<板屋間ノ宿を行く>
奥州街道(白河の道);第5回;1日目(2);丁字屋のうなぎと板屋間ノ宿
(クラブツーリズム)
2017年5月17日(水)~18日(木)
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<ルート地図>
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※拡大図は前回の記事に掲載済
<安達家蔵屋敷と丁字屋のうなぎ>
■専用バスで安達家蔵屋敷へ
遊行庵での休憩を終えて,11時46分,遊行庵に回送されている専用バスに乗車する.
すぐに発車.
11時49分,町営駐車場に到着する.歩いても大した距離ではないが,折角歩いた道を逆歩きするのも癪だからだろうか,バスに乗った途端にすぐ下車する感じである.
11時51分,芦野郵便局の斜向かいかいにある安達家蔵屋敷に到着する.第4回2日目に昼食を摂った油屋の斜向かいでもある(前回の記事の地図参照).
資料1によると,安藤家は屋号を丁字屋といい,江戸時代から続く旅籠で,「うなぎ」で知られた老舗だという(町指定文化財).
家の外観をデジカメで撮るが,またもやピンボケ.実に口惜しいが,己の腕の未熟さを恥じるしかない.
ただ,素人目では,この店の構えが江戸時代のものとは思えない.どうなっているんだろう? 私は後で講師に質問しようと思ったが,うなぎを食べている内に,質問するのを忘れてしまった.
<安達家蔵屋敷>
■丁字屋に入る
なるほど建物の玄関脇に「うなぎの丁字屋町氏邸文化財割安達家蔵屋敷」という看板が掛かっている.
「あれぇ~…ずいぶん早い昼食だな.もう少し歩いてからでも良いのに…」
とどなたかが言っている.
私も少々歩きが足りないかなと率直に思う.
2階の座敷に通される.ここが資料1で紹介されている8畳2間なと思いながら,空いている席に座る.資料1では床の間や高い棚など意匠,構造が優れていると紹介されている.何れも写真を撮ったつもりだったが,後で確かめると何も写っていない.そのかわりに写した記憶のない流れる筋のような妙な写真が写っている.多分,しゃったぼたんを押してからしゃったが降りるまでにタイムラグがあって,その間にカメラを動かしてしまったんだろう.
”写っていないものは写っていない…仕方がないな.”
諦めるしかない.
<入口の案内板>
■昼食は「うなぎ」だぞ!
大人数の「うなぎ」を焼くのには時間が掛かるのだろう.少々待たされるが仕方がない.
年金暮らしのビンボー人の私は,自分から進んで高価な「うなぎ」を食べようとは思わないので,うなぎを食べるのは実に久々のことである.
私は目の前に置かれた鰻重の蓋を開ける.
私の横に座っていた男性が,私のうなぎを覗き込んで,
「あれえ,アンタのうなぎ少し小さいな…」
という.
”ありゃ! 損したかな…”
と思って周囲の人のうなぎをそれとなく見る.まあそれぞれ多少の大小があるようである.別にクレームを付けるほどの差があるわけではないので,これで良しとする.
気を取りなおして,美味しく頂戴する.
久々にとろけるような味のうなぎを賞味したので,私のお腹と脳味噌がパニックになっている.
”やっぱり,うなぎは旨いなあ~!”
これが私の率直な印象である.旨いものを食べると,気分が一層穏やかになる.
<丁字屋のうなぎ>
<蘇る郷郷碑と岩倉具視歌碑>
■遊行庵駐車場から歩き出す
昼食を終えて,12時40分に丁字屋を出る.真っ直ぐ町営駐車場に向かい,専用バスに乗車する.
12時45分,町営駐車場を出発する.
12時49分,再び遊行庵駐車場に戻る.
専用バスから下車すると,頭がクラクラするほどの蒸し暑さである.
12時52分,遊行庵駐車場から歩き始める.
<遊行庵駐車場>
■「蘇る豊郷」の碑
12時55分,立派な石碑の前に到着する.石碑には「栃木県営芦野地区圃場整備事業寛政記念蘇る豊郷」と刻字してある.
この事業がどのような内容のものかは知る由もないし,現代のことなので街道歩きとは直接関係がなさそうなので,写真を撮っただけでそのまま通過する.また,帰宅後も特に調べることはしていない.
とにかく立派な石碑が立っていることだけを記録しておこう.これから100年も経てば,旅人がこの石碑を見て故事を調べることになるだろうなと勝手に想像する.
<蘇る豊郷の石碑>
■枝道に入る
12時55分,進行方向左側の草道に入る.
自動車道と違って,草道を歩くのは気分が良い.左手は一面の田圃である.
<枝道に入る>
■岩倉具視の歌碑
12時56分,田圃の真ん中に古びた石碑が立っているのを見付ける.
残念ながら,列の最後尾に居た私は先頭を行く講師を呼び止めるわけにも行かないので,取りあえずは石塔の題名ぐらいは読んでおこうと思う.
石塔に近付いて見ると,どうやら岩倉具視の歌碑のようである.明治天皇行幸の祭に岩倉具視が随行しているので,その折りに詠んだ詩が刻まれているんだろうと思う.でも.誰が,なぜ,この場所に歌碑を立てようと思ったのかが気になる.でも,そんなこと,どうでもイイヤ…ということにして,グループの後を追う.
いずれにしても,石塔に刻字されている詩は,どうやら私にも詠めそうなので,取りあえずは写真に撮っておく.
どうやら,
”みちのくの 鄙のはてまで あきらけき 御代の日彰の傾かめぞなき”
よ書いてあるようである(正確かどうか分からない).
<岩倉具視の歌碑>
<ベコ石>
■べこ石
13時01分,べこ石に到着する.
旅行社が配付した資料には,「べこ」は牛のこと.「人身牛首の炎帝神農の石の姿から,この碑はべこ石と呼ばれている.芦野の学者,戸村忠恕が嘉永元年(1846年)人の道を具体的に教えたもので,3,500文字が刻まれている」という(詳しくは下の写真参照).
なるほど,石の表面を見ると,摩耗はしているものの実に沢山の文字が刻まれているのが分かる.
<べこ石>
■ご碑文(べこ石に刻まれている文字)
べこ石の傍らに,この3,500文字を記載した案内板が置かれている.あまりに細かい文字なので写真では読むのが困難だが,まあ,こういうものかが分かるだけでも良いかナと思って,投稿しておく.
ちょっと余談…
私は学生時代の4年間,仙台で過ごした.最初の半年ぐらいは下宿のオバサンや先生の東北弁がなかなか聞き取れなくて本当に困った.でも,馴れてくると,東北弁もなかなか良いものである.そんな関係から,牛のことを「ベコ」と言うことは先刻承知の助である.
ついでながら,子牛は「ベコノコッコ」という.「コッコ」は「子」のこと.ナント素敵な響きだろう.ついでにオジサン,オバサンはオジンコ,オバンコ.ドイツ語でオシサンはオンケル.そこで学生どもはドイツ語と東北弁を混ぜて,オジサンのことを「オジンケル」と言っていた…
先代を離れて数年経った頃,私は社用で仙台に出張した.そのとき,偶然にも,町永で下宿のオバンコにバッタリ会った.オバンコはニッコリしながら,
「アイヤァ…! FHさんでネエスカヤァ…スンバラクブリでネエスケア…」
と話しかけてくる.仙台は私にとて第二の故郷である.
べこ石で,ついつい遠い昔のことを思い出す.
”オバンコ,元気かなあ…”
私はベコ石を切っ掛けにして,忘却の彼方のことを,ふと思い出す.
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■石塔群
13時07分,鬱蒼とした森の入口に数基の石塔が並んでいる.立派な石塔である.
ちょっと近くまで行ってみたいが,グループの末尾を歩いている私にはその余裕がない.仕方がないので,大急ぎで写真を撮って,一行を追いかける.
後で写真を引き伸ばして,石塔の文字を読もうとしたが,ほとんど解読不能である.わずかに一番右側の石塔に「?岸館従軍…」と書いてあるらしいと判るだけ.
”読めないものは仕方がないな…それにしても,一体,この石塔,何なんだろう…?”
<路傍の石塔群>
<板屋間ノ宿>
■馬頭観音などの石仏群
板屋の集落に入る.ここは間ノ宿だったところである.
13時14分,馬頭観音などの石仏群の前を通過する.石仏の中には転倒しているものもあって,哀れを感じる.
閑静な集落の中を歩く.火の見ヤグラも建っている.バス停板屋の前を通過する.
<馬頭観音などの石仏群>
■諭農の碑
13時18分,諭農の碑に到着する.
諭農の碑の由来は,少々読みにくいが下の写真の説明の通りである.先ほどのべこ石と同じ嘉永元年に作られたものである.
べこ石にせよ,諭農の碑にせよ,このようなものが何故造られたかの時代背景をもうすこし知りたいなと,今は思う,でも,奥州街道の旅を無事終えた途端に,そのようなことに多分興味がなくなり,全く明後日のことに気を取られているに違いない自分が良く見える.要するに私は熱しやすくて冷めやすいという困った性分の持ち主だと自覚している.
<諭農の碑>
<板屋の一里塚>
■板屋の峠
緩やかな登り坂を上りきったところに板屋の一里塚がある.
案内板の記述によると(下の写真),那須町には夫婦石,板屋,泉田の3ヶ所に一里塚があったとのこと.ここ板屋の一里塚は江戸日本橋から44番目の一里塚である.
今でも,峠の両側に一里塚の痕跡らしいものが見えるが,道路の工事のために原型がかなり失われてしまったとのこと.
<一里塚の説明>
■東側の一里塚
道路沿いの急斜面の上に塚の痕跡が見える.
<東側の一里塚>
■西側の一里塚
西側の一里塚は半分残っているようである.近くに一里塚の案内杭が立っている.
私は一番後ろを歩いているのを良いことにして,こちら側の一里塚まで這い上がってみる.上は公園風に綺麗に整備されている.早速,写真を撮ろうと思ってデジカメを構えたが,デジカメの液晶画面に「電池がなくなりました」という表示が出て,シャッターが切れない,全くついていない.さすがに電池を交換している時間はないので,写真は諦めて,急いで坂道を下って一行に追い付く.
<西側の一里塚>
<高瀬を行く>
■馬頭観音
13時21分,馬頭観音など3基の石塔群の前を通過する.
行く手前方には,どす黒い雲が広がっている.この雲の下は間違いなく雨が降っている.私たちは間違いなく黒い雲の方に向かって歩いている.
”これは間違いなく雨に降られるな…”
と覚悟する.
それにしても蒸し暑い.
<石塔群>
■高徳寺
13時34分,高徳寺に到着するが,講師からは特別な説明もなく通過する.
帰宅後.インターネットで調べてみたが,今のところ,この寺に関する確かな情報は居られていない.
<高徳寺>
(つづく)
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こうと