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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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緑の鎌倉:鎌倉中央公園・水道山・台・大船一巡り

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                        <新緑の鎌倉中央公園>

    新緑の鎌倉:鎌倉中央公園・水道山・台・大船一巡り
            (単独散策)
         2013年4月13日(土)  晴

<ルート地図>



<新緑の中央公園>

■春になると散歩したくなる
 明日(4月14日)は,五十三次洛遊会主催の「歩いて廻る甲州道中の旅」に参加する予定である.明日は次回の資料を幹事に手渡す積もりでいる.その準備が大変で,結構,手間取っている.今朝も4時起き,頑張って資料の準備をしたが,結局,昼近くまで掛かってしまった.
 本来ならば,土曜日は塔ノ岳に登る日にしているが.そんなこんなで,今日の塔ノ岳行は中止して甲州道中の資料作りに専念した.
 とはいえ,運動不足になるのも困る.それにそろそろプリンターのインクを買いに大船のヤマダ電機まで行かなければならない.
 そんなわけで,少々遅い昼食を済ませた後,ほんの1〜2時間ほど,大船駅までのブラブラ歩きを楽しもうと思う.
 でも,今日は良く晴れているが,寒気が南に下がっているため,外気は早春を思わせるほど冷たい.

<新緑の鎌倉中央公園>

■まずは鎌倉中央公園
 今日のお散歩は,鎌倉中央公園からである.
 つい先日まで満開の桜を楽しんでいたのに,もう今は新緑の季節を迎えている.公園は見渡す限りの新緑である.気温は少々低く,歩いていても寒いが,春の日射しはとても明るい.
 渡しは,植物のことはまるで分からないが,紅葉を思わせる新緑(と言うんだろうか?)も美しい.

<鎌倉中央公園>

■下の池
 下の池沿いの道を山崎口へ向かう.池の廻りは燃えるような新緑で覆われている.
 “素晴らしいな…”
渡しは声には出さずに独り言を言いながら,ゆっくりと通過する.

<下の池>

<水道山を越える>

■薬師堂跡
 山崎口から公園の外に出る.そのまま道なりに北へ向かう.突き当たりの三叉路を右に曲がってから,ほんの少し進んだところに薬師堂跡がある.
 小さな空き地に五輪塔か宝篋印塔の破片と思われる石が数個置かれている.
 渡しは,この辺りを頻繁に通り抜けるが,その度に,ここにはどんな薬師堂があったんだろうと気になっている.

<薬師堂跡>

■水道山に登る
 薬師堂跡で,水道山を見上げた途端に,気が変わって,久々に水道山経由で台にでようかと思う.行く先々でクルクルと気分が変わるのは,まるでネコのようだ.
 “オレの体内には,ネコの遺伝子が入っているのかも知らない”
と苦笑しながら,水道山の急坂を登る.
 子野山には,昔,水道施設があったので,水道山という名前が付いたらしいが,今はビッシリと住宅が建ち並んでいる.

<水道山>

■水道山山頂
 ほんの5〜6分,急な坂道を登ると,水道山山頂近くに到着する.ただ,山頂直下に住宅があるので,山頂まで登ることは出来ない.
 此の道の突き当たりを道なりに左折する.さらに十数メートル先へ進んだところで三叉路を右折する.この道の先は袋小路になっているが,道が突き当たる手前に台へ下る細い下り階段の道がある.

<水道山山頂>

■大船観音が見える
 台へ抜ける道に入ると,眺望が開ける.
 手前にある大きなビルが眺望を遮っているので,ちょっと残念だが,大船観音が良く見えている.

<水道山から大船観音を望む>

■藤の花が美しい
 坂道の途中に,藤の花が見事なお宅がある.余りに見事なので,外から写真を撮らせて頂く.
 規模という点では,昨年,藤沢のフジロードで訪れた個人宅の藤よりも凄いなと思う.

<藤の花が見事な個人宅>

■大きく聳える六国見山
 さらに道なりに路地を下ると,目の前に六国見山が聳えているのが見える.実に良い眺めである.
 一寸前までは,六国見山の山桜が見事だったが,今は新緑が綺麗だ.

<六国見山が聳えている>

<台を経由して大船へ>

■神明神社
 水道山からの坂道を下ると神明神社の裏手から台の住宅地に入る.
 ちょっと寄り道をして神明神社を参拝する.この神社の由来などは,当ブログでもときどき記述しているので,今回は省略.

<神明神社>

■小袋谷つる公園
 台の住宅地を某自動車学校に向けて歩く.
 跨線橋を越えてから,住宅地内の迷路のような路地に入る.この辺りの道は入り組んでいるので道順を書くのは困難だが,小袋やつる公園で小休止.
 前回,この公園を訪れたときは桜が満開だった.

<小袋谷つる公園>

■締めくくりはコーヒーだ
 小袋谷つる公園から,中通りを通り抜ける.
 ヤマダ電機でプリンターのリボンを購入した後,大船駅に戻る.
 これで,本日の散歩は終わりだ.
 “では,締めくくりのコーヒーだ”
ということで,ルミネ1階の某コーヒー店で,200円也のコーヒーを賞味する.この店はジジババで大変繁盛しているようだ.
 明日は,いよいよ甲州道中の旅である.

<某コーヒー店の200円也のブレンドコーヒー>
                                   (終わり)
「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/340107e76977d0ba315b9af5906f4ab0
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)



 歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(1)八幡山から金子のイチョウへ

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                                   <金子のイチョウ>

 歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(1)八幡山から金子のイチョウへ
            (五十三次洛遊会)
          2013年4月14日(日)

<第2回の概要>

■第2回ルート地図



■第2回ルートの概要
 第1回目の終着点である京王線八幡山駅に集合.前回の続きを歩き出す・
 第2回目の行程は,京王線八幡山日本橋から布田五ヶ宿(国領,下布田,上布田,下石原,上石原),府中宿を経由して,JR南武線谷保駅まで,水平歩行距離16.3キロメートル,累積登攀高度51メートル,累積下降高度25メートルの行程である.
 参加者は東海道五十三次,中山道六十九次を一緒に歩いた仲間を主体として,総勢11人(男5人,女6人)である.

<ルート地図>




※ご同行の皆さん;この地図はお配りした地図を加除修正したものです.

<まずは八幡山駅へ>

■大船駅から八幡山駅へ
 2〜3日前から,今日,日曜日の天気がきになっていたが,先週の荒れた天気はどうやら治まって,今朝の天気は上々である」.天気予報もそれほど悪くはないので,今日は,まあ,まあ,恵まれた旅行日和と言えよう.
 今日の集合は,京王線八幡山駅9時丁度.
 私は多少の時間的余裕を見て,大船7時17分発湘南新宿ラインの電車に乗車する.大船駅で,たまたま,本日ご一緒するM元さん,K崎さんとバッタリ.車内で雑談をしている内に,瞬く間に新宿に到着する.新宿で京王線各駅停車の電車に乗り換えて,8時35分に八幡山駅に到着する.
 駅前辺りに喫茶店でもあったら,モーニングコーヒーでも賞味しようかと思っていた.ところが,まだ集合時間まで25分もあるのに,大半のメンバーが既に集合場所に到着している.それに,この近くには,朝から開店しているコーヒーショップは見当たらないということで,モーニングコーヒーは諦める.

■定刻より早く八幡山駅から歩き出す
 集合時間15分前には,参加予定の11人が全員揃う.皆さん,極めてパンクチュアルなので気分が良い.
 リーダーのOさんの挨拶が終わって,定刻よりも早く8時53分に八幡山駅から歩き出す.
 本日の参加者は男性5人,女性6人である.女性お一人を除いて,これまで東海道五十三次,中山道六十九次,日光街道を一緒に歩いた同じ釜の飯を食べていた仲間である.全員が,それぞれの歩行力量など知り合っているのが,このグループの特徴である.
 駅前の道をほんの少し北へ進むと,前回歩いた甲州道中の終点に到着する.ここから,一路,本日の終点である南武線谷保駅まで,16.3キロメートルの旅が始まる.

<上高井戸宿とその周辺>

■上高井戸宿の概要
 資料2(p.263)によると,上高井戸宿の宿内人口は787人.内,男415人,女372人.宿内惣家数168軒.内,本陣1軒,脇本陣なし,旅籠2軒だったという.
 資料3には高井戸宿について,次のような説明がある.
 「高井戸宿には,通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった.当初は,甲州街道の1番目の宿場であったが,後に内藤新宿が設置され,次第に素通りするものが多くなった.周辺住民は農業を主としており,一宿で継ぎ立てを勤められず,月初から15日までを下高井戸宿,16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた.助郷村は,久我山村,和泉村,松庵村,田端村(1751年(宝暦元年)-1761年(明和4年)),成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年),久我山村代助郷).
下高井戸宿;日本橋からから4里.宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた.本陣前が高札場,本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる.
上高井戸宿;日本橋から4里12町40間.上高井戸1丁目信号(環8通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた.問屋は篠弥惣治.」

■長泉寺
 私たちは, 中山道を西へ向かう.
 資料1や資料3の説明によると,環状8号線のガード下辺りに上高井戸宿本陣跡あったようだが,これらの資料に記述されているように,現場にはその形跡すらない.
 環8から100メートルほど先へ進んだところにあるY字型の分岐を左に曲がり旧道に入る.
 9時08分,長泉寺に到着する.
 参道の突き当たりに古い建物が見えている.割合に小振りな寺院だなと思いながら,参道の突き当たりまで進む.すると突き当たりの右手に広い境内があり,真新しくて立派な本堂が建っている.
 境内にある案内板の説明によると,ここは曹洞宗の寺院,山号は萬年山.本尊は大日如来である.開山は和泉村(現狛江市)の泉蔵寺2世欄室開牛(らんしつかんぎゅう).慶安元年(1648年),世田谷区の烏山にあった通称「お伊勢の森」に開創したが焼失,明暦元年(1655年)に当地に移転した.現在の本堂,客殿,庫裏は平成23年に整備されたものである.
 本堂前の観音堂(参道の突き当たりに見えていた古い建物)は「円通閣」.享保13年(1728年)に建立されたもの.西国三十三ヶ所の観音が安置されている.
 文化財として,地蔵,石像,庚申塔,十六羅漢などがあるという.

<長泉寺の本道>   

 
<境内には石柱,石塔などの文化財が多数ある>

■大橋場跡
 9時38分頃,大橋場跡を通過する.
 真鍮製(かな?)の柱に武州千歳村大橋場跡」と刻字されている.
 資料1によると,傍らの地蔵は地頭名主下山家が建立した下山地蔵である.身代わり地蔵,あるいは出世地蔵とも呼ばれているようである.

<大橋場跡>

■7基の石仏
 京王線千歳烏山近くの中山道を西へ歩き続ける.
 9時30分,7基の石仏に到着する.これらの石仏が何時頃作られたものかは,もう少し調べないと分からないが,全体にかなり風化していて,殆どの石仏の首が無くなっている.
 
<7基の石仏>

■里程標
 さらに西へ向かって歩き続ける.地図で確かめると,私たちは千歳烏山駅から仙川駅の間を歩いているようである.
 私は新婚時代の昭和40年代中頃に,京王線つつじヶ丘駅から5分ほどの場所で借家生活をしていたことがある.その頃,この辺りにも良く訪れていたが,その頃の面影は全くない.わずか数10年の間にも,凄く変貌してしまうんだから,遙か昔の江戸時代の面影を追うこと自体が大変無謀なことのように思えてくる.
 …ま,それはともかく,9時39分に里程標に到着する.勿論,当時の面影は残っていないが,鬱蒼と繁茂する木立の前に里程標の案内板が設置されている.ひょっとして,良く探せば,この辺りに里程標があるのかもしれないが,一寸目にはどこにあるかは分からない.
 この案内板の記事によると,この里程標は新一里塚と称し,「内藤新宿より三里」と刻まれているという.またこの新一里塚は明治3年(1870年)に建立されたものだという.

<新一里塚>

■観音堂
 9時49分,観音堂に到着する.
 観音堂は,かなり広い境内の奥まったところに立てられている.屋根が美しい立派な建物である.境内は清掃が行き届いていて,ゴミ一つ落ちていない.
 この観音堂に向かって右隣に給田町の慰霊碑がある.
 帰宅後,インターネットを使って,観音堂の由来などを調べてみたが,今のところ,はっきりしたことは分からない.

<観音堂>

<仙川周辺>

■昌翁寺に到着
 9時56分,仙川(だろうと思う)に架かる大川橋を渡る.10時01分,Y字型の三叉路で再び国道に合流する.10時04分,この三叉路を通過してから,すぐ右手にある昌翁寺に到着する.
 資料4の説明では,「仙川領主の飯高主水貞政が快要法印を師と仰ぎ,当寺を建立して菩提寺とした.貞政は,もと今川義元の家臣であったが徳川家康に帰属し,戦功により旗本となり下仙川村の領地を与えられた.明治12年3月の仙川の大災で,古記録や什器類を焼失.本堂は大正13年に再建された.いまの本堂は昭和60年新築である.近年境内で8の日に植木市がたった.地元農家が栽培した植木の交換会で,その市を記念した石碑(昭和39)がある.門前には元禄時代の庚申塔2基と宝暦の廻国塔が並ぶ.」とのことである.

<昌翁寺>

■昌翁寺のテンダイウヤク
 境内を拝見する.
 本堂右手に庭木を手入れしている男性が居る.どうやらこの寺のご住職のようである.境内を拝見しておりますと挨拶すると,
 「この木がテンダイウヤクです・・・」
と下の写真の木を紹介する.
 「えっ!…,テンダイ..何ですか?」
と聞き返す.
 私たちは寡聞にして知らなかったが,テンダイウヤクは大変珍しい木なので,わざわざこの木を見るために,この寺を訪れる人が大変多いとのこと.余りに沢山の方から質問を受けるので,この木の説明文を作ったとのことである(下右の写真).
 もともと,私は植物,花,食べ物には疎いが,“珍しい”と言われると気になる.
 資料5には,「テンダイウヤク Lindera strychnifolia (クスノキ科クロモジ属)は中国原産の常緑低木.漢名は天台烏薬であり,江戸時代に導入された.根を健胃薬として利用する.高さ数mになり,細い枝を分けて株立ちとなる.葉は長さ5〜8cmで広い卵形.葉柄は1cm程度で短く,三行脈が目立つ.表面は強い光沢があり,裏面は粉白色で白毛が散生し,脈にも毛がある.雌雄異株で,3月から4月頃に葉腋に淡黄色の花を数個咲かせる.果実は直径1cmほどで,秋に黒く熟す.マツ枯れ後に再生したアベマキなどの生育する林の中でテンダイウヤクが生育しているのを見つけた.数百m離れている半田山植物園に植栽されていたものから野化したものと思われる.同じ林にはコジイも侵入していたが,これも同植物園からの種子供給である.植物園などに植栽された植物が,周辺地域に本来生育しない外来植物の野化を引き起こしていることは問題である.しかし,拠点となる森林が周辺地域への森林回復に貢献できる好例でもある.」という説明がある.
 門外漢の私には,この説明文を読んでも,あまり良く分からないし,半田山植物園がどこにあるのかも分からないが,まあ,この辺りで詮索は止めにしておこう.
 
<テンダイウヤクと説明をしてくれた男性>

■仙川一里塚跡
 10時14分,仙川一里塚跡に到着する.鎖の向こうに「仙川一里塚跡」と刻字してある石碑が立っている.江戸日本橋から5里目の一里塚である.
 “まだ,たった5里しか歩いていないのか”
というのが率直な印象である.

<仙川一里塚跡>

<金子村の長閑な裏道>

■瀧坂旧道
 10時21分,現中山道のY字型分岐点に到着する.この分岐点に瀧坂旧道(馬宿川口屋)が立っている.ここで私たちは右側の道に進む.途端に自動車が全く通らない閑静な道になる.
 資料6に,「二股の角に,瀧坂馬宿川口屋と刻まれた新しい石碑が建っている.甲州街道でも,農民が副業として宿場から宿場,そして江戸時代中期以降は往復一ヶ月以上も荷物運びをする専業も出現したという中馬(ちゅうま)のための専用の宿がこの辺りにあったことを示している.」という説明がある.

<瀧坂旧道>

■薬師如来
 旧道に入ってすぐ左手に薬師如来が安置されている.傍らに,首がない小さな立像がある.どちらもかなり風化が進んでいる.
 これらの石像の由来などは,私が調べた範囲では良く分からない.
 この薬師如来像を過ぎると,2〜300メートルほど閑静な道が続く.
 「こういう閑静なところは風情を楽しみながらユックリ歩きましょう…」
ということで,新緑が美しい周囲の木々を眺めながらゆっくりと歩き続ける.

<薬師如来>

■武蔵七党の金子氏
 この辺りは旧金子村である.資料1によると,武蔵七党のひとつ金子氏お出身地であり,金子瓜(真桑瓜)の産地として有名なところだという.
 資料7によれば,「武蔵七党(むさししちとう)は,平安時代後期から鎌倉時代,室町時代にかけて,武蔵国を中心として下野,上野,相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である.横山党,児玉党,猪俣党,村山党,野与党,丹党,西党,綴党,私市などが知られているが,鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』には「武蔵七党」との表現がないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられており,数え方も文献により異なり一定していない.」という.
 “ありゃ〜っ! 金子氏の名前が出てこない”
 この記事を読んだ私は困惑する.
 “でも,まあ,井伊か…”

■閉店してしまったお菓子屋さん
 旧道は再び国道と合流する.
 資料によると,この合流点に「たちばな」というお菓子屋さんがあるはずだが,今はもう閉店している.同行者の中に調布市にお住まいの方が居られる.この方のお話しだと,この店はかなり前に閉店してしまったとのこと.
 “お店がない”となると,余計にこの店の菓子が食べたくなる.こういうのを天の邪鬼という.

<金子のイチョウ>

■新緑が美しい金子のイチョウ
 10時28分,金子のイチョウに到着する.街道からイチョウの裏手にある道に廻り込んで,イチョウを眺める.
 このイチョウは巨大で新緑が実に美しい.
 カメラを構えるが,イチョウが巨大すぎて,全体を撮すことが出来ない.
 イチョウを囲む生け垣の隙間から,イチョウを見上げながら,数枚の写真を撮る.
 銀杏の木の下に,まっ赤な色をした稲荷大明神のお社がある.

<金子のイチョウ>

■金子のイチョウの案内板
 再び街道に戻る.
 街道側には金子のイチョウの案内杭と案内板が立っているが,肝心のイチョウは,手前の竹林に遮られて,余りよく見えない.
 資料8には,「このイチョウは,太い方が雄で,目通り(目の高さ)の幹の太さが4.09メートル,細い方が雌木で,1.97メートルある.2本のイチョウの下にある稲荷大明神は,寛延元(1748)年に,京都の伏見稲荷を勧請(かんじょう)したという古文書があり,このイチョウもその時に植えたものと伝えられている.」という説明がある.
 
<稲荷大明神>                                     <金子のイチョウの案内杭>
                                    (つづく)

[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BA%95%E6%88%B8%E5%AE%BF
資料4:http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118970608/
資料5;http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/lauraceae/tendaiuyaku/tendaiuyaku.htm
資料6;
http://members2.jcom.home.ne.jp/takeshi-hirai/koshu-kaidou/koshu-kaidou-1-5.html
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E4%B8%83%E5%85%9A


「甲州道中」の前の記事
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5d885f2edcc1c550d75cf75d4b993d54
「甲州道中」の索引
(作成中)

※お願い
 この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
 記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方が,どうぞアクセスをご遠慮下さい.


 歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(2)仙川から布田五ヶ宿へ

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                                <昇福稲荷の前で>

 歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(2)仙川から布田五ヶ宿へ
            (五十三次洛遊会)
       2013年4月14日(日)  (つづき)

<ルート地図>


※再掲;ご同行の皆さん;この地図はお配りした地図を加除修正したものです.

<金龍寺>

■金龍寺の山門
 10時33分,金龍寺参道入口に到着する.参道の長さは数10メートルあり,その先に立派な赤門がある.赤門の先に本堂が見えている.
 境内に入る.人気がなく静まり返っている.赤門を潜った右手に寺の縁起の説明文が掲示されている.
 資料3によると,この寺は曹洞宗.山号は大雲山.本山は永平寺・総持寺.本尊は釈迦牟尼仏・脇侍仏は文殊菩薩と普賢菩薩.創建は建永元年(1200年),開基は岳応守英大和尚である.
 説明文の内容を要約すると以下の通りである.
 建永元年(1206年)栄西禅師により開基され,金子弁財天社内に安置,南光坊という堂宇であった.治承年間,梶原景時の讒訴により,源義経,弁慶が,奥州へ落ち延びる途中,この地に来訪した.この時,一行は弁財天に祈り.大般若45軸を書写した.後にここを写経の地と呼び,山号を写経山と称した.
 文禄3年,岳応守英大和尚により曹洞宗の寺となった.
 慶安2年,徳川3代将軍家光が狩猟の途中で,この寺で休憩.そのとき寺の裏にある五本松を見たことから深谷山の号を付し,朱印を寄せた.この写真の山門は当時のまま残存しているものである.

<金龍寺の山門>

■閻魔十大王石像
 金龍寺境内に閻魔十大王石像がある.
 境内の説明文によると,この石像は,源頼朝の祈願によるもので,現在も十王街道(川越から鎌倉街道に出る拠点)の名称が残っている.
 寛文5年再建の時,山号を大運山の改め,堂宇の全てが現在地に移転した.
 昭和46年旧堂を建て替えた.

<閻魔十大王石像>

■十八阿羅漢尊者像
 境内に十八阿羅漢尊者像がある.
 傍らの説明文によると,阿羅漢は,「人々の供養を受ける資格のある人」「価値のある人」「悟りを得た人」で,釈尊とその弟子を指し,道元禅師は「自由自在の世界を創造的に生きている人」を示し,「呼吸は鼻から無心に出入りしているこの姿こそ真の阿羅漢である」と表現しているという.
 十八羅漢の内,第一から第十六を境内へ,第十七,第十八は本堂内にそれぞれ建立安置されているという.

<阿羅漢の像>

■高札場
 境内の片隅に高札場跡がある.復元された高札場が建っている.

<高札場>

<つつじヶ丘・柴崎周辺>

■路傍の石像
 10時50分,進行方向右手に石像を見付ける.
 これが妙円地蔵かなと思ったが,どうも様子が違う.石像の前には新しい草花が飾られている.どうやらご近所の方に手厚く管理されているようである.
 結局,この石像が何かは分からないまま,通過する.

<路傍の石像>

■妙円地蔵
 10時50分,路傍の石像の直ぐ近くにある地蔵菩薩立像(妙円地蔵)に到着する.小さな祠の中に石像が祀られている.傍らにある案内板の説明によると,この地蔵は調布市指定郷土資料(民俗資料)に登録されている.
 案内板の説明によると,妙円は女性.金子村の新助に嫁いだが両眼を失明した.その後,自ら悟るところがあって尼になり寿量妙円(じゅりょうみょうえん)と号した.妙円は村人のために毎日路傍で鉦をたたき,念仏を唱え続け,多くの人から受けた浄財をもとに文化2年(1805年)この地に地蔵菩薩像を建立した.
 妙円の墓は深大寺にあり,鉦は調布市郷土博物館で保管されているという.

<妙円地蔵>

■コンビニでトイレ休憩
 10時59分,通りすがりのコンビニでトイレ休憩.飲料水などを補給する.

<通りすがりのコンビニで休憩>

■金剛夜叉明王
 地図で確かめると,私たちが居参る場所は,旧大町村に位置している.どうやら,この辺りに金剛夜叉明王が祀られていると思われるので,
 「見落とさないように注意して歩きましょう」
と一同に声を掛ける.
 すると仲間の中で,この近くに住んでいる方が,
 「ああ,それならば,直ぐ先にありますよ」
と言いながら,路地を左に,ヒョイと曲がる.
 成るほど,曲がり角からほんの数メートル入った道端に金剛夜叉明王の像が置かれている.
 この像の由来などは良く分からない.
 ちなみに,資料4によると,「金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)は,人間界と仏界を隔る天界に位置する明王の中でも特に中心的役割を担う五大明王の1人で、北方の守護神.金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)は,人間界と仏界を隔てる天界に位置する明王の中でも特に中心的役割を担う五大明王の1人で,北方の守護神であろ.」
 
<金剛夜叉明王>

<国領宿に到着>

■国領宿の概要と調布の由来
 東から順に国領宿,下布田宿,上布田宿,下石原宿,上石原宿の5宿を纏めて布田五ヶ宿という.国領宿は布田五ヶ宿の一番東側に位置している.
 資料2(p.265)によれば,国領宿の宿内人口は308人.内,男168人,女139人.宿内惣家数61軒.内,旅籠1軒.
 布田五ヶ宿のひとつである.
 11時11分,野川に架かる馬橋を渡る.いよいよ布田五ヶ宿の一番東に位置している国領宿に入る.
 この辺りは調布.資料1によると,平安初期この地の長者が布多天神のお告げにより木綿織りを習得,この布を多摩川に晒し,朝廷に貢物(調)として献上したところ,天皇はこの布を調布(てづくり)と命名したという.その後.この地は調布の里と呼ばれるようになったらしい.
 なお,資料1によれば,国領という地名は,ここが古代国衙(こくが)直轄地であったことに由来するもので,江戸時代まで天領だったという.

■稲荷社
 11時19分,国領駅近くの稲荷社に到着する.小さなお社の前の立派な鳥居が立っている.
 この稲荷社の由来などは,調べた範囲では不明である.
  
<稲荷社>                               <稲荷社の前で立ち休憩>

■圓福寺
 11時28分,進行方向左手にある圓福寺に到着する.
 現代風の建物の寺である.寺と言えば古びた木造の建物をイメージするので,立派な現代風の建物に遭遇すると,何となく寺のイメージが湧かず,少々ガッカリする.もっともこんな感じを持つのは私だけの勝手な話で,私の感想など他愛もないことである.
 資料5によれは,「浄土真宗本願寺派寺院の円福寺は,山号本誓山.円福寺の創建年代は不詳だが,北条泰時の舎弟開壽丸が開山となり鎌倉の切通に創建,武田信玄(法性院機山居士)が中興したと伝えられる.鎌倉より多摩川沿いに移転の後,中興二代胎玄(寛永元年1624年)の時に当地へ移転した.」という.本尊は阿弥陀如来.

<圓福寺>

<常性寺>

■広い境内の常性寺
 11時31分,常性寺に到着する.円福寺と甲州街道を挟んで反対側にある寺である.
 広い境内の先に本堂がある.時節柄,本堂前に大きな鯉幟が数匹,強い風に乗って泳いでいる.
 資料6によれば,「常性寺は京王線布田駅の北,徒歩2分.旧甲州街道に面して建つ古刹.鎌倉時代の創建と伝えられ,もともとは多摩川沿いにあったが,慶長年間に現在地に移転したと伝えられる.江戸時代には祐仙法印が上総国成田山新勝寺から成田不動尊を勧請して中興したといわれる.厄除け調布不動尊として知られており,境内の奥には本堂のほか不動堂,地蔵堂が隣り合うように建ち並ぶ.また境内には調布市の民俗文化財に指定されている石仏馬頭観音がある.調布七福神の一つに数えられている布袋尊が祀られていて,「調布七福神巡り」で訪れる参拝者も多い.」と紹介されている.
<常性寺の本堂>

■敷石碑
 資料1によれば,明治11年(1878年),布田五ヶ宿の女郎屋が境内に敷石を寄進したときの碑である.

<敷石碑>

■成田山
 本堂右手に成田山の建物がある.
 ここは,前出の通り,祐仙法印が成田不動尊を勧請したものである.

<成田山>

■馬頭観音
 境内右手にある馬頭観音は,調布市民俗文化財に指定されている.資料1によると,「馬主が文政7年(1824年)供養に建立したもの」だという.
 11時35分頃,常性寺の参拝と見学を終えて,再び西へ向かって歩き出す.

<馬頭観音>
                                         (つづく)

[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www.kinryu.com/
資料4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%A4%9C%E5%8F%89%E6%98%8E%E7%8E%8B
資料5;http://www.tesshow.jp/tama/chofukomae/temple_chofu_enfuku.html
資料6;http://www.portaltokyo.com/guide_tama/contents/c31016josyoji.htm


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 この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
 記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方が,どうぞアクセスをご遠慮下さい.

歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(3)布田五ヶ宿を歩く

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                                      <蓮慶寺>

  歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(3)布田五ヶ宿を歩く
            (五十三次洛遊会)
          2013年4月14日(日) つづき

<ルート地図>




<下布田の蓮慶寺>

■下布田宿の概要
 資料2(p.266)によると,下布田宿の宿内人口は429人.内,男218人,女212人.宿内惣家数95軒.内,本陣脇本陣なし,旅籠3軒.

■蓮慶寺の赤門
 常性寺の見学を終えた私たちは,甲州街道を西へ向かう.調布市の中心街に近付いているので,辺りが次第に賑やかになりはじめる.
 11時42分,蓮慶寺に到着する.
 境内に入って直ぐに目を引くのが,この写真の赤門である.
 資料1によると,徳川三代将軍家光より御朱印地を賜り,以来歴代将軍の菩提を弔う御朱印寺として赤門と住職の乗駕が許されたという.

<蓮慶寺の赤門>

■蓮慶寺の本堂
 まずは蓮慶寺を詣でる.
 境内にある説明文によると,蓮慶寺は日蓮宗の寺.池上本門寺の末寺である.開基は慶長3年(1598年)本門寺第12世仏乗院日惺聖人(こんな難しい字はFHには読めない).開基は布田の領主中将出羽守(法号正天院日誉).中将出羽守は小田原北条十二将の1人である.また,開山と開基の法号にちなんで,山号は惺誉山.
 日惺聖人が慶長3年に直筆した曼荼羅本尊が寺宝になっている.
 江戸時代,慶安4年,家光より御朱印地が下賜され,御朱印寺になり,赤門を設立し,歴代将軍葵の紋付き位牌を香炉を受け継いでいるという.
 なお,現在の山門は昭和54年に完成したものである.

<蓮慶寺本堂>

<ゲゲゲは何処だ>

■水木しげる記念館(?)
 蓮慶寺の参拝を終えて,11時50分頃,蓮慶寺を出発する.
 いよいよ調布市の中心部に入る.道路の両側には商店街が立ち並んでいる.それに今日は春爛漫の日曜日である.街は沢山の人達で賑わっている.
 三年前に,某旅行社主催の甲州道中の旅を楽しんだときに,確かこの辺りにある「水木しげる記念館」というところの立ち寄っている.今回も,是非,この記念館に立ち寄りたいと思う.しかし,この記念館の正確な位置がどこだったか全く思い出せない.
 私は古い資料を眺めながら,どこだろうと思案する.すると,ご当地にお住まいのメンバーから,
 「こっちですよ…」
と教えて頂く.
 これは有り難いなと思いながら,彼の後に付いていく.すると右折して深大寺に向かう通りに入り込んで,
 「ここですよ」
という.
 なるほど,賑やかなとおりに,ゲゲゲの鬼太郎を始めとして妖怪どもの人形が立ち並んでいる(左下の写真).確かに,ここも面白いが,記念館(?)は,ここではない.
 
<妖怪の人形>                               <3年前,記念館(?)で見たポスター>

■この写真に写っているのは記念館(?)
 私は水木しげる記念館が見当たらないので残念がる.とにかく元の中山道に戻る.ちょうどそのとき,私たちと同じようにリュックを背負った30名ばかりの大集団が,私たちと同じ方向に歩いている.伺うと静岡から来られたツアー団体で,2ヶ月に一度のペースで甲州道中を歩いているとのこと.この集団は昼食を摂るとかで左折して調布駅前の方に向かう.
 さて,私たちである.
 「駅前の交番で聞いてみましょう…」
とご当地さんが提案する.願ってもないことである.
 そこで,少々寄り道になるが,調布駅前まで足を延ばす.
 ところが,ご当地さんのお話しでは,交番で調べても,「水木しげる記念館」などという施設はないとのこと.では,3年前に撮った写真(下の写真)や,記念館に飾ってあった水木しげるのポスター(上右の写真)は,一体何だったんだろう.
 今思うと,多分,この写真は観光案内所のようなところだろうと思う.当時,NHKの朝の連続ドラマ『ゲゲゲの女房』が話題になっていたので,多分,水木しげるの特別展でもやっていたんだろう.それを,そそっかしい私が「水木しげる記念館」だと勘違いしたんだろう.
 でも,何となく解せないなぁ〜・・と感じながらも,記念館見学は諦めるしかない. 

<3年前の「水木しげる記念館(?)」にて>

<上布田宿から下石原宿へ>

■上布田宿と下石原宿の概要
 資料2(pp,267-268)によると,上布田宿の宿内人口314人.内,男153人,女161人.宿内惣家数68軒.本陣脇本陣なし,旅籠1軒.
 下石原宿の宿内人口448人.内,男219人,女229人.宿内惣家数91軒.本陣脇本陣旅籠なし.

■小島一里塚跡
 調布駅前から中山道に戻る.なおも近くに観光協会があるかどうか探したが,適当なところで諦める.
 12時07分,小島一里塚跡に到着する.江戸日本橋から6里目の一里塚である.
 今は一里塚の痕跡もない.ただ,小島一里塚跡と刻字された大きな石が立っているだけである.

<小島一里塚跡>

■常演寺
 12時15分,常演寺に到着する.
 「第十七番札所常演寺」と刻字した大きな石柱が立っている.
 この寺の由来などは不明だが,資料3を見ると,天台宗の寺だと分かる.それ以上のことは,今のところ,全く分からない.

<常演寺>

■地蔵菩薩
 常演寺の直ぐ隣に地蔵菩薩の祠がある.この地蔵菩薩の由来などをインターネットで調べたが,全く分からない.

<地蔵菩薩>

■金山彦神社
 12時19分,金山彦神社の参道入口に到着する.参道の奥に社殿が見えているが,時間が押しているので,参拝は省略する.
 資料4によると,祭神の金山彦神は鍛冶屋の神様のようである.

<金山彦神社の参道>

■金剛山源正禅寺
 12時20分,金剛山源正禅寺に到着する.臨済宗建長寺派の寺院である.
 それほど大きな寺ではない.白壁の簡素な本堂が建っている.
 資料5には「境内にある昭和37年建立の記念碑に開山450達年とあるので後北条時代に建立された寺」と紹介されている.

<金剛山源正禅寺>

■西調布だ“もうすぐ”昼食だ
 私たちは,12時24分頃,西調布駅近くを歩いている.すぐ先に高架道路が見えている.あの高架道路の下にある高速第5公園で,少し遅めの昼食を摂る予定である.
 “後もう少しで昼食だぞ”
と口には出さずに,自分自身を勇気付ける.

<西調布を行く>

■西光寺
 12時30分,高層道路の直ぐ手前にある西光寺に到着する.
 資料6には,「この寺は天台宗.山号は長谷山.山門前左側に常夜燈とその横に近藤勇の坐像がある.山門を入って左に石地蔵が,山門奥の建物が調布で一番古い仁王門,さらにその奥に観音堂がある.市重宝の観音三十三身像,大日如来像等が安置されている.」という説明がある.


■近藤勇座像
 西光寺仁王門の左側に腕をくんで座っている近藤勇像がある.
 資料7によると.「平成13年(2001),地元の新選組研究団体「近藤勇と新選組の会」によって建てらた.西光寺は,旧甲州街道沿いにあり,慶応4年(1868)3月,近藤勇が甲陽鎮撫隊をひきいて甲府へ向かった時も,この寺の前を通った.」という.

<近藤勇座像>

■高速第五公園
 12時23分,高速道路下にある高速第五公園に到着する.
 ここで少々遅めの昼食を摂ることにする.
 ご近所の方も,何名か来られている.私たちも,三々五々,適当に座り込んで昼食を摂ることにする.
 腰を下ろしてみると,高架下を冷たい風が吹き抜けるので,結構寒い.これではオチオチと食事も出来ないほどの寒さである.
 20分ほどで昼食は終わる.昼食後,女性群中心に色々なお菓子が配られる.礼によって,食べものに卑しい私は,頂戴するものは全部お腹に入れてしまう.
 “だから,お前さんは体重が減らないんだ”
ともう一人の私に叱られてしまう.
 ジッとしていると寒いので,昼食を少々早く切り上げて,13時01分に,高速道路下から歩き出す.

<高速第五公園で昼食>


[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www.csa.gr.jp/temple.html
資料4:http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=1012
資料5;http://www.geocities.jp/mitaka_makita/jisya/gensyoji.html
資料6;http://www.geocities.jp/mitaka_makita/jisya/saikoji.html
資料7;http://www.csa.gr.jp/kondoisami_5.html

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名残の豆桜と気怠い陽気の丹沢:塔ノ岳(今年18回目)

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                                    <堀山の尾根の豆桜>

    名残の豆桜と気怠い陽気の丹沢:塔ノ岳(今年18回目)
            (単独山行)
       2013年4月17日(水) 曇

■春眠暁を覚えず…かな?
 この頃,良く言われている
 “'春眠暁を覚えず’って本当かもしれない”
と感じている.
 勿論,決して若くない私は,老人らしくどうしても真っ暗な内から起き出してしまうが,朝日が顔を出す頃になると,どうも眠くなるようだ.原因は'春うらら’のせいか,あるいは体のどこかに何か原因があるのか分からないが,
 “まあ,どうでもいいや”
と思っている.
 …で,私は水曜日と土曜日になると,天気が良い限り,のこのこと丹沢塔ノ岳に出掛けることにしている.もっとも,塔ノ岳以外の山に浮気をして出掛けるときは,この限りではないが…
 今日は水曜日.先週末の土日は別の用件があって塔ノ岳には出掛けていないので,今回は1週間ぶりの塔ノ岳詣でである.平素,山登りをされていない方には奇異に感じるかもしれないが,1週間も間を空けての登山となると,身体が重くてちぐはぐな感じが付きまとう.そんなわけで,
 “今日は絶対安全登山に徹するぞ”
と自分自身に懇々と言い聞かせる.

■丹沢まつりと山開き
 何時も通りに大船から小田原まで東海道本線の電車を利用する.電車が大磯を過ぎる頃から,春眠ではないが,睡魔が襲ってくる.こんなところから居眠りをして,寝ぼけ眼のままでは,小田原での「階段2段跳び2分乗換」には耐えられないし,寝ぼけ眼のまま階段2段跳びは体に悪いことは分かりきっている.極力居眠りをしないように頑張るがダメ.ついついコックリコックリが始まる.
 小田原での「階段2段跳び」にもそどうやら成功して,小田原6時23分発新宿行急行電車に,ナントカ無事に間に合うが,身体がやけに重く感じる.今日はやっぱり本調子ではないようである.電車が発車して.心臓のバクバク,ハアハアが治まると,またもや睡魔が襲ってくる.そして,眠たい気分のまま渋沢駅で,大倉行1番バスに乗車する.
 バスは平日にもかかわらず沢山の乗客で満席である.辺りを見回すと,超韋駄天のN村さん,韋駄天のTさん,Y内さん,K村さん,編集長のYさん,その他,名前は分からないが見覚えのある方が若干乗車されている.
 6時59分,バスが大倉に到着すると同時に,超韋駄天のNさんが塔ノ岳山頂を目指して歩き出す.私は,7時05分に,韋駄天のTさん,Y内さん,編集長のYさんと偶然一緒に歩き出す.
 大倉バス停近くの道路に「丹沢まつり山開き」と書かれた横断幕が掲げられている.また,「丹沢まつり」のポスターがあちらこちらに貼られている.いよいよ今週末が丹沢祭りでである.
 
<丹沢まつりの横断幕>                                   <丹沢まつりのポスター>

■ヒル談義をしながら見晴階段へ
 歩き出してから暫くの間,お三方と四方山話をしながら一緒に登る.まだ早朝なのに.気温は12℃と高い.
 「もうそろそろ山ヒルが出てきそうですね…」
とどなたかが言う.すると,毎日登山をしている韋駄天のTさんが,
 「どこかで山ヒルが居たと聞きましたが,まだ,山ヒルには出会っていませんね」
とのこと.
 もっとも韋駄天のTさんの体験談によると,雨の日の翌日に山ヒルに出会う可能性があるとのこと,どうやら,茂みに居る山ヒルが,登山道まで雨で流されてくるようである.
 登山口を少し過ぎたところで,編集長のYさんとお別れして,残りの3人で登り続ける.私が一人で歩いているときに比較すると,歩行速度がほんの少し速い感じがするが問題はない.歩きながら,健康の話をしていると,私たちのすぐ前を歩いている男性が振り返りながら,
 「皆さんの中にお医者さんが居るんですか」
と話しかけてくる.先週水曜日にもお会いした方(仮にXさんとしておこう)である.Xさんは今日表尾根経由で下山するとのこと.
 7時42分,見晴山荘に到着する.ここから先の見晴階段は,到底,韋駄天さん達の後には付いていけないので,
 「どうぞ,先に行って下さい.私は後からユックリ登ります」
ということで,ここからは一人旅になる.
 見晴山荘で,大倉でリュックの中から出し忘れたハイドレーションシステムのチューブを取りだして,すぐに出発する.そして,見晴階段の入口で,恒例の定点写真を撮影する.見晴山荘で,ほんの1分少々手間取っただけなのに,韋駄天のTさんとY内さんの後ろ姿が,もうこんなに小さくなっている.
 “それにしても新緑は美しいな”
と思いながら,私も後に続く. 

<見晴階段>

■富士山は雲の中
 7時59分,一本松を通過する.振り返ると,数十メートル下にXさんの姿が見える.Xさんをお待ちしていようかと一瞬思ったが,
 “まあ,いいや,今日は一人旅を満喫しよう”
とすぐに宗旨替えをする.
 堀山の尾根に差し掛かる.8時20分,駆け足で下山してくるY沢さんとすれ違う.
 何時も富士山の定点写真を取る場所に到着するが,富士山は雲の中.私は持参しているバカカメラに,
 「今日は富士山が見えなくて良かったね.オマエのバカさが分からなくて…」
と富士山が見えない腹いせに,悪態をつく.

<富士山は雲の中>

■名残の豆桜
 堀山の尾根道沿いに沢山の豆桜が咲いている.満開は過ぎているが,まだまだ見事で美しい.私は気が済むまで豆桜の写真を10数枚撮り続けながら道草である.

<堀山の尾根の豆桜>

■Kシゲさんと「やあ,ヤア」
 8時42分,堀山の家を通過する.
 小草平のベンチには誰も居ない.辺りは人気がなく静まり返っている.ここからの富士山の眺めも見事なはずだが,相変わらず富士山は雲の中である.
 私の前後に登山者はいない.全くの一人旅.追い越したり追い越されたりで気が騒ぐこと,煩わしいこともなしに,全く気儘に登山を楽しむことができるのが嬉しい.もっとも,急いで追加して書くが,親しい山仲間徒一緒に登るのも別の意味で実に楽しい.
 今日は堀山の家から花立山荘まで40分掛けて登ろうと思う.
 8時44分,堀山の家から少し登ったところで,下山してくるKシゲさんとバッタリ.
 「やあ,やあ,・・・・」
で恒例の握手.私はすっかり嬉しくなり,気分が高揚する.
 「今日の山頂は風が強いですよ…」
というコメントを頂戴する.
 「今度の土日は,他の山に浮気します…」
とKシゲさんにお話しする.
 「今度の土日は,丹沢まつりで,山も随分と混雑しますよ…」
 久しぶりにツーショット写真を撮る.ブログに掲載するのは気が引けるが,どうせ私のブログにアクセスする方の大半は知人友人ばかりなので,「まあ,いいか」.ただ遠慮して小さめの写真にしておこう.
 
<Kシゲさんとツーショット>     <萱場平>

■萱場平の“ど根性アザミ”
 8時55分,萱場平を通過する.
 Kシゲさんと雑談をしていた時間だけ,ラップが余計になっているが,余計になった理由がハッキリしているので,全く問題はない.気温が16℃と高い.もう初夏を思わせる気温である.
 萱場平の木道の間に,今年も元気に“ど根性アザミ”が顔を出している.
 私は,木道の間にしゃがみ込んで,“ど根性アザミ”の写真を撮る.そして,
 「今年も元気に顔を出したな,大きくなるのを楽しみにしているよ」
とアザミに話しかける.
 毎年,私はこのアザミに勇気付けられている.
 こんな道草をしながらの登山なので,堀山の家から40分で花立山荘なんていう目標は“クソクラエ”という気分になってくる.

<木道の間のど根性アザミ>

■後7分坂(花立階段)
 やがて後7分坂(花立階段)に差し掛かる.ここで下山してくる超韋駄天のN村さんとすれ違う.いつも後7分坂を3分の2くらい登ったところですれ違っているので,それだけ私のラップが遅いということだろう.でも,まあ,いいや.
 毎度のことだが,この階段だけは登っていても面白くない.ひたすら上を見上げないようにしながら,黙々と登り続ける.
 そして,9時18分,ようやっと花立山荘ご到着である.意外なことに堀山の家から花立山荘までの所用時間は36分.自分の思惑より大分速い.堀山の家で時計を見間違えたかな? でも,大倉からの所要時間は2時間13分も掛かっている.どうもおかしい?

<花立山荘>

■何も見えない花立山
 花立山に差し掛かる.これまでノンビリ登ってきたので,全く疲労感なしにルンルン気分で半伊達山を登る.ただ,辺り一面に雲が湧いていて,富士山はおろか近場の山も全く見えない.いくら物好きの私でも,霧の写真をそう何枚も撮るのも馬鹿げている.
 でも,花立山で数枚の写真を撮ったが,ほとんど何も写っていないので,ブログへの掲載は止めにしておこう.

■足が攣った男性に遭遇
 9時32分,金冷シを通過する.あちこち道草をしたにしては,まあ,まあの時間だなと思いながら,最初の階段に差し掛かる.
 階段を半分ぐらい登ったところで,立ち止まっている2人の男性に追い付く.
 「どうかされましたか?」
と伺うと,足が攣って上手く歩けないという(この方を仮にKさんと呼ぶ).
 私は,リュックの中に攣り薬「つむら68」が入っている筈なので,リュックの中を調べる.残念ながら,前回,何方かにこの薬を差し上げたのが最後で,補充していないことに気がつく.なんとも気の毒なので,連れの方や,通りすがりの登山者に,
 「つむら68か,お塩,持っていませんか」
と伺う.折悪しく,どなたも持っていない.
 丁度そのとき,韋駄天のTさんが下山してくる.Tさんにも伺うが薬は持っていないという.仕方がない.
 「山頂までもう少しです.水を飲んで! 頑張らないで,ユックリ登って! 山頂の山荘で塩を貰って嘗めたら治りますよ…」
と勇気付ける.

■塔ノ岳山頂
 9時48分,山頂に到着する.大倉からの所要時間は2時間43分.途中,道草をしたり,アクシデントにお付き合いしたにしては,意外に言いラップである.真っ直ぐ登ったらアック実に2時間30分台前半のラップだったに違いない.
 山頂には濃い霧が掛かっていて,強い風が吹いている.近くに居る登山者が,
 「寒いですね…」
と話しかけてくる.
 山頂の温度計を見ると,気温は8℃もある.結構気温は高い.
 恒例によって,山頂からの周囲の写真を撮る…が,霧のため近場の山さえ見えない. 

<塔ノ岳山頂>

■尊仏山荘
 尊仏山荘に入る.今日の小屋番はW田さん.
 先客の若い登山客数名が入口近くに座っている.常連は誰も居ない.W田さんに伺うと,韋駄天のTさん以外誰も来ていないという.K村さん,Y内さんはどこへ消えたんだろう?
 まずは300円也のお茶を所望する…が,先ほどの足を痙攣さえたKさんのことが気になる.そこで,W田さんに,ことの次第をお話しして,山荘にある塩を少し分けて頂き,彼の所に届けようと思う.
 私が事の次第を話していると,先客が,
 「ああ,あの方ですか.見掛けましたよ…」
と言う.
 “そんなら,何で助けないんだ!”
と私は心の中で怒りを感じるが,そんなこと口に出しても仕方がないので黙っている.
 W田さんが塩を撮りに行っている間に,山荘に長い電話が架かってくる.私は立ったまま,和田さんが電話を終えて塩を持ってきてくれるまで待ち続ける.
 そこへ1人の見知らぬ男性が山荘に入ってくる.そして,いきなり私に,
 「コーヒー下さい」
と言う.
 ボンヤリ立っている私を,小屋番と間違えた.
 “私が山男に見えたのかな”
私は結構うれしがっている.

■Kさんに塩を届けて登り返す
 10時09分,大分時間が経ってしまったが,W田さんに頂戴した塩を持って,下山を開始する.小屋を出た途端に,
 「FHさん…」
と呼び止められる.
 Y内さんである.どうやら丹沢山方面まで花の写真を撮りに行っていたらしい.Y内さんにお断りして,下山を開始する.
 痙攣のKさんは,結構頑張ったらしく,山頂直下まで登られている.私は早速W田さんから頂戴した塩をKさんに飲んで貰う.
 下山も結構キツイですよ…足を冷やさないように,水をちゃんと飲んで…ユックリ下山して下さいと,山岳ガイドから教わったことをオウム返しにお話しする…お節介が過ぎるかなと思いながら…
 5分ほどKさんにお相手してから,再び下山を開始する.
 直ぐに登ってくるご常連のホッシーさんとすれ違う.ホッシーさんは,どうやら2番バスで来られたようである.
 さらに下って山頂と金冷シの中間点辺りで,登ってくるF田さんとバッタリ.お話しをしている内に意気投合して,私ももう一度山頂までご一緒することにする.山頂直前の木道でホッシーさんに追い付く.そして,10時23分に再び塔ノ岳山頂に到着する.
 「8時に登り始めたので,(大倉から)2時間23分だな」
とF田さんがポツリと言う.
 “2時間23分か! オレも70歳代前半までは2時間15分程度で登っていたな…”
と,それほど昔でもない昔のことを,遠い過去のように思い出す.

■ツムラ68と華伊達美弥雄さん
 もう一度尊仏山荘へ入る.痙攣のKさんも,何とか山荘に到着したようである.
 私と入れ替えに,Y内さんが下山しかけている.
 「Y内さん,ツムラ68,持っていませんか?」
と伺う.幸いなことに,Y内さんがツムラ68をお持ちである.早速1服お裾分けして頂き,Kさんに差し上げる.
 「これを飲んで下さい…下りは登りとは違った場所の筋肉を使うので,結構大変です.降りる前に足の筋肉を良くもみほぐした方が良いですよ…」
とお節介なことをお話しする.
 どこからともなく華伊達美弥雄さんが現れて,石油ストーブの前に座り込む.今日の小屋番がW田さんなので,ネコもノンビリとしている.
 初めてこのネコを見た1人の男性が,
 「わあ〜っ! これでもネコ.・・・へえ〜」
とネコをけなす.
 私はこのネコが可愛いと思っているので,
 「このネコ,もう12才のお年寄りだけで,若い頃は別嬪さん(雄ネコに別嬪は変だが)だったんですよ.わざわざ大倉まで嫁さん探しに行ったネコなんです」
と訳の分からない自慢話を,ネコに代わってまくし立てる.

<ストーブの前に座る華伊達美弥雄さん>

■ドリップコーヒー
 Fたさんから尊仏山荘名物のドリップコーヒーを馳走になる.申し訳ない.美味しい.
 尊仏山荘は,平日にもかかわらず大賑わいである.
 
<尊仏山荘のドリップコーヒー>                    <山荘は言い賑わい>

■単独下山を楽しむ
 私は大倉発12時52分のバスに乗車したいので,そろそろ下山し始めようかと思う.そして, 10時41分,F田さんとお別れして,下山を開始する.
 山荘の外に出ると,相変わらず寒い.でも,毎度のことながら花立山荘まで下れば暖かくなるに決まっているので,暫くの間の辛抱である.
 金冷シまでの下り階段は,スタスタと下り続ける.これから登ってくる沢山の登山客とすれ違いながら下り続けて.11時01分,花立山荘を通過する.安全に注意しながらも,結構快調に下山し続ける.
 萱場平手前のガレ場で,大部分が女性の30人ばかりの大集団とすれ違う.先頭の女性が,
 「右側に寄って〜っ!・・・」
と金切り声で下知している.
 “凄いなあ〜”
と思いながらすれ違う.
 12時12分,観音茶屋を通過する.
 “この分だと,12時52分のバスに十分に間に合うな・・・”
と確信する.
 丹沢ベース手前で,跪いて道端の草花に見入っている男性がいる.尊仏山荘から先に下山を開始したY内さんである.
 「12時52分のバスに乗りたいので,先に…」
と言いかけると.
 「私も12時52分に乗ります」
ということなので,ここからは下山速度を少し落として,Y内さんと四方山話をしながら一緒に下山する.

■Y内さんに花の名前を教えて貰う
 もうすぐ登山口というところで,往路の登山途中で気になっていた花がある.この花の写真を撮りながら,早速,Y内さんに教えて頂く.
 Y内さんのお話しだと,この花はミミダカセンナンショウ(聞き違えているかな?)と言うらしい.端の名前を何度も伺いながらノートに記帳したが,立ったまま乱暴に書いたので,ハッキリ読めないので,どうも名前がアヤフヤである.

<ミミダカセンナンショウ>

■この花も珍しいですよ
 続いて,直ぐ近くにある花の写真を撮るようにY内さんから薦められる.
 私には何のことか良く分からないが,この花はキバナオビソコソウ(これも正確かどうかアヤフヤ)というらしく,黄色い花が珍しいという.
 多分,花の世界は奥が深いんだろうなと思いながら,Y内さんを始め,T中さん,ホッシーさんなど花に造詣の深いご常連さんを羨ましく思う.
 そういえば,先ほどお会いしたF田さんも,ナントカという花を見るために,表丹沢方面に向かうと言っていたことを思い出す.

<キバナオビソコソウ>

■大倉バス停
 その後も,Y内さんとご一緒しながら大倉へ向かう.先ほどの足が攣ったKさんのこと,花のことなど雑談しながら…
 12時29分,バス停大倉に到着する.バスに乗るまで,靴を洗う時間が十分にある.
 ノンビリと下山したつもりだったが,塔ノ岳山頂から大倉までの所要時間は1時間48分.ちょっと高速だった.
 私が靴を洗っている間にY内さんが居なくなる.何処へ行ったんだろう?
 暫くすると,Y内さんがソフトクリームを持って戻ってくる.Y内さんからソフトクリームをご馳走になる.感謝!
 ソフトクリームを美味しく頂いている内にバスが到着する.

<Y内さんから馳走になったソフトクリーム>

■孫娘と一緒に夕食
 渋沢駅と小田原駅での電車の接続が良かったので,14時45分頃,無事帰宅する.
 風も収まって爽やかな春の日射しが一杯に降り注いでいる.実に気持ちが良い.このまま帰宅するのは勿体ない気もするが,今日はホームドクターを訪れることにしているで,とにかく一旦家に戻る.
 汗ばんだ登山用に衣類を脱ぎ捨てて普段着に着替える.そして近くで開業しているクリニックで検診を受ける.血圧は理想的だという.特段,悪いところはなさそうである.骨密度,動脈硬化も正常とのこと.
 「今日は午前中に塔ノ岳を往復してきました…」
と報告すると,医師からとても良いことだと言われる.
 クリニックから真っ直ぐ帰宅する気にもなれないので,近くのコンビニで飲料を購入.その後,わざわざあちこちと寄り道をしながら帰宅する.
 夕方,北鎌倉に住んでいる孫娘が来訪.孫娘と一緒に賑やかな夕食となる.
 夕食を食べながら,
 “こんなに素晴らしい毎日が一体何時まで続けることが出来るんだろうか”
とちょっと心配になる.

<ラップタイム>

 7:05  大倉歩き出し
 7:27  観音茶屋
 7:42  見晴山荘
 8:15  駒止茶屋
 8:42  堀山の家
 9:18  花立山荘
 9:32  金冷シ
 9:48  塔ノ岳山頂着(+7.5℃)
10:19        〃  発
 (途中でF田さんに会ったので登り返し)
10:23  塔ノ岳山頂着
10:41     〃   発
10:51  金冷シ
11:01  花立山荘
11:28  堀山の家
11:42  駒止茶屋
12:01  見晴山荘
12:12  観音茶屋
12:29  大倉着

 [山行記録]

■水平距離       7.0km(片道)

■累積登攀下降高度   1269m

■登攀所要時間(雑談時間を含む)
  大倉   発       7:05
  塔ノ岳  着       9:48
 (所要時間)     2時間43分(2.72h)
  水平歩行速度    7.0km/2.72h=2.57km/h
  登攀速度       1269m/2.72h=466.5m/h

■下降所要時間(休憩時間を含む)
  塔ノ岳  発       10:41
  大倉   着       12:39
 (所要時間)     1時間48分(1.80h)
  水平歩行速度     7.0km/1.80h=3.89km/h
  下降速度        1269m/1.80h=705.0m/h
                                   (おわり)

「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/25ba1970099e8c008d10572af538137f
「丹沢の山旅」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4d6adc7b83fe1ecc115a209ece86feaa





歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(4)飛田給から東府中へ

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                             <西武線吹ききり近くの小祠>

  歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(4)飛田給から東府中へ
            (五十三次洛遊会)
          2013年4月14日(日) つづき

<ルート地図>


※再掲




<上石原宿から飛田給へ>

■上石原宿と飛田給の概要
 上石原宿は布田五ヶ宿の最後の宿である.
 資料2(p.268)によると,上石原宿の宿内人口は411人.内,男210人,女201人.宿内惣家数73軒,内,本陣脇本陣なし,旅籠4軒であった.
 資料1によると,飛田給には,古代,武蔵野の荒野を往来する旅人の飢えや病に苦しみを救う施設,非田給があったという.
 資料3には,「桑園制度が盛んであった頃,この地は「飛田某(とびたなにがし)」という莊園領主から給された「給田地」であったという地名から.「飛田給」と名付けられる.また別の伝承では武蔵国の悲田院の給田地であったことから,悲田給(ひでんきゅう)という地名になり,それが転じて飛田給となり,さらに読み方が現在の「とびたきゅう」となったという説がある.」という説明がある.

■黒板塀の旧家
 高速第五公園で昼食を終えた私たちは,13時01分に再び歩き出す.
 歩き出して直ぐ,進行方向右側に黒板塀の旧家がある.私は,何とはなしに,その昔,流行った,
 “粋な黒塀 見越しの松に 艶な姿のお富さん…”
という歌を思い出す.
 もうとっくの昔に旅立った私の父が,晩酌をしながら,この歌を歌っていたことを懐かしく思い出しながら,黒板塀の家を眺める.父が旅立ってから幾星霜.何時の間にか私は父や母の年令をとっくに越えるほど長生きをしてしまった.今こうして幸せに旅を楽しんでいるのも,この私を丈夫に育ててくれた両親のお陰だと思うと,涙が出そうになる.
 黒塀から“お富さん”を連想し,さらに両親のことを思い出す・・・でも,この連想は一瞬の間の出来事である.私は,こんなことを考えているなどとは,同行の方々に知られたくないので,平然とした顔を装って,歩き続ける.

<黒塀の旧家>

■飛田給薬師
 上石原宿のあったところは,今では何の変哲もない平凡な街並みになっている.しばらく歩いて地図で確かめると,私たちは,今,飛田給駅近くに居るようである.私には,どの辺りまで上石原宿の範囲だったか良く分からないが,とにかくもう飛田給に居る.
 13時11分,私たちは飛田給薬師寺に到着する.
 資料4によると,「飛田給薬師堂の本尊は,元仙台藩士の松前意仙が諸国を遍歴した末に,ここを生涯の地と定めて庵を結び,医業のかたわら仏道に志して人々を救済するため,自ら石の薬師尊を刻んだ.尊像完成の後,傍らに穴を掘り,その中に入って鉦をたたきながら,お経を唱えて,そのまま入定(死去)した.江戸時代元禄5年(1702年)のことである.薬師本尊開眼の貞享3年(1686年)から300年にあたる昭和61年9月12日に意仙の遺徳を伝えるため,飛田給自治会薬師尊奉賛会が建てた.」という説明がある.
 飛田給薬師寺の境内にある行人塚は,前出の松前意仙の墓である.
 
<飛田給薬師寺>                                                         <行人塚>

■瑠璃光薬師
 13時11分,瑠璃光薬師如来に到着する.京王線飛田給駅の直ぐ傍に位置している.
 資料5には,「飛田給薬師堂の本尊で,元仙台藩士の松前意仙によって作られた.意仙は諸国を遍歴した末に,ここを生涯の地と定めて,庵を結んだ.医業のかたわら,深く仏道に志して,人々を救済するために,自らこの石像を刻んで安置したものと伝えられている.村人たちの薬師如来に対する信仰は深く,現在も毎月12日に,薬師講の人たちによってお勤めが行なわれている.」という説明がある.

<瑠璃光薬師>

<下染谷>

■常夜灯
 13時18分,立派な常夜灯の前を通過する.資料1によると,この常夜灯は諏訪大明神のもので,嘉永5年(1852年)に作られたものだという.
 地図で確かめると,この辺りは下染谷という地区のようである.資料1によると,調布で作った布を染めていたところで,幕末には民家37軒の集落があったという.

<常夜灯>

■蔵のある街並み
 常夜灯を過ぎると,大きな家が目立つ街並みになる.街道沿いに立派な蔵がある家が4〜5軒建っているのが目に着く.

<立派な蔵のある家>

<観音院と神明神社>

■観音院に到着
 13時24分,観音院に到着する.山門の脇には沢山の石像が並んでいる.
 山門を潜って境内に入る.
 資料6によると,「[観音院は,寛永 8年に大寺第54世良明法印の法弟良雲和尚によって開山された.当時は深大寺の隠居寺として,高僧が住職をしていた.開山当時は川幕府の足固めとして,諸国の大名に勤交代制度のもとに,当寺は甲州街道に面しているため,諸国の大名も当寺には高僧が居られると言うことから必ず参詣がなされていたと言い伝えられている.近在の住民は慈覚大師御作の一面観音 (秘佛) は殊さら霊験の尊さに信仰が深かったことが言い伝えられている.」という説明がある.
 これ以上の詳細は,手許の資料の範囲では分からないが,深大寺は天台宗の寺である.ということは,観音院は天台宗の寺なのだろうか.全く分からない.


■観音院の本堂
 境内はそれほど広くはないが,綺麗に手入れされたお庭が印象的である.
 丁度来客があったらしく,本堂から尼僧が顔を出す.私たちが居るのを見て,
 「・・・宜しければ,本堂をご案内しますよ・・・」
と親切に声を掛けて下さる.
 リーダーのOさんと相談して,ご案内頂こうと思って,辺りを見回すと,女性群のほぼ全員が私の視界から消えている.Oさんと2人で,
 “どこへ行ったんだろう…”
とモタモタしている内に,尼僧は私たちに見学するつもりはないなと判断したのか,本堂から居なくなる.残念.
 同行者を探しに本堂の裏手に回る,すると手洗所の廻りに屯している.何だこんな所にいたのか,消える前に一言言ってくれれば良かったのに…と,本堂を拝観できなかったのを残念がるが,後の祭り.後から愚痴を言っても仕方がないので,何も言わないことにする.

<観音院の本堂>

■神明神社
 観音堂裏手から隣にある神明神社の境内に入ってみる.
 丁度そのとき,3人の男性が,ヘトヘトになりながら境内に入ってくる.そして,お社の濡れ縁にヘタヘタと座り込む.どうやらこの3人も甲州道中を歩いているようである.
 観音堂の見学を終えて,山門から外へ出る.そして改めて正面から人名神社を詣でる.
 さきほどの3人は,まだ神社の濡れ縁で休憩を取っている.
 この神社の由来など,手許の資料だけでは良く分からない.

<神明神社>

<常久地区の社寺史跡>

■西武線の踏切を渡る
 13時42分,西武鉄道多摩川線の踏切を渡る.ちょうどそのとき踏切の警報機が鳴り出す.昔,鉄道マニアだった私は,電車が来る以上,何としても写真に撮らなければ…
 一行は先に行ってしまうが,私一人踏切に居残って,電車の写真を撮る.
 余談だが・・・
 私は旅の途中で出会った列車や電車,それにネコは必ず写真を撮ることにしている.

<西武鉄道多摩川線の電車>

■路傍の小祠
 地図で確かめると,この辺りは常久という場所である.資料1によると,常久は37軒からなる集落だった.また,常久は名主の名前に由来しているという.
 13時46分,路傍の小祠の前を通過する.綺麗なお姿の石像である.少し学がある人が見たら,この石像が何かが直ぐ分かるだろうが,私には全く分からない.
 石像の前には,沢山の花と,ペットボトル入りのお茶が供えられてる.何とも奥ゆかしくて微笑ましい.この石像が金臨の方々によって大切に守られていることが分かる.私は良いものを魅せて貰ったような気がして,心が和む.

<路傍の小祠>

■染谷不動尊
 13時47分,小祠と道を挟んで反対側にある(上)染谷不動尊を詣でる.境内はそれほど広くはないが,清潔感溢れるただずまいである.
 資料1によると,本尊の鋳造阿弥陀如来は国重要文化財だという.この如来像は新田義貞鎌倉攻めの折,陣中の守仏としていたもののようである.
 染谷不動尊の由来など,手許の資料では詳細不明である.

<染谷不動尊>

■常久一里塚
 常久八幡神社を右手に見ながら,甲州街道から左折して住宅地内の路地に入る.路地の両側には,2階建てのアパートがビッシリと建ち並んでいて,ちょっとビックリする.
 路地は三叉路で突き当たりになる.地図で確かめると,突き当たった道は江戸初期の甲州道中である.
 14時丁度に,突き当たった右手に常久一里塚に到着する.江戸日本橋から78里目の一里塚である.

<常久一里塚>

■常久八幡神社
 往路を引き返して,再び甲州街道に戻る.
 14時05分,甲州街道を横切って常久八幡神社に到着する.
 資料7によると,常久八幡神社の総本社は宇佐八幡宮(大分県宇佐市),ご祭神は品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)(推定)(別名応神天皇).ご利益は出世開運と武運長久である.
 境内で10分ほど休憩を取る.朝,9時から,もう長い時間,歩いてきたので,少しばかり疲労感があるようだ.
 
<常久八幡神社>                                                                <境内で一休み>

■京王線踏切を渡る
 一休みを終えて,14時14分,常久八幡宮を出発する.
 14時24分,東府中駅近くの京王線踏切を斜めに渡る.いよいよ府中宿が間近である.
 踏切を通過する京王線電車の写真を撮りたかったが,なかなか電車が来ない.電車は頻繁に通っているはずなのに…
 私は新婚早々に京王線沿線の聖蹟桜ヶ丘に住んでいたことがある.そんなこともあって,この辺りは私にとっても懐かしい所である.

<京王線踏切>
                                         (つづく)
[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E7%94%B0%E7%B5%A6%E9%A7%85
資料4:http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118969316/
資料5;http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118968395/
資料6;http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_k/?page_id=747
資料7;http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=2281

「甲州道中」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/50778a54453b4ea1197312fef7a1a6ed
「甲州道中」の次の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/87834ec2a62a54a9c863cacf1536483c
「甲州道中」の索引
(作成中)

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 記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方が,どうぞアクセスをご遠慮下さい.

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歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(5)府中宿と大国魂神社

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                                        <府中宿脇本陣跡にて>

 歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(5)府中宿と大国魂神社
           (五十三次洛遊会)
          2013年4月14日(日) つづき

<ルート地図>


※再掲

<府中宿>

■府中宿の概要
 資料2(p.270)によれば,府中宿宿内人口は2,762人.内,男1,386人,女1,376人.宿内惣家数430軒.内,本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠29軒であった.
 資料3によると,「府中宿は,甲州街道の約7里半に位置する.国府や総社(大国魂神社)が存在する武蔵国の中心部であった.鎌倉街道と甲州街道(現在の旧甲州街道)が交わる交通の要所には高札場があり,非常に栄えた宿場であった.これら街道は,豊臣秀吉が川越から,党側家康は平塚から府中へ鷹狩に訪れる街道であり,後には東西の甲州街道が幹線となったため,特に甲州街道に沿って六所明神を中心に発展した宿場である.」という.
 なお,府中宿は番場,本町,おおび新宿の府中三町によって構成されているという.

■国府八幡神社
 京王線の踏切を渡って,暫くの間,西へ歩き続ける.
 14時30分,国府八幡神社参道入口に到着する.神社の本殿は,写真のように遙か先にあるもう,大分時間が押してきているので,参道入口で遙拝を済ませ,先を急ぐことにする.
 資料1によると,聖武天皇の頃(724〜748年),一国一社の八幡宮として創建されたという.祭神は言うまでもなく応神天皇である.大国魂神社の末社である.

<国府八幡神社>

■脇本陣跡
 4j時38分,「新宿」という刻字のある石柱の脇を通過する.この辺りが府中三町の中の新宿にあたるようである.
 14時42分.明治天皇行在所跡に到着する.資料1によると,ここは柏屋脇本陣があった場所のようである.
 この柏屋の直ぐ隣に近江屋中屋平兵衛脇本陣跡があるようだが,見渡したところ,その痕跡すら見当たらない.j

<脇本陣跡>

■ケヤキ並木馬場寄進の碑
 14時45分,「ケヤキ並木馬場寄進の碑」に到着する.この碑は府中市指定文化財である.
 傍らにある案内板の説明によると,場田大門のケヤキ並木両側の歩道部分は,かつて馬場であり,「馬場大門」の名称もこれに由来するという.馬場は慶長年間(1596〜161年)に徳川家康が六所宮(現在の大国魂神社)に寄進したものと伝えられている.
 この石碑が,何時頃,誰によって立てられたのかは不明だという.ただ,江戸後期の誌『武蔵名勝図絵』には図入りで紹介されているので,その頃は有名だったという.

<ケヤキ並木馬場寄進の碑>

<大国魂神社>

■素晴らしい門
 14時46分,大国魂神社に到着する.
 大分時間は押しているが,ここだけは少々時間を取って参拝したい.神社入口で15分ほど自由行動の時間を取る.
 資料には「大國魂神社は,武蔵国総社.旧社格は官幣小社で,現在は神社本庁の別表神社である.東京五社の一社.また,武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを祀るため,六所宮とも呼ばれる.」という説明がある.
 浅学の私には,この説明でも良く分からないところがあるが,まあ,これ以上の詮索はしないことにしよう. 
 参道を2〜3分進むと,きらびやかで素晴らしい門がある.この門の名称は調べていないので分からない.
 門の先の突き当たりに拝殿らしい建物が見えている.

<素晴らしい門>

■拝殿で詣でる
 立派な門を潜ると拝殿(正式な名称は違うかもしれない)の前に到着する.立派な拝殿である.
 今日は日曜日ということもあってか,沢山の参拝客が訪れている.あちらこちらに私たちのグループメンバーの姿も見えている.


<大国魂神社の拝殿>

■図らずもロケ現場見学
 参拝を済ませて,ちょっと境内から外に出てみる.偶然,人だかりの中を通過する.
 どうやら,テレビ番組のロケをしているようである.写真左側の建物の庇に「○○○警察署」という字が取り付けてある.乗用車の中から,有名な俳優○林○○氏が出てくる.○林さんは渋い味が持ち味,好感の持てる俳優さんである.

<ロケ現場>

■集合写真
 大国魂神社の鳥居の前で集合写真を撮る.
 ここでも,先ほどであった大人数のグループと出会う.彼らは鳥居の真ん前で.神様にお尻を向けて集合写真を撮っていたが,私たちはそんな不作法なことはしない.神様の通り道を避けて,集合写真を撮る.
 皆さん,なかなかいい顔をしているし,歩道は一列になって粛々と歩かれるので,大変お行儀が良いなと思っている.

<集合写真>

<再び府中宿を歩く>

■現存する貴重な高札場
 15時06分,大国魂神社の軒が戸を終えて,再び府中宿内を歩く.
 歩き出して直ぐ,15時11分に,高札場に到着する.
 資料5の説明では,「江戸には日本橋はじめ40個所ほど高札場があったといわれるが,多摩地域で現存するのは東大和市 の蔵敷高札場跡と府中宿の2個所しかない.府中宿高札場の場所は,東西にはしる甲州街道と北への 川越街道,南への相州街道との交差点に位置する交通の要にあり,道行く人々に報せる高札場の 好適地であった.」とのことである.

<貴重な高札場>

■長福寺
 高札場から西へ夢魔って歩く.
 15時14分,長福寺参道入口に到着する.民家の裏で少々暗くて陰気な感じの狭い路地が参道である.
 “このまま通過しようかな…”
とも思ったが,本堂の写真だけでも撮っておこうと思って,駆け足で参道を駆け抜ける.境内は意外に広く,手入れが行き届いている.
 本堂は八角形でユニークな形をしている.素早く写真を撮って,一礼だけの簡略参拝で,皆が待っているところへ戻る.
 資料8によると,「正しくは古木山諏訪院長福寺.時宗遊行派(時宗).寺伝によれば,寛喜2年(1230年)天台宗として創建した古刹で,開山は一遍上人で,はじめに勝福寺と称した.その後,正応年間(1288−1292年)に遊行二祖真教の武蔵国巡化の際に時宗遊行派に改まったといわれている.」とのこと.

<長福寺>

■黒ネコ
 15時20分,民家の軒下に置かれている段ボールの中で,黒ネコが気持ちよさそうに昼寝をしている.このネコ,見かけは少々怖そうだが,飼い猫なので人懐こく,なかなか愛想も良い.
 「ネコちゃん…クロちゃん」
と呼びかけると,その都度,
 「にや〜ん・・・」
と返事をする.実に良い.
 良く見ると,この段ボールはネコ用に半分に切ってある.それに段ボールの中には新聞紙が敷き詰められている.多分,新聞紙の下に何か敷いてあるのかもしれないが,ネコちゃんをどかさないと分からない.折角,機嫌良くお相手してくれるネコちゃんに迷惑を掛けたくないので,そのまま引き下がる.

<愛想の良い黒ネコ>

■高安寺
 15時22分,高安寺に到着する.
 まずは立派な山門に驚かされる.参拝を兼ねて境内を拝見する.
 資料7によると「高安寺は曹洞宗の寺院である.開基は室町時代初代将軍足利尊氏であり,室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた.なお,江戸時代初期までは臨済宗の寺院であった.寺の随所に古刹としての面影を残すなど,多摩地域を代表する寺院の一つである.」という.

<高安寺>

■高林吉利・野村瓜州の墓
 高安寺の境内を散策する.
 墓地の入口に,高林吉利と野村瓜州の墓があるという表示がある.浅学の私には,このお二人のことは全く分からないが,とにかく墓だけでもお参りしておこうと思う.
 墓地入口にある案内図を頼りに探した結果,高村吉利の墓は直ぐ分かる.そして彼が初代代官だったことも墓地の説明で分かる.しかし,野村瓜州の墓はなかなか見つからない.時間も押しているので,こちらの方は見つからないまま,高安寺を出発する.
 なお,資料8によれば,高林吉利は「徳川家康に仕えた武蔵国多東郡府中領の最初の代官」である.また,資料9によれば,「野村瓜州(のむら かしゅう,1736〜1811年)は,江戸時代後期の日本の漢詩人,文人,教育家,名は維民,字は子則.通称は六郎右衛門.瓜州は雅号」である.

■京王線踏切
 15時38分,京王線踏切に到着する.踏切を渡り終えたとき,案配良く踏切の警報が鳴り出す.
 “しめたっ! 電車が来るぞ…”
 私は,同行の皆さんには先に行ってもらって,電車が通過するのを待つ.
 “ラッキ−!!…”
 こうして,私はまた京王線の電車の写真も撮ることができた.
 “3箇所の踏切の中で,2箇所の踏切で電車の写真を撮ったし,ネコの写真も撮ったぞ!”
 私は一人悦に入っている.

<京王線の電車が行く>

[加除修正]

2013/4/22 「南武線踏切」を「京王線踏切」に訂正した.
                                         (つづく)
[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E5%AE%BF_(%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93)
資料4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E5%B8%82)
資料5;http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/tam/t035/t035.htm
資料6;http://genki365.net/gnkf04/pub/sheet.php?id=162
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%89%E5%AF%BA
資料8;http://www1.ocn.ne.jp/~ynosrtu/yougo.html
資料9;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%93%9C%E5%B7%9E

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(編集中)

※お願い
 この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
 記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方が,どうぞアクセスをご遠慮下さい.





丹沢の秘境:ヤセ尾根が連続する鍋嵐・物見峠縦走

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                                 <鍋嵐山頂付近にて>

      丹沢の秘境:ヤセ尾根が連続する鍋嵐・物見峠縦走
          (塔ノ岳常連有志に同行)
       2013年4月20日(土) 曇後雨

<ルート地図>

■当初計画ルート


■実際のルート



<集合場所の本厚木へ>

■真っ暗な夜道を大船駅へ
 数週間前から大倉尾根のご常連から鍋嵐へ行かないかとのお誘いを受けていたが,いよいよ今日が鍋嵐行きの当日である.今日の天気予報は晴ではないが,雨の振り出しは夕方になるらしい.ならばマア,マアの登山日和ということになる.
 今日の行き先はヤセ尾根が連続する鍋嵐である.万一,途中でトラブルがあっても時間的な余裕があるように,なるべく早く登山を開始したい.そんな私の想いが通じたのか,本日の取り纏め役であるK村さんから,
 “本厚木発6時55分のバスにのりたいので,6時30分本厚木駅集合にしませんか”
との連絡を受けている.
 私は,過去,鍋嵐に登ったときの記録や写真,地図など準備万端を前日の内に終えている.今回は,一応,数メートルの短いザイル,カラビナ2〜3枚,ツエルドもリュックにいれる.それに今回のルートには山小屋がないので,飲料水の量は少々多め持つことにする.その結果,リュックの重さは8キログラムを越えている.これもまあ致し方ないなと諦める.
 ここ数日,低気圧が日本の東海上を通過している影響で,一昨日までのポカポカ陽気とは打って変わって昨日辺りから真冬を思わせる寒さがぶり返している.そんな訳で今朝も早朝から起き出すのは少々辛いものがあるが,そうは言っても,今はもう4月も半ばである.いくら寒いと言っても多寡が知れている.
 私は,何時も通り,3時半頃目が覚める.
 “よしっ! 行くぞお〜っ!”
ということで,私は4時10分頃自宅を出発,未だ明けやらぬ真っ暗な夜道を大船駅へ向かう.
私の家は大船駅から2〜3キロメートル離れた丸山という山の尾根沿いにある.私の家の標高は67メートル.余談だが,まあ,津波の心配はないところにある.

■本厚木からバス停三叉路へ
 真っ暗な内に山を下って大船まで出るのは,いささか怖いが,途中,山崎の住宅地に入ると新聞配達の方々を見掛けて,気分的にもホッとする.
 早朝にもかかわらず,大船駅前は,もう沢山の人達で賑わっている.コンビニで本日の昼食,それに非常食若干を購入して,大船5時10分発熱海行下り電車に乗車する.茅ヶ崎で相模宣伝車に乗り換える.さらに厚木で小田急電車に乗り換えて,5時56分,本厚木に到着する.
 本厚木6時55分発のバスに乗車するには,随分と早すぎるが,そうかといって,大船で次の5時44分発電車に乗ったのでは,集合時間の6時30分に間に合わない.まあ,そんなわけで,早すぎるご到着もやむを得ないなと納得する.
 “では,コーヒーでも賞味しようかな”
と思って,駅前をウロウロするが,土地不案内のこともあって,開店している店で目に着くのは牛丼屋,ソバ屋ばかりでコーヒーショップは見当たらない.仕方なく,コンビニを2軒ばかりハシゴして時間を過ごす.
 やがて集合時間になる.集合場所に行って,漸く今日の参加者の顔ぶれが分かる.参加者はK村さん,三角髭のTさん,K井さん,T田さん,M崎さん,それに私の6人である.M崎さんとは一緒に登山したことはないので実力の程は良く分からないが,他の方々は実力の持ち主,塔ノ岳常連を代表するような方々ばかりである.鈍足の私にはかなりのプレッシャーである.
 途中で,M崎さんが,これから私たちが向かうルートは,どこかのツアー会社がツアーとして募集していると言い張る.私は心の中で,
 “そんな馬鹿な…,こんなルート普通のツアー会社では絶対にやらないはずだ”
と思いながら,
 「どこのツアー会社ですか?」
と伺うが,口を濁らす.
 私は好い加減なことを言う人や,知ったかぶりをする人は,絶対に信用しないとだけ,ここでは書いておこう.
 予定のバスに乗車する.バスは座席が軽く埋まるほどの混雑.乗客の大半が登山者である.大半の登山者は途中で下車したので,多分,経ヶ岳か仏果山に登られる方々のようである.
私たちが乗車したバスは,7時49分,バス停三叉路に到着する.ここで下車したのは私たち6人だけ.

<バス停三叉路から登山口へ>

■宮ヶ瀬湖畔に沿って
 7時50分,バス停三叉路から歩き出す.ここから1時間30分ほど宮ヶ瀬湖畔をノンビリと歩く.ほとんど自動車が通らない舗装道路が延々と続く.湖畔の新緑が何とも美しい.
 8時05分,吹風トンネルに到着する.隧道入口は桜,新緑,紅葉の新芽が私たちを和ませてくれる.気分最高.

<吹風トンネル>

■二つのキャンプ場を通過
 湖畔沿いの道を南へ向けて歩き続ける.
 トンネルを抜けてから数分歩いて,宮ヶ瀬霊園に到着する.今日のメンバーのお一人が,この霊園に墓地があるというので,ひとしきりこの話題で盛り上がる.この霊園をちょっと拝見したかったが,そのまま通過する.
 私は,時々,地図とコンパスを使って,自分たちが今歩いている場所を確認する.やがて道路が大きく右にカーブして進行方向が真西になる.
 8時38分,長者屋敷キャンプ場の前を通過する.さらに先へ進むと,今度は道路が大きく左にカーブして進路が南南西に変わる.さらに暫く歩いて,8時50分,国際一の瀬キャンプ場を通過する.金網越しに一寸目には廃墟のように見える建物が建っているのが見える.
 
<長者屋敷キャンプ場><国際一の瀬キャンプ場>

■唐澤川出会と唐澤公園橋
 8時55分,唐澤川出会いのY字型三叉路に到着する.右側の舗装道路をそのまま進めば塩水橋を経由して丹沢山への登山口に行ける.私は,フト,心の中で,
 “今日は,ヤセ尾根が怖い鍋嵐より丹沢山の方が良いな”
と余計なことを考える.
 私たちは,三叉路を左折して,唐澤キャンプ場に入る.そして,唐澤橋を渡る.

<唐澤公園橋>

■唐澤川を徒渉する
 このまま,この道を辿れば,黒岩を経由して札掛けに出られる.そのことが分かっているだけで,多少でも平常心を保つことができる.
 唐澤橋を過ぎて直ぐの所に朽ち果てた吊り橋がある.この橋は朽ち果てていて渡れないので,その少し上で徒渉する.居間から5年前に,ここを徒渉したときは,何の恐怖心もなかったが,5年の歳月は私を老化するのに十分な時間だったらしく,今回は足許がふらついて,なかなか渡れない,先に渡ったK村さんの助けを借りて,オッカナビックリ徒渉する.

<唐澤川を徒渉する>

<登山口から急登の連続>

■朽ち落ちそうな吊り橋から急登が続く
 8時55分,朽ち果てた吊り橋の対岸の少し上流,唐澤川の右岸の取り着き場所が,今回の登山口である.ここからは,勿論,登山道はないし,踏み跡すら稀の秘境である.
 「では,登りやすいところから尾根を目指して登りましょう…」
ということで,この尾根の経験者ということで,不肖FHが先頭になって登山開始.向かって左側に廻り込んで,尾根沿いの急坂を登り始める.すぐに朽ち果てた橋が眼下に見えている.今回は,この橋の写真は撮らなかったので,5年と少し前の2007年秋に撮った写真を披露しよう.
 今はこの写真よりさらに朽ち果てていて,この写真に写っている木の板も大分無くなっている.
 折角の橋なので直して欲しいなと思うが,幹線道路に架かる立派な橋すら,改修に手が回らないこの国の事情では,こんな小さな橋など到底直せないだろうなと諦めている.

<朽ち果てた吊り橋;2007年に撮影したもの>

■ひたすら急登を続ける
 杉林の中の急登が連続する.いきなりの急登なので,身体がなかなか追い付かない.今日のメンバーの中では,多分,私が一番足が遅い.たまたま私がトップを歩いているので,ここは,まあ,私の経済速度で歩かせて貰う.足の速い人には多少迷惑かもしれないが…
 杉林の中の急登がずっと続く.
 ただ,杉林のような人工林には,どこかに必ず踏み跡があるはずである.ここでも斜面を良く見ていると,踏み跡らしいところが見つかることがある.そんなときにはなるべく踏み跡を辿るようにしているが,ときどき踏み跡を失う.そんなときは,動物的感覚をお持ちのK井さんが上手に踏み跡道のようなところを見付けるので,大したものだと感心する.
 9時45分,標高約500メートル付近で,8分ほど休憩を取る.

<杉林の中の急登>

<トリカブトとヤセ尾根>

■稜線の合流点
 休憩の後,再び歩き出す.登っても,登っても,まだ先に急登が連続する.途中で登り続けるのがイヤになるほど延々と急な坂道が続く.私は時々平易なところを間違えて変な所に入り込むので,その度に後ろから続いてくる人に追い抜かれる.
 “オレは勘が悪いな”
と思いながら登り続ける.
 でも,そんな私でも,数分に一度は地図,コンパス,高度計の数値を確かめて,私たちが,今,どの辺りを歩いているか,進んでいる方向は正しいか,ずっとチェックし続ける.
 10時26分,進行方向左手(北側)にある大きな尾根に合流する.辺り一面にトリカブトが群生している.トリカブトの花が何時頃咲くのか,花オンチの私には正確には分からないが,トリカブトの花が見頃なときにここを訪れたらさぞかし壮観だろうな想像する.
 合流点で,暫くの間,立ち休憩を取る.私は心の中で,
 ”やれ,やれ,やっと合流点まで来たな”
と迷わずにここまで来たことに多少安堵する.
 ここで,地図とコンパスを使って,現在地を確認し,高度計で標高をチェックする.そして,目指す鍋嵐がどちらの方向に位置しているかを再確認する.

<尾根の合流点付近のトリカブトの群生地>

■目に鮮やかな青葉
 合流点から,東南に延びる尾根道を進む.
 目の前に小さなコルが見えている.進行方向左手には,ときどき若葉の間から宮の瀬湖方面の景色が望める.実に美しい風景である.

<瑞々しい青葉>

■緊張するヤセ尾根の連続
 風景を楽しんでいるのも束の間で,直ぐにヤセ尾根になる.尾根の左右が切り立っていて高度感がある.その上,尾根は狭く,立っているだけでも怖いところが連続する.
 5年前にここを訪れたときより,恐怖感,緊張感が強いようである.到底写真など撮っている余裕がないので,ヤセ尾根の区間の写真はない.
 私は,地面に這いつくばうような気分で,急登,急降下のヤセ尾根をオッカナビックリ歩き続ける.心の中で,
 “このヤセ尾根,何時まで続くんだ…!”
と叫びながらヤケになって歩き続ける.

<鍋嵐山頂>

■ヒョコンと鍋嵐山頂に到着
 漸く二つのコルを越えて,ヤセ尾根を這い上がり,11時10分,ヒョコンと飛び出るように鍋嵐山頂に到着する.
 山頂はとても狭く,われわれ6人が立っているのがやっと程度の広さしかない.山頂に映えている木に「ナベワラシ817m」書いた板切れがくくりつけられている.
 参考までに5年前に撮影した「ナベワラシ」の写真を披露しよう.

<5年前に撮影した「ナベワラシ」の標識>

■山頂で登頂記念写真
 折角なので,山頂をバックに登頂記念写真を撮る.この写真,K村さんにシャッターを押して頂いたので,K村さんは写っていない.
 写真を撮る段になって,
 “シマッタ! 登頂記念の横断幕を作ってくれば良かった”
と思ったが後の祭りである.
 この写真のバックに「ナベワラシ」の案内板が木の枝にくくりつけてあるのが見える.5年前の写真と見較べると,どうやら同じ案内板のようだが,くくりつけに使った紐が新しいようである.また,5年前に着いていた赤い目印は無くなっている.

<山頂で記念写真>

■尾根を間違えて引き返す
 記念写真を撮り終えて,11時15分,鍋嵐山頂を出発する.
 つい先日,鍋嵐を訪れた方が先頭に立って急な下り坂を下り始める.私は直感的に尾根の方向が90度ほど西へずれているなと思いながらも,つい先日登った方が,
 「確かこの尾根を通ったことがあります,こちらの尾根で大丈夫…」
とのことだったので,どうもおかしいなとは思いながらも,多分私の思い違いだろうと信じて,後に付いて急坂を下る.凄い急坂なので,往生しながらの下りである.
 やがて前方に小さなコルが見え出す.そのコルを巻くように足跡が付いている.植林した杉林の中の足跡なので,この足跡を辿れば,多分,どこかへは出られるだろうとは思う.しかし,磁石で方向を確かめると,どう考えても黒岩の方向に向かっているようである.
 “これは,鍋嵐山頂に戻った方が良さそうだ”
 近くに居られる皆様に相談して,一旦,鍋嵐山頂へ戻ることにする.すでに大分先まで踏み跡道を下っているお2人にも,
 「お〜ぃ…っ! 山頂まで戻りますよ…」
声を掛ける.
 私は内心で,
 “よくまあ,道を確かめもせずドンドン先へ行けるな…”
と勇気というか蛮勇に,正直なところ大変驚かされる.
 「多分,15分ぐらいで,山頂まで戻れますよ…」

■再び鍋嵐山頂へ
 11時49分,再び鍋嵐山頂に戻る.
 私は同行者の皆さんが見える所で地形図を広げる.そして,コンパスを地形図の上に置いて,地形図を“正置”する.そして,私たちが向かう予定の辺室山が,ここから東の位置にあることを全員で確認する.
 11時53分,再び鍋嵐山頂から,辺室山を目指して歩き出す.
 尾根を間違えたことによるロスタイムは38分.軽微なロスタイムで済んだのが幸いである.それに往路を引き返すことは,良くあること.気にすることはない.
 “誤りを正すのに憚ることなかれ”
である.
 ”迷ったら,迷い始めの位置まで戻れ”
これが山での鉄則である.
 私は内心で,今回の処置は“良かった,良かった”と思っている.
 こういう経験を沢山積んでこそ,安全登山が実現できるんだと思う.

<辺室山分岐から物見峠へ>

■ヤセ尾根の途中で昼食
 正しいルートも,鍋嵐山頂直下は,とても急な下り坂が続く.そしてその先も延々とヤセ尾根の上り下りが続く.正直なところ,一寸でも気が休まるところがない.
 もう,12時を過ぎている.どこか少しでも広いところがあったら,そこで食事を摂ろうということになる.
 12時26分,標高約760メートル地点で,尾根が少し広くなっているところに到着する.ここで昼食を取ることにする.束の間の心休まる時間である.ただ,気温がさらに下がってきたらしく,やたらに寒い.
 私は大船駅前で購入したコンビニオニギリをほおばる.
 思い掛け図も,U村さんが全員分のインスタントみそ汁と大量のお湯をリュックに入れてきている.遠慮なしにみそ汁を馳走になる.感謝! 感謝!である.
 “それにしても,こんなに思いものを持ちながら,あんな急登を良く登れるな”
と感心するやら,驚くやらである.
 食事をしていると,雲行きがだんだんと怪しくなる.ついにはポツン,ポツンと雨粒があたるようになる.天気予報では夕方から雨ということだったが,天気予報より大分早く雨になりそうである.
 こうなったら本降りになる前に,なるべく早く下山すべきである.私はかねてから考えていた煤ヶ谷に下るエスケープルートを提案する.丹沢のことを熟知されておられる三角髭のTさんの同意を得て煤ヶ谷に下山することに決める.

■辺室山物見峠分岐
 足腰が余り冷えない内に歩き出したいので,そそくさと昼食を終えて,12時46分に歩き出す.
 この先もヤセ尾根,ザレた急坂など悪路が連続する.途中の写真など撮る気がしないので,ひたすら歩き続ける.
 10数分歩いたところで,トラバース道に入る.結構荒れて少々危険な下りのトラバース道がくねくねと続く.
 12時56分,辺室山物見峠の分岐に到着する. 
 これまでのコースには案内板や階段などの人工物は一切なかったので,分岐点の案内板を見て,
 “やっと普通の登山道に入ったか”
と感激する.
 ここから先は,階段道もあるし,大規模に路肩を整備したところもあるので,気分的には随分と楽になる.
 気がつくと,雨は何時の間にか止んでいる.

<辺室山物見峠分岐>

■物見峠
 やっと普通の登山道を歩くことが出来る.これまで踏み跡を辿ってきたのと比較すると随分と歩き易い.
 13時02分,物見峠に到着する.
 ここから南へ向かえば,1時間30分ほどで三峰山まで行くことができる.
 “ちょっと三峰山まで足を延ばしてみたいな”
と衝動的に内心では思うが,今からでは到底無理.それに霧雨が降っている.
 物見峠からは,素晴らしい新緑の景色が堪能できる.
 「ちょっと写真を撮らせて下さい…」
で立ち止まる.

<物見峠>

<煤ヶ谷に下る>

■長いトラバース道で足が滑る
 物見峠からは,長い長いトラバース道が続く.全体としては良く整備された道が続く.勢い速歩になってしまう.
 私のすぐ後ろに居られる三角髭のTさんと雑談.
 「煤ヶ谷14時04分のバスに間に合いそうですね…ちょっと歩行速度を上げましょうか」
 振り返ると,ヒアルロン酸の広告に出てきそうな姿で,皆さんが歩いておられる.
 谷の右岸沿いのトラバース道から見ると,谷はかなり深い.私たちはまだまだ標高が高い所を歩いている.この先が思いやられる.
 ときどき,ザレた道になる.
 いくつかのザレ道を通過する際に,不覚にも私がちょっとバランスを崩して足を滑らせて50センチメートルほど下へずり落ちる.たったの50センチほどだが,足許が不安定なので,なかなか一人では元に戻れない.三角髭のTさんとK村さんの助けを受けて元の位置に戻る.そして,三角髭のTさんに肩にしがみついて,ザレ道を通過する.感謝! 感謝! 誠に面目ないことである.山裾にたどりついたので,ついつい気がゆるんでしまった(ということにしておこう).
 “歩行速度を上げるどころの話ではない…もっと注意して歩かなければ”
 私は内心でブツブツ言っている.

<長いトラバース道>

■シカ柵を越えて煤ヶ谷へ
 やがてトラバース道が終わって,川を渡りシカ柵を越えると,長閑な道路となる.
 時計を見る.今,13時55分.バスの時間まであと9分もある.
 “しめた〜っ! 十分,バスに間に合うぞ…”
 なにしろ,この辺りのバスは1時間に1本しか動いていないので,間に合えばラッキーである.

<シカ柵を越える>

■バス停煤ヶ谷に到着
 シカ柵を越えると,すぐに集落が見え出す.川岸のオッカナビックリ歩いて,お寺の脇を通過して,13時57分に登山口に到着する.
 「あれっ! そういえば,今日は入山届を出さなかったな…」
と反省.もっとも今日のコースには届を出す所がなかった(これは言い訳,本当は最寄りの警察など然るべき所に出さなければ…).
 登山口の直ぐ近くにバス停煤ヶ谷がある.
 
<煤ヶ谷登山口>                                <バス停煤ヶ谷>

<無事帰宅>

■大混雑のバス
 バスの時間まで数分ある.グッドタイミングで下山できて良かった.
 「どうせバスは空いているでしょうね…」
と脳天気なことを言いながらバスを待つ.
 定刻より1分遅れでバスが到着する.案に相違して,バスは混雑している.見回すと殆どが登山客である.
 “アリャリャ〜・・・当てが外れた”
 またもや立ち席.私は,くねくね道でバスにブン回されない限り,1時間やそこらの立ち席で一向に構わないし,苦にならない.平気である.
 「バスが空いていると行ったのは,何処の何方でしょう」
と冷やかされる.いやはや面目ない.
 途中のバス停で,三々五々と乗り込んでくる客があるので,バスはますます満席になる.
 好い加減バスに飽きた頃,14時48分にバスは本厚木駅に到着する.
 雨が本降りになっている.早く下山したので雨に降られなくて良かった.
 ここで解散.

■熱い風呂で疲労回復
 私は各駅停車の電車で,本厚木から厚木まで移動.ここで相模線に乗り換えて茅ヶ崎へ.相模線の電車は空いている.電車の中で茅ヶ崎まで座っている内に今日の疲労は取れて無くなる.
 茅ヶ崎から大船までの東海道本線の電車は混雑している.
 大船に到着したときは,雨脚が一層強くなり,気温がさらに下がって,寒くなっている.
 折良く,自宅近くを通るバスに間に合う.
 16時過ぎに無事帰宅.
 早速,風呂を沸かしてザブン.ユックリ風呂に浸かって,冷えた身体を暖める.
 反省点も多々あるが,久々に緊張感のある山旅を堪能することができた.
 また機会があれば,同じメンバーで丹沢の山を楽しみたいなと思っている.また,この場を借りて,鈍足の私の歩行速度に合わせて頂いたご同行の皆様に深甚なる謝意を表したい.

<ラップタイム>

 7:50  歩き出し
 9:04  柳沢キャンプ場登山口
 9:45  標高500メートル地点(9:53まで休憩)
10:26  尾根合流点(10:30まで休憩)
10:55  コル頂上
11:10  鍋嵐山頂 着
11:15      〃  発
  ※誤った尾根に入る
11:30  引き返す
11:49  再び鍋嵐山頂
11:53  鍋嵐山頂発
12:26  標高760メートル地点(12:46まで昼食)
  ※雨降り出す
12:56  物見峠
13:12  三峰ルートと合流
13:53  登山口
13:57  バス停煤ヶ谷

[山行記録]

■水平歩行距離     13.2km

■累積登攀高度    1045m

■累積下降高度    1195m

■所要時間(休憩時間込み)
  バス停三叉路発   7:50
  バス停煤ヶ谷   13:57
   (所要時間)  6時間07分(6.12h)
  水平歩行速度      13.2km/6.12h=2.16km/h
                                     (おわり)

「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/76306a48923892f7191924b88dc989ff
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)





 


歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(6)熊野神社古墳

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                             <熊野神社古墳資料館にて>

    歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(6)熊野神社古墳
           (五十三次洛遊会)
          2013年4月14日(日) つづき

<ルート地図>



<本宿村界隈>

■本陣門
 京王線線の踏切を通過してからも,真西へ向かって甲州街道を歩き続ける.
 15時44分,内藤家の本陣門前を通過する.資料1によると,この門は府中本陣にあったが,ここに移築したという.
 また,資料1によると,高安寺からこの辺りは番場宿と称し,幕末には103軒の民家が街道の両側に並んでいたという.

<本陣門の前を通過>

■稲荷神社
 15時50分頃,稲荷神社付近を通過する.
 大分時間が押してきた.それに,朝,9時30から歩いているので,メンバーも多少疲労してきたように見受けられる.
 「谷保駅まで,後2キロメートルぐらいですね…」
とお互いに励まし合う.
 手許にある資料では,この神社の由来は不明である.資料1によると,この神社に弘治2年(1556年)の棟札があるという.

<熊野神社と古墳>

■熊野神社に到着
 15時57分,熊野神社に到着する.広い境内に人の気配はない.神社拝殿に向かって右側に大きなイチョウの木がある.勿論,本殿は拝殿の裏手に建っている.これらの建物は府中市指定文化財になっている.
 資料3によれば,「熊野神社の創建は江戸時代初期と伝えられいる.例大祭は9月中旬の土日に行われ,祭神は素戔鳴命(すさのおのみこと)である.もとは今の第五小学校の東側にあったが,安永6年(1770年)に現在地に移された.拝殿は,天保九年(1838)に再建された.」 という.

<熊野神社>

■熊野神社古墳
 本殿右手裏側に回ってみる.そこから大きな古墳を見渡すことができる.傍らに「国史跡武蔵府中熊野神社古墳」という刻字のある石柱が立っている.
 古墳と言えば,土を盛った小さな山のような形をしていると思っていたが,ここの古墳の外観は沢山の丸い石を積み上げたドームのような形をしている.
 四角形の台の上に直径およそ15メートルほどのドームが重なるような外観である.
 社殿の真後ろに当たる部分に,古墳の入口がある.古墳は竹垣に囲まれていて,中には入れないようになっている.古墳に登ったり,中に入ったりしてみたいなという衝動に駆られるが,国史跡に指定されているほどの大切なものならば,魅せて貰うだけで十分と思い直す.
 資料4によれば,「国史跡武蔵府中熊野神社古墳は、国内最大・最古の上円下方墳(じょうえんかほうふん)で,1段目が約32メートルの方形(ほうけい),2段目が約24メートルの方形(ほうけい),3段目が直径約16メートルの円形を呈する3段築成の古墳である.高さは復元高で約6メートル.平成15年(2003年)の調査により上円下方墳(じょうえんかほうふん)と確認され,平成17年(2005年)7月14日に国の史跡に指定された.現在は,保存整備工事が竣工し,1350年前の築造時の姿」になっている.「横穴式石室は,保存のため埋め戻したので,内部の公開はしていない」とのこと.
 また,「墳丘の表面は,2段目,3段目の全面に石が葺かれ,1段目の外周に切石(きりいし)が並べられていた.墳丘の中心部に,3室から成る複室構造の切石(きりいし)積横穴式石室(づみよこあなしきせきしつ)があり,石室下には掘り込み地業(ちぎょう)が行われている.石室の切石(きりいし)は,表面を滑らかにする細かな仕上加工が施されていた.」
 出土品は,「鞘尻金具(さやじりかなぐ),環金具(かんかなぐ),刀子(とうす),釘,ガラス玉,ほか七曜文(しちようもん)の銀象嵌(ぎんぞうがん)が施された鞘尻金具は(さやじりかなぐは)特に注目される.築造年代は,墳丘の構築状況や石室の形状などから7世紀の中頃と考えられる.」とのこと.
 「被葬者は不明,武蔵国府設置直前に大きな力を持っていた人物の墓と考えられる」とのこと. 

<熊野神社古墳の外観>

■古墳展示館
 私が古墳の写真を撮ってから本殿の前に戻ると,大多数の方々の姿が見えない.
 “何処へ行ってしまったのかな…”
と多少不思議に思いながら参道に戻る.
 すると,皆さんは神社入口近くにある古墳展示館のベンチにへたり込んでいる.今日一日歩き通しだったので,疲れるのも無理はない.図らずも,ここで休憩を取ることにする.
 古墳展示室は2階からなる綺麗な建物である.折角なので,関内を見て回る.
 


<古墳展示場のパンフレット>

■石室模型を見学
 展示館の内部を見学していると,どこからともなくこの展示館の男性職員が現れる.そして,石室模型を見ていくように私たちに薦める.勿論,拝見したい.
 「石室の中を見たいという人が多いので,石室の模型を作りました」
とのこと.
 職員が何組かのヘルメットと懐中電灯を私たちに手渡す.
 石室模型は展示館裏手にある.実物大の模型である.ヘルメットを被って中に入る.注意をしている積もりなのに入口で頭をガツンとぶつける.やっぱりヘルメットを被っていて良かった.
 中は真っ暗.数メートルの通路を進むと,畳1畳程度の石室がある.人がやっと2〜3人は入れる程度の広さである.全員が一度には入れないで,交代で中を見学する.中には自信があるのか,ヘルメットを被らずに中に入り,やっぱり入口で頭をぶつけて,
 「痛てて…」
と頭をさする人もいる.

<石室模型>

■この辺りの古墳
 展示館で頂いた資料(下図)によると,この地域には熊野神社古墳の他にも,高倉塚古墳御嶽興奮がある.
 この資料によると,多摩川流域では4世紀に作られた古墳が大田区,世田谷区にあり,5世紀末から6世紀になると,府中市周辺に小さな円墳が作られるようになったという.
 私事になるが…
 私は,かなり長い間,京王線沿線の聖蹟桜ヶ丘に住んでいた.聖蹟桜ヶ丘は,この古墳群のある地域からすぐ近くである.なぜ,もう少し早く,この辺りの社寺史跡に興味を持たなかったのか,今になって悔やまれる.

<府中の古墳群>

<御経塚から谷保駅へ>

■史跡獅子宿
 図らずも長時間,古墳見物に時間を費やしてしまった.
 16時09分,ようやく熊野神社を出発する.そして,16時15分,南武線に架かる蓮を渡る.本日の終点,谷保駅まであとわずかである.どうやら私たちは国立市に入ったようである.地図で確かめると,この辺りの地名は御経?というらしい.
 続いて16時20分,史跡獅子宿碑に到着する.ここにはビッシリと説明文が刻字された大きな石碑が立っている.余りに長い文章なので,立ち読みする気になれない.
 資料4には獅子宿に関連して,次のような説明が掲載されている.
 「谷保天満宮境内に獅子神社がある.この神社は総高89センチメートル,幅42センチメートル,厚さ40センチメートルの硬砂岩の玉石である.正面に「獅子神社」,右側面に「文化九年壬申四月」と刻まれ,谷保天満宮本殿裏,立川段丘崖中腹に設置されている.
 社伝によれば,谷保天満宮獅子舞に使用される獅子頭は,天暦元年(947年)に狛犬と共に村上天皇から下賜されたとされている.この獅子頭は,下谷保の笊屋で保管されていたが、文化9年(1812年)に火災で焼けてしまったので,その灰を本殿裏に集め埋め,多摩川の丸石に年号を刻み祀ったのが,獅子神社の始まりと,『国立の生活誌2.』の中で,獅子宿をしていた佐藤彦一氏は語っている.河原石に社名と年号が刻まれるだけの資料ではあるが,谷保天満宮の獅子舞を語る上では欠かせない資料であり,貴重な遺構である.」
 なお,谷保天満宮は次回の甲州街道の旅で拝観することになっている.
 
<南武線を渡る>                                          <獅子宿の碑>

■門のある旧家と常夜灯
 16時21分,立派な門のある旧家の前を通過する.つづいて,16時23分,大きくて立派な常夜灯の前を通過する.
 この旧家の由来や,常夜灯のまつわる来歴などは,手許の資料では分からない.
  
<立派な門の旧家>                                           <常夜灯>

■谷保天満宮
 16時26分,漸く谷保天満宮前に到着する.
 今回は時間が押しているので,谷保天満宮の参拝は次回に回すことにして,天満宮前の三叉路を右折する.右折してほんの少し歩いたところで南武線の踏切を渡る.踏切から直ぐに右折して,16時26分に,無事,本日の終着点である谷保駅に到着する.
 
<谷保天満宮>                                 <谷保駅で解散>

■一人寂しく帰宅…
 谷保駅前でリーダーのO氏が締めくくりの挨拶をする.そして,次回の旅は5月6日(月・振休)に開催することを伝え,解散.
 私は,折から娘と息子の2家族が我が家に来ているので,解散と同時にJR南武線,横須賀線を乗り継いで帰宅する.私以外のメンバーは谷保駅近くで懇親会を開催する予定である.
 武蔵小杉で南武線から湘南新宿ラインの電車に乗車する.電車やバスの接続が良くて,予定より早めに帰宅する.
 私が帰宅する時間と前後して,子供達一家も次々に我が家に到着する.孫を交えて8人でテーブルを囲んで賑やかな夕食となる.
 残念ながら,日頃から私は夜になるとぐ眠くなってしまう.その上,今日は16キロメートル以上もテクテク歩きをしている.風呂に入ってからは,もう,眠くて堪らない.揚げ句の果てに,孫達よりも随分早く寝てしまう.

<ラップタイム>

 8:53  八幡山駅歩き出し
 9:08  長泉寺
 9:39  新一里塚
 9:49  観音堂
 9:59  大川橋を渡る
10:01  信号仙川三叉路
10:04  昌翁寺
10:14  一里塚跡
10:21  瀧坂旧道碑
10:28  金子のイチョウ(10:31まで見物)
10:33  金龍寺(10:37まで見学)
10:50  妙円地蔵
10:59  コンビニ(11:05まで休憩)
11:09  金剛夜叉明王
11:11  野川を渡る
11:19  稲荷社
11:28  園福寺
11:31  常性寺
11:42  蓮慶寺
12:07  小島一里塚跡(6)
12:19  金山彦神社入口
12:20  正福寺
12:30  西光寺
12:23  高速第五公園(13:01まで昼食)
13:01  黒塀の旧家
13:11  薬師堂
13:18  常夜灯
13:25  観音堂
13:27  神明神社
13:41  西武多摩川線踏切
13:46  小祠
13:47  染谷不動
14:00  常久一里塚跡(7)
14:05  常久八幡宮(14:14まで休憩)
14:24  京王線踏切
14:30  八幡神社入口
14:38  新宿公園
14:42  大国魂神社(15:05まで休憩)
15:11  高札場跡
15:14  長福寺
15:22  高安寺(15:32まで見学)
15:38  京王線踏切
15:44  本陣門
15:57  熊野神社(16:09まで見学)
16:20  獅子宿
16:21  門のある旧家
16:23  秋葉常夜灯
16:20  天満宮
16:29  JR谷保駅 着

 [歩行記録]

■水平歩行距離   16:3km

■累積登攀高度    51m

■累積下降高度    25m

■所要時間(休憩時間込み)
 八幡山 発      8:53
 谷保  着     16:29
 (所要時間)  7時間36分( 7.60h)
 水平歩行速度     16.3km/7.60h=2.14km/h

[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://genki365.net/gnkf04/pub/sheet.php?id=860
資料4:http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/bunka/bunkazai/shitoroku73/4857/005803.html

                                     (第2回目おわり)
                                     (第3回目に続く)
「甲州道中」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/87834ec2a62a54a9c863cacf1536483c
「甲州道中」の次の記事
(編集中)

※お願い
 この記事はあくまで個人的趣味,仲間との情報共有を目的としたものであり,第三者を読者の対象にはしておりません.
 記事の正確性は保証しかねます.なるべく誤字脱字転換ミスは少なくするように努力しますが,不具合は多々残っているでしょう.これらがご不快に思われる方が,どうぞアクセスをご遠慮下さい.



閑話休題:駅弁回顧録(15):昭和58年新潟駅「越後米こしひかり特選越後弁当」

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 <上野駅「特製お弁当」>

  閑話休題;駅弁回顧録(15):昭和58年新潟駅「越後米こしひかり特選越後弁当」

2013年4月22日(月)

※駅弁回顧録のつづき
 このところ何かと気忙で,前々から纏めたいなと思い続けてきた「駅弁回顧録」の方が,長い間お留守になってしまった.
 今日(4月22日)やっと,諸事の整理が付いたので,昨年(2012年)9月以来途絶えていた駅弁回顧録を再開することにした.早く纏めないと中途半端なまま,永遠に旅立ってしまうかも知れないので少々気になっている(とはいえ中途半端で小丸人は誰も居ないが…).
  *******************************
 …で,復帰第一号には新潟駅の「特選越後弁当」の包み紙を紹介することにしたい.
 この駅弁は昭和58年のもの,900円もしたので,当時としても,まあまあ,上の部に属する弁当だろう.
 弁当の中身は包み紙に印刷されている通りである.
 あの頃,私は某大手電機メーカーの社員だった.事務処理用小型コンピュータを代理店販売していたが,私はアプリケーション関連で末端部門の責任者であった.当時私はウン10才の働き盛りで,年の内,3分の1は全国各地,それにたまには海外へも出張,出張の連続…という生活をしていた.
 そんな多忙な日々の中で,憂さ晴らしの一つに「駅弁を楽しむ」があった.前にも書いたかもsれないが,その内に,一時期,駅弁の包装紙を集めるのが趣味になってしまった(勿論,今はこんな趣味から卒業している).
 さて,新潟・・・である.
 新潟の支社におけるシステム支援体制の強化が喫緊の課題になっていたので,システム支援組織の立ち上げと人材確保のために,度々新潟を訪れていた.
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 仕事を終えて,帰りの列車の中で,ゆっくり駅弁を楽しく.これが当時の私にとって最大の楽しみであり,疲労回復の妙薬でもあった.
 毎度のことながら,包装紙を駅弁から丁寧に外して,それを大切に保管する.このときも包装紙をしまおうとして,フト裏を見ると,「佐渡・越後路ごあんない」というイラストが印刷されている.
 このイラストを見ながら,
 “一生のうちに一度で良いから佐渡へ行ってみたいな”
と思いながら駅弁を食べたことを,今でも鮮明に思い出す.
 あれから幾星霜.私はヨボヨボジジイになってしまった・・・が,まだ佐渡へは行ったことがない.


 このイラストを見ると,まだ上越新幹線は開通していないようである.
 “はて? 上越新幹線は何時開業したんだったかな?”
 ボケ始めた私には,ハッキリとは思い出せない.
 でも,その頃,上野駅(東京駅だったかな?)から「新幹線リレー号」とやらに乗って,大宮駅まで行ってから,どこか行き(仙台行きだったかな)の新幹線に乗っていたことを思い出す.
                                        (つづく)

「駅弁回顧録」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d0cb156fbc8d1117ef00a9ee77c790c8
「駅弁回顧録」の次回の記事
(編集中)

新緑それにネコとチャンプの丹沢:塔ノ岳(今年19回目)

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                             <堀山の尾根のミヤマツツジ>

     新緑それにネコとチャンプの丹沢:塔ノ岳(今年19回目)
            (常連さんに同行)
     2013年4月23日(火)  晴・雲多く春霞

■急遽塔ノ岳へ出掛ける
 このところ,私は特段の予定がないときは,原則として水曜日と土曜日に塔ノ岳を往復しているが,天気予報では「明日(4月24日)は雨」とのことなので,急遽,火曜日の今日,塔ノ岳に登ることにする.
 何時もの通り,5時10分に家を出発する.天気予報では日中は春らしく暖かくなるとのことだが,朝はやっぱりかなり寒い.
 小田原駅で,恒例の階段2段跳び乗換を何とかクリアして,渋沢駅で大倉行1番バスに乗車する.バスはほぼ満席である.見回すと超韋駄天のN村さん,韋駄天のTさん,T中さん,K大Nさん,鵠沼のサッチャーさんなどのご常連の顔が見える.

■ご常連と一緒に…
 バスは6時59分に大倉に到着する.超韋駄天のN村さんは,真っ先に塔ノ岳に向けて歩き出す.私は,7時05分,たまたま一緒になった韋駄天のTさん,T中さん,鵠沼さんの4人で一緒に大倉から歩き出す.
 歩きながら,韋駄天のTさんが,某新聞の取材を受けるという話を伺う.
  実は某さんから,昨日,この件で内容が良く飲み込めないメールを頂戴していたが,直接,韋駄天のTさんから事情をお伺いして,“そういうことだったのか”と合点した.
 大倉付近の新緑が実に美しい.
 数日前に降った雨の影響も殆どなく,登山道の状態は“まあ,まあ”で歩き易い.他愛のない話題で雑談しながら,のんびりと歩き続ける.
 先頭を歩くT中さんは,何時もスタートダッシュが高速な方である.平素,T中さんにはなかなか付いて行けないが,今日はT中さんが歩行速度を加減をして下さっているのか,何とか後に続いて登り続ける.
 7時28分,観音茶屋を通過する.この辺りから登山道はジメジメした切通風のジグザグ道になる,分岐の手前でご主人のM田さんに追い付く.
 「お先に失礼致します…」
とご挨拶して,先に行かせてもらう.

■見晴階段
 その後も,私には一寸速いかなと思われる速度で歩き続ける.
 私たちは,7時45分に見晴山荘に到着する.前回(4月10日)は,K村さん,Y内さん,韋駄天のTさんと一緒に,今日と同じ7時05分に大倉から歩き出したが,あのときは7時42分に見晴山荘に到着している.従って,今回は,前回と比較して,3分ほど余計に時間が掛かっている.この3分の差が,先へ行ってどの程度の差になるかが気になる.
 見晴山荘付近で,韋駄天のTさんは,私たち3人と分かれてご自分の速度に切り替える.その直後から,見る見るうちに韋駄天のTさんと私たちの距離が広がっていく.
 見晴階段に差し掛かる.恒例により見晴階段を見上げた写真を撮る.すぐ前には速度を上げ始めた韋駄天のTさんの後ろ姿が見えている.その遙か上の方にも登山者の後ろ姿が見えている.
 見晴階段の両側から上空を覆うように新緑が広がっている.まるで緑のトンネルである.
 年を取ると,無理が利かないので,私は自分の経済速度を守りながら,先頭を行くT中さんの後を追う.
 “(私には)ちょっと速いかな”
と感じながらも,流れるほどの汗にはならない速度なので,T中さんの歩行速度に合わせて登り続ける.

<見晴階段>

■堀山の尾根
 駒止階段の急坂を登り切って,8時15分,駒止茶屋を通過する.
 大倉からの所要時間は1時間10分である.内心で,
 “ム,ム,…,歩行速度はそれほど遅くないなと思ったのに,意外に時間が掛かったな”
と思いながら通過する.無理をしないで1時間05分程度で登れる程度の体力が欲しいなと思う.
 続いて堀山の尾根道に入る.ここは大倉尾根の中で一番気持ちの良い場所である.3人で雑談しながらノンビリと尾根道を楽しみながら歩き続ける.
 富士山が良く見える場所に到着する.上空は晴れてはいるが,残念ながら富士山は雲か春霞に遮られて,微かにしか見えない.私のバカカメラでは到底写らない…が,儀式として移らない富士山の写真を撮る.

<堀山の尾根から見えない富士山を撮る>

■美しいナントカ桜
 堀山の尾根の豆桜は先週で見頃は終わった.今でもナントカという桜が美しい花を咲かせている.ご同行中のT中さんは植物に大変詳しい.T中さんに,この桜の名称を教えて頂いたが,聞いてから2〜3歩ほども歩く内に,折角教えて頂いた名前をすっかり忘れてしまう.困ったものだ.
 「端の名前って,なかなか覚えられないですね…」
と鵠沼さんと愚痴りあう.

<心地よい堀山の尾根道を行く>

■堀山の家
 8時32分,堀山の家を通過する.小草平のベンチにも人の気配はなく辺りは静まり返っている.相変わらず富士山は殆ど見えない.
 私はT中さんに,
 「堀山の家から花立山荘まで40分ほど掛けて,ユックリ登りますので,お先にどうぞ」
と先に行かれるようにお薦めする.
 「いや,オレも40分ぐらい掛かるよ…」
ということなので,とにかくT中さんを先頭に花立山荘までの急坂を登り始める.
 歩く速度が私には一寸速いかなと思いながらも,そのまま先頭のT中さんにつかず離れずの速度で登り続ける.
 8時39分,下山してくるKシゲさんとバッタリ.何時ものように,
 「ヤア,ヤア,…」
と握手.私は今日もKシゲさんから元気を貰う.
 Kシゲさんの話では,今日の塔ノ岳山頂はかなり寒いようである.何時もならば,Kシゲさんと立ち話をするが,今日は簡単な挨拶だけでお別れする.

■萱場平
 8時52分,萱場平に到着する.
 まずは恒例の定点観測の写真を撮る.前方には抜けるような青空が広がっている.小さな千切れ雲が幾つも浮かんでいる.
 萱場平には人の姿はなく,静まり返っている.
 木道の間に自生しているアザミは,今日も元気である.元気なアザミを見ていると,私も元気になる.

<萱場平>

■雑談しながら後7分坂へ
 萱場平を過ぎると長い階段道になる.先頭を行くT中さんとの距離が,ジリッ,ジリッと広がっていく.私のすぐ後ろには鵠沼さんがピッタリと付いている.そのままの位置関係を保ちながら登り続ける.
 少し間が空いたT中さんの後ろ姿をチラチラ眺めながら,私のすぐ後ろに居られる鵠沼さんと雑談しつづける.雑談のテーマは実に他愛もないことである.お互いの年配なので,どうしても病気のことも話題になる.さらには私がYouTubeで見付けた軍歌72曲サイトにアクセスして,飽きもせずに,数時間も軍歌を聴いていたことなど.
 “そう”“私は軍国少年だったんだ.”
 さらには戦後の学制改革で,折角入学した旧制中学が何時の間にか新制高校になり,同じ学校に6年間も通っちゃったことや,駅弁大学が誕生したことなど…
 “何? 駅弁大学って!”
と鵠沼さんから質問を受ける.
 私は,私よりかなり若いとは言え十分にご年配の鵠沼さんとの間にも,生まれ育ったころの世相には大きな差があることを実感する.要するに私は“軍港少年”だったんだ.'軍艦マーチ’,'紀元は二千六百年’,’月月火水木金金’などの軍歌を聞くと,私の気持ちがやたらに高揚してくる.やっぱり“三つ子の魂百まで”である. 
 そうこうしている内に後7分坂(見晴階段)に差し掛かる.私より10数段上にTさんの後ろ姿が見える.いくらマイペースで登るといっても,T中さんとの間が余り空いてしまうのは癪である.私もそれなりの速度で登り続ける.階段が終わりかけるところで,鵠沼さんにも追い越されそうになる.
 “ム,ム,鵠沼さんよ…お前さんまで私を追い越すのか”
 私は“ブルータスよオマエもか”の気分になるが,直ぐに“無理はすまい”と自分に言い聞かせる.
 9時09分,鵠沼さんと並んで階段を登り切る.花立山荘に到着すると,鵠沼さんが,
 「7分で階段を登りましたね…」
と私に言う.
 “ああ,そうだったんか! 7分で登れたか,そりゃ良かった!”
と私も安堵する.実はこの頃7分で登れないことが多くなったので,後7分坂のあだ名を,後9分坂に変えようかとさえ思っていた.
 ここで下山してくる超韋駄天のN村さんとすれ違う.このとき,T中さんは20メートルほど先を歩いておられる.
 大倉から,花立山荘までの所要時間は2時間04分.堀山の家からの所要時間は37分.今の私の実力では,まあこんなものかと納得する.ちょっと不満だが…

■花立山
 花立山荘からも,相変わらず富士山は見えない.
 後7分坂の長い登り階段を登ったにもかかわらず,何となく元気が残っている.そこで,少し歩行ピッチを上げて,花立山山頂でT中さんに追い付く.何時もならば花立山荘から花立山まで9〜10分掛けてノンビリと登っているが,今日は7分で登ったことになる.
 例によって,花立山山頂で写真を撮るが,富士山や南アルプスは全く見えない.何枚か写真を撮るには撮ったが,見晴が利かないと時間を取ってまで写真を撮る気にならない.その分だけ道草がなくなる.

<花立山から富士山方面を望む>

■塔ノ岳山頂は寒い
 9時21分,金冷シを通過する.
 ここまで来れば塔ノ岳山頂はもうすぐである.T中さんを先頭に,3人揃って山頂を目指す.
 9時36分,無事,塔ノ岳山頂に到着する.山頂の気温は3℃.冷たい風が吹いている.山頂から近場の丹沢の山々は良く見えているが,富士山は相変わらず見えない.
 今日の大倉から塔ノ岳山頂までの所要時間は2時間31分.2時間30分は切れなかったものの,今の私にとっては,まあ,まあ,こんなものだと思えるラップである.これも,終始,T中さんの背中を見ながら登ったための成果である.もし私一人で歩いていたら,どうしても途中で道草をするので,2時間40分程度は掛かっていたと思う.
 冷たい風が,絶えず山頂を吹き抜けている.山頂で腰を下ろして休憩を取っている人は居ない.

<塔ノ岳山頂>

■尊仏山荘
 尊仏山荘に入る.案の定,外は寒いので沢山の登山客で山荘は混雑している.私たちより数分前に到着した韋駄天のTさんが石油ストーブ近くの席で私たちの到着を待っている.
 今日の小屋番はオーナーのHさんと,W林さん.
 私は定番の300円也のお茶を所望する.
 私のお隣に座られた方が持参された御弁当が,あまりに美しい.センスの良さに感動した私は,食べようとするのを制止して,写真を撮らせて頂く.
 お話しを伺うと,お子さんが子供の頃,このように手の込んだ御弁当を毎日持たせていたとのこと.序でに旦那さんも…
 振り返って見ると,私は家内の手弁当など持参したことがない.もっとも私は少し古い世代なので,手弁当など会社に持参する人は誰も居なかった…が,でも,羨ましい.
 韋駄天のTさんも加わって,4人で入口近くのテーブルに陣取っている.雑談をしていると,10時少し前に,K大Nさんが尊仏山荘にご到着.私たちの近くに座る.
 「あれっ! 随分お速いですね…」
とどなたかがK大Nさんに話しかける.
 「そう,今日は調子が良かったので早く到着しました」


■“ミャ〜君”ノンビリ
 石油ストーブ前の一等席は華伊達美弥雄さん(ミャ〜君のこと)が占領している.
 「お前さん…いい気なもんだな.特等席を占領して…」
と言いながら,私は,ミャ〜君の頭を撫でる.
 ミャ〜君は,頭を撫でられても,ちっとも嫌がらずされるがままになっている.この気立ての優しさがこのネコの可愛いらしさである.
 暫くの間,私はネコと戯れる.私は,このネコに会うために塔ノ岳に登っているのかも知れないなと内心で思っている.それにしても,ミャ〜君,この頃大分老けたなと心配になる.

<ノンビリとミャ〜君と戯れる>

■ミッキーマウスさんとチャンピョン
 10時22分,塔ノ岳から下山開始.
 下山も韋駄天のTさん,T中さん,鵠沼サッチャーさんとご一緒である.
 尊仏山荘から外に出ると,いきなり冷たい風に晒される.
 “うふっ! 寒い!”
 とにかく寒い.でも,花立山荘まで下れば暖かくなることが分かっているので,敢えて厚着になることもない.とにかく花立山荘まで下ってしまうことだ.
 10時36分,金冷シに到着する.ここで登ってくるミッキーマウスさんたちとすれ違う.
 さらに,花立山荘手前で,大きくて重そうな荷物を背負ったチャンピョンとすれ違う.
 「写真撮らせて下さい…」
で,恒例の万歳ポーズを取ってもらう.
 チャンピョンは,今回で4,262回目の登山だとのことである.私は,今日もチャンピョンから元気を貰う.
 私にとって,チャンピョンの写真は,欠かせない風物詩になっている.私の外付けディスクには,チャンピョンの写真が数十枚貯まっている.その内に,チャンピョン写真の個展が開けそうなほどである.

<4262回目登頂のチャンピョン>

■尊仏山荘上ザクラ
 道すがらT谷さんから,草花の話を伺う.
 T谷さんから,6月になるとミヤマザクラという種類のサクラが咲くという.今から楽しみである.
 ところが,私にとって,植物の名前を覚えるのは至難の業である.
 「ミヤマザクラですか.丹沢のみやま山荘を思い出せば良いんですね.でも,みやま山荘が思い出せないかもしれない.ンなら尊仏山荘上サクラと覚えれば,ミヤマサクラを思い出せそうですね」
 「そんな回りくどいことしなくても,ミヤマサクラで覚えた方が楽ですよ」
 “ご尤も!”
 実は,私の草花に関心がないわけではない.その証拠に,私の書棚には何冊もの植物図鑑が転がっている.
 「植物図鑑を見ても,どれが見た花に該当しているのか分からないんですよ」
と私が愚痴る.
 「そう,そう・・・」
と鵠沼さんが相槌を入れる.
 「分からないことがあったら,インターネットで調べるんです.季節,花の色などで知りたい花を拾い出すんです.そうしないと覚えられないですよ」
とY中さんがいう.
 これもご尤も!
 私は心の中で,
 “そらぁ〜そうだ.確かにそうだ! そういえば,オレも知らない社寺のことなど,随分丹念にインターネットで調べているな…要するにオレは,まだ,花への興味が今ひとつ足りないんだ”
と納得する.

■このまま帰宅では早すぎる
 12時15分,大倉に下山する.
 塔ノ岳山頂からの所要時間は1時間53分.洗い場で登山靴を洗ってから,大倉12時22分発渋沢駅行のバスに乗車する.
 渋沢発各駅停車小田原行と特別快速高崎行の電車を乗り継いで,13時34分に大船に到着する.
 大船で下車すると,辺りは何となくウキウキとした感じがして,春の暖かい日射しが実に心地よい.
 “このまま家に帰るのは勿体ないな”
…ということで,取りあえずは,大船駅構内にある某ショップに入る.私が毎日のように出入りしているお店である.
 塔ノ岳を往復した後なので小腹が空いている.野菜だけの小さなバーガーとコーヒーを賞味しながら,何となく満ち足りた気分を味わう.

<某ショップで一休み>

■直ぐに眠くなる
 自宅近くへ向かうバスに乗車したが,何となく歩き足りない感じがするので,ひと停留所だけ乗って,直ぐに下車する.そして大船中央公園を通り抜けて帰宅する.
 夕方になって,高校生になる孫娘が我が家に立ち寄る.
 「勉強しなきゃ・・・」
で物理の勉強を始める.感心! 感心!
 夜になって孫の母親も合流する.ジジババと孫が一緒の賑やかな夕食.でも,毎度のことながら20時を過ぎる頃になると,私は眠くて仕方がなくなる.
 こうして,今年第19回目の塔ノ岳詣では終わった.

<ラップタイム>

 7:05  大倉 発
 7:28  観音茶屋
 7:45  見晴山荘
 8:15  駒止茶屋
 8:32  堀山の家
 9:20  花立山荘
 9:21  金冷シ
 9:36  塔ノ岳山頂着(+3.0℃)
10:22      〃  発
10:36  金冷シ
10:46  花立山荘
11:12  堀山の家
11:29  駒止茶屋
11:46  見晴山荘
11:55  観音茶屋
12:15  大倉着

 [山行記録]

■水平距離       7.0km(片道)

■累積登攀下降高度   1269m

■登攀所要時間(雑談時間を含む)
  大倉   発       7:05
  塔ノ岳  着       9:36
 (所要時間)     2時間31分(2.52h)
  水平歩行速度   7.0km/2.52h=2.78km/h
  登攀速度      1269m/2.52h=503.6m/h

■下降所要時間(休憩時間を含む)
  塔ノ岳  発       10:22
  大倉   着       12:18
 (所要時間)     1時間53分(1.88h)
  水平歩行速度   7.0km/1.88h=3.72km/h
  下降速度       1269m/1.88h=675.0m/h
                                  (おわり)

「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4d6adc7b83fe1ecc115a209ece86feaa
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)

閑話休題;駅弁回顧録(16):昭和59年高岡駅「お好み越路弁当」

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                          <高岡駅駅「お好み越路弁当」>

  閑話休題;駅弁回顧録(16):昭和59年高岡駅「お好み越路弁当」

2013年4月24日(水)

 さて一寸時間に余裕があるときに,駅弁回顧録の続きを整理することにしよう.
 実は,本来ならば水曜日の今日(4月24日)は,丹沢の塔ノ岳に出掛けるつもりだったが,今日の天気予報が雨だったので,急遽,昨日(4月23日)の内に,塔ノ岳を往復してしまった.
 今日の鎌倉は,天気予報より早めに朝から雨が降り始めている.それに予報が少し外れて,暖かいはずが,冬物を着ないと少々寒い憂鬱な一日になりそうである.まあ,こんな悪天候のときは,神仏が,
 “(そう外に出たがらずに)少しは家でジッとして居なさい”
と諭しているものと思って,自宅でノンビリ過ごそうと思う.

 *****************************

 さて,今回記録に残したいのは昭和59年(1984年)8月16日の北陸本線高岡駅の「お好み越路弁当」800円也である.
 駅弁の中身より包装紙だけに興味があった私は,今となっては,この駅弁の中身が何だったかは全く思い出せない.ただ,北陸本線や羽越線沿線の駅弁は,どの駅弁にもとても美味しい魚の切り身が入っていて,それを食べるのが楽しみだったことを覚えている.だから,私は今でも,北陸本線や羽越線の旅にあこがれがある.それも超有名な駅弁ではなく,ご当地の一番安い駅弁を楽しみたいからである.
 昭和59年と言えば,今から29年も昔のことになる.私のサラリーマン生活の先行きがそろそろ見え始めた年頃でもある.この駅弁を購入した5年後に,私は長年勤務していた会社を早期定年退職して,某所にトラバーユした.
 さて,この駅弁を購入した当日,私は富山と金沢へ出張していた.当時,私は汎用計算機のシステム技術部門の責任者であった.私は北陸地方のシステム技術支援体制を強化することを目的に出張していた.出張先での移動の途中で,列車の中でこの弁当を食べた.
 この包装紙を眺めながら,
 「高岡から能登半島辺りには,沢山の観光地があるな…定年退職したら,是非,あちこち旅行してみたいな…」
と思っていたことを,今でも鮮明に思い出す.
 あれから幾星霜.
 私は,それ以降,仕事以外でこの地を訪れたことはない.
 当時,上司から,
 「オマエ…サラリーマンだったら近代五種をちゃんとやれよ」
と良く言われた.
 もうこのブログでも数回書いたかも知れないが,近代五種とは酒,タバコ,麻雀,カラオケ,ゴルフである.私は酒は全く弱いし(というより飲めない),タバコは吸ったこともない.麻雀はルールが面倒臭くて覚える気がしない.カラオケなど真っ平.ゴルフは練習場通いをしている内につまらなくなりやめた…てな訳で,私は全くの落ちこぼれの不良社員だった.
 もっとも,今時,こんな近代五種を強要する上司が居る会社など皆無だとは思うが…

   ****************************

 もうすぐ12時である.
 相変わらず冷たい雨が降っている.
 今日は,夕方から,元会社で親しかった方々との懇親会がある.半年に1回程度の頻度で開催している楽しい会合である.近代五種とは全く縁がない私でも,古い仲間との気儘な雑談はとても楽しい.
 懇親会に出掛けるためなら,冷たい雨など全く気にならない.今から懇親会が楽しみである.
                                         (つづく)

「駅弁回顧録」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d0cb156fbc8d1117ef00a9ee77c790c8
「駅弁回顧録」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3c7d892ab2d9c95a1fd3adae57034884

閑話休題;駅弁回顧録(17):昭和59年日田駅「天領おべんとう」

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                    <日田駅「天領お弁当」>

  閑話休題;駅弁回顧録(17):昭和59年日田駅「天領おべんとう」

2013年4月25日(木)

 昨日の憂鬱な天気とは大違い,今日は朝から初夏を思わせる爽やかな日光が我が家にも射し込んでくる.こんな素敵な天気のときに,家に籠もってノタノタしているのは実に勿体ない,私は,なるべく早く雑務を終えて,鎌倉の山でも散策してこようかと思っている…が,その前に,ブログへの1日1投稿の目途を果たしておこう.

    ******************************

 さて,今回はやっとこのブログで軌道に乗り始めた駅弁回顧録を続けることにしよう.
 今回は久大本線日田駅の「天領おべんとう」の包装紙を話題にしよう.
 資料1によると,「日田は,文禄3年(1594年)豊臣秀吉の蔵入地(直轄地)を支配する代官が置かれ,以来大名支配も行われたが,それ以外は徳川幕府の天領(直轄地)となった.その天領も大名預けとなった時期もあるが,貞亨3年(1686年)以来は引続き日田の陣屋(御役所)にあって代官,郡代の天領支配が行われた.豆田,隈の両町を持つ日田は,政治,経済の中心地として栄え,裕福な商人が台頭し,掛屋や大名の御用達として活躍して,九州金融の中心となり,日田金は諸大名に貸し出された.当時,江戸,上方,長崎との経済や文化の交流も多く,日田には文人墨客が訪れ,賑わっていた.」という.
 この資料からも推測されるように,日田は元天領として,誇り高い土地柄のようである.

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 冒頭で紹介した「天領おべんとう」の名前は,資料1の経緯でも分かるように,日田が天領として縁の地であったことから命名されたことは自明だろう.
 この御弁当の値段は800円.昭和59年(1984年)の弁当である.今から約30年近くも前のことである.800円という値段は決して安価とは言えないだろう.
 毎度同じようなことを記述しているので,またかと憚られるが,当時,私は,仕事柄,年の内,3分の1は旅の空というキツイ仕事をしていた.このときも,九州の取引先を数カ所グルグルと回っていた.
 福岡での仕事を終えた翌日,私は博多駅から久大本線の日田駅に向かった.当時,列車マニアだった私は,食事は出来るだけ駅弁で済ませるようにしていた.
 この駅弁を選んだのは,実は駅弁の中身ではなく,包装紙の絵が気に入ったからである.
 あれから幾星霜,もうこの駅弁の中身が何だったかは,ほとんど覚えていない.ただ,特別なことでもない限り,私は大抵幕の内弁当を購入することにしているので,この弁当も,多分,幕の内弁当だっただろうと思う.
 今になっては,日田の街の様子は殆ど記憶に残っていないが,閑静な心地よいところだったように思う.仕事を終えてから,次の目的地である大分に廻ったが,列車の合間を見て,この包装紙に出てくる川(川の名前は忘れた)の畔まで行って,暫くの間,滔々と流れる水面を眺めていたことを鮮明に思い出す.

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 たった1枚の古びた駅弁の包装紙だが,包装紙を眺めていると,その頃のことが沸々と脳裏に蘇ってくる.不思議なものである.
 ただ,当時の私は,今こうして包装紙を眺めながら,いたずらに過去のことを懐かしんでいる哀れな自分になりはてるとは夢想だにしなかった.
 しわくちゃに古びた駅弁包装紙,多寡が包装紙,でも,やっぱり魅力たっぷりなのが包装紙だな…
 大きな紙袋の中に,ただ乱雑に放り込まれている何百枚かの駅弁包装紙.自分の目が黒いうちに整理しておかなければ,代替わりしたときに,ゴミとして簡単に棄てられてしまうだろうな. 
                                           (つづく)           
[参考資料]
資料1:http://www3.ocn.ne.jp/~md.eakon/tenryouhita.html


「駅弁回顧録」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9448487516498a67c59ba483719e143f
「駅弁回顧録」の次回の記事
(編集中)

早春と初夏を一度に味わえる丹沢;塔ノ岳(今年20回目)

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                           <大倉公園山の家からの眺望>

   早春と初夏を一度に味わえる丹沢;塔ノ岳(今年20回目)
          (A新聞記者・常連と一緒)
        2013年4月26日(金) 晴

■数日前に混乱したが…
 数日前から,鎌倉中央公園の池には,沢山の鯉のぼりが飾り付けられている.爽やかな陽春.朝から小鳥たちの囀りが聞こえてる.
 何時ものように5時10分に家を出発するが,辺りはもうすっかり明るくなっている.もう,薄着をしていても寒くはない.家を出るときからもうウキウキとした気分になる.
 今日は金曜日.この所,水曜日と土曜日に塔ノ岳に登ることにしているが,今度の日曜日は山仲間と一緒に中央沿線の扇山へ行く事になっている.勿論,土日連チャンで山へ出掛けても構わないが,寄る年波である.“御身大切”ということで,土曜日の塔ノ岳を1日繰り上げた次第である たまたま今日は韋駄天のTさんが,A新聞社の方と一緒に塔ノ岳に登られる日だとのこと.
 前回,火曜日の塔ノ岳でご本人のTさんから,
 “金曜日は宜しく…”
とのお言葉を頂戴する.
 “ならば喜んで…”
ということで,気分一新.ウキウキ気分でお出かけだ.
 小田原駅での階段二段跳び乗換も何とかクリアーする.ハアハアする息遣いを静めながら車窓を眺める.久々に上天気である.
 “よおし〜っ! 今日は富士山と矢倉岳の写真を撮るぞ”

<小田急電車の車窓から富士山と矢倉岳を撮る>

■賑々しく大倉から歩き出す
 渋沢駅から大倉へ向かう1番バスは,平日にしてはマアマアの混雑である.
 ご常連は,超韋駄天のNさん,カメラマンのMさん,編集長のYさん,韋駄天のTさん,大三郎さん,鵠沼の貴婦人,ゲザンシュタインさん,キャベツマンのT添さん,H野さん
 今日は,私にとってロッキー山脈の旅以降の山友であるキャベツマンのT添さん(以下T添さんと省略)とも,久々のご対面である.バスの中で林檎を丸かじりしているTさんの元気な姿を見て率直に嬉しい.
 今日は,私にとってロッキー山脈の旅以降の山友であるキャベツマンのT添さん(以下T添さんと省略)とも,久々のご対面である.バスの中で林檎を丸かじりしているTさんの元気な姿を見て率直に嬉しい.
 7時10分,韋駄天のTさんとA新聞記者Aさん(ここでは名前は伏せる)を中心に,何時も親しくお付き合い頂いている皆様と一緒に賑々しく大倉から歩き出す.
 今日の主役は空くまで登頂2000回を越える韋駄天のTさんである.そこんところを念頭に置きながら,皆さんと楽しく雑談しながらゆっくりペースで登り始める.私はときどき先頭に出て,写真を撮らせて貰う.
 前回,火曜日に登ったときに,T中さんから教えて頂いた「ミミ何とか」という花が登山口近くにあることを思い出す.火曜日にもご一緒していた鵠沼さんに,
 「そういえばこの辺りに”ミミ何とか”っていう花がありましたね…花の名前,何でしたっけ」
とお尋ねする.
 「あれ,私も忘れた!」
 どうやら鵠沼さんも,私同様,花の名前を覚えるには苦手なようである.近くにそれらしい花はあるが,もうすっかり萎れている.
 
<観音茶屋を過ぎた頃>                         <雑事場ノ平にて>

■見晴階段
 7時53分,見晴山荘を通過する.
 見晴山荘からは,春霞で少し霞んではいるものの相模湾がとても良く見えている.浮遊の間は太陽の位置が低いので,日光が海面で反射して海面が輝いて見えているが,4月も下旬になると,もう太陽は随分と高い所を通っている.そして相模湾の海面の反射光はもう見えなくなっている.こんなところにも季節の移り変わりが感じられる.
 見晴山荘を過ぎて,すぐに見晴階段に差し掛かる.遙か前方には登山者の後ろ姿が見えている.
 周囲の新緑が実に美しく,目に鮮やかである.

<見晴階段>

■T添さんお手植えモミジの前で…
 8時10分,ようやく一本松を通過する.単独山行ならばそろそろ駒止茶屋を通過する頃である.今日はかなりユックリした速度で登っているはずだが,思いの外シンドイ感じがする.
 「そろそろ,T添さんお手植えのモミジですね」
とT添さんに伺う.
 この辺りのモミジの木は,T添さんが若い頃飢えたものだという.
 「どの木だったか良く分からないけれども,この辺りの木(がお手植えの木)ですよ…まあ,この木ということにしておきましょう」
ということで,T添さんお手植えらしい木の前で集合写真を撮る.

<T添さんの木の前で>

■薄らボンヤリの富士山
 8時25分,ようやく駒止茶屋を通過する.大倉を歩き出してからの所要時間は2時間15分.単独山行と比較すると7〜8分遅いようである.
 堀山の尾根道に入る.
 富士山が良く見える場所で,バカカメラを構えて,富士山の写真を撮るが,私のバカカメラでは富士山はご覧のようにウスラボンヤリにしか写らない.

<堀山の意尾根から富士山を望む>

■堀山の家
 8時46分,堀山の家に到着する.ここは何時も素通りしているが,今日はここで休憩.
 ついでに,ここから肉眼では良く見えている富士山の写真を撮るが,あらかじめ予想したように,写真には全く写っていない.
 「これからが(大倉尾根の)核心部ですよ.結構長い登り坂ですよ」
と記者さんにお話しする.

<堀山の家で一休み>

■萱場平
 今日の堀山の家からの登り坂は,歩行速度が結構遅いにもかかわらず,マイペースでないためか,結構シンドイ.
 9時11分,漸くの思いで,萱場平を通過する.
 前方には抜けるような青空が見えている.空く前を歩く同行の常連さんの後ろ姿が見えている.

<萱場平>

■ど根性アザミ
 萱場平の木道の間に生えている“ど根性アザミ”がますます元気である.
 このアザミの写真を撮ろうとすると,背後から射し込む日の光で自分の影法師が一緒に写ってしまう.そこで自分の位置を変えて,何とかアザミの写真を撮る.
 そうこうしている内に,同行者との距離が随分と空いてしまう.空いた距離を縮めるために少々歩行速度を上げる.これが原因になりますますバテ気味になる.

<ど根性アザミ>

■満開の豆さくら
 9時16分,下山してくる超韋駄天のN村さんとすれ違う.何時もは後7分坂を3分の2ほど登ったところですれ違うことが多いので,今日はそれだけ登時間が余計に掛かっていることになる.
 9時24分,ようやく後7分坂の袂まで到着する.
 ここに自生する立派な豆サクラが,今,正に満開である.
 サクラの写真をやっと1枚撮って,一行の後を追う.

<坂下の豆桜が満開>

■後7分坂
 後7分坂(花立階段)を登り始める.
 毎度同じ様なことを書いているが,何時ものことながら,この階段を登るのは結構キツイ.
 「私,いつも上を見ないで足許ばかり見ながら登っているんです」
と私の横に居られる記者さんに話しかける.
 私は,目の前を歩くご常連の後を追うのが大変である. 

<後7分坂に差し掛かる>

■花立山荘
 9時31分,ようやく後7分坂を登り終えて花立山荘に到着する.ここで休憩を取る.登る速度が遅いなと思っていたが,今回もどうやら後7分坂を7分で登ったようである.
 大倉からの所要時間は2時間21分.“うひゃ〜あっ!”という記録である.堀山の家からの所要時間は45分.私が標準としている40分より5分も余計に時間が掛かっているのに,かなりの疲労感がある.正直シンドイ.
 花立山荘前の広場で暫く休憩を取る.
 
<花立階段を登り切る>                        <花立山荘で休憩>

■花立山
 5分ほどの休憩の後,花立山荘を出発する.
 花立山荘から花立山山頂までのガレ場は結構キツイ登り坂である.残念ながら富士山は雲に隠れてしまったが,柔らかな日射しが実に心地よい.
 記者さんは,少し見晴らしの良いところで写真を撮るとのことなので,私たちより先に歩いて貰い.
 記者さんにとって,今回の塔ノ岳は初めての経験だという.初めてにしては凄い体力だなと私は驚いている.
 少しユックリ歩いたこともあって,花立山荘から9分掛けて花立山山頂に到着する.
 “実に良い気分だな〜ぁ・・・・・・・!”

<花立山山頂付近を登る>

■塔ノ岳山頂
 9時57分,漸く金冷シを通過する.
 「ここまで来れば,急いで歩いても,遅く歩いても,せいぜい2〜3分の違いですよ」
と記者さんと話しながら登り続ける.
 10時08分,塔ノ岳山頂に無事到着する.
 大倉からの所要時間は,2時間58分.たった2分とはいえ3時間を切っている.初めて塔ノ岳に登られた記者さんが居るのに3時間を切ったとは実に驚異的である.掛け値なしに凄いことだと思う.
 折角なので,山頂でバンザイの集合写真を撮る.
 登山途中から,
 「お腹が空いた・・」
を連発していた鵠沼さんは,赤い包みの御弁当を手に持ったままのご出演である.
 「このメンバーと登るのが一番気が置けなくて良いですね…」
と韋駄天のTさんからお世辞を頂戴する.
 この写真,記者さんにシャッターを押して貰ったので,肝心の記者さんは写っていない.また,少々遅れて山頂に到着されたH野さんも残念ながら写っていない.

<山頂で集合写真>

■尊仏山荘の華伊達美弥雄さん
 尊仏山荘に入る.
 今日は風も弱く山頂の居心地が良いので,山荘に入る人は少ないらしく,われわれ常連だけの貸切状態である.小屋番はオーナーのHさん.
 この頃,Hさんとの相性が良くなったのか,華伊達美弥雄さん(ネコのこと)が,どこからともなくノッソリと顔を出す.そのノッソリ振りが何とも可愛い.
 “オマエさん…元気で居なさいよ”
と私はネコの頭を撫でながらエールを送る.
 300円也のお茶を所望する.

<ノッソリミャ〜君>

■鵠沼さんの御弁当
 前回,鵠沼さんの御弁当を写真に撮らせて貰ったところ,私の知人から,
 “きれいな御弁当ですね”
と,かなりの反響があった.前回は何方の弁当かブログでは明示しなかったが,今回はご本人の了承を得て,鵠沼さんの弁当だと披露させて頂く.
 今回もやっぱり見た目が美しい弁当である.本当はこの弁当の直ぐ隣に,どなたかの缶ビールが写っていたが,トリミングしてある.

<見た目が美しいランチ>

■食事をしながらの雑談
 私たちより,少し先に山荘に到着していたカメラマンのMさんを交えて,暫くの間,食事をしながら雑談.これが実に楽しい.
 Mさんから,
 「今日は,(FHさんの)後ろ姿を見ていけど,大分疲れたようですね.」
と言われてしまう.正に図星!
 前回,火曜日に登頂したときには,今回よりも30分近く速く到着したのに,今回よりずっと疲労感は少なかった.この辺りに登山の奥ゆかしさがあるんだなと思う. 
 韋駄天のTさんが,記者さんをオーナーのHさんに紹介する.Hさんは,A新聞もやっと来たかというような顔をしている.
 食事をしている間に,途中から少し遅れていたH野さんも,無事,塔ノ岳山頂に到着する.
 H野さんご到着後も暫く雑談を続ける.
 下山間際に,オーナーのHさんに,先日,K村さん,三角髭のTさん,K井さん,M田女史のご常連さんと一緒に鍋嵐に行ったと報告する.
 「M田さんに聞きましたよ.よくまああんな所へ行きますね…林道歩きが大変ですよ」
 「でも,私,何回も行きましたよ…」
 「…で,今日はバス,お客さん居ましたか」
 「そうですね,ところどころ空席がありました…それほど多くないようですよ」

<尊仏山荘で楽しく食事>

■下山;堀山の家で一休み
 10時41分,下山開始.
 相変わらず富士山は雲の中.山頂は今日も寒い.でも花立山荘まで下れば暖かくなることが分かっているので,特に防寒具を着用することなしに下山し続ける.今日は何と言っても記者さんと韋駄天のTさんが主役である.
 11時05分,花立山荘を通過する.後7分坂を鵯越のように軽快に下るのがゲザンシュタインさん.まずは軽快に下って頂き,階段下で,私のような鈍足者が下り終えるのを待って貰う.
 階段から下のガレ場は三々五々,付いたり付かれたりしながら下山し続ける.
 途中,私のブログをご覧頂いているN野さんとすれ違う.
 11時33分,堀山の家に到着する.少々遅れた方を街ながら10分ほど休憩を取る.

<堀山の家で休憩>

■小屋番のW林さんとバッタリ
 11時53分,尊仏山荘の小屋番,W林さんが登ってくるのとすれ違う.韋駄天のTさんと記者さんを交えたスナップ写真を撮るが,バカカメラためか,私の腕が悪いためかボケてしまった.
 ボケ写真でも,まあ,いいか,で記録に残しておこう.連休の尊仏山荘の宿泊客は60人とかで盛況のようである.

<堀山の尾根でW林さんとバッタリ>

■見晴山荘で一休み
 12時丁度に駒止茶屋を通過する.この辺りから,一同,少しバラけ始める.一本松を過ぎる辺りから,ますます大きくバラけてしまう.
 私は,先頭を行く大三郎さんと鵠沼さんのすぐ後ろに居たが,途中で後ろと大きく離れてしまったことに気がつく.
 12時20分,見晴山荘を通過する.雑事場ノ平手前で後ろを振り向いて見るが誰も居ない.私は先頭のお二人の後を付けるのを止めて,見晴山荘に引き返す.すぐに,残りの方々が見晴山荘まで下山してくる.
 ここで10分ほど休憩を取ってから,再び歩き出す.
 T添さんのご提案で,急遽,大倉高源山の家経由で下山することになる.先に行ってしまった大三郎さんと鵠沼さんが仲間はずれになって悪いけど…
 雑事場ノ平から分岐路に入る.途端に辺りの雰囲気ががらりと変わって,静寂な丹沢らしい雑木林になる.緩やかな登り坂を少し進むと,新緑が眩しいキャンプ場に到着する.
 実に気持ちの良いところである.

<大倉高源キャンプ場>

■大倉高源山の家
 12時37分,大倉高源山の家に到着する.
 美味しい湧き水を飲みながら,山の家からの見晴を楽しむ…が,下山後の懇親会の時間がきになってか,わずか3分ほどの休憩で,また歩き出す.
 私が山の家の方を廻ったのは2〜3年ぶりのような気がする.以前は大きな倒木があって,面倒な路だったが,何時の間にか良く整備されて,歩き易くなっている.12時47分,何時もの登山道と合流する.

<大倉高源山の家で休憩>

■バス停大倉で軽く懇親会
 暫く歩いていると,どこからともなく,
 「オーィ! オーィ!…」
と叫ぶ男性の声が聞こえてくる.前から聞こえるのか後ろから聞こえるのか良く分からない.一同顔を見合わせて,だれか途中で落後したのかなと見回すが全員の顔が揃っている.やがて,声の主が,先に下山していた大三郎さんだと分かる.私たちが消えてしまったので心配していたようである.
 13時10分,ようやくバス停大倉に到着する.
 途中,休んでばかり居たような感じがするが,塔ノ岳からの所要時間は2時間26分と意外に速いのにビックリする.
 振り返って見ると,山麓は五月を思わせるような爽やかな気候,山腹では豆桜が満開,そして,山頂付近の木々は,まだ冬枯れのままだった.今日一日で.早春から初夏のような気候を一度に味わうことができた.
 大倉発13時53分のバスに乗車することに決める.まずは水場で沓の泥を洗い落としてから,バス停近くのお店で軽く懇親会を開く.
  バスの時間を気にしながらの一杯だが,何気ない四方山話が実に楽しい.
 
<大倉で懇親会>

■厚木と相模線経由で…
 バスの時間に合わせて,13時46分に懇親会はお開きになる.バスはほどほどの混雑である.
 私は遅くなり序でに,何時か試してみたいなと思っていた相模線経由のルートで帰宅することに決める.
 今日ご一緒だった皆さんと渋さ川から本厚木までご一緒する.
 本厚木で乗り換えて厚木で小田急線から相模線に乗り換える.それぞれ10分前後の乗換時間のロスがある.ただ,茅ヶ崎から東海道本線への乗換は待ち時間なし.とにかく東海道本線は電車の本数が多いので助かる.
 実験結果は,「やっぱり時間が掛かる」である.何時もの小田原乗換のルートに比較すると30分前後余計に時間が掛かる.

■真っ直ぐ帰宅
 15時34分に大船に到着する.
 まだ火が高く,五月を思わせるそよ風が吹いている.気分最高.このまま家まで歩いて帰ろうかと迷ったが,家にはいろいろやることが残っている.残念ながら,発車間際の自宅近くを通るバスに飛び乗る.
 夕方,今日も北鎌倉に住んでいる孫娘がジジババを尋ねてくる.
 メデタシ,メデタシ,ハッピー,ハッピーの一日だった.

<ラップタイム>

 7:10  歩き出し
 7:35  観音茶屋
 7:53  見晴山荘
 8:28  駒止茶屋
 8:46  堀山の家(8:50まで休憩)
 9:31  花立山荘
 9:59  金冷シ
10:08  塔ノ岳山頂着
10:41      〃  発
10:55  金冷シ
11:05  花立山荘
11:33  堀山の家(11:43まで休憩)
12:00  駒止茶屋
12:25  見晴山荘(12:29まで休憩)
12:37  大倉高源山の家(12:39まで展望休憩)
12:49  観音茶屋
13:10  大倉着

 [山行記録]

■水平距離       7.0km(片道)

■累積登攀下降高度   1269m

■登攀所要時間(雑談時間を含む)
  大倉   発       7:10
   塔ノ岳  着      10:08
 (所要時間)  2時間58 分(2.97h)
  水平歩行速度   7.0km/2.97h=2.62km/h
 登攀速度    1269m/2.97h=427.3m/h

■下降所要時間(休憩時間を含む)
  塔ノ岳  発       10:45
  大倉   着       13:11
 (所要時間)  2時間26分(2.43h)
 水平歩行速度     7.0km/2.43h=2.88km/h
 下降速度     1269m/2.43h=522.2m/h
                                                                    (おわり)

「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/826bf123af9e38d1875015db45acb0db
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)

春たけなわの鎌倉を歩く;中央公園・台峯・天園・源氏山を一回り(1)

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                           <台峯緑地の散策路>

 春たけなわの鎌倉を歩く;中央公園・台峯・天園・源氏山を一回り(2)
          (単独ハイキング)
        2013年4月25日(木)

<ルート地図>



<鎌倉中央公園>

■上の池の鯉のぼり
 この所,晴れてさえいれば,春らしく実に心地よい気候である.
 今日も何とも言えない上天気である.幸か不幸か,私はサンデー毎日氏である.だから,こんな日に家に閉じ籠もって何かしようと考えることが,もう間違っていると言わざるを得ない.そうは言っても,いくらサンデー毎日氏であっても,家の中には片付けなければならない雑務は沢山ある.でも,こんな良い天気に家で何かをしようったって,そりゃ〜無理だ.
 遂に私は,一寸した小物だけを肩掛リュックに入れて,とにかく家を出る.
 “さて,どこを散歩しようか・・・?”
 何時もながら,これが中々決まらないのである.
 “まあ,とにかく鎌倉中央公園でも歩いてみるか”
ということで,バス停鎌倉中央公園入口から入園する.
 今日は平日にもかかわらず,園内は何となく華やいだ雰囲気である.幼児を連れた母親が何組も散歩している.そのわけは,公園の上の池を見てすぐに分かった.沢山の鯉のぼりがそよ風を受けて池の上を泳いでいる.そういえばもうすぐ大型連休がやってくるな.サンデー毎日の私は毎日が連休なので,大型連休と言われてもピンと来ないが,余所様が華やいでくると,それが伝染して私まで華やいだ気分になる.

<上の池の鯉のぼり>

■新緑が何とも美しい谷戸
 上の池から山崎口方面に向かって,しし岩から隣の谷戸に入る.
 今正に春たけなわである.新緑が目に染みるように美しい.市民農園の田んぼには水が張られている.後,もう少しすれば田植えのシーズンである.こんな野趣溢れる谷戸も,位置的には正に鎌倉のど真ん中である.私どもが住んでいる住宅地からも,ものの5分と掛からないところである.逆に言えば,私は田舎暮らしをしているのかもしれない.自分では都会の住宅地に住んでいるつもりだが…

<鎌倉中央公園内の田んぼ>

<山ノ内から台峯緑地へ>

■山ノ内展望台
 ここでまた,どこへ行こうかと迷う.大船へ出てコーヒーでも飲んで返ろうか,それとももう少し歩くか…で,結局は源氏山公園方面へ行ってみよう.
 鎌倉中央公園梶原口から梶原団地を抜けて山之内配水場に到着する.ここでまた迷うが,まあ,ここはとにかく山ノ内の展望台まで行ってから考えようと決める.
 山ノ内の展望台に到着する.
 ここからの眺望は四季折々を通じて,実に見事である.今は新緑がとても美しい.遠くに六国見山が見えている.近くの山や畑も燃え上がるような新緑で目に染みるようだ.

<山ノ内の展望台から六国見山方面を望む>

■台峯緑地の展望台
 尾根道を辿って,台峯緑地の展望台に到着する.
 ここからも六国見山が良く見える.眼下の谷間には北鎌倉の住宅地が見えている.ここも,何時来ても景色が良いところである.

<台峯緑地の展望台>

<台の稲荷社>

■稲荷社上の休憩所
 台峯緑地の展望台から北鎌倉女子学園グラウンドに沿って,台峯の尾根を少し下ると,進行 方向右手沿いに柵が作られている.柵の切れ目で右折すると台の稲荷社上の休憩所に入る.
 ここからの眺めも素晴らしい.六国見山から大船方面が見下ろせる.
 休憩所から急坂を下ると,稲荷社の社殿に到着する.

<神明社上の休憩所からの眺め>

■稲荷社の社殿
 10時26分,稲荷社に到着する.辺りに人の気配はなく静まり返っている.
 それほど大きなお社ではないが,縁側(って,言うんだろうか)が銅張りのなかなか立派な造りのお社である.謹んで参拝する.

<台の稲荷社>

■稲荷社からの展望
 稲荷社からは台の住宅地が見下ろせる.緑に包まれた綺麗な住宅地であることが一目で分かる.
 遠くに見えるのは横浜市民の森だろうか.

<稲荷社からの眺望>

<光照寺から北鎌倉へ>

■光照寺
 稲荷社の参道を下りて,台の住宅地に入る.
 急坂を北鎌倉方面に下る途中で光照寺の前を通過する.このブログでも度々登場する寺でで,クルス紋で有名である.

<光照寺>

■北鎌倉駅
 光照寺から北鎌倉駅方面に向かう.
 途中,北鎌倉駅近くのコンビニに立ち寄って,オニギリ2個とお茶を購入する.以前,ここのコンビニのご主人と,お会いする度に,よくお話しをしていた.その後の様子を伺いたいが,なぜか聞きそびれている.
 10時55分,北鎌倉駅に到着する.
 今日が平日のためか,観光客は少なめのようである.
 私は北鎌倉駅で,また迷う.これから六国見山にでも登って,大船方面に下山しようか.それとも成福寺辺りを廻って大船に出ようか,いや,待てよ,折角だから天園にでも行ってみようか.
 暫く,ああでもない…こうでもないと迷った末に,
 “そろそろ峠の茶屋へ立ち寄らないと,茶屋の女主人に’死んじゃったかと思ってた’て,言われるな.天園へ行こう…”
と決める.

<建長寺山門から勝上献展望台へ>

■猫箱
 北鎌倉駅から踏切を渡って,円覚寺側に渡る.そして,線路沿いの道を建長寺方面に向かう.
 途中,“猫箱”というお店の前に,先ほど行われた鎌倉市会議員選挙で惜しくも落選した某候補の挨拶文が掲示されている.
 この挨拶文を拝見して,そういえば,選挙期間中,猫のことを話していた候補者が居たなと思い出す.
 “なあ〜んだ! あの候補者はこちらの方だったんだ”
 私は鎌倉を歩き回りながら,何度かこちらの猫箱に立ち寄ったことがあるし,お話しもしたことがある.今回の鎌倉市会議員選挙は候補者が多数居られて激戦だった.この場を借りて,再度のご健闘を祈念することにしよう.

■明月谷か建長寺か
 さて,ここでも,また,迷う.
 明月谷を経由して天園ハイキングコースに入るか,それともオーソドックスに建長寺から半僧坊経由にしようかである.
 “どっちでもいいや…だれが私の後ろから来るか分からないが,後ろから来た人と同じ方向へ行こう”
と決める.まあ,他人頼りで決めようとということである.
 明月院に向かう路地の前で立ち止まっていると,私の後ろから来た二人連れが真っ直ぐ建長寺方面に歩いて行く.
 “では,私も建長寺経由で行こう”
と決める.
 こんな馬鹿なことをしながら,分岐天では後ろから来た人と同じ方に曲がりながら,一日中歩き回るのも面白いな…いつか是非実践してみよう.暇人の私は,こんな馬鹿なことをついつい考えてしまう.
 でも,真面目な話,近々.こんなルーレット任せのような散歩を是非してみたいなと思っている.

■建長寺に入る
 鎌倉街道に沿って,建長寺に向かう.途中,立ち寄って見たいお寺が幾つもあるが,いちいち見学していたら,お散歩にならないので,今回は真っ直ぐ歩いて,11時15分,建長寺に到着する.
 私は鎌倉市在住の年寄りである.余談になるが,もし,私が横浜市の住民なら,ほんの少しの費用だけで市内全域の交通機関に乗れるパスが貰えるらしいが,鎌倉市の住民にはそんな手厚い補助はない,ただ,一つだけ良いことは,拝観料や入山料なしで,市内の大多数の社寺に入れることである.
 私は鎌倉市から頂戴した福寿手帖を,受付で恐る恐る提示して,
 「よろしくお願いします…」
 受付の女性は,にこにこ顔で,
 「どうぞ…」
と言いながら,私を通してくれる.
 沢山の参拝客が境内を散策している.外国人の参拝客が増えているような感じがする.

<建長寺山門>

■美しい花壇
 参道の両側にある花壇には美しい花が沢山咲いている.ただ,私は花オンチ.花の名前を書くのは止めておこう.間違えると恥ずかしいから.
 

■優美な唐門
 総門から境内に入り,山門,仏殿,法堂の順に足を進めるにつれて,次第に厳粛な気持ちになっていく.
 途中,伝織田有楽斎墓の方に向かうと思われる道路が拡幅工事中である.近々また建長寺を訪れて,そちらの方へも行ってみようかと思い始める.
 方丈前の唐門を拝見しながら一息入れる.ちなみにこの唐門は国重文である.

<優美な唐門>

■半僧坊
 唐門から勝上献に向かう路に入る.
 私のすぐ前を歩いている女性2人連れが,
 「こっちにはお店がないんだね…」
と言いながら,不思議そうな顔をして引き返していく.
 河村瑞賢碑に向かう道や回春院への分岐で,いちいちどちらへ行くか迷うが,結局は長い階段を登って半僧坊に向かうことにする.
 私は平素から塔ノ岳を往復しているので,この程度の階段道を登るのはどうと言うこともないので,スタスタと登り続ける.でも,平素,歩き方が少ない人には,この階段道も大変らしく,何人かの方々が,途中でへたり込んでいる.

<半僧坊>

■勝上献展望台
 半僧坊からやや急勾配の階段を数百段登る.階段の段数は,これまで何階も数えたことがあるが,その都度忘れてしまう.
 とにかく,数分階段を登って派勝上献展望台に到着する.
 空は晴れてはいるが,結構雲が多い.残念ながら富士山は良く見えない.景色を見ていると,中年の二人連れが,フウフウ言いながら展望台に到着する.
 「富士山?」
と指を指しながら私に聞く.
 話し始めると日本語が殆ど通じない外国人である.色が少し黒いので多分南の方の国の人だろう.わざわざプライバシーを聞き出すことはしないが…
 暫くの間,英語でやり取りする.お二人の英語も,私の英語とチョボチョボ同じレベルである.問われるままに鎌倉のことを片言英語で説明する.
 「どうです…,私と一緒に瑞泉寺まで廻りませんか」
 「瑞泉寺って何ですか?」
 「有名な寺ですよ,花がとても綺麗・・・」
 「どれくらい時間が掛かるんですか」
 「そうね,大体1時間半ぐらいかな.山道ですよ」
 「う〜ん…止めとくよ」
でバイバイ.
 英語を使っての会話は暫く振りだったが,こんな程度の内容のことなら,英語でも何とかなるなと実感した次第.

<勝上献展望台から鎌倉市街を望む>

<天園ハイキングコース>

■十王岩
 天園ハイキングコースに入る.
 11時43分,十王岩に到着する.ここで前を歩いている初老のご夫婦に追い付く.「かながわ景勝五十選」の案内板を見ながら,不思議そうな顔をしている.
 「景色が見えないですね…」
と私に聞く.
 「あの岩の上まで登れば鎌倉市内が良く見えますよ…私は面倒だから登りませんが,どうぞ登ってみて下さい」
と私は下の道に立ったまま案内する.
 序でに,直ぐ隣にある十王岩も見ることをお薦めする.これが切っ掛けで3〜4分の間,十王岩のこと,天園ハイキングコースのことなど,ざっと説明する.

<十王岩>

■大平山
 12時10分,百八ヤグラ脇の十字路に到着する.ここでも散在ヶ池を一回りしようかと迷うが,結局は天園ハイキングコースを真っ直ぐ進むことにする.
 途中,何区美佳のハイカーとすれ違ったり,追い越したりしながら歩き続けて,12時26分に大平山岩塊の頂上に到着する.
 頂上直下の広場には,遠足に来たらしい学童の集団が居る.昼食を取っているハイカーの姿も見えている.
 少し霞んではいるが三浦三山,二子山,阿部倉山も見える.
 広々とした風景を眺めながら立ち休憩を取る.



<大平山岩塊の頂上から三浦三山を望む>

<峠の茶屋>

■峠の茶屋
 12時34分,峠の茶屋に到着する.
 「暫く振りです.ご無沙汰しています」
と挨拶しながら,オレンジジュースを所望.
 期待通り,ご常連のEさんが居られる.ここで,ちょっと遅めに昼食を取ることにする.
 Eさんが私に,オイデオイデをするので,Eさんの隣の席に座る.

<峠の茶屋に到着>

■可愛い犬
 Eさんの隣の席に座る.Eさん他ご常連の方と雑談をしながら昼食を取る.
 その間,この茶屋の看板犬(名前忘れた)が愛嬌を振りまく.
 「この犬,おもちゃみたいなもんだよ」
とEさんが眼を細める.
 その内に,犬は日当たりの良い座布団の上で気持ち良さそうに居眠りをし始める.その仕草がまた可愛い.
 暫くの間,雑談.
 話題は懐旧談,仙人や山の知人の消息.紅葉が美しい山のことなどいろいろ.ご常連のお一人から,
 「(FHさんは)そんなに山へ行っていて,膝が痛くならないですか」
と真顔で聞かれてしまう.
 「はあ,まあ,お陰様で膝が痛くなることは,今のところありませんよ」
 私はときどき同じ様な質問を受けるが,膝に無理なことをしないこと,それに毎日適当に歩いていること,この2点さえ守っていれば,膝の痛みに悩まされることはないと信じている.
 
<峠の茶屋の看板犬>

                                     (つづく)

※1回にブログに投稿できる容量を超えたので2分割して投稿する.この続きは
 “次の記事”を参照.
    ↓
この続きの記事
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「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a3804e1d600752c6fc2c6837f81b8110
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)


春たけなわの鎌倉を歩く;中央公園・台峯・天園・源氏山を一回り(2)

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                          <寿福寺から源氏山公園に向かう>

 春たけなわの鎌倉を歩く;中央公園・台峯・天園・源氏山を一回り(2)
            (単独ハイキング)
         2013年4月25日(木)
 
(前の記事からのつづき)

<獅子舞から鶴岡八幡宮へ>

■天園展望台
 峠の茶屋に“つい,つい”長居をしてしまった.
 私は女主人とご常連の皆様にご挨拶をして,峠の茶屋を出発する.茶屋を出た途端に,また,どこへ行くか迷う.まだ,下草が伸びていないこの時期に番場ヶ谷を下りるか,陽春の尾根道を港南台までブラブラ歩きするか,それとも型どおり瑞泉寺に下山するか・・
 “ああ面倒! 下手な考え休むに似たり”
 結局,私は平凡に獅子舞を下ることにする.
 では…と言うことで,まずは天園の展望台だ.
 展望台の足許はむせるような新緑で覆われている.遠くには裏大仏ハイキングコースが通っている尾根や稲村ヶ崎が見えている.
 涼しいそよ風が海から吹き上げてくる.

<天園展望台からの眺望>

■緑滴る獅子舞
 獅子舞の谷を一気に下る.
 昨日の雨で,足場は幾分悪くなってはいるが,この頃,谷筋の道に随分と手が加えられていて,以前に比べれば随分と歩き易くなっている.新緑が谷間を埋め尽くしている.
 “素晴らしい”
 誰にも遠慮する必要がない独り歩きの気楽さから,マイペースで谷間を下る.谷を3分の2ほど下ったところで,図らずもさきほど十王岩でお会いした老夫婦に追い付く.足場の悪い下り坂で手こずっているようである.私は,
 「お気を付けて…」
と挨拶して先に行かせてもらう.

<新緑が美しい獅子舞の谷>

■鶴岡八幡宮
 13時38分,獅子舞入口に下山する.その後,永福寺跡,鎌倉宮を経由して鶴岡八幡宮に向かう.
 永福寺跡では,何か大規模な復元工事が始まったようである.
 鎌倉宮を過ぎる頃から沢山の観光客とすれ違うようになる.この辺りには色々立ち寄りたいところもあるが,切りがなくなるので,とにかく鶴岡八幡宮まで直行だ.
 14時07分,横浜国大附属小学校側の入口から鶴岡八幡宮の境内に入る.

<観光客で賑わう鶴岡八幡宮>

<寿福寺から源氏山公園へ>

■今小路踏切から寿福寺へ
 鎌倉市役所前からバスに乗って帰宅するつもりで,鶴岡八幡宮から鎌倉駅に向かう途中,またまた気が変わる.いっそのこと鎌倉中央公園入口まで歩いて,鎌倉一周一筆書きをしてしまうと思い始める.
 観光客で混雑する若宮大路,小町通りを適当に抜けて横須賀線今小路踏切を渡る.
 ほんのわずかな距離だが,踏切を渡ると観光客の数が激減する.
 閑静な住宅地内の路地に入る.途中,刃稲荷の前を通って,小さなトンネルを潜ると寿福寺境内である.

<小さなトンネルを潜ると寿福寺だ>

■太田道灌と了得院殿
 寿福寺の墓地へ向かう道から源氏山公園に向かう山道に入る.足許は少々悪いが,周囲を新緑に囲まれた素晴らしい散策路である.田道灌と了得院殿
 寿福寺の裏山を登る.英勝寺の墓地辺りまで登ると左手に太田道灌供養塔がある.何方が供えているのか知る由もないが,何時も季節の草花が供養塔の前に飾られている.
 私は,この道を通る度に,太田道灌供養塔と道を挟んで反対側にある了得院殿の墓を柵越えに覗き込む.繁茂する竹林の中をよくよく見回すと「了得院殿」と刻字した石塔があるのが分かる.
 私はずっと以前から
 “了得院殿ってどんな人だったんだろう”
と気になっている.
 鎌倉のことに詳しい方に伺ったら,
 「良く分からないが,太田道灌の供養塔のスバにあるんだから,太田道香の奥方かな…?」
とあやふやである.奥方? 私は俄に信じ難いと思い続けていた.
 ところが最近,街道歩きの知人が,丹念に資料を調査して,了得院殿のことを解き明かしてくれた.今回のブログ記事では,その詳細は割愛するが,太田道灌と了得院殿の関係がおぼろげながらも分かったので,日頃の胸の閊えが取れ,私はスッキリとした気分で.了得院殿の石塔の写真を撮る.
 
<太田道灌供養塔>                                 <了得院殿墓>

<源氏山公園>

■源頼朝像
 源氏山公園に入る.ここでは型どおり源頼朝像の写真を撮らなければならないだろう.平日のためか,辺りの人の気配は疎らで,閑散としている.
 この源頼朝像も,今は観光の名所の一つになっているが,それほど古いものではない.
 今,孫娘を連れて,頻繁に我が家を訪れてくる長女が幼い頃,この辺りは一面の芝生だった.天気の良い日は,弁当持参でここへ来て,子供達を勝手自由に遊ばせていた…そんな昔のことを甘酸っぱく思い出す.

<源頼朝像>

■野良猫2匹
 私は源氏山公園から梶原に抜けようかと思う.
 裏大仏ハイキングコースと梶原に抜ける道との分岐点で立ち休憩を取る.近くで野良猫2匹がノンビリ日向ぼっこををしてる.
 私は旅先で出会った猫,電車,富士山は,何をさておいても,必ず写真に収めることにしている.勿論,この野良ちゃんも写真に撮る.飼い猫と違って,何となく愛想がなくて,薄汚いのが野良ちゃんの特徴である.
 多分,どなたかが絵付けをしているらしく,人慣れをしている猫である.
 
<野良猫2匹>

■紅葉の若葉
 この辺りの木々は,若葉なのにまっ赤に紅葉している.この辺りの木々を見ていると,今秋ではないかと勘違いしてしまう.
 燃えるような新緑と見事な紅葉とのコントラストが実に綺麗で面白い.

<源氏山公園の新緑と紅葉>

<梶原から鎌倉中央公園へ>

■六本松公園から梶原へ
 源氏山公園から梶原へ向かう.この道は梶原方面から鎌倉駅方面に向かう生活道路である.この道を下りはじめると,もう,観光客の姿は全くなくなる.
 5分ほどで,六本松公園脇の登山口に到着する.六本松公園は最近整備されたばかりの小さな公園である.

<六本松公園>

■鎌倉中央公園入口
 バス道路を梶原へ向かう.この道路の南側は常磐緑地,北側には大平山・丸山住宅地である.言うまでもなく常磐緑地は鎌倉三大緑地の一つである.
 15時03分,梶原交差点に到着する.
 ここで右折して,やや急な坂道を登って山の上ロータリーへ.山の上ロータリーから湘南モノレール町屋駅に向かって坂道を下る.
 15時13分,今日の出発点であるバス停鎌倉中央公園入口にやっと戻る.
 こうして,行き当たりバッタリ成り行き任せのブラブラ歩きは何とか終わる.歩行距離13.4キロメートル,累積登攀下降高度465メートルのプチハイキングだった.
 夕方,孫娘が来訪.今日もまたジジババと3世代一緒の賑やかな夕食である.
 明日,木曜日は,塔ノ岳に登る予定である.

<ラップタイム>

 9:43  鎌倉中央公園入口発
10:03  鎌倉中央公園梶原口
10:26  稲荷社(台)
10:46  北鎌倉駅前コンビニ(10:52まで買い物)
10:55  北鎌倉駅
11:15  建長寺山門
11:37  半僧坊(11:39まで休憩)
11:43  十王岩(11:47まで観光客に説明)
12:10  百八ヤグラ前十字路
12:26  大平山岩塊(12:27まで展望休憩)
12:34  峠の茶屋(13:18まで昼食)
13:38  獅子舞登山口
13:47  永福寺跡
13:52  大塔宮
14:07  鶴岡八幡宮(14:12に通り抜け)
14:21  今小路踏切渡る
14:26  寿福寺
14:37  源頼朝像
14:39  化粧坂下り口
14:42  銭洗弁天分岐
14:53  源氏山登山口
15:03  梶原交差点
15:10  山の上ロータリー
15:13  鎌倉中央公園入口着

[ハイキング記録]

■水平歩行距離   13.4km

■累積登攀高度   465m

■累積下降高度   465m

■所要時間(休憩時間を含む)
  鎌倉中央公園発     9:43
       〃   着    15:13
  (所要時間)  5時間30分(5.50h)
 水平歩行速度    13.4km/5.50h=2.43km/h
                                         (おわり)

※この記事の前半の記事
     ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e17a5c83d7212097ba22ef0a11113659

「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a3804e1d600752c6fc2c6837f81b8110
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)

陽春の鎌倉;鎌倉中央公園の鯉のぼりと花フェスタ

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                                <鎌倉中央公園の鯉のぼり>

      陽春の鎌倉;鎌倉中央公園の鯉のぼりと花フェスタ
              (単独散策)
         2013年4月29日(月) 晴

 何時もと違って,何だか外が騒々しい.沢山の人達が私の家の前を通過して,鎌倉中央公園に出入りしている.
 “何事だろう・・・?”
 私は不思議に思って,2階のベランダから鎌倉中央公園方面を見ると,何時もは車両進入禁止になっている遊園地の中に路線バスが停車している.
 “一体,何が始まったんだ!”
 午前中に要事を済ませた私は,早速,鎌倉中央公園を覗いてみることにする.
 公園入口に掲げられている横断幕を見て,今日,「わくわく花フェスタ」が,鎌倉中央公園で行われていることに気がつく.だから,沢山の人達が鎌倉中央公園を訪れているんだご合点する.
 そういえば,今日は年1回恒例のフェスタの日だった.


 園内には沢山の出店が並んでいる.下の池沿いの道路には,子ども列車のレールが敷かれている.沢山の子ども達が,列車に乗る順番を待っている.


 上の池では沢山の鯉のぼりが,そよ風を受けて泳いでいる.
 池の対岸の新緑が眩しい.


 上の池と下の池の間の遊歩道脇にある花壇では,色とりどりの花が楽しめる.
 花オンチの私には,花の名前は全く分からないが,とにかく綺麗だ.


 ハンゲショウだろうか,新芽が大きくなってきた.
 水が張ってある元田んぼでは,カエルが鳴き始めた.


 山崎口近くにある「しし岩」辺りで沢山の子ども達が遊んでいる.
 この辺りには,年寄りばかりが住んでいるかと思っていたが,結構,子どもも沢山居るなと,ちょっと嬉しくなる.
 無邪気に遊ぶ子ども達の姿を見ているのが一番嬉しいし楽しくなる.


 西の谷の谷戸に入る.
 山藤が見頃を迎えている.


 坂道を登って疎林広場を覗いてみる.
 つい先ほどまで,小鳥や小動物を展示していたようである.疎林広場の新緑が何とも心地よい.


 小一時間ほど,鎌倉中央公園を一回りしてから,自宅へ戻る.本当はもう少しあちらこちら散策したかったが,
 “そんなに毎日,あちこち彷徨いていてはダメ…”
と,心の中のもう一人の私が,私をたしなめる.
 “それもそうだなぁ〜・・・お前さんの言うとおりだよ”
と,私はもう一人の私の忠告に素直に従うことにする.
                                     (おわり)

「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e17a5c83d7212097ba22ef0a11113659
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
(なし)




中央沿線:富士山の眺望を堪能しながら扇山に登る

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                                 <扇山山頂から富士山を望む>

      中央沿線:富士山の眺望を堪能しながら扇山に登る
            (ARENAオフミ)
          2013年4月28日(土) 晴

<ルート地図>



<中央本線鳥沢駅から歩き出す>

■朝の出発時間は早いけど遅い!?
 ARENAオフミ4月度の山行は,中央沿線の扇山.これまで2〜3回登ったことのある山であるが,ここ数年,私は全く中央沿線の山を訪れていない.
 集合は中央本線鳥沢駅10時00分.
 幹事長のロングテール氏(以下LTさん)からの案内文に記載されていた「参考ダイア」に記載されていた「ホリデー快速河口湖3号」を利用して,集合場所まで行くつもりである.多少の時間的余裕を持って,仮に大船発7時頃の電車に乗れば,十分に間に合う筈である.これは,何時も塔ノ岳に出掛ける時間の5時10分に比較すれば,家を出る時間は1時間以上遅くても十分に間に合う筈である.
 毎日,3時半から4時頃起床している私にとっては,家を出るまでの長い時間を持て余すことになる.でも,私は,まだまだ早すぎるなと思いながらも,6時20分に家を出発する.いつもの塔ノ岳詣でに比較すると1時間以上もユックリである.
 “では,久々に大船駅前の吉野屋で,朝食でも食べてみるかな…”
ということで,わざと家では朝食を食べずに出掛ける.
 早朝にもかかわらず,吉野家には次から次へと来客がある.いや,実に大した繁盛振りである.
 私は,半ば惰性で,
 「牛丼“並”お願いします…」
と注文する.店員は粋なハンチングを被った壮年女性が1人だけ.注文受け,配膳,会計などすべて一人でこなしている.ハキハキした態度,身のこなし方に感心する.
 しかも,お値段は牛丼(並)が,たった280円.随分安いのでビックリ.

■中央本線鳥山駅から歩き出す
 横浜,東神奈川で,電車を乗り継いで,東神奈川7時41分発八王子行に乗車する.山旅スクールに在籍していた頃,淵野辺にある「ストーンマジック」という岩登り練習場に,それこそ何十回となく通ったことがある.その結果,ボルダリングもレベル5.9程度までは上達したが,それ以後,あまりフォローしていないので,もうダメだ!
 そんなことを懐かしく思い出しながら,イヤになるほど長い時間,電車に乗って,8時44分に八王子駅に到着する.到着が早かったのでホリデー快速河口湖2号に間に合うが,電車の余りの混雑に恐れをなして見送る.そして,幹事長の参考ダイヤに書いてあったホリデー快速河口湖3号を待つ.
 多分3号も混雑しているだろうと思っていたが,案に相違してガラガラ.居合わせたOさんなどお二人と一緒に,1人で2人分の席を占領して超ユックリで四方津へ.四方津で普通電車に乗り換えて,9時56分に集合場所の鳥沢駅に到着する.
 本日の参加者は男性5人,女性4人,計9人である.一寸人数が多いが,まあ,手頃な人数である.
 10時06分,鳥沢駅前から歩き出す.

<梨の木平へ>

■道路が何だか地図とは違うな
 鳥沢駅から,集落の中の細い舗装道路を北に向かって歩く.なだらかな登り坂の舗装道路が続く.道幅は自動車がやっとすれ違う程度の広さである.私は地形図を見ながら,高圧送電線の位置を確かめる.事前に数種類の文献や資料で調べた登山ルートでは,この道路は大きくS字型にカーブして,上空にある同じ高圧線の下を2回潜ってから,谷間の右岸にある集落を通る道と,左岸の山側をトラバースする道に分かれるはずである.
 ところが,実際に歩いてみると,地図には見当たらない新しい道路が出来ていたり,2回目の高圧線を横切らなかったりで,多少混乱する.
 ところどころに扇山登山道を示す案内標識が立ててあるので,これらの標識を見ながら歩けば,迷子になる心配は全くない.でも,標識を見る度に,私は実際に歩いている道と,地図上の道とをいちいちチェックすることにしている.
 すると最初から地図を用意していない同行者のお一人が,標識を見る度に,
 「こっちです…」
と言う.言われなくても分かっていますよ.
 “地図とコンパスは必携”と何度も何度も強く指導されてきた山旅スクール出身者には地図を持たずに参加される方の気が知れない.
 地図と実際の道の違いに当惑しながらも,時々,リーダーのLTさんや,地図を絶えず見ている山旅スクールの同僚,ノシイカさん達と,現在地を確かめ合いながら,歩き続ける.
 その後も,地図にはない近道や,新しい道路との交差点などに戸惑いながらも歩き続ける.なだらかな上り勾配でも,歩いている内に次第に標高が高くなり,心地よい新緑に覆われた道になる. 

<高度が上がるにつれて緑陰が鮮やかになる>

■富士山が見え出す
 相変わらず谷の左岸沿いのトラバース道が続く.
 谷の右岸にある大久保の集落を通る道との合流点の位置を確認して,私たちが地図の上でどこにいるかを確かめたいが,地図には掲載されていない真新しい道路が幾つか合流するので,結局,正確には現在地が確認できない.ただ,時々,コンパスを使って地図を正置しながら,自分たちが歩いている方向を確認して,現在地を推測し続ける.
 「あっ!…富士山だ!」
とどなたかが叫ぶ.なるほど進行方向右手に,雪で真っ白な富士山の山頂付近が見えている.その後,標高が増すにつれて,だんだんと富士山が良く見えるようになる.

<富士山が見え出す>

■ゴルフ場沿いの道を歩いて梨の木平へ
 再び送電線の下を潜ってから,道路は谷間の左岸から稜線を越えて反対側の斜面に移る.当然のことながら富士山は稜線の影になり見えなくなる.進行方向右手(東側)には大月ゴルフ場のフェンスが連続する.
 地形図に記載されてる道路は,大きく左右に蛇行しているが,実際の道路は地形図ほどには蛇行していない.そのため,地形図上の現在地がときどき良く分からなくなるが,大筋では大体どの辺りを歩いているかは把握できている.
 11時07分,大月ゴルフ場の入口を通過する.私たちは地図を見ながら予想通した通りの位置に居ることが分かる.
 「もうすぐ梨の木平のようです…あそこの左カーブを曲がってすぐに梨の木平のようです」
と近場の方と確認する.
 でも実際は,左カーブをショートカットする細い道路があり,意外に簡単に,11時10分,梨の木平に到着する.

<梨の木平へのショートカット道>

■梨の木平で休憩
 梨の木平には,私たち以外にも何人かの登山客が休憩を取っている.私たちもここでトイレ休憩をとる.
 梨の木平の狭い空間に管理棟,トイレ,何かの記念碑,石像などが置かれてる.
 辺りは緑深い木立に覆われている.多分,夏になったら不快な蚊やアブが沢山でそうなところである.でも,今はまだ不愉快な虫どもが出てきていないので安心して休憩を取ることができる.

<梨の木平で休憩>

<梨の木平から扇山へ>

■水飲み場と山ノ神
 11時19分,梨の木平を出発する.
 ここからが本格的な登山道である.私たちの前方にも登山客の後ろ姿がチラホラと見えている.
 先へ進むにつれて,登山道の勾配が次第にきつくなる.
 梨の木平を出発して,ものの10分も経たない内に,2人連れが立ち止まっている.年配の男性お一人が.ハアハアと荒い息遣いをしながらの立ち往生である.無理をしないで…と念じながら追い越させて貰う.
 沢の名前は分からないが,私たちはこの沢の右岸沿いのジグザグ道を登り続ける.
 11時56分,水飲み場に到着する.水飲み場の周では,何組かの登山客が休憩を取っている.
 “どれどれ,味見だ…”
ということで,私は両手で水を受けながら試飲する.冷たくて美味しい水である.
 水場から坂の上を見上げると,20メートルほど上に赤い小さな社殿が見えている.山ノ神である.早速お参りする.
 
<水場>                                     <山ノ神>

■山ノ神前で昼食
 もうすぐ12時である.リーダーのLTさんのご判断で,山ノ神周辺で,ちょっと早めの昼食を取ることに決定.
 登山者の迷惑にならないように,山ノ神とは反対側の路肩付近に腰を下ろして,ランチタイムである.けちん坊の私は,今朝方,大船駅前のコンビニで購入した330円也の「鮭弁当」とやらで,軽めの昼食を済ませる.

<コンビニで購入した弁当>

<扇山山頂>

■ヒトリシズカ
 昼食を終えて,12時22分,山ノ神から再び登山開始.やや急勾配でジグザクの登り坂が連続する.
 歩き出してから5分ほどで,路傍に白い可憐な花が群生しているのを見付ける.花に詳しいノシイカさんが.
 「これ,ヒトリシズカっていうんです…この端の名前ぐらい覚えなさい」
と教えてくれる.
 私も花の名前を,是非,覚えたいなと何時も思っているが,どうも花の名前は,右耳から左耳に素通りしてしまい,頭に入らない.今日も,これまでにいくつか花を教えて貰ったが,全部頭の中を素通りしてしまって,私の頭の中には何も残っていない.
 「今日は,ヒトリシズカだけ覚えますよ…」
と言いながら,私はノートの片隅に,ヒトリジズカと書き留める.
 帰宅後,インターネットで調べると,資料1に,「北海道,本州,四国,九州に分布し,山地の林内,林縁に自生する.高さは10〜30cm.葉は4枚が輪生状に付き光沢があり,縁には鋸歯がある.花期は4〜5月で,茎の先に1本の穂状花序を出し,ブラシ状の小さな白いをつける.一本で生えるのは稀で,普通群生する.名称の由来はこの花の可憐さを愛でて静御前になぞらえたもの.近縁種のフタリシズカが花穂を2本以上出すのと対比させた.」という記事がある.
 “なるほど静御前になぞらえたのか…”
静御前と来れば,私にも覚えられそうだ.でも,巴御前と間違えそうだ.もし私が間違えて“トモエシズカ”と言っていたら,遅滞なく訂正して貰いたいなと思っている.

<路傍のヒトリシズカ>

■扇山山頂に到着
 急勾配のジグザグ道を登り切って,13時05分,稜線上に出る.ここで左に向かえば大久保山,右に向かえば扇山である.
 念のために地形図で現在地を確かめる.
 ここから山頂まではあとわずかである.前方には山頂らしい山が見えている.
 「あそこに見えているのが山頂の直ぐ手前ですよ…地図で見ると,山頂付近はなだらかになっているので,今見えているところから少し先に山頂があるようですよ…」
と私は自分を確かめるように言う.
 13時13分,無事,扇山山頂(標高1138メートル)に到着する.
 鳥沢駅の標高は約320メートル,従って山頂までの標高差は約810メートル.所要時間は3時間07分.従って,休憩時間込みで,登攀速度は約260メートル/時ということになる.これは随分と遅い登攀速度といえよう.
 予想通り山頂はなだらかな丘になっている.山頂付近では沢山の登山客が休憩を取っている.

<扇山山頂>

■山頂で集合写真
 扇山山頂で集合写真を撮る.自分の写真はブログに出さないで…という方も約お一人居られるが,この位沢山の方とご一緒なら,誰が誰だか分からないし,どうせ私のブログを見る人などかぎられているので,まあ,問題なかろうということにしておこう.
 でも,気になるようだったら,この写真はボツにすることにしよう.
 跡で,この写真を見たら,看板の真ん中に「…ゴミは自分で持ち帰りましょう」なんて大きく書いてある.折角の記念写真なので,もう少し場所を選ぶべきだったと思うが後の祭りである.

<扇山山頂で記念写真>

■絶景の富士山
 山頂から富士山が良く見えている.
 ところが例によって,私のバカカメラは富士山がお嫌いらしくて,折角の富士山なのに茫洋とした陽炎富士にしか写らない.
 「このバカタレカメラめ! ちったあご主人様の言うことを聞いてまともな写真を撮れよ…」
とカメラに八つ当たりである.

<扇山山頂からの富士山>

<君恋温泉に下る>

■長閑な散策路
 13時30分,扇山山頂から下山開始.
 まずは地図とコンパスを使って,歩く方向の駄目押し確認をする.
 暫くの間は,実に長閑な稜線歩きが続く.新緑の中をノンビリと歩き続ける.実に気分が良い.

<長閑な稜線歩き>

■三境からどっちへ降りようか?
 数分で長閑な稜線歩きは終わって,やや急な下り勾配が連続するようになる.稜線につかず離れずのジグザグ道が連続する.
 13時41分,三境に到着する.
 ここで下山ルートは二手に分かれる.どちらの道を辿っても大差はないが,リーダーのLTさんと“どうしよう…”.
 このとき,またもや地図を持たない人が,案内標識を見て,
 「こっちって書いてありますよ…」
と混乱することを言う.そんなこと分かっていますよ…こんな発言は,ちょっと鬱陶しい.

■大滝不動で一休み
 結局,大滝不動と君恋温泉を経由するコースを辿って下山することに決める.
 その後も,歩き易い登山道が連続する.順調に下山し続けると,途中で10人余りの年配者の集団に追い付く.彼らは登山道の路肩に一列になって腰を落としている.大分お疲れの様子である.
 14時30分,大滝不動に到着する.立派なお堂が建っている.軒下の扁額には「白瀧山」と書いてある.
 「あれっ! 大滝不動ではないの?」
と一瞬ビックリする.エリアマップや参考文献をみても大滝不動と書いてある.
 まさか文献や地図が一斉に間違っている分けでもなかろう…ということで,この寺の山号が白瀧山なのだろうということにしておこう.
 お不動さんの前で,5分ほど給水休憩を取る.
 私たちが休憩を取っている間に,先ほどのグループがソロリソロリと降りてくる.まるで,何かの健康食品のコマーシャルに出てくるような雰囲気である.私たちをサッサと追い抜いていくのかと思ったら,直ぐ下の広場でまたもや休憩を取っている.

<大滝不動>

■瀧の傍を通過
 14時35分,大滝不動から歩き出す.
 お堂の直ぐ下の崖をトラバースして,滝の下に架かる橋を通過する.右手に高さ10メートルほどの瀧があるが,水量が少ないのであまり迫力はない.
 滝を通過してから崖下のトラバース道になり,直ぐに数十段の登り階段になる.先ほどのグループが私たちのすぐ前を歩いている.ごくユックリの速度で…
 階段を登り切ったところで,先に行かせてもらう.
 
<瀧の前のトラバース道>                                  <瀧全景>

■君恋温泉
 14時48分,登山道が突然終わって,目の前に畑が広がる.
 畑の中の道をほんの1〜2分下って,14時50分に君恋温泉に到着する.こぢんまりした白い壁の建物が1軒だけの温泉である.
 辺りには人の気配がなく静まり返っている.
 何れにしても,名前が素敵な秘湯である.

<君恋温泉>

<JR四方津駅を目指して歩く>

■バス停犬目
 君恋温泉からは舗装道路になる.平凡な舗装道路になると,どうしても気が抜けそうになる.
 14時54分,大滝不動の参道入口の赤鳥居に到着する.ここに下山するルートもある.
 15時03分,バス停犬目に到着する.ここからJR四方津まで路線バスがあるが,1日わずか2往復しかない.ちょっとした広場に「バス折返点」と書いた看板があるだけで,あとはなにもない.
 今度のバスの発車時刻は16時23分.まだ1時間20分も間がある.
 「四方津駅まで歩きましょう…」
ということになる.
 多分,四方津駅までは歩いても1時間半程度だろう.“この言や良し”でバスはヤメ.

<大滝不動の赤鳥居>

■犬目宿直売所
 舗装道路をトボトボと歩き続ける.この辺りは甲州道中の犬目宿である.数年前に甲州道中を歩いたときに,この辺りを通過したはずだが,あまり良く覚えていない.また,金金,2度目の甲州道中の旅で歩くかも知れないところである.
 15時09分,犬目宿直売所に到着する.何気なく直売所の中を覗き込む.すると,直売所の2人のオバサンが,私たちを盛んに呼び止める.
 「今,お茶を入れますからどうぞ…」
と,とても親切である.
 折角なのでお茶をご馳走になる.山歩きをしてきた後なので,お茶がとても美味しい.
 ついつい直売所の中に入ってしまう.直売所はそれほど広い建物ではないが,ご当地で採れた野菜類や色々な漬物類が陳列されている.どれも買いやすい1袋100円である.皆さんついつい1袋,2袋と買い求める.
 私は,帰り際に,
 「今,甲州道中の旅をしていますので,また立ち寄らせて頂きます」
と挨拶する.
 「どうぞ,また,お立ち寄り下さい.土日祝日に営業しております」
 さて,私たちがここを通るのは土日だったかな?

<犬目宿直売所>

■中央高速道路を渡る
 再び単調な舗装道路をトボトボと歩き続ける.この道,平らなようで,結構アップダウンがある.歩いても,歩いても埒があかない感じである.
 15時32分,中央高速道路に架かる跨線橋を渡る.地図で確かめると,私たちは談合坂サービスエリアの近くを歩いているようである.

<中央高速道路を渡る>

■大野貯水池と御嶽神社
 15時47分,進行方向右手に大野貯水池が見え隠れし出す.
 “やれやれ,やっとここまで来たか”
私は地図を見ながら,多少,ホッとする.
 続いて15時48分,御嶽神社の前を通過する.ちょっと神社に立ち寄りたい気分もするが,できれば四方津16時36分発東京行直通電車に乗りたいので,神社は素通りする.
 
<大野貯水池>                                <御嶽神社>


 四方津16時36分発の東京行直通電車に乗れば八王子まで乗換なしで行ける.この電車に是非乗りたい.そこで,何時の間にか先頭グループに居る私は歩行速度を幾分速める.でも全員が遅れることなく付いてくる.
 “シメシメ…この調子なら何とか間に合うぞ”
 駅は未だかな,未だかな…と,思いながらひたすら歩き続ける.進行方向右手には依然深い谷が連続している.
 “あの谷の高さまで降りなければ,駅はないな,まだ,まだ,だなぁ・・・”
と思いながら,ひたすら歩き続ける.
 16時20分,突然,四方津駅が見下ろせるところに到着する.
 「駅が見えたぞ・・・・」
と後ろの皆さんに伝える.
 これならば,ゆっくり16時36分発の電車に間にあう.



<谷間に四方津駅が見える>

■四方津駅に到着
 16時23分,私たちは無事四方津駅に到着する.目的の伝sんはが発車するまで,10分余りの待ち時間がある,丁度良い時間に駅へご到着である.
 駅には私たち以外にも登山姿の乗客が何人か居る.タクシーが1台,客待ちをしている.
 “舗装道路歩きが長かったなあ〜・・・!”
 結局,今日の水平歩行距離は13.3キロメートル,塔ノ岳往復より少し短い距離だが,結構歩き甲斐があった.

<四方津駅に到着>

<大船で寄り道>

■大船駅でラーメン
 連休なので電車は多分混雑しているだろうと予想していたが,案外空いていて全員座ることができた.これで八王子までは楽勝.
 全員八王子で乗換か下車.
 アルコールで栄養補給の方とは,ここでお別れ.
 下戸の私は,ノシイカさんに促されて,立ち席覚悟で?浜線快速桜木町行の電車に乗車,?浜駅で東海道本線の電車に乗り換え大船へ.
 何時もお付き合いしている山旅スクールの方と一緒に大船でラーメンを食べよう.
 人見知りがする私は,やっと,お付き合いの長い3人だけになって,内心でホッとしている.
 “中通りのラーメン屋へ行こう…”
 西友近くにあるラーメン屋に立ち寄る.餃子と野菜タップリラーメンのセットを注文する.私にとっても久々のラーメンである.こんなにボリュームたっぷりで680円.食べても食べても減らない.良かったなあ!


 <ラップタイム>

10:06  鳥沢駅歩き出し
11:10  梨の木平(11:19まで休憩)
11:56  水飲み場(水神)(12:22まで昼食)
13:05  両線に出る
13:13  扇山山頂着(標高1137m)(13:30まで展望休憩)
13:41  三境
14:30  大滝不動(14:35まで休憩)
14:50  君恋温泉
15:03  大目バス停
15:09  直売店(15:17まで買い物・休憩)
15:32  中央高速跨線橋
16:24  四方津駅 着

 [山行記録]

■水平歩行距離       13.3km

■累積登攀高度       1008m

■累積下降高度       1083m

■所要時間(休憩時間込み)
  鳥沢 発          10:06
  四方津着          16:24
  (所要時間)         6時間18分(6.30h)
  水平歩行速度    13.3km/6.30h=2.11km/h

[参考資料]
資料1;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%82%AB
                                                                         (おわり)

「関東・上信越の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/092ff5def4d45d9552b3a807e1dc5e77
「関東・上信越の山旅」の次回の記事
(なし)

閑話休題;駅弁回顧録(18):昭和56年大坂・新大阪駅「お弁当」

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                   <大坂駅・新大阪駅「お弁当」>

    閑話休題;駅弁回顧録(18):昭和56年大坂・新大阪駅「お弁当」

2013年5月1日(水)

 今日は昭和56年の大阪駅・新大阪駅の御弁当を取り上げることにしたい.
 昭和56年といえば,今から30年以上前のこと.
 その頃,私は某大手電機会社のコンピュータ部門の管理所であった.サラリーマン生活の中で一番脂がのっていた時代である.とにかく出張が多かった.特に大阪は頻繁に往復していた.
 私がサラリーマンになったばかりの昭和30年代後半から,新幹線が出来てからも暫くの間は,大阪出張といえば,往復とも夜行列車を使うのが普通だった.新幹線が出来た当初は,新幹線に乗るなど夢また夢だった.でも,さすがにこの弁当を賞味していた時代になると,大阪出張は当然新幹線利用の日帰りが普通になっていた.
 この駅弁を購入したときに,何が目的に大阪まで出張したのか,はっきりとは覚えていない.また,この駅弁の中味もハッキリ思え出せないが,多分,普通の幕の内だったような気がする.値段は600円,当時としても値段は安い方だったと思う.
 当時,すでに自宅を鎌倉に移していた私は,大阪に出張するとなると,往復とも小田原に停車する新幹線ひかりを利用することが多かった.
 この駅弁包装紙を眺めていると,あの頃の私は使命感に満ちていて,実に充実していたなと懐かしく思い出す.
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この駅弁を賞味してから,幾星霜.今,私は鎌倉の辺境で閑居している.当時の私には,今の私の生き様など,到底予想することなど不可能だった.
 あの頃,私はまだ幼い子ども3人を抱えて,公私ともに多忙で,慌ただしい毎日を送っていた.
 今は,ときどき我が家を訪れる孫どもを相手に,平々凡々の生活を送っている.
 でも,この駅弁の包装紙を眺めていると,また,もう一度,何かに没頭して,濃密な時間を過ごしてみたいという衝動に駆られる.
                                       (つづく)

「駅弁回顧録」の前回の記事 
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3c7d892ab2d9c95a1fd3adae57034884
「駅弁回顧録」の次回の記事
(編集中)


<編集後記>

 今日は,1週間ぶりに塔ノ岳に出掛けたいなと思っていたが,出掛ける時間の5時頃,冷たい雨が降っている.天気予報で,この雨は間もなく上がることも分かってはいたが,やっぱり雨の中出掛ける気にはどうしてもならない.
 さて,今日一日何をしようか.
 今,朝,6時.優柔不断な私は,今日の予定を決められないでいる.
 多分,午前中は稲の中でゴチャゴチャと何かをしてて,午後から大船辺りまでコーヒーの飲みに出掛けるだけで,今日一日は終わるんだろうな.情けないヤツだな,オマエは…

韋駄天のTさん塔ノ岳登頂2000回が朝日新聞の記事に…

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    韋駄天のTさん塔ノ岳登頂2000回が朝日新聞の記事に…

2013年5月2日(木)

 このブログでもお馴染みの「韋駄天のTさん」が朝日新聞の取材を受けて,今日(5月2日)の新聞に記事が掲載された.
 朝日新聞13版24ページ「第2神奈川」
です.
 新聞に韋駄天のTさんの実名が出てしまったので,もうこのブログでも「韋駄天のTさん」というあだ名を使う必要はないかも知れませんが,まあ,実名は出さないことにします.
 冒頭の写真は,この新聞の記事に掲載されたものですが,私のボロカメラで写して拡大したのでボケボケですが,まあ雰囲気ぐらいは分かるかと思います.
 お一人がバンザイの代わりに御弁当を抱えているのが,実に良いですね.
 不肖FHも同行していましたので,この写真のどこかに掲載されています.その他,このブログでお馴染みのゲザンシュタインさん,大三郎さん,鵠沼さん,キャベツのTさんなどが写っています.
 取りあえずは,新聞記事をスキャナーで読み取ったものを転載致します.


 私のスキャナーではA4サイズまでしか読み取れませんので,記事の一部が欠けていますが,およその感じはお分かり頂けるかと思います. 
 新聞記事には,Tさんが塔ノ岳登山を始めた動機,沢山の山の知り合いが出来たこと,無理をせずに楽しんでいることなどが掲載されています.
 なお,当日ご一緒したときの様子は,私のブログの次の記事でとりあげております.
                        ↓
  http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e20ce5261747b7e10b695f2011555f16
ご高覧頂ければ幸いです.
 とりあえずご報告まで.


「丹沢の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e20ce5261747b7e10b695f2011555f16
「丹沢の山旅」の次回の記事
(なし)

 

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