敗戦後の余話;新円と極東裁判
(戦中戦後の思い出)
2020年8月15日(土) 晴・猛暑
今日も蒸し暑い一日だった.あの玉音放送の日と同じように・・・
前回の駄文に引き続き,今回も愚痴話を続けることにしよう.
ただ,私の戦争体験談は,信州の田舎での話であり,降り注ぐ焼夷弾の雨の中をくぐり抜けた経験はない.
そんな私が戦争のことをあれこれ言う資格が本当にあるんだろうかと,自問自答しながら,恐る恐る投稿を続けている.
その点,お目障りだったらご容赦,この駄文を放置してください.
なお,この雑文シリーズは,8月15日で一段落.このペースでの投稿は忙しないので,これからは気が向いたとき・・・ということにしよう.
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■学制改革で中学が高校なっちゃった!
今回の話題の舞台は最初に昭和21~23年頃.
この時期,戦後の大混乱は大分収まり,世相は落ち着きをとりもどしつつあった.
当時,私は旧制中学1年から新制高校1年生.
学校制度が旧制度から新制度に激変した頃の話である.
私が旧制中学に進学したとき,何れは旧制の松本高校あたりに進学できれば良いなあ~と淡い期待を持っていた.
でも,”あれよ”,”あれよ”という間に,学制改革の荒波が押し寄せて,私が通っていた中学は上田中学校併設中学校という「へんてこりん」な名前の学校になった.
そして,同時に尋常高等小学校高等科が義務教育の新制中学に改変された.
何が何だかわからないうちに,通学中の中学校が新制高校に変わり,結果的に同じ学校に6年間も通うことになった.3年生の終わりに,まるで唐突に卒業証書を受領した.長野県上田中学校併設中学校という良くわからない中学を卒業したことになった.蛇足ながら戦中戦後の地獄のような汽車通を何とかこなして,皆勤賞を貰った.粗末で小さな紙(B5ぐらい)に謄写版で刷ってある.今,見ると先生が鉄筆で一生懸命制作したことが垣間見える.これは戦後の貧しさと先生方の真剣さが溢れた素晴らしい資料だなと思っている.
皆勤賞に記されている日付に目を向けてみよう.昭和23年が,昭和廿三年と書いてある.この「廿」の漢字に何とも言えぬ懐かしさがある.多分,今の若い人は読めない字だろうと思う.
その頃,各地にあった専門学校や師範学校などが,続々と新制大学に生まれ変わった.そして新制大学は,世間から駅弁大学と揶揄された.上田にも大学ができてビックリした.
ついでながら,長野県にはたくさんの県立高校があるが,「長野県立〇○高校」とは言わない.「長野県〇○高校」であって「立」の字は入らない.不思議.
<〇○中学校併設中学校の卒業証書>
<粗末な紙,それに謄写版の賞状>
■超インフレ対策で貯金封鎖
昭和21年,私が中学1年の時,新円が発効された.
これは戦後の超インフレ抑制政策の一環である.預金が封鎖され,旧券の右上に小さな印紙を貼って,新円の代わりに使われていた(最初のポンチ絵参照).
新円がいかにも安っぽい印刷で,しかも表が「米国」と読めるデザインである.
しかも,「米」の字の中に日本のシンボルである国会議事堂が収まっている.
まだ,戦前の鬼畜米英教育の残渣が90パーセント以上残っている私たちは,内心では「こんちくしょう」と義憤した.でも,口には出さなかった.この悔しさのためか,この新円のデザインは,今でも心の奥底に焼き付いている.
そういえば,敗戦間際に.いかにも安っぽい1円硬貨が発行された.幼少の頃,10銭ストアーで使った50銭硬貨より一段と安っぽかった.冬,教室のストーブの蓋の上にこの1円硬貨を乗せるとすぐに溶けてしまった.この硬貨の材料は一体何だったんだろう?
■極東裁判を聞く
さて,少し年代が下がって,昭和23年.
このとき,私は新制高校1年生.同じ学校に通い始めて4年目の秋を迎えていた.ちょうどこの頃,極東国際軍事裁判が結審した.
この結審の時間に,私たち生徒は,学校の正門近くに設置されていたラジオ塔の前に集まっていた.
ラジオ塔の前のちょっと小高いところに,「ちょび髭」を生やした英語の先生が顎に手をやりながら,気障に首を傾げて,ラジオから流れてくる英語を聞いている.
「・・・ああ,〇〇さんはdeath by hang,絞首刑だ・・・」
と,日本語のアナウンスを先回りして,得意げに生徒に話す.
ちなみに,この時代には,リンカーンの演説を私たちに暗記させた英語の先生は,退職したのか転勤になったのか,もう学校には居なかったような気がする.
■レッドパージと勝手に開封された封書
この先生のように,戦前派の人には戦後の日本がだんだんと昔の良き時代の日本に戻りつつあるのが嬉しいかもしれないが,私たち戦後派(つまり焼け跡派)は,戦争中から180度変わった教育内容に,
”どうにでもなれ・・・”
と虚無的で投げやりであった.
従ってA級戦犯の何が悪いかになど聞きたくもなかった.まあ,時代が変われば,そんなものかと思いながら,判決を聞いていた.
この判決から少し遡って,昭和21年(だったかな? 面倒なので調べていない),日本の民主化に好ましくない人物約20万人(だったかな?)が公職追放された.さらに,昭和26年(?),レッドパージとやらの理由で,多くの有能な人材が追放された.
”占領軍はやりたい放題だな・・・"
という印象を受けた.
この混乱は昭和27年,つまり私が新制大学2年生のときに,講和条約が発効するまで続いた.
今振り返ると,とても腹が立つふざけた話がある.
それは,戦争直後,個人の封書が占領軍の命令かどうか知らないが勝手に開封されて,中身のチェックを受けていたことである.
だれが手紙の内容をチェックしたか知らないが,開封した場所に,
”Opened by Ministry of Education”
と印刷されたセロテープが貼ってあった.
当時はプライバシーもへったくりも全くない状態だった.
<検閲された封書> ※あやふやな記憶で書いているので正確ではありません.
■初めて聞く生の英語
もう一つ,腹の立つ話がある.
講和条約が発効した直後,私は友人と一緒に,仙台市内の電車道を歩いていた.当時,仙台市内には市内電車が走っていた.
私は後ろからいきなり殴られ,眼鏡がすっ飛んで割れた.犯人は昼間から酒に酔ったアメリカ兵だった.私たちは大いに怒った.
「日本は,もう独立国だ.てめえらの好きにはさせないぞ…」
ということで,居合わせた友人と協力して,警察経由で,MPに連絡した.
すぐに米軍のジープが来た.そして,被害者の私はジープの助手席に乗せられて,犯人と一緒に,どこかの建物に連れていかれた.この建物がどこだったかは忘れてしまった.
ジープには補助ベルトなどなかった.
カーブを曲がるたびに振り落とされそうになり,怖かった.また,ジープの乗り心地は,ゴツゴツ,ガタガタして最悪だった.
「・・・君は眼鏡の弁償を要求するか・・・」
と英語で聞かれる.生まれて初めて生の英語を聞いた瞬間であった.
もちろん,弁償を希望したが,手続きが面倒で,英語のやりとりが大変なのでギブアップ.
「もう,良いです」
ということで,途中で弁償してもらうのを諦めた.
これもまた,ふざけた話である.
■あれから幾星霜
今日は敗戦記念日ということもあって,ここ数日のテレビは戦中戦後の話題で持ちきりである.
多くのコメンテーターの話を伺っていて,何だか知らないが無性に苛立たしくなる.
”なんで,苛立たしく感じるんだろう?”
と私自身に問いかける.
その原因は,多分,コメンテータが.平和な時代の視線で,しかも傍観者で一段高い立場で,偉そうに,
「ああだ,こうだ・・・」
と,優等生みたいなことばかり言っているように私には聞こえてしまう(ちょっと言い過ぎたかな).
一体何だろう?
私のこの訳のわからない腹立たしさは・・・
(おわり)
(なし)
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