敗戦前後の余話:俺のオヤジは”くそオヤジ”だ!
(戦中戦後の思い出)
2020年8月19日(水) 晴・猛暑
この所,毎日が猛暑である.昨日,熱中症で死亡した人の人数が,例の新型コロナウィルスによる死亡者の数と”どっこい,どっこい”だったのも驚きである.
私は,いつもの通り,午前中は頭の体操で過ごした.今月末の授業に間に合わせるように,PowerPointやWordを使いながら,ヒーヒーやっとこ作業を進めた.ところが,いきなりPC画面に
「(ナンジャラ,カンジャラ,・・)で保存できません」
という奇妙メッセージが現れて,今まで苦労して入力した2時間分ぐらいの仕事が全部消えてしまった.
”ム.ム.ム.・・・またやられたか!”
意気消沈,がっくり
”もっと,こまめに,バックアップ取っておけばよかったのに!”
私は,いつも,かなり慎重にPCの作業をしているが,それでも年に2~3回はこんなポカミスをしでかしてしまう.さすがにこうなると気力減退甚だしく作業の続行は無理.
”この馬鹿PCめ!”
・・・ということで,午後,気晴らしのため大船駅定番コース(歩数約11,000歩)を一回した.途中,駅前のマックに立ち寄って,コーヒーブレーク.周りを見回すと顧客のほとんどがハイティーンか20歳代の連中.とんだところに紛れ込んでしまったなあ~.
このテクテク歩きの記事は,次の機会に譲ることにして,今回も敗戦前後の余話を続けることにしよう.
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まずは,昭和20年頃の思い出から・・・
私が国民学校5~6年生の頃の話から始めよう.
当時,軍国主義教育かますます徹底し始めた頃のある日,今風に言えばホームルームに当たる授業のときのことである.クラス担当の教員が,教壇の上から学童を鋭い目つきで見回しながら
「諸君の中で,航空兵になりたい者は挙手しなさい・・・」
と言う.
当時の学童は厳しいしつけを受けているので,全員,背筋を伸ばし,手のひらを膝において座っている.微動だにしない.教員の言葉で教室内の雰囲気が一層張り詰めた感じになる.しばらくは皆手を上げない.そのうちにどこかの席の子が右手を上げる.あのハイルヒットラーによく似たポーズである.その子の挙手につられて,一人,また一人・・・と挙手する子どもが増える.
当時,私はすでに近視になっていた.多分,遺伝的な近視だったんだろう.小学校5~6年頃から眼鏡をかけていた.話が大分ずれるが,数年前に白内障の手術を受けるまで長い間近視の眼鏡を使いっぱなしだった.
目が悪い人は航空兵になれないことが分かっていたので,私は手を上げなかった.クラスの中には,私のほかに2~3人,近視の子がいたように覚えているが,その子たちもついに手を上げてしまった.私は手を上げる”機”を逸した.
教師はきつい目で私をにらみつけて,
「お前はなりたくないのかあ~っ!」
と雷を落とす.
”私は航空兵になりたくても,近視だからなれないんです”
と言い訳をしたかったが,恐怖感で言い訳もできずにそのまま固まった.
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これが問題になった.
父親が学校に呼び出された.
父親は教師から,
「キサマの家は,反戦教育をしているぞ・・・」
と怒鳴られたとのこと.
それに対して,父親は,
「みんなが飛行兵になったら,銃後の守りは誰がするんですか・・・」
と反論して,事なきを得たとのこと.
戦況は日ごとに悪化していった.当時,父は40才中頃.若い男性がどんどん徴兵されていく最中,医師だった父は徴兵されるより志願して軍医になった方が良いと判断したのか,あるいは”お上”からの命令があってのことか,今となってはその経緯は分からないが,軍医になって富山にあった山砲の部隊に入隊した.階級は曹長だったかと思う.
兵隊になった父親は実に格好良かった.腰には軍刀.これが実に男らしかった.ただ,軍刀をぶら下げる皮バンドは服の上に付けていた.もし少尉以上の軍人になると上着の下に付けられる.その点が子どもながらちょっと悔しかった.
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やがて敗戦.
程なく父親も軍隊から戻った.大きなリュック(だったかな?)に,部隊解散の時に兵隊同士で山分けした物資をたくさん詰め込んで持ち帰った.戦利品(?)を家族の前で披露する.その中から軍靴を取りだして,
「お前には,これをやる・・・」
私が貰った軍靴は,背丈が伸びきっていない中学1年生の私には少々大きかった.でも初めて履く革靴に驚喜した.当時の靴は靴底まで革製である.そのまま履くとすぐにすり減ってしまうので.靴底には小さな鉄製の鋲が沢山打ち込んである.この靴,少々,ブカブカで歩きにくかったが,格好良かった.でも,今の目で見ると粗悪品だった.この靴をそれほど長く履いていたという記憶はない.
余談だが,私が新制高校生になる頃には下駄履きで通学していた.
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話を戻す.
戦後,ほどなく親米プロパガンダが始まる.
ラヂオ(あの頃は”ラジオ”とは書かなかった)からは,カムカム英語やジャズが流れ始める.それまで童謡と軍歌しか歌ったことのなかった私には,ジャズはうるさい不協和音としか感じなかった.ソプラノの歌手の歌は金切り声としか感じなかった.
復員してきた父親は,どこからか蓄音機を持ち出してきた.戦争中はどこか奥深くの秘密の場所に隠していたようである.そして堰を切ったかのように,戦前の流行歌を掛け始めた.例の発条(ゼンマイ)を取っ手をぐるぐる回して巻いて,竹針で聞く78回転(だったかな?)/分のSPと呼ばれるレコードである.
”空にゃ~今日もアドバルン
さぞかし会社で今頃は
おいそがしいと思ったに
ああ~それなにに,それなのに
ねえ~
怒るのは,怒るのは~ぁ
あったり前でしょう・・・”
私は父親の変容ぶりに憤慨した.
”なんだよ,軟弱な・・・! この”くそ”オヤジめ!”
今にして思えば,オヤジは古くて素晴らしかった大正ロマンの時代に青春を謳歌した”戦前派”である.戦争中は”古くて良かった時代”の思い出を無理矢理封印していたに違いない.戦争中はさぞかし辛かっただろうと,今頃になって同情している.
当時,戦後派(焼け跡派)の私は,そんな古い時代のことは全く知らない.戦時中に受けた教育や雰囲気が全て”善”である.また,物心ついてからの自分が経験している状態が全く正常で素晴らしい世界だと信じ込んでいた.だから,なんか嫌らしい音楽にうつつを抜かす父親の姿は,到底,見るに堪えなかったし,内心では軽蔑していた.
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しかし,占領軍の軍政のもとに,世相は急旋回.瞬く間に180度変わっていった.軟弱な戦後派の頭の中はゴチャゴチャになり,ある意味ではやけくそになって新体制に順応していった.そして,敗戦後何ヶ月もたたないうちに,米兵のジープの後を追って,
”ギブミーチョコレート・・・”
だった.
そして私の父親観も,ごく短期間の間に,”軟弱者”から普通のオヤジに変化した.
中学の校庭では,ちょび髭を生やした気障(キザ)な英語の先生が,スクエアダンスなるものを始めた・・・が,校庭に空疎な音楽が流れるだけで,だれも参加しなかった.それもそのはず,当時の中学校は男子校.ニキビだらけで胡散臭い男同士のスクエアダンスなど馴染むはずもなかった.
父親が,
”死んだはずだよ
お富さん
生きていたとは・・・”
を調子外れのかすれ声で歌い始めた頃には,私は大学生になっていた.そして,”最早,戦後ではない”時代になっていた.
(おわり)
「戦中戦後の思い出」の前回の記事
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/269ba0fa79c9cf93a5f5e0ed64a03bd8
「戦中戦後の思い出」の次回の記事
(なし)
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