終戦前後の余録;灯火管制の夜
(戦中戦後の思い出)
2020年8月14日(金) 晴・猛暑
今日もやたらに暑かった.
午前中は,ボケ頭を抱えながら,四苦八苦で頭の体操をこなす.四苦八苦と言いながらも,この体操,結構おもしろいので,毎日とぎれもなく繰り返している.午後からは身体の体操の時間である.暑い最中,いろいろコースを思案するのは面倒なので,定番の大船駅周回コースをさっさと歩く.もちろん勝手知ったいつもの道.ほとんど何も考えずに自動運転モードだ,その結果,今日の歩数は約11,000歩.コロナのお陰で毎日1万歩歩く癖がついた.これもただ一つコロナ騒ぎの良いところである.
明日はいよいよ敗戦記念日だ.
本日の朝日新聞夕刊で戦争中のことが,いろいろと掲載されているが,懐かしいとともに,こんなことが記事になるなんて,私がはっきり覚えている時代がもう歴史の中に組み込まれてしまった遠い昔の出来事になったんだなと実感させられる.
ところで,私が戦中戦後のことで,書き残して起きたいのは,新聞記事で扱う大げさなことではなく,当時の平凡な日常生活で経験した些細なテーマである.
そこで,今回は「灯火管制の夜」をテーマに散文を認(したた)めることにしたい.
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舞台は昭和20~21年の頃.
戦況,日に日に思わしくなく,海から遠く離れた信州まで,敵の艦載機が昼夜を問わず,連日襲来するようになった.以前は敵機が本州に近づくと,ラヂオからブザーの音が鳴り響き,
「東部軍管区情報,東部軍管区情報.・・・敵B29数機が〇〇上空を北上中・・・」
というように警報が流れたが,戦争末期になると,敵機の襲来があまりにも頻繁になり,放送はいつの間にかなくなった.そして,連日連夜,敵機が頭上に飛来した.それもB29のような爆撃機だけでなく,グラマンF6Fのような艦載機までもが,海から遠く離れた信州上空にまで軽々と飛来した.
終戦間際に東京が大空襲に見舞われた.
東京から160キロメートルの離れた信州の夜空に燃える東京の炎がどす黒い色で立ち上がる.かが爆発しているのだろうか,音は聞こえないものの,ときどき”バババ・・・”と閃光が立ち上がる.
”これは,ただならぬことが起きて居るぞ・・・”
私たちは身震いしながら,どす黒い閃光の夜空を見上げた.
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結果的には私の家がある小諸や,通学先の中学がある上田は,空襲の被害を受けることもなく無事だった.でもそれは結果論.当時はいつ爆弾が落ちてくるか気が気ではなかった.
敵機が昼夜を問わず敵機が飛来するので,就寝するときも,服を着たまま,枕元には防空頭巾を置き,いつでも逃げられるようにしていた.また衣類の胸元には指名を墨書した布きれが縫い付けてある.
年中,停電.
これは戦後になっても,しばらくの間,続いた.仮に電気が来ても,やたらに電圧が低くて,電灯もついたり消えたり.まあ,夜は電気が来ないのが常態であった.
そこで,夜になるともっぱら廃油を使った照明器具を使っていた.
直径70~80センチメートルの浅いカンカン(金属ではなかった)に,固形の廃油(かな?)が詰まったもの.これが照明に使われた.カンカンの端っこに火口がある.ここに火をつけると,黒い煙を上げながら小さな炎が,あたりを少し明るくする.もちろん.ローソクなんて気の利いた物は全くなかった.
これを「ちゃぶ台」の真ん中に置く.すると,「ちゃぶ台」がぼんやりと明るくなる.
その明かりの周囲に家族が集まって長い夜を過ごす.
油から煤や異臭が出るが,そんなこと気にかけている暇は無い.
もし空襲になったらこの火をすぐに消して逃げ出す手はずになっている.
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当時は厳重な灯火管制が敷かれている.もちろん,こんな明かりでも家の外に漏れると一大事である.明かりが外に漏れないように細心の注意を払っていた.
もちろん外は真っ暗,隣組の週番が毎夜,明かりが漏れていないかどうか頻繁にチェックする.万一,漏れることがあったら大変.非国民だと罵倒され,ときにはスパイ扱いされてしまう.どこの隣組にも狂信的な戦争支持者が居るので,少しでも反戦的な素振りが露呈すると大変なことになる.
運命の8月14日の夜も,いつものように灯火管制に気をつけながら,このカンカンの火を頼りに一夜を過ごした.
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翌,8月15日,正午.
かんかん照りの蒸し暑い日だった.
夏休みだったのだろうか,この日私は家に居た.
応召中の父親を除いて,家族全員とお手伝いの女性若干名.ラヂオの前で直立不動の姿勢を取る.そして,ラヂオから流れてくる玉音を厳かな気持ちで聞く.
このとき私は旧制中学1年生.放送の内容は全く理解できなかった.ただ,口には出さないが,随分と頼りなげな話し方だなと思った.
ほぼ全員が放送の途中からすすり泣き始める.
母親がぽつりと,
「・・・戦争が終わった・・・」
と呟くように言った.
事情がよくわからない私は,
「えっ!・・・勝ったの?」
と母親に聞く.
母親は無言.
こんなに頻繁に敵機が襲来しているのに,勝つなんて変だなと思うが,そこが教育のすごさで,当時,負けるという思考回路はなかった.本土決戦で最後は必ず勝つという考えしか頭の中には無かった.
夜になる.
母親が.
「もう,灯火管制はしなくてもいいはずね・・・」
と戸惑いながら,独り言のように言う.
・・・と言いながらも,やっぱり気になって,その夜も,また次の日の夜も戦争中と同じように家の外に光を漏らさないように用心していた.
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戦後も,暫くの間は,壊滅的な電力事情が続いた.夜,家で勉強することは事実上不可能だった.どうしても勉強したいときは,小諸駅まで出かけた.あの頃,国鉄の駅だけはいつも電気がついていたからである.
8月15日を過ぎると,あれほど頻繁に襲来していた敵機がばったりとこなくなった.
ただ,そのうちに米兵がやってきて,私たちを皆殺にするだろうという恐怖感は残っていた.
でも,空襲を恐れずに外出できるので,拍子抜けした気分だった.
敗戦前後と現在を比較して,断然良かったことがただ一つある.それは透明な空気である.
あの頃,農村はまだ牛馬の時代,耕耘機など想像もできなかった.
自動車などほとんど走っていない.
工場の煙突もほとんどなかった.
だから,今と比較して空気は断然,メチャメチャにきれいだった.
夕日が八ヶ岳連峰に沈む頃,山の稜線がまるで金環のようにまぶしく光り輝いていた.
夜空はまるでプラネタリウム.
銀河もばっちり見えた.
ビッシリと輝く星は実に見事だった.
ある夜,家の前の真っ暗な道路で,姉と二人で夜空を見上げていた.戦中派の男性2~3人通りかかる.私たち二人を見つけて,
「・・・イチャ,イチャしやがって! 真っ暗って良かったナ・・・」
思いっきり悪態を浴びせる.
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あれから75年.
長いようでも,あっという間.
あんな狂気のような時代は真っ平ご免だ.
でも,今でも地球上のどこかで,私たちが経験したような紛争が,ず~~っと続いている.そこでは,私が経験した戦中戦後より,100倍も凄惨な毎日が続いているだろう.何とかならないだろうか.
(おわり)
(なし)
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