<奥州古道(弥五郎坂)>
奥州街道(白河の道);第2回;2日目(2);一里塚と弥五郎坂
(クラブツーリズム)
2017年4月22日(土)~23日(日)
2日目;2017年4月23日(日) (つづき)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/919f2e3ad31592ac4dfdc85b55d43d5f
<ルート地図>
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<一里塚>
■ビッグエクストラでお茶購入
9時21分,ビッグエクストラに到着する.ここでトイレ休憩を取る.
店内に入る.物凄く大規模な店舗である.妙に彷徨いたら店内で迷子になりそうなので,入口から真っ直ぐな通路だけを往復する.
折角,店内に入ったので,水分補給のために500ミリリットルペットボトルのお茶を購入する.
休憩を終えて,9時31分,ビッグエクストラから歩き出す.
<ビッグエクストラの店内>
■一里塚のある家
ビッグエキストラから奥州街道に突き当たるまで往路を戻る.そこからまた奥州街道(293号線)を東北東の方向に歩き続ける.
10時02分,一里塚跡に到着する.この一里塚跡は民家の宅地内にあるので,講師が民家を訪れて見学の了承を取る.民家の女主人らしい方が,丁寧に案内してくれる.
<一里塚のある立派な民家>
■江戸から32番目の一里塚
邸内にある一里塚跡を順番に拝見する.
その後,外から垣根越しに一里塚跡全体を見学する.一里塚の奥には屋敷守りのお社が建っている.
一里塚の手前に案内板が立っている.この案内板の記事によると,ここは江戸日本橋から32番目の一里塚である.
道路を挟んで反対側にも北側の一里塚があったが現在は失われている.
この一里塚はさくら市指定文化財に登録されている.
<一里塚>
<旧奥州街道(弥五郎坂)>
■旧奥州街道と迂回路
10時05分,ファミリーマートの前を通過する.前方には小高い丘陵が見えている.
講師が,
「…これからあの丘陵に登ります…」
と説明を開始する.
講師の説明によると.下の写真の少し先で,この舗装道路は右に大きくカーブするが,旧奥州街道(さくら市指定史跡)は直進して,峠に向かっている.
資料1(p.17)によると,この峠は標高差が20メートルあり長らく難所とされていた.明治4年(1880年)に迂回路ができた後,旧奥州街道は使われなくなった.
なお,講師の説明によると,この迂回路には以前線路が敷かれていて人力車両が往復していたという.
<旧奥州街道が通っている尾根>
■弥五郎坂と二十三夜塔
10時20分,昔,人力鉄道が通っていた舗装道路と左側に分岐して旧甲州街道に入る.入口近くに早乙女温泉の看板がある.
資料1(p.17)の記事によると,この坂は弥五郎坂と言う.天文18年(1549年),那須氏と宇都宮氏が戦った古戦場である.そのとき活躍した鮎ヶ瀬弥五郎の名前をとって,これまでの早乙女坂という名称が弥五郎坂に変わったという.
10時28分,二重三夜塔の前を通過する.二重三夜塔の左側に合掌姿の石像が立っている.私にはこの石像が何か全く分からないが,最後尾を歩いている私は,とにかく写真だけ撮って,最後尾の人を追いかける.
<二重三夜塔>
<古戦場>
■古戦場入口
10時29分,古戦場入口に到着する.ここから足許が余り良くない石段を登る.
中には足許が覚束ない人も居るが,なんとか全員が石段を登りきる.
<古戦場入口>
■古戦場の広場
石段を登るとちょっとした広場になっている.広場の中央に木造の祠がある.祠の中には立派な五輪塔が1基祀られている.
講師から古戦場の説明がある.説明内容は,下の写真の説明とほぼ同じである.
<古戦場の説明>
<奥州街道(古道)>
■土道に入る
10時40分,古戦場跡の軒武具を終える.
先ほど登った滑りやすい石段を降りて,街道に戻る.ここから街道の続きをひたすら歩く.
10時52分,Y字型分岐に到着する.そこに奥州街道(古道)という案内板が立っている.案内板には,奥州街道(古道)の説明が縷々記されている(下の写真).
講師から,案内板の内容とほぼ同じ説明がある.
私たちは右側の土道に入る.なお,左側の簡易歩道の道を通ると碧梧桐句碑を経由して,再びこの土道と合流するようである.
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■林の中の静かな道
土道は林の中の道である.足許を良く見ると一見土道に見えるが,もともと簡易舗装がしてあるようである.ただ,簡易舗装の上に落葉が積み重なっている(冒頭の写真).
静かでなかなか良い雰囲気である.講師が,
「…どうです.素晴らしい雰囲気でしょう.こういうところはユックリと歩きましょう…」
と私たちに言う.
<奥州街道(古道)を歩く>
■高塩背山の墓
10時59分,髙塩背山の墓入口を通過する.
入口に立っている案内板によると,髙塩背山は地元出身の詩人のようである.
資料2によれば,「本名は髙塩正庸(まさつね)。背山は明治15年(1882年)に喜連川神社の神主の家に生まれ、後に神主の仕事を継いだ。小学校教員のかたわら、24歳のころから短歌を作り始め、「新聲(声)」という雑誌への投稿から、多くの歌人との交流が始まった。尾上柴舟(おのうえ さいしゅう)に短歌の指導を受けた後、髙塩背山の自然のすばらしさや美しさを表現した作品は短歌の世界で注目されるようになった。そして、旅の歌人と言われる、若山牧水と交流するようになり、牧水が発刊する短歌の雑誌の中心的な歌人になった。
大正4年(1915年)には、背山の住む喜連川神社に若山牧水が遊びに来た。喜連川神社には、その時よんだ短歌
時をおき
老樹の雫おつるごと
しづけき酒は
朝にこそあれ
をきざんだ句碑がある。
また、その左には、その時によんだ短歌ではないが、背山が気に入っていた短歌
かぜとよむ
桜若葉のあひだより
のこれる花の
ちるはさびしき
をきざんだ句碑が、並んでいる。
その後、髙塩背山は「峡間」という歌集を発刊するなど、栃木県を代表する歌人として、亡くなるまで短歌を作った。」(以上コピペ;一部省略)
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■無粋な通せんぼ
なだらかな上り勾配の道が終わり何時の間にかなだらかな下りになっている.
11時04分,道路の真ん中に無粋な車止めの柵が立っている.ここで古道は終わりになる.
<奥州街道(古道)の終点>
<碧梧桐句碑と孫五郎坂開削碑>
■周辺地図(現地案内板から引用)
■案内杭
地蔵堂を過ぎて三差路を左折する.そこに「桜並木 河東碧梧桐の句碑」の案内杭が立っている.
講師が,
「…ここから5~6分のところに碧梧桐の句日がありますので見に行きましょう.ちょっとした登り坂がありますので,生きたくない人はここで待ってて下さい…」
とのこと.
大半の人は,講師の後に付いて碧梧桐の句碑を見に行くようでる.
<案内板>
■緩やかな登り坂
案内板に書かれている径路に沿って,碧梧桐句碑に向かって,緩やかな坂道を登りつづける.
坂道を進むにつれて,次第に見晴も良くなる.
良く晴れているせいか,少々蒸し暑い.
<緩やかな登り坂>
■沿道は花盛り
坂道の途中に何軒かの民家がある.
民家の庭先の桜が満開である.思わず足を止めて写真を撮る.
<桜が満開>
■ほほえみ仏
さらに坂道が続く.当初予想していたよりは,大分遠い感じがするが,11時11分,碧梧桐歌碑のすぐ手前に安置された「ほほえみ仏」に到着する.この「ほほえみ仏」の由来などは分からない.
<ほほえみ仏>
■碧梧桐の歌碑
11時11分,無事,碧梧桐の歌碑に到着する.
ここには2基の石塔が立っている.
案内板の記事によると,この句碑には,
”坂を下りて
左右に藪あり
栗おつる”
という詩が刻字されているようである.
資料3によれば,「愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)五男として生まれる。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山真之を「淳さん」と敬愛していた。1888年(明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。
1839年(明治22年)、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高濱清(後の高濱虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。1893年(明治26年)、京都の第三高等学校入学。第二高等学区(現在の東北大学)に編入の後、中退。1902年(明治35年)に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。
1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始め、1905年年(明治39年)より1911年(明治44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。
1933年(昭和8年)3月25日、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。1937年(昭和12年)1月、腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日、死去。享年65(満64歳)。墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されている。」(以上コピペ).
11時12分,碧梧桐歌碑の見学を終えて,往路を戻る.
11時16分,さきほどの三差路に戻る.
<碧梧桐歌碑>
(つづく)
[参考資料]
資料1さくら市教育委員会(編),2012,『歴史あそびBOOK2さくら市の奥州街道お出かけハンドブック』さくら市
資料2;https://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/uploaded/attachment/2886.pdf
資料3;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9D%B1%E7%A2%A7%E6%A2%A7%E6%A1%90
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(執筆中)
「奥州街道」の目次
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「奥州街道」の索引
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