<飛騨金山駅「飛騨の栗こわい」>
趣味三昧;駅弁回顧録:昭和53年飛騨金山駅「栗こわい」
2015年8月30日(日)曇
※駅弁回顧録のつづき
つい先日まで蒸し暑い日が続いていたかと思ったら,ここ数日は涼しさを通り越して,むしろ寒いぐらいの日々が続いてる.
数日前から海外駐在中の息子が,仕事で日本の中部地方の某所に帰国中だったが,その仕事も金曜日に終わって,深夜,鎌倉の我が家に帰宅.土曜日1日を我が家で過ごした後,日曜日の朝,また海外の駐在場所に移動する.
そんなわけで,土曜日には塔ノ岳に登ろうかと思っていたが,折角息子が帰国しているのに留守にするわけにもいかな.という理由で,このところ2日間ばかりは家族付き合いに専念する.
忙中閑ありで,家に籠もる時間が長ければ,ぞれだけ色々な作業が捗るので,家に籠もるのも案外メリットがあるなと思いながら過ごしている.
そこで,今日は長い間放りっぱなしになっている駅弁回顧録を少しだけ先へ進めることにしたい.
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昭和53年3月8日に戻る
この日,私は高山本線で富山から名古屋に向かっていた.
この頃の私は40才台後半,サラリーマン人生の中で一番脂がのっていた時代である.私は某大手企業でコンピュータ関係の仕事をしていた.
富山でのしんどい用事を済ませて,やっと高山本線の列車に乗った.名古屋経由で東京へ帰宅する途中で,この駅弁を購入した.
茫々幾星霜,この駅弁の中味がどんなものだったかは全く思い出せない.ただ,この駅弁の包み紙をみていると,元気溌剌と社業に従事していた頃のことを懐かしく思い出す.
当時私は,汎用中型コンピュータのシステムエンジニアリング部門に所属していた.この頃,ちょうどデータ通信という言葉が流行し始めていた.昭和46年に特定通信回線の共同利用が可能になりデータ通信が飛躍的に発展し始めた時代でもあった.同時に複数のコンピュータを相互に接続したコンピュータネットワークが普及し始め,いわゆる付加価値通信もが喧伝され始めた時代でもあった.
そういえば,当時,富山には日本のコンピュータネットワークの最先端を突っ走る有名な計算センタがあったが,今はどうなっているんだろうか?
私は,この駅弁の包装紙を眺めながら,あの頃のことを懐かしく思い出している.
(つづく)
「駅弁回顧録」の前回の記事
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(なし)
「駅弁回顧録」の目次
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