<田中の石造仁王様>
善光寺街道;第2回;第2日目(2);滋野と田中宿
(五十三次洛遊会)
2015年10月27日(火)~2016年10月29日(木)
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↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a9e7fd4f9c91b4a2efec4066dd636b1c
第2日目;2015年8月26日(水) (つづき) 晴
<ルート地図>
■2日目全体図
←クリック拡大
■滋野から田中宿へ
←クリック拡大
■田中宿詳細図
←クリック拡大
<滋野乙を行く>
■まずは出発点の力士雷電之碑へ
私達は,7時55分,ジャンボタクシー相乗りで小諸グランドキャッスルホテルを出発する.国道18号線を経由して,8時10分に,2日目の出発点,力士雷電之碑の前に到着する.
各自,足のストレッチを軽くしてから.力士雷電之碑から歩き出す.
<力士雷電之碑>
■明治天皇御小休所碑
8時12分,進行方向左手,明治天皇御小休所碑の前を通過する.大きな松の木の下に立派な碑が立っている.
<明治天皇御小休所碑>
■蔵造りの長屋門
ほぼ真っ直ぐに伸びる長閑な滋野乙の集落を歩いている.ところどころに見事に紅葉した大木が生えている.
8時34分,蔵造りの長屋門のある旧家の前を通過する.この旧家の前で左折すると,中山道望月に至る道筋になる.
<見事に紅葉した大木> <蔵造りの長屋門のある旧家>
■筆塚
8時37分,紅葉し始めた大木の前を通過して,8時39分,民家の前に置かれた筆塚に到着する.
大きな石に筆塚と刻字されている.この筆塚の由来などは,手許の資料では不明.
<紅葉し始めた大木> <筆塚>
<田中宿に入る>
■所沢川を渡る
8時42分,所沢川に架かる加沢橋を渡る.そしてすぐ先の右手にある加沢簡易郵便局の前を通過する.この辺りは旧加沢村,現在の東御市,つまり田中宿にあたる.
<加沢橋> <加沢簡易郵便局>
■伊豆宮公園
8時53分,伊豆宮公園に到着する.
公園右手の奥に立派な鳥居が見えている.これは県(あがた)諏訪神社の鳥居である.私達は公園はともかくとして,まずは県諏訪神社に向かう.
<伊豆宮公園>
■県諏訪神社・摺臼宮
鳥居を潜って,参道奥にある県諏訪神社社殿に到着する.ここで参拝を済ませて休憩を取る.
張碓宮は,洪水によって流された臼がこの地に漂着したことが縁で,この場所が繁栄したため,諏訪神社を勧請したのが始まりだという.
<県諏訪神社・摺臼宮>
<東御市文化会館・丸山晩霞記念館>
■常田南交差点を右折
休憩を終えて,9時丁度に県諏訪神社を出発する.
資料1によれば,県諏訪神社の反対側に芭蕉の句碑がある筈だが,見つけることができないので,そのまま通過する.この句碑には,
”あかあかと 日はつれなくも 秋の風”
という句が刻まれているという.
9時11分,常田南交差点に到着する.ここを右折して,東御市文化会館・丸山晩霞記念館方面に向かう.化粧タイルで舗装された歩道が続く登り坂である.
<常田南交差点>
■法善寺
ダラダラと続く坂道を登って,9時14分,法善寺に到着する.序でと言っては差し障りがあるかもしれないが,街道筋からは離れているがお参りをする.
なお,この寺にはこの地方出身の水彩画家丸山晩霞の絵が飾られていると聞いている.
<法善寺本堂>
■東御市文化会館・丸山晩霞記念館
9時35分,東御市文化会館・丸山晩霞記念館に到着する.
今日は日の巡りが良くないのか,文化会館は閑散としている.また丸山晩霞記念館は展示品の整理中のため,公開はしていないとのこと.
折角,ここまで来たので,回廊に展示されている絵だけを拝見する.
<東御市文化会館・丸山晩霞記念館入口>
■丸山晩霞の絵
係員に,
「折角,関東くんだりから来たのだから,通路にある絵だけでも見せて下さい…」
とお願いして,通路に飾られている絵を数枚見せてもらう.
丸山晩霞は,山岳を題材にした日本で最初の水彩画家だと言われている.私も山の絵を好んで画くが,この丸山晩霞の絵の素晴らしさに圧倒される.ただ,照明の具合と私のバカデジカメのお陰で本物の絵とは些か異なる色調にしか写らないが…
偶然だが,私もこの絵とほぼ同じ場所から,槍ヶ岳を望む絵を画いて,某展覧会に出展したことがある.しかし,その差は歴然.もっとも比較すること自体が烏滸がましい話だが…
もし私が旅の途中でなければ,ここに暫く留まって模写してみたいなと思うぐらい改めて感動する.
<丸山晩霞の山の絵>
■学芸員のお手を煩わす
挽歌の絵を拝見してから,文化会館裏手にある公園で,暫く休憩を取る.
休憩を取っている間に,先ほど受付にいた係員が,
「…学芸員に来てもらいましたので,説明を致します…」
とのこと.
余計な時間を取りたくなかったが,お断りするのも気が引ける.こんなことになったのも誰かさんの不用意な発言がキッカケだが,折角のご厚意を断ったら,この地方に地縁のある私のメンツが潰れる.
有り難くこの申し出をお受けして,学芸員に,
「…では,なるべく手短に…10分ぐらいでお願いできますか?」
「それは無理です.30~40分掛かります」
とつれないことを言う.私は内心で,
”マイッタナ,困ったな”
でも,係員のご厚意には感謝しなければ…私の気分は複雑である.
内心では,予定していたスケジュールが遅れてしまうことを気にしながら説明を受ける.予定外の時間が掛かるので内心ではヤキモキするが…
ただ,今日のメンバーの大半は,丸山晩霞などには無関心であろう.そんな方々に,30分を超える時間を患わせてしまい,とても申し訳ない.
<学芸員の説明>
<田中宿>
■長久寺
10時26分,東御市文化会館を後にする.
想定外の説明会が入ったために,当初予定していたスケジュールより30分あまりビハインドになる.私,内心で予定通り歩けるかどうか,焦り始めている.
善光寺街道を目指して,往路を引き返す.ほどほどの下り坂なので,歩行速度は快調である.
10時36分,長久寺に到着する.参道から写真を撮っただけで通過する.長久寺縁起は未調査なので分からない.
<長久寺>
■石造大権現
善光寺街道(東部望月線)に戻り右折する.西へ200メートルほど歩いたところに,「田中の石造仁王像0.1km」という案内杭がある.
「100メートルぐらいなら,大した距離ではないので言ってみましょう…」
ということで,杭の前で右折して住宅地内の路地を北に向かう.
10時42分,路地の突き当たりに広場がある.広場には常夜灯や滑り台などの遊具がある,その一角に石造大権現が安置されている.
<田中の石造仁王様案内杭> <石造大権現>
■薬師堂・石造仁王様
住宅地を抜けると一寸した広場になっている.そこにお社が建っている.薬師堂である.お社の前には朱色の仁王様が2体置かれている.
境内にある案内板の記事によると,寛保2年(1742年)7~8月の大雨による土石流で,田中宿は完全に流されてしまい,宿場機能を海野宿に写さざるを得なかった.その後,田中宿の復旧には60年の歳月を要したという.なお寛保2年には,関東地方全域が大洪水に見舞われたという記録がある.
参拝後,往路を善光寺街道まで戻る.
<田中の石造仁王様>
■脇本陣
善光寺街道に戻る.
この辺りの善光寺街道は,すっかり近代化されていて,広々とした歩道付きの道路に変わってしまい,昔の面影は全くなくなっている.
これは全くの個人的な感想だが,正直なところ,歩いていても面白くも何ともない.どこに田中らしさがあるのか私には理解できない.私には平凡な田舎町にしか見えない…が,そんな私の感想などどうでもいいことだ.
さて,田中宿の本陣跡は何処だろうかと探しながら歩くが,ついつい見落としてしまう.
10時50分,脇本陣跡木屋に到着する.脇本陣跡は真新しい商店になっているようである.真新しい建物では,あまり魅力が湧かないので,写真を撮っただけで通過する.
<脇本陣木屋>
■田中駅と枡形跡
10時51分,しなの鉄道田中駅前の交差点に到着する.小綺麗な街並みだが,平凡な東京郊外の駅と全く同じ雰囲気であり,私には旅情の片鱗も感じない.私ごとき一介の旅人の感想など,どうでも良いことかも知れないが,その土地固有の情緒溢れる都市作りをしたらもっと良いのにと勝手に思っている.
この交差点は枡形の跡でもある.道路は右に鋭角に曲がった後,すぐに左に曲がり返す.
<近代的な田中駅前・枡形跡>
■田中の将軍地蔵
枡形の角に田中の将軍地蔵が安置されている.この像は東御市指定有形文化財である.
傍らに立っている案内板の説明によれば,天明6年(1786年)に作られたもの.将軍地蔵は悪行や煩悩を破り勝つという仏で,防火神としても信仰されているという.
<田中の将軍地蔵>
<海野宿へ>
■海野宿の道標
10時53分,「ここは田中・海野宿まで1.6km」の道標の前を通過する.さらに,11時丁度に,歩道橋下に設置された「海野宿まで1.2km」の前を通過する.
いよいよ海野宿が間近である.
<海野宿1.6kmの道標> <海野宿1.2kmの道標>
■田中小学校
11時05分,求女橋を渡る.赤い歩道の橋が並んでいる短い橋である.橋を渡ってすぐ,進行方向右側に田中小学校がある.
校門の両側にあるイチョウが見事に色付いている.素晴らしい環境の小学校である.
<田中小学校>
■柳哉句碑
11時10分,三分沢に架かる三分橋を渡る.続いて.11時14分,柳哉句碑に到着する.
”痩せたまま 遂に石間の 草枯るゝ”
という句が刻まれている.
資料1によると,柳哉は明治時代の俳人とのこと.傍らに立っている案内板の説明によると,第2世浮世庵柳哉と号する人物で,明治14年(1881年),ご当地,三分で生まれた.
<柳哉句碑>
■電車が通る
11時14分,善光寺街道と並行している「しなの鉄道」の線路を小諸行の電車が走っている.電車とネコに出会ったら,必ず写真を撮ることにしている私は,すかさずこの電車の写真を撮る.
緑豊かな路線を走る格好の良い電車である.ちょっと古い電車だが…
<小諸行の電車が走る>
■可愛いネコ2匹
11時18分,道端で日向ぼっこをしているネコ,2匹を見つける.母ネコと子ネコだろうか.顔つきが良く似ている.とにかく可愛い.これは,もう,写真を撮るしかない.
時間があれば,暫くネコと戯れていたいが残念.
<可愛いネコ2匹>
■踏切を渡る
11時19分,しなの鉄道第2北国街道踏切を渡る.踏切の脇に「ここは本海野」「海野宿250m」と書いてある杭が並んで立っている.
この踏切を渡ると,海野宿まで後僅かである.
<踏切を渡る>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
(つづく)
次の記事
↓
(編集中)
「善光寺街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d34e361d25dde7b588c7d9c4ec9c18e4
「善光寺街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8c004862363c76427109d9a7c4030243
【参考資料】
「善光寺西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺西街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f71644979892cd488cd56360b380d188
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(五十三次洛遊会)
2015年10月27日(火)~2016年10月29日(木)
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第2日目;2015年8月26日(水) (つづき) 晴
<ルート地図>
■2日目全体図
←クリック拡大
■滋野から田中宿へ
←クリック拡大
■田中宿詳細図
←クリック拡大
<滋野乙を行く>
■まずは出発点の力士雷電之碑へ
私達は,7時55分,ジャンボタクシー相乗りで小諸グランドキャッスルホテルを出発する.国道18号線を経由して,8時10分に,2日目の出発点,力士雷電之碑の前に到着する.
各自,足のストレッチを軽くしてから.力士雷電之碑から歩き出す.
<力士雷電之碑>
■明治天皇御小休所碑
8時12分,進行方向左手,明治天皇御小休所碑の前を通過する.大きな松の木の下に立派な碑が立っている.
<明治天皇御小休所碑>
■蔵造りの長屋門
ほぼ真っ直ぐに伸びる長閑な滋野乙の集落を歩いている.ところどころに見事に紅葉した大木が生えている.
8時34分,蔵造りの長屋門のある旧家の前を通過する.この旧家の前で左折すると,中山道望月に至る道筋になる.
<見事に紅葉した大木> <蔵造りの長屋門のある旧家>
■筆塚
8時37分,紅葉し始めた大木の前を通過して,8時39分,民家の前に置かれた筆塚に到着する.
大きな石に筆塚と刻字されている.この筆塚の由来などは,手許の資料では不明.
<紅葉し始めた大木> <筆塚>
<田中宿に入る>
■所沢川を渡る
8時42分,所沢川に架かる加沢橋を渡る.そしてすぐ先の右手にある加沢簡易郵便局の前を通過する.この辺りは旧加沢村,現在の東御市,つまり田中宿にあたる.
<加沢橋> <加沢簡易郵便局>
■伊豆宮公園
8時53分,伊豆宮公園に到着する.
公園右手の奥に立派な鳥居が見えている.これは県(あがた)諏訪神社の鳥居である.私達は公園はともかくとして,まずは県諏訪神社に向かう.
<伊豆宮公園>
■県諏訪神社・摺臼宮
鳥居を潜って,参道奥にある県諏訪神社社殿に到着する.ここで参拝を済ませて休憩を取る.
張碓宮は,洪水によって流された臼がこの地に漂着したことが縁で,この場所が繁栄したため,諏訪神社を勧請したのが始まりだという.
<県諏訪神社・摺臼宮>
<東御市文化会館・丸山晩霞記念館>
■常田南交差点を右折
休憩を終えて,9時丁度に県諏訪神社を出発する.
資料1によれば,県諏訪神社の反対側に芭蕉の句碑がある筈だが,見つけることができないので,そのまま通過する.この句碑には,
”あかあかと 日はつれなくも 秋の風”
という句が刻まれているという.
9時11分,常田南交差点に到着する.ここを右折して,東御市文化会館・丸山晩霞記念館方面に向かう.化粧タイルで舗装された歩道が続く登り坂である.
<常田南交差点>
■法善寺
ダラダラと続く坂道を登って,9時14分,法善寺に到着する.序でと言っては差し障りがあるかもしれないが,街道筋からは離れているがお参りをする.
なお,この寺にはこの地方出身の水彩画家丸山晩霞の絵が飾られていると聞いている.
<法善寺本堂>
■東御市文化会館・丸山晩霞記念館
9時35分,東御市文化会館・丸山晩霞記念館に到着する.
今日は日の巡りが良くないのか,文化会館は閑散としている.また丸山晩霞記念館は展示品の整理中のため,公開はしていないとのこと.
折角,ここまで来たので,回廊に展示されている絵だけを拝見する.
<東御市文化会館・丸山晩霞記念館入口>
■丸山晩霞の絵
係員に,
「折角,関東くんだりから来たのだから,通路にある絵だけでも見せて下さい…」
とお願いして,通路に飾られている絵を数枚見せてもらう.
丸山晩霞は,山岳を題材にした日本で最初の水彩画家だと言われている.私も山の絵を好んで画くが,この丸山晩霞の絵の素晴らしさに圧倒される.ただ,照明の具合と私のバカデジカメのお陰で本物の絵とは些か異なる色調にしか写らないが…
偶然だが,私もこの絵とほぼ同じ場所から,槍ヶ岳を望む絵を画いて,某展覧会に出展したことがある.しかし,その差は歴然.もっとも比較すること自体が烏滸がましい話だが…
もし私が旅の途中でなければ,ここに暫く留まって模写してみたいなと思うぐらい改めて感動する.
<丸山晩霞の山の絵>
■学芸員のお手を煩わす
挽歌の絵を拝見してから,文化会館裏手にある公園で,暫く休憩を取る.
休憩を取っている間に,先ほど受付にいた係員が,
「…学芸員に来てもらいましたので,説明を致します…」
とのこと.
余計な時間を取りたくなかったが,お断りするのも気が引ける.こんなことになったのも誰かさんの不用意な発言がキッカケだが,折角のご厚意を断ったら,この地方に地縁のある私のメンツが潰れる.
有り難くこの申し出をお受けして,学芸員に,
「…では,なるべく手短に…10分ぐらいでお願いできますか?」
「それは無理です.30~40分掛かります」
とつれないことを言う.私は内心で,
”マイッタナ,困ったな”
でも,係員のご厚意には感謝しなければ…私の気分は複雑である.
内心では,予定していたスケジュールが遅れてしまうことを気にしながら説明を受ける.予定外の時間が掛かるので内心ではヤキモキするが…
ただ,今日のメンバーの大半は,丸山晩霞などには無関心であろう.そんな方々に,30分を超える時間を患わせてしまい,とても申し訳ない.
<学芸員の説明>
<田中宿>
■長久寺
10時26分,東御市文化会館を後にする.
想定外の説明会が入ったために,当初予定していたスケジュールより30分あまりビハインドになる.私,内心で予定通り歩けるかどうか,焦り始めている.
善光寺街道を目指して,往路を引き返す.ほどほどの下り坂なので,歩行速度は快調である.
10時36分,長久寺に到着する.参道から写真を撮っただけで通過する.長久寺縁起は未調査なので分からない.
<長久寺>
■石造大権現
善光寺街道(東部望月線)に戻り右折する.西へ200メートルほど歩いたところに,「田中の石造仁王像0.1km」という案内杭がある.
「100メートルぐらいなら,大した距離ではないので言ってみましょう…」
ということで,杭の前で右折して住宅地内の路地を北に向かう.
10時42分,路地の突き当たりに広場がある.広場には常夜灯や滑り台などの遊具がある,その一角に石造大権現が安置されている.
<田中の石造仁王様案内杭> <石造大権現>
■薬師堂・石造仁王様
住宅地を抜けると一寸した広場になっている.そこにお社が建っている.薬師堂である.お社の前には朱色の仁王様が2体置かれている.
境内にある案内板の記事によると,寛保2年(1742年)7~8月の大雨による土石流で,田中宿は完全に流されてしまい,宿場機能を海野宿に写さざるを得なかった.その後,田中宿の復旧には60年の歳月を要したという.なお寛保2年には,関東地方全域が大洪水に見舞われたという記録がある.
参拝後,往路を善光寺街道まで戻る.
<田中の石造仁王様>
■脇本陣
善光寺街道に戻る.
この辺りの善光寺街道は,すっかり近代化されていて,広々とした歩道付きの道路に変わってしまい,昔の面影は全くなくなっている.
これは全くの個人的な感想だが,正直なところ,歩いていても面白くも何ともない.どこに田中らしさがあるのか私には理解できない.私には平凡な田舎町にしか見えない…が,そんな私の感想などどうでもいいことだ.
さて,田中宿の本陣跡は何処だろうかと探しながら歩くが,ついつい見落としてしまう.
10時50分,脇本陣跡木屋に到着する.脇本陣跡は真新しい商店になっているようである.真新しい建物では,あまり魅力が湧かないので,写真を撮っただけで通過する.
<脇本陣木屋>
■田中駅と枡形跡
10時51分,しなの鉄道田中駅前の交差点に到着する.小綺麗な街並みだが,平凡な東京郊外の駅と全く同じ雰囲気であり,私には旅情の片鱗も感じない.私ごとき一介の旅人の感想など,どうでも良いことかも知れないが,その土地固有の情緒溢れる都市作りをしたらもっと良いのにと勝手に思っている.
この交差点は枡形の跡でもある.道路は右に鋭角に曲がった後,すぐに左に曲がり返す.
<近代的な田中駅前・枡形跡>
■田中の将軍地蔵
枡形の角に田中の将軍地蔵が安置されている.この像は東御市指定有形文化財である.
傍らに立っている案内板の説明によれば,天明6年(1786年)に作られたもの.将軍地蔵は悪行や煩悩を破り勝つという仏で,防火神としても信仰されているという.
<田中の将軍地蔵>
<海野宿へ>
■海野宿の道標
10時53分,「ここは田中・海野宿まで1.6km」の道標の前を通過する.さらに,11時丁度に,歩道橋下に設置された「海野宿まで1.2km」の前を通過する.
いよいよ海野宿が間近である.
<海野宿1.6kmの道標> <海野宿1.2kmの道標>
■田中小学校
11時05分,求女橋を渡る.赤い歩道の橋が並んでいる短い橋である.橋を渡ってすぐ,進行方向右側に田中小学校がある.
校門の両側にあるイチョウが見事に色付いている.素晴らしい環境の小学校である.
<田中小学校>
■柳哉句碑
11時10分,三分沢に架かる三分橋を渡る.続いて.11時14分,柳哉句碑に到着する.
”痩せたまま 遂に石間の 草枯るゝ”
という句が刻まれている.
資料1によると,柳哉は明治時代の俳人とのこと.傍らに立っている案内板の説明によると,第2世浮世庵柳哉と号する人物で,明治14年(1881年),ご当地,三分で生まれた.
<柳哉句碑>
■電車が通る
11時14分,善光寺街道と並行している「しなの鉄道」の線路を小諸行の電車が走っている.電車とネコに出会ったら,必ず写真を撮ることにしている私は,すかさずこの電車の写真を撮る.
緑豊かな路線を走る格好の良い電車である.ちょっと古い電車だが…
<小諸行の電車が走る>
■可愛いネコ2匹
11時18分,道端で日向ぼっこをしているネコ,2匹を見つける.母ネコと子ネコだろうか.顔つきが良く似ている.とにかく可愛い.これは,もう,写真を撮るしかない.
時間があれば,暫くネコと戯れていたいが残念.
<可愛いネコ2匹>
■踏切を渡る
11時19分,しなの鉄道第2北国街道踏切を渡る.踏切の脇に「ここは本海野」「海野宿250m」と書いてある杭が並んで立っている.
この踏切を渡ると,海野宿まで後僅かである.
<踏切を渡る>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
(つづく)
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「善光寺街道」の索引
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【参考資料】
「善光寺西街道」の目次
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「善光寺西街道」の索引
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