<寒松院の墓から上田市内を見下ろす>
善光寺街道;第3回;第1日目(2);海善寺と大輪寺
(五十三次洛遊会)
2016年4月20日(水)~2016年4月22日(金)
第1日目;2016年4月20日(水) (つづき) 晴
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<ルート地図>
■上田宿詳細図
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■大神宮・大輪寺付近拡大図 拡大
<花の海善寺>
■海善寺山門
大神宮の参拝を終えた私達は,9時58分,大神宮を東に向けて出発する.ある出して最初の四つ角で北の方角を見ると,海善寺の本堂が見えている.
「あつ,あそこが海善寺のようですね.この道を行きましょう…」
ということで左折,住宅地の中の静かな道を北へ向かう.
やがて,海善寺の山門が見え出す.
10時02分,海善寺に到着する.
<海善寺山門>
■海善寺の概要
資料4によると,この寺の正式名称は大智山金剛院海善寺.真田家祈願所であった.また人形供養の寺としても知られているようである.真言宗の寺のようである.
海善寺入口にこの寺の説明文が掲示されているが,この説明文と同じ内容の文章が資料4にも掲載されている.こちらの資料から,コピペしたのが次の説明文である.
「海禅寺は、その草創は少なくとも平安期にさか上ると推定され、上田小県地方切っての古刹である。
今の東部町に海善寺という集落があるが、これは開善寺(海禅寺の旧名)があったから名づけられた地名である。
開善寺は古くから皇室と縁の深かった滋野氏や、その系統を伝える豪族海野氏の祈願寺として栄えた。
戦国時代、武田信玄が小県郡を平定したとき、まず願文を捧げたのは、名社生島足島神社と、この開善寺であった。
その後、天正年間、真田氏の上田城築城に当り開善寺は、城の東北(鬼門)に移され、海禅寺と改称、上田城下町鎮護の寺となった。以降四百年その間、学問所が設置され、談林所としての役を果たし県下真言宗の名刹として今日に至っている。」
<海善寺の立派な本堂>
■花と鯉のぼりの境内
参拝後,境内を散策する.広々とした境内である.
境内の突き当たりに芝生の緑が鮮やかな広場がある.広場にはもう鯉のぼりが飾られている.
花一杯の境内をノンビリと散策する.
「花が素晴らしいですね…」
と同行のどなたかが感激している.
<鯉のぼり> <花一杯の境内>
■弘法大師像と歌碑
境内散策を続ける.
本堂脇に弘法大師像が置かれている.これでこの寺が真言宗だと分かる.
近くに歌碑らしい石碑が立っている.浅学の私には変体仮名が良く読めない.かろうじて最後に「八重桜」と書いてあるのが判読できるだけである.
街道歩きをしていて,いつももどかしく思えるのは,変体仮名が読めないこと.でも今更どうにもならない.
<弘法大師像> <歌碑>
■聖天堂と芙容保育園
境内の一角にある聖天堂を参拝する.お堂の脇に聖天堂の説明文が掲示されているが,冗長になるので引用は省略することにしよう.
10時10分,海善寺を出発して,海善寺山門前の道を東へ向かう,出発してすぐに,海善寺に隣接して芙容保育園がある.海善寺が経営する保育園のようである.さきほど見た鯉のぼりは,この保育園の敷地に立てられていた.
<聖天堂> <芙容保育園>
<迷いながら大輪寺へ>
■三叉路を左折
10時22分,2車線の道路に突き当たる.三叉路になっている.曲がり角に神社がある.石を組み合わせた台の上に小さいけど立派なお社が乗っている.境内入口には「献灯」という刻字のある石灯籠が立っている.神社の名称は良く分からないが,何となく秋葉神社ではないかと連想する.
地図を確かめながら,
”大輪寺は,多分,こっちの方向だろう…”
と見当をつけて,三叉路を左折する.
左折した先はごく緩やかな登り坂になっている.進行方向右手には小川が流れている.目指す大輪寺はこの川の対岸にあるが,川を渡る橋がなかなか見当たらない.
数分ばかり川を遡ったところで,やっと川を渡り,今度は川下に向かって下る.進行方向左手にこんもりとした森が見えている.
”多分,あの森の近くに大輪寺があるに違いない…”
と見当をつける.
■大輪寺の墓地に入る
途中で,AKさんがたまたま出会った近くの方に,道順を聞いているようである.
森の近くに,三叉路がある.三叉路を左折して100メートルほど先に墓地が見える.
「…あそこに墓地が見えますよ.墓地から寺の本堂に行けるにきまっていますから,こっちへ行きましょう…」
と私は半ば強引に皆さんを誘導する.
10時22分,墓地に到着する.予想に違わず墓地の入口からどこかに通じる立派な道がある.
「この道をたどれば間違いなくお寺のどこかへ出られますよ…」
と確信して,墓地内の坂道を登る.
<秋葉神社?> <大輪寺墓地に到着>
<寒松院の墓>
■寒松院の案内板
坂道を少し進むと,赤い矢印に寒松院と書かれた案内板が立っている.この案内板の通りに進むと,ジグザグの急な登り階段になる.一気に登り続けると息が切れそうになるほどの急坂である.
坂を登るにつれて,次第に見晴が良くなる.
<寒松院の案内板> <急坂>
■寒松院の墓
ジグザグの急坂を登り切って,10時26分,寒松院の墓に到着する.墓の傍らに市指定文化財という案内杭が立っている.
寒松院の墓は,大きくて立派な宝篋印塔である.ただ,鎌倉の寺で見かける宝篋印塔と比較すると,ちょっとずんぐりとしているなという印象を受ける.でも,私は宝篋印塔のことなど全く分からないずぶの素人である.私の印象などどうでも良いことだろう.
資料5には,寒松院について以下のような説明文が掲載されている(以下の「」内は資料5のコピペ).
「寒松院は、初代上田城主真田昌幸の夫人で、長男信之〔のぶゆき〕(幸)、次男信繁〔のぶしけ〕(幸村)の生母です。生前は山之手殿、または京の御前〔ごぜん〕と呼ばれていました。大輪寺〔だいりんじ〕寺伝によると寺は、もと砥石城(旧神科村)の東麓〔ろく〕の「畑山〔はたやま〕」にありましたが、昌幸が上田築城の時、夫人の発願〔ほつがん〕によって現在地に再建された禅寺といわれています。
夫人は天正十年(1582)武田氏滅亡の前は人質として、甲斐〔かい〕の新府城(山梨県韮崎〔にらさき〕市)に、また、慶長五年(1600)の関ケ原合戦の際も人質として大阪城に居ましたが、豊臣方に味方することに決した昌幸の知らせを聞き、ひそかに大阪城を脱出して上田城へ帰りました。
夫昌幸が慶長十六年(1611)高野山で世を去った2年後、慶長十八年に亡くなり、それからは寒松院と呼ばれました。夫人の出身には諸説ありますが、高野山蓮華定院〔れんげじょういん〕過去帳には、「京の公家の娘で武田信玄の養女として、昌幸に嫁ぐ。」と記されています。京の御前様と呼ばれたのをみても当を得ていると考えられます。また、天正七年ごろと推定される検地帳には「京の御前様御料所〔ごりょうしょ〕」として、木原地区一帯(真田町)に多くの土地も所有していました。」
私はNHKの大河ドラマを余り見ないので,ピンと来ないが,同行の皆様の中には,ドラマを良く見ている人がおられる.ドラマを引き合いにして,寒松院のことをしきりに話している.私には,何の予備知識もない,ちょっと羨ましいなと思う.
<寒松院の墓>
<大輪寺参拝>
■大輪寺本堂
10時28分,寒松院墓を後にする.墓地の前から上田市内を見下ろしながら坂道を下る(冒頭の写真).
10時34分,大輪寺本堂に到着する.
本堂前の池で,芙容保育園の可愛い幼児達と出会う.幼児達があまりにも可愛いので,思わず立ち止まってお相手をする.
大輪寺本堂は,威風堂々,実に大きくて立派である.
資料6によると,この寺は曹洞宗,山号は天照山.
境内に掲示されている案内文によると,大輪寺は寒松院が発願開基した寺である.旧所在地は「戸石城の山麓,畑山にあったが,兵火で焼失した後に天正11年この地に移した寺である.真田昌幸公(幸村の父)が力度山に蟄居させられた後に,髪を下ろした同夫人寒松院殿が開基であり,境内墓地に夫人の墓がある.」
<大輪寺本堂>
■立派な山門
大輪寺の立派な山門を仰ぎ見る.
資料6によると,この山門は上田では最大のもので,楼門形式の山門である.
私達が山門に見とれていると,たまたま私達の近くで作業をしていた男性が,私達に話しかける.私達が善光寺街道を歩いている合間に,この寺を訪れたと話す.するとこの男性はわざわざ社務所まで行って,大輪寺のパンフレットを持ってきてくれる.私達は有り難く頂戴する.
<大輪寺の山門>
<再び善光寺街道へ>
■保命水
10時42分,大輪寺を出発する.
山門前の通りを南へ下る,そして大神宮からの道との三叉路を左折.大神宮前からは,往路を辿って,10時50分,善光寺街道との交差点まで戻る.
途中,10時51分,保命水の前を通過する.
<延命水>
■赤いポストと武田味噌
途中,道端の赤いポストと武田味噌の看板が目に付く.
赤いポストは,鎌倉でも見かけるが,ちょっと珍しい.また,武田味噌の看板は,「武田」という名前に惹かれて,写真を取るが,残念ながらどんな味噌なのか私には分からない.
<赤いポスト> <武田味噌>
■紺屋町
善光寺街道に戻ってから,古い街並みの通りを西へ進む.
10時56分,紺屋町の案内板が立っている場所で立ち止まる.
”ああ,やっぱりここは紺屋町だ…”
資料1によると,真田幸村が,海野から染物屋を招いたという.
<紺屋町の案内>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;黒田茂夫(発行人),2014,『県別マップル20長野県道路地図』昭文社
資料4;http://www.kaizenji.jp/history-page16.html
資料5;http://museum.umic.jp/map/document/dot61.html
資料6;http://ogino.ninpou.jp/ueda_tera/dairinzi/
(つづく)
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(編集中)
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【参考資料】
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