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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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奥州街道(白河の道);第1回(3);興禅寺から烏山道追分へ

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                                     <烏山道追分>

        奥州街道(白河の道);第1回(3);興禅寺から烏山道追分へ
           (クラブツーリズム)
          2017年3月22日(水)

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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/071dc23f54a5125503bd088804decf4e

<ルート地図>

■宇都宮宿(再掲)

←クリック拡大

<興禅寺参拝>

■午後の部の始まり
 12時39分,宇都宮餃子館での昼食を終えて,午前中のつづきを歩き始める.いよいよ午後の部の始まりである.
 賑やかなJR宇都宮駅前を通過して,12時50分,左折して道幅が狭い路地に入る.
 12時51分,午後最初の訪問場所である興福寺入口に到着する.

<興善寺>

■興善寺山門
 道路を右折して興善寺参道を進むと,立派な山門がある.どうやらかなり大きな寺のようである.
 三門を潜って興善寺の境内に入る.
 
<興善寺山門>

■興善寺本堂
 三門を潜った少年に光善寺本堂がある.私には社寺のことは分からないが,白壁の一寸変わった造りの建物のように思える.

<興善寺本堂>

■興禅寺開山由来
 本堂近くに興善寺開山由来の説明板がある.随分と長い文章なので,一気に読む気になれないので,取りあえずは写真だけを撮っておく.
  資料1には,興善寺について次のような説明がある.
 「興禅寺は、宇都宮氏8代目当主である宇都宮貞綱が、かつて黒羽雲厳寺で第五世住職をしていた真空妙応禅師のために、正和3年(1314年)、地蔵堂があったこの地に寺院を建立して興禅寺としたのが始まりとされる。真空はその後、宇都宮貞綱の弟・宇都宮泰宗の子である宇都宮貞泰に招かれ、伊予国大洲に冨士山如法寺および横松山西禅寺を開山したとされる。
 室町時代には宇都宮氏の興隆とともに隆盛を誇ったが、天文18年(1549)、喜連川五乙女の戦いにおいて第20代当主宇都宮尚綱が敗死すると、これに乗じた壬生勢が宇都宮城下に乱入して占拠、この折の戦火で焼失してしまう。第21代当主宇都宮広綱によって復興するものの、第22代当主宇都宮国綱が豊臣秀吉によって領地を剥奪されたのに伴い、当寺も一時廃寺となった。
 江戸時代に入って奥平家昌が宇都宮城主となるとその勧請を受けて復興され、家昌・忠昌の奥平氏子2代が菩提寺としている。なお、江戸時代の仇討ちの1つで知られる浄瑠璃坂の仇討ちとは、忠昌の子である昌能の在藩中における当寺での刃傷事件(宇都宮興善寺刀傷事件)が発端となっている。
 その後は、明治維新時の戊申戦争の戦火や太平洋戦争において多くの堂宇を焼失、戦後再建し現在に至っている。」(以上コピペ)
 私はこの説明を眺めながら,
 ”なんとまあ…ややこしいことよ”
と頭を抱える. 

<興禅寺開山由来>

■興禅寺刃傷事件の紙芝居
 境内の一角で,案内人による紙芝居が行われる.内容は興禅寺刃傷事件についてである.
 紙芝居を拝聴しながら,要点をメモしようとしたが,登場人物が多く,話の筋がややこしいのでとてもメモすることはできなかった.そこで帰宅後インターネットで調べたところ,資料2に,紙芝居とほぼ同じ内容が掲載されていた,そこで,今回は資料2からさわりの部分をコピペしておこう.
 資料2によれば事件の概要は以下の通りである.
 「刃傷事件が起こったのは、宇都宮藩前藩主奥平忠昌の死去より14日が経過していた寛文8年3月2日(西暦1668年4月13日)のことである。
 宇都宮藩奥平家には長篠の戦いで武勲を挙げ、将軍に対する永代御目見えという特権を得た「七族五老」と呼ばれる重臣12家があった。忠昌の法要において、そのうちの2家の当主であった奥平内蔵允(奥平家の譜代衆である五老の家柄。別名「黒屋家」。1000石取)と奥平隼人(主君奥平家の傍流にあたる七族の家柄。別名「中金家」。1300石取)の2人がささいなことから口論となり、憤慨する内蔵允が隼人に抜刀した。内蔵允の法要への遅刻を「腰抜け」となじった隼人を武士の一分を立てるためと斬りつけたのである]
 彼らは、互いの母が実の姉妹という従兄弟同士であったが、気質が異なり、平素からソリが合わなかった。武人肌の隼人から軽侮されていた文人肌の内蔵允が、下野興禅寺における前藩主奥平忠昌の葬儀の場という大事さを顧みず、たび重なる面罵に耐えかねて抜刀した。ところが、返り討ちに遭って刀傷を被った内蔵允は、満座の法要でいっそうの侮辱を受けた。その場に居合わせた大身衆の同輩、兵藤玄蕃(1000石取)などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。藩庁に対しては、興禅寺での刀傷から「破傷風で死去」と報告された。」

<案内人による紙芝居>

<八坂神社>

■立派な社殿
 興禅寺の参拝を終えて,13時05分,興禅寺を出発する.往路を辿って,13時07分,元の奥州街道に戻る.
 奥州街道を北北東の方向に歩く.この辺りはもともと松林があった広い道幅の道である.
 13時13分,八坂神社に到着する.
 私は,八坂神社の位置が気になり,案内人に,
 「…ここは,ひょっとして,宇都宮城の鬼門に当たるんでしょうか?」
と案内人に伺う.
 案内人の答えは,その通りだとのこと.
 石造りの鳥居の先に立派な社殿が建っている.鳥居に取り付けられている注連縄も真新しくて立派である.

<八坂神社>

■八坂神社の由来
 境内に八坂神社御由緒という案内板がある.しかし,大分風化されていて,読めないところが多いので,判読は諦める.
 後ほどインターネットで調べると資料3に八坂神社の由緒に関する記述があるので,コピペしておこう.
 八坂神社は,「康平6年(1063年)、当時の宇都宮城主・藤原宗円(宇都宮氏の祖)が本丸を築城の際、鬼門の鎮護として奥州街道の出入口に当たる今泉の地に神明宮を建立したのが始まりである。その後、明治43年(1920年)4月に宇都宮市博労町の八坂神社を合祀し、社号を現在の『八坂神社』と改称した。平成10年(1998年)から社殿の改修を行い、平成12年(2000年)には遷座祭が行われた。」
 なお,この神社の社格は村社.最新は素戔嗚尊である.

<八坂神社の由来>

<烏山道追分と岩淵家長屋門>

■東北新幹線のガード
 13時19分,東北新幹線のガードを潜る.
 ガードを潜った先は,だんだんと郊外を思わせる雰囲気に変わる.私たちは自動車の交通量が多い道に沿って歩き続ける.

<東北新幹線のガードを潜る>

■烏山道追分と一里塚跡
 13時20分,(有)福寿園の大きな看板の前に到着する.ここから北北東の方向に鋭角に分岐する道路がある.烏山道である.
 したがって,この看板の前のY字型三差路が烏山道の追分になる.
 なお,案内人の説明によると,この辺りに江戸日本橋から28番目の一里塚があったらしいとのこと.ただ,その正確な場所は不明とのこと.

<烏山道追分>

■岩淵家長屋門
 13時37分,岩淵家長屋門の前に到着する.
 案内人の説明によると,長屋門は名字帯刀を許された庄屋や富裕な農家だけが作ることができたという.門の両側にある部屋は使用人の住居,あるいは農機具の保管場所として利用されていたとのこと.

<岩淵家長屋門>

[参考資料]
資料1;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%85%E5%AF%BA_(%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%B8%82)
資料2;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E8%88%88%E7%A6%85%E5%AF%BA%E5%88%83%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
資料3;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B3%89%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
                                       (つづく)
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(執筆中)

「奥州街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/55f1b2dce2470adc0fd0bd872352e0d7
「奥州街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4c195cfa3f795ede28aa0764b57a5db3

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