか!」
と、私たちも巻き添えになって、こっぴどく叱られた。
当初は空襲は確かに怖かったが、回を重ねるうちに、だんだんとこの辺りに爆弾を落とされることはなかろうと慢心していたことは確かだった。
少し本題から外れるが・・・
私の家内は、空襲の中逃げ回った経験がある。家内の話によると、防空壕に逃げ込んだ人はほとんどが蒸し焼きになって死んでしまったとのことである。
「空襲の時は、逃げまわるほうが良いですよ・・・防空壕では蒸し焼きにされちゃいますよ・・・」
とのこと。
<防空壕の中>
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ときどき・・というか頻繁に野外授業(?)があった。
たとえば開墾、草刈り、材木運び・・・
開墾の時は、クラス全員が鍬を担いで一列縦隊で開墾地まで行く。列の先頭には班長がいる。
最初は全員右肩に鍬を担ぐ。
「前ぇ~っ進めっ!」
の号令で歩き出す。まずは、
「歩調とれッ!」
全員の足並みがそろうと、
「直れッ!」
で普通の歩きになる。ただし、右足、左足の順番は全員同じにして歩く。
途中で右肩が痛くなってくる頃、班長が、
「肩を替え~ッ!」
と号令をかける。
すると全員が、一斉に鍬を右肩から左肩に移す。
開墾したところが何に使われたかは知らない。
<肩を替えっ!>(イメージ図)
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材木の運び出しもやったことがある。
全員が隊列を組んで、山へ向かう。行き先は2キロメートルほど離れた山。この山がどこだったかは覚えていないが、たぶん、学校の近く(でもないか?)の山。
1人が1本の木材(たぶん間伐材)を縄でくくって学校まで引きずって持ち帰る。細い木材だったが結構しんどかった。この木材、いったい何に使われたんだろう?
<間伐材を1人1本引きずって持ち帰る> イメージ図
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小学校高学年の頃、草刈りや薪運びにも、よくかり出された。まさに扱いは授業である。
草刈りのときは鎌の刃に荒縄を巻き付けて持って行く。草刈り場についたら自分で草を刈ってそれを荒縄で束ねる。そして、束ねた草を自分で背負って学校まで持ち帰る。この草刈り、ある程度の量を刈らないと束ねるほどの量にならない。これが結構大変な労働になる。ものぐさをして、その辺に刈り捨ててある湿った草を拾って束ねると、今度は重くてどうしようもなくなる。草刈りは子供にとって結構な重労働だった。
薪運びもやった。
大人が作った薪を応分の量をまとめて荒縄で束ねる。直径が30センチメートルぐらいになるように工夫をする。束ねた後で、束を縦に立てて、がさがさする隙間に何本かの薪を打ち込んで、束が堅くなるように調整する。それを草の束のときと同じように、荒縄を使って背負う。
なかなかうまく説明できないが、図のように縄をおいて束に背中を向けてしゃがみ込む。そして荒縄の輪を持ち上げて首を通す。そして縄の両端をそれぞれ脇の下を通して胸の前まで持ってくる、そして首を通した輪に「上から」両端を通して「ぐっ・・」と引っ張る。
この背負い方を、小学校(正確には国民括弧)で習得したが、これが後々まで大変役立った。
<刈草や薪を背負って学校まで持ち帰る>
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終戦前後にこのような作業を頻繁に行ったが、私たちはこれも授業だったと受け止めている。
今の時代に、こんなことを学校でやったら、たぶん、父兄もジャーナリズムも黙っていないだろう。体験者の私でも、
「これが授業か?」
と改めて聞かれたら返答に窮すだろう。
でも現在の考え方ではまるで無鉄砲に思える授業によって、本だけでは習えない色々なことを学べたなと思っている。
(おわり)
「戦中戦後の思い出」の前回の記事
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/421c2e41c34ec7aba31f8e71343dd4a0
「戦中戦後の思い出」の次回の記事
(なし)
「戦中戦後の思い出」(索引)
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/07a94741579bd5ad00bda6762253638c
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