敗戦前後の余話:タケノコ生活と闇米
(戦中戦後の思い出)
2020年8月19日(水) 晴・猛暑
この所,やけに蒸し暑い日が続いている.それにコロナ騒ぎを口実にして,故郷でしなければならない諸事を放り出して,自宅で巣籠もりしている.まるで時間が止まってしまったような単調なことを繰り返している毎日が続いている.本日も午前中は頭の体操,午後からは定番の大船駅往復の定番コース11,000歩ほどを歩くという変哲もない一日を過ごしてしまった. ・・・で,早いもので,”暑い”,”暑い”と愚痴っているうちに8月も残り少なくなってしまった. 8月は敗戦記念日がある月なので,もう少し当時の様子を記録として残しておきたいなと思う・ **************** 私の家は長野県の浅間山麓の小さな町にあった. 父方の祖父母はこの町の中心から2キロメートルほど離れたところにある隣村に住んでいた.後にこの村は小さな町と合併して市の一部になっている. 町とこの村の境目に検問所があった. この検問所で経験した一寸したエピソードが今回の話題である. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その頃,私は旧制中学1年生. 戦争末期から戦後しばらくの間,深刻な食糧難であった. 食料のない町中に住人は,自分の着物などを農家に持ち込んでわずかな食べ物と物々交換をしながら,その日,その日の食べ物を調達していた. こんな状態が続くと,だんだんと身ぐるみがはがれていくので,まるでタケノコの皮をはがすように,裸になっていく.こんな生活を揶揄してタケノコ生活と呼んでいた. そんな時代のある日のこと,何かの用事で,私は祖父母の家を訪れた. 祖父母は農家だったので,まあ,まあ,食べ物には困らなかった.そんな祖父母の目から見ると,私の家が食べ物に困っているのが不憫でならなかったようである. 夕方,私が自宅に戻るときに,祖母が2~3升の精米を風呂敷につつんで,私の背中に背負わせてくれる. 毎度,芋ばかり食べているので,今夜は,久々に「ごはん」にありつけるかもしれない.そう思うと,頂戴した※は少々重いがなんとも嬉しい. その米を背負って,トボトボと家に向かって歩き続ける. やがて,村と町の境界にある検問所の前を通過しようとしたときに,検問所の巡査に呼び止められる. 「おい,こら!・・・ちょっとこっちへ来なさい」 当時,町村の境界には,昔の関所のように,闇米を取り締まる検問所が設置されていた. もちろん,私にも背中に闇米を背負っているという罪悪感はある.だから,なるべくへ平静を装って,検問所の前を通過しようとしたが,演技が下手なので捕まってしまったのだ. 私はせっかくのお米が没収されてしまうなと観念した.私は巡査の手招きに素直に応じて,検問所に入る. 「…背中に背負っているのは何だね…」 私は指図されるままに背負っている荷物を巡査に見せる. 「何だ! 闇米じゃないか! 住所と名前は?」 私は素直に, 「○○町××番地のFHです…」 と答える. 巡査は,私の名前が○○町のFHだと知って,うろたえ始める. 実は私の親は町中で小さな産婦人科を開業していた.つい先日,この巡査の子どもが私の父の介助で無事出産したばかりである. 「う~ん…,お前,FH先生の息子か・・・しょうがないな.困ったな・・・お父さんによろしく…」 ということで無罪放免.お米は没収されずに済んだ.
後日,この巡査は,私の父に, 「・・・あんたんところの息子さんを捕らえちゃったよ・・・」
と苦笑しながら話したという. 今思えばこの巡査は公私混同している.でも,こういう互いの忖度が,田舎のコミュニティをささえる大切な要素になっているのかもしれない. 当時,高潔な弁護士(政治家だったかな?)が,我が国は法治国家である.だから配給米だけで生きていけなけれおかしいという信念で,闇行為は一切せずに餓死したのが新聞種になっていた. 逆に言えば,建前では闇米などもってのほかだが,本音では100パーセント近くの人たちが,何らかの工夫をしながら生きながらえていたことになる.この状態は,漏れ聞こえてくる現在の「北××」という国の状況とよく似ているように思える. 今にして思えば,あの頃は建前と本音が大きく乖離していた時代だった.尤も,我が国は江戸時代までは和魂漢才,明治以降は和魂洋才の国.元来,建前と本音が併存しているのが常体の国なのかもしれない. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ コロナ騒動が始まる前に,所用があって小諸を訪れた. そのときに,昔が懐かしくなり,この検問所があった場所を訪れてみた.昔,「白鳥バッキンガム・・・」という大きな案内板が取り付けられた三叉路にこの検問所があった.
私は, ”白鳥バンキンガム・・・は何処だ?”
と訪ね歩いた. この検問所があった場所は,拡幅された道路の中に隠れてしまい,当時の面影は全く残っていない.ただ無機質なアスファルトが広がるだけ.こんな何の変哲もないアスファルト道にも,私の忘れられない思いが染みついている. 翻って,今は何の変哲もない場所にも,昔の人々の思いが埋まっているのかもしれない.どんな場所にも,たくさんの祖先の思いが埋まっているんだろう.そう思うと今あるもの全てを大切にしなければいけないなとつくづく思う.
(おわり) 「戦中戦後の思い出」の前回の記事 https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9cecfa760eb59a22aac53a04dd1237aa 「戦中戦後の思い出」の次回の記事
(なし)
お断り;
これらの記事は,私のボケ防止と趣味仲間を読者対象としたものであり,一般の読者を対象としていません,したがって,まったく個人的なものです.また十分に時間を掛けて編集していませんので,記事は正確とは言えないし,誤字脱字転換ミスも多々あると思います.このことを前提にしてご覧下さい.
また,当ブログ記事を読んで,不快になられた方は,以後,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
なお,古い記事には顔写真が掲載されていますが,すべてご本人の了承を得た上で掲載したものです.
(戦中戦後の思い出)
2020年8月19日(水) 晴・猛暑
この所,やけに蒸し暑い日が続いている.それにコロナ騒ぎを口実にして,故郷でしなければならない諸事を放り出して,自宅で巣籠もりしている.まるで時間が止まってしまったような単調なことを繰り返している毎日が続いている.本日も午前中は頭の体操,午後からは定番の大船駅往復の定番コース11,000歩ほどを歩くという変哲もない一日を過ごしてしまった. ・・・で,早いもので,”暑い”,”暑い”と愚痴っているうちに8月も残り少なくなってしまった. 8月は敗戦記念日がある月なので,もう少し当時の様子を記録として残しておきたいなと思う・ **************** 私の家は長野県の浅間山麓の小さな町にあった. 父方の祖父母はこの町の中心から2キロメートルほど離れたところにある隣村に住んでいた.後にこの村は小さな町と合併して市の一部になっている. 町とこの村の境目に検問所があった. この検問所で経験した一寸したエピソードが今回の話題である. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その頃,私は旧制中学1年生. 戦争末期から戦後しばらくの間,深刻な食糧難であった. 食料のない町中に住人は,自分の着物などを農家に持ち込んでわずかな食べ物と物々交換をしながら,その日,その日の食べ物を調達していた. こんな状態が続くと,だんだんと身ぐるみがはがれていくので,まるでタケノコの皮をはがすように,裸になっていく.こんな生活を揶揄してタケノコ生活と呼んでいた. そんな時代のある日のこと,何かの用事で,私は祖父母の家を訪れた. 祖父母は農家だったので,まあ,まあ,食べ物には困らなかった.そんな祖父母の目から見ると,私の家が食べ物に困っているのが不憫でならなかったようである. 夕方,私が自宅に戻るときに,祖母が2~3升の精米を風呂敷につつんで,私の背中に背負わせてくれる. 毎度,芋ばかり食べているので,今夜は,久々に「ごはん」にありつけるかもしれない.そう思うと,頂戴した※は少々重いがなんとも嬉しい. その米を背負って,トボトボと家に向かって歩き続ける. やがて,村と町の境界にある検問所の前を通過しようとしたときに,検問所の巡査に呼び止められる. 「おい,こら!・・・ちょっとこっちへ来なさい」 当時,町村の境界には,昔の関所のように,闇米を取り締まる検問所が設置されていた. もちろん,私にも背中に闇米を背負っているという罪悪感はある.だから,なるべくへ平静を装って,検問所の前を通過しようとしたが,演技が下手なので捕まってしまったのだ. 私はせっかくのお米が没収されてしまうなと観念した.私は巡査の手招きに素直に応じて,検問所に入る. 「…背中に背負っているのは何だね…」 私は指図されるままに背負っている荷物を巡査に見せる. 「何だ! 闇米じゃないか! 住所と名前は?」 私は素直に, 「○○町××番地のFHです…」 と答える. 巡査は,私の名前が○○町のFHだと知って,うろたえ始める. 実は私の親は町中で小さな産婦人科を開業していた.つい先日,この巡査の子どもが私の父の介助で無事出産したばかりである. 「う~ん…,お前,FH先生の息子か・・・しょうがないな.困ったな・・・お父さんによろしく…」 ということで無罪放免.お米は没収されずに済んだ.
後日,この巡査は,私の父に, 「・・・あんたんところの息子さんを捕らえちゃったよ・・・」
と苦笑しながら話したという. 今思えばこの巡査は公私混同している.でも,こういう互いの忖度が,田舎のコミュニティをささえる大切な要素になっているのかもしれない. 当時,高潔な弁護士(政治家だったかな?)が,我が国は法治国家である.だから配給米だけで生きていけなけれおかしいという信念で,闇行為は一切せずに餓死したのが新聞種になっていた. 逆に言えば,建前では闇米などもってのほかだが,本音では100パーセント近くの人たちが,何らかの工夫をしながら生きながらえていたことになる.この状態は,漏れ聞こえてくる現在の「北××」という国の状況とよく似ているように思える. 今にして思えば,あの頃は建前と本音が大きく乖離していた時代だった.尤も,我が国は江戸時代までは和魂漢才,明治以降は和魂洋才の国.元来,建前と本音が併存しているのが常体の国なのかもしれない. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ コロナ騒動が始まる前に,所用があって小諸を訪れた. そのときに,昔が懐かしくなり,この検問所があった場所を訪れてみた.昔,「白鳥バッキンガム・・・」という大きな案内板が取り付けられた三叉路にこの検問所があった.
私は, ”白鳥バンキンガム・・・は何処だ?”
と訪ね歩いた. この検問所があった場所は,拡幅された道路の中に隠れてしまい,当時の面影は全く残っていない.ただ無機質なアスファルトが広がるだけ.こんな何の変哲もないアスファルト道にも,私の忘れられない思いが染みついている. 翻って,今は何の変哲もない場所にも,昔の人々の思いが埋まっているのかもしれない.どんな場所にも,たくさんの祖先の思いが埋まっているんだろう.そう思うと今あるもの全てを大切にしなければいけないなとつくづく思う.
(おわり) 「戦中戦後の思い出」の前回の記事 https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9cecfa760eb59a22aac53a04dd1237aa 「戦中戦後の思い出」の次回の記事
(なし)
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