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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(5)鶴川宿から野田尻宿へ

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    歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(5)鶴川宿から野田尻宿へ
                     (五十三次洛遊会)
         2013年7月7日(日) つづき

<ルート地図>


※再掲



<鶴川宿を行く>

■鶴川宿の概要
 資料2(p.298)によると,鶴川宿の宿内人口は295人.内,男151人,女144人.宿内惣家数57軒.内,本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠81軒.宿並びは2町30間と小規模な宿場だったようである.
 資料1によると,鶴川宿には甲州道中唯一の川越河川があった.旅人にとって,川越し人足の方が怖かったという.団十郎一座も,ここで川に突き落とされたということである.一説には団十郎は武田家の流れを汲み,川越人足は小山田家の家臣筋にあたるところからの因縁だとも言われているようである.冬は仮橋が架かったという.

■いよいよ鶴川宿
 14時02分に鶴川橋を渡る.いよいよ江戸日本橋から19次の鶴川宿に入る.
 橋を渡り終えるとすぐに鶴川の右岸沿いのなだらかな急坂になる.坂道に差し掛かると「筒川宿」の案内板が立っている.
 普通の気温なら,この程度の登り坂は平坦な道と同じような調子で歩けるが,今日は桁外れの蒸し暑さである.こんな緩やかな坂でも登るのがシンドイ.

<いよいよ鶴川橋>

■鶴川神社
 14時11分,鶴川神社の参道に到着する.参道の奥に鶴川神社の立派な鳥居が見えているが,わざわざ立ち寄る気力がないので,そのまま通過してしまう.
 帰宅後,インターネットで鶴川神社の由来や故事来歴を調べたが,今のところ確かな情報は見つからないままである.

<鶴川神社>

■本陣跡と脇本陣跡
 14時13分,「加藤」という表札のある家の前を通過する.表札の写真を撮らせて戴いたが,個人宅なので,ブログに掲載するのは止めておこう.
 資料2(p.298)には,「川端春恵氏宅は昔の脇本陣跡,反対側は問屋若松屋だった加藤幹一郎家.100メートル先左手の富田文弥氏宅が本陣跡…」という説明がある.
 蒸し暑さの雨にボ〜ッとしていたためかも知れないが,これらの所在をはっきり確認できないまま,通過してしまう.
 14時15分,甲州道中は舗装道路から左手に分岐する.閑静な砂利道になる.
 
<砂利道を行く>

■路傍の道標
 緩やかな登り坂が続く.風が通らないので蒸し暑い道である.
 14時15分,板切れに「旧甲州■…■」と書いてある道標が立っている.■…■の部分は消えていて読めないが,私たちが間違いなく旧甲州街道を歩いていることが確認できる.

<路傍の道標> 

■木陰で堪らず休憩
 14時25分,わずかな木陰を見付ける.暑さに堪らず,この木陰で給水休憩を取る.家を出るときには水筒に水を入れたはずなのに,今は生ぬるいお湯になっている.
 休憩をしながら地図を眺める.今日の終点,西光寺はまだまだ先である.
 改めてメンバーの様子を見る.正直なところ,全員が予想外の暑さにバテ気味である.でも,無理をしないように絶えず気を付けているし,水分補給も計画的に行っているので,まあ,元気だと言えよう.
 “皆さん,お孫さんが居られるジイサン,バアサンなのに,よくまあ元気で歩いておられるなぁ…!”
 自分のことはさておいて,本当に凄いことだなと再認識する.世の中のジイサン,バアサンが全員今日のメンバーのように元気なら,健康保険の医療費負担も随分と少なくなるだろうなとぼんやり考える.

<またまた木陰で給水休憩>

■長閑な田園風景
 5分ほど休憩を取ってから,再び歩き出す.前方には素晴らしい田園風景が広がっている.
 「春にこの辺りを歩いたら素晴らしいでしょうね…」
と話し合いながら歩き続ける.

<長閑な田園風景が広がる>

■鳶ヶ崎橋
 やがて道路は緩やかな登り坂になる.道路の両側には夏草が勢いよく繁茂している.木立の中の道は,曲がりくねりながら次第に高度を上げている.その内に,どこからともなく自動車の騒音が聞こえ始める.
 14時30分,高速道路中央道に突き当たる.緑の木立に覆われた道路から,いきなり直射日光が眩しい舗装道路に飛び出たので,頭がクラクラする.
 ここから,暫くの間,高速道路沿いのかんかん照りの舗装道路を歩く.まるでフライパンの中で引っかき回されている焼き肉になったような気分である.前方には鳶ヶ崎橋が見えている.
 「あの橋を渡ります…」
と皆さんに伝えるが,見えているのに結構遠い.橋の袂まで登り坂なのが辛い.
 14時35分,ようやく鳶ヶ崎橋を渡る.

<鳶ヶ崎橋が見える>

■大椚一里塚跡
 14時40分,大椚一里塚跡に到着する.ちょっとした公園風の広場の真ん中に,「大椚一里塚跡」という刻字のある立派な石塔が立っている.江戸日本橋から19里目の一里塚である.

<大椚一里塚跡>

■またまた休憩
 大椚一里塚近くの木陰で,またまたへたり込むようにして休憩を取る.
 休憩を取りながら,私は頭の中でこれからの行程を予想する.地図を確かめると,ここから今日の終点,西光寺まで,後4〜5キロメートルである.西光寺近くのバス停から四方津駅行のバスの発車時刻は16時34分である.まだ,バスの発車時間まで2時間近くの余裕がある.
 “ならば,ユックリ歩いても,十分に時間はあるな…よし,よし”
と胸算用をする.
 「余り長く休むと歩けなくなりますから,そろそろ歩きましょう」
と一同を促す.5分ほどの休憩で再び歩き出す.
 それにしても暑いなぁ〜…

<木陰でへたり込むようにして休憩を取る>

■立派な石標
 14時46分,一里塚の近く,道路沿いに立派な石標があるる.石標には大きな字で「鶴川宿」と刻字されている.
 ここで鶴川宿は終わりとなる.私たちは,いよいよ野田尻宿へと歩き続ける.

<鶴川宿と刻字された石塔>

<大椚間ノ宿>

■廿三夜塔
 鶴川宿の石標を過ぎて間もなく.14時49分に廿三夜塔に到着する.素晴らしく立派な石塔である.

<廿三夜塔>

■大椚宿発祥の碑
 14時54分,「大椚宿発祥の地」の案内杭に到着する.小さなお社の中に石塔が祀られている.その隣には宝篋印塔でも五輪塔でもない形をした傘のある石塔が立っている.
 大椚間ノ宿は,この辺りにあったんだろうと思われる.

<大椚間ノ宿発祥の地>

■石塔群
 14時56分,道路が緩やかに左にカーブするところ,進行方向右手に石塔群がある.下の写真は石塔群の半分ほどを撮したものである.
 何時もならば,どんな石塔が並んでいるのか見て回るところだが.今日はそれほどの気力もない.薄らボンヤリと眺めただけで通り過ごす.

<石塔群>

■吾妻神社
 石塔群と道を挟んで反対側に吾妻神社がある.立派な鳥居が立っている.ここでも石段を登る元気がないので,石段には登らずに,下から写真を撮るだけに止める.
 資料2(p.298)によると,「吾妻神社境内に椚の古木が1本あった.この椚が村の名前になった」という説明がある.
 鳥居から向かって右側に観音堂がある.

<吾妻神社>

■渋滞の高速道路と長峰砦跡
 緩やかな登り坂を進む.進行方向左手に見えている送電鉄塔を過ぎる頃から,今度は緩やかな下り坂になる.そして直ぐに前方の視界が開ける.右手に中央高速道路が見下ろせる.折から日曜日の午後である.東京方面上り車線は自動車がビッシリ詰まっている.私たちが緩やかな坂道を下っている間,自動車の列はピクとも動かない.大変な渋滞である.
 地図で確かめると,高速道路の向こう側に見える小高い丘に長峰砦があったようである.


■芭蕉の句碑・濁池と長峰砦碑
 坂道を下り終えると,今度は登り坂になる.大した勾配でもないのに,メチャ暑いために,一寸した登り坂でも億劫である.15時13分,
 進行方向左手に濁池の説明板が立っている.説明板の後ろに芭蕉の句碑があるようだが,のう歩くのも億劫になっているので,わざわざ芭蕉の句碑までいってみようという奇特な人はいない.
 なお,資料2(p.298)によれば,濁池は中央高速道路の建設工事の際に埋められて消失してしまった.
 すぐ隣に,長峰砦碑が立っている.
 資料3には,「長峰砦についての歴史の詳細は不明だが,戦国期に上野原の加藤丹後守が,その出城として築いたといわれる.現在は中央自動車道の工事によって消滅し,かたわらに石碑があるのみである. 工事に先立つ発掘調査によって郭,堀切,横堀の跡が見つかった.また尾根筋を縫うように幅1m余りの道路跡が断続的に確認され,江戸期の「甲州街道」に相当すると見られている〔現地解説板より 上野原市教育委員会〕」という説明がある.

<長峰砦碑>

<野田尻宿>

■野田尻宿の概要
 資料2(p.299)によると,「野田尻宿の宿内人口は607人.内,男313人,女294人.宿内惣家数118軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠9軒の規模である.野田尻は垈尻(ぬたじり)とも書くらしい.野田尻宿は中央高速の北側高台にあった.
 「明治19年の大火で,昔の面影を残す家はほとんどなくなった.西の外れ「明治天皇御小休所址」の石標が立つところが本陣跡の吉田てる氏宅だが,家は建て変わっている」という.
 なお,帰宅後,インターネットで野田尻宿の情報を探したが,今のところ,これといった情報には接していない.

■野田尻宿の標識と新栗原橋
 右手に中央高速道路を見ながら,坂道をノタノタと登り続ける.前方右手には,中有高速道路の上を横断する新栗原橋が見えている.
 15時18分,進行方向左手に,新栗原橋の所に,「これより甲州街道野田尻宿」と墨書した標識が立っている.
 新栗原橋を渡る.いよいよ今回の最終宿場,野田尻である.
 橋の上から,高速道路を見下ろす.下り線はスムーズに流れているが,東京方面に向かい上り線は車がビッシリ詰まったまま全く動いていない.

<野田尻宿の標識>

■本陣跡
 15時33分,明治天皇御小休所址と刻字された立派な石柱が立っている空き地に到着する.
 資料2(p.298)によれば,ここが野田尻宿の本陣があったところである.

<野田尻本陣跡>

■野田尻宿の看板
 野田尻の集落の中を,蒸し暑さに耐えながら,ノソノソと歩き続ける.やがて前方にこんもりとした森が見え始める.
 “あそこに神社か寺があるぞ”
と直感する.
 15時33分,「旧甲州街道野田尻宿」の看板前に到着する.
 ”やれ,やれ,ヤットコサ,野田尻に着いたぞ”
 これが偽りのない気持ちである.ここでトイレ休憩.もっとも,この暑さ.私はいくら水分を補給しても汗になって出て行ってしまうので,結局トイレには行かずじまいである.
 改めて振り返ると,今日は是までに1.5リットル以上の水分を摂っているようである.

<野田尻宿に到着>

■犬島神社
 野田尻宿の看板の直ぐ近くに犬島神社の参道がある.
 参道から神社を覗くと社殿が見えている.もう,クタクタなのでお社の前まで歩くのも面倒である.そこで,参道の入口で軽く手を合わせただけで拝観は省略する.
 帰宅後犬島神社の由来などをインターネットで調べたが,今のところあまよ良く分からない. 

<犬島神社>

■西光寺
 犬島神社の境内で一休みしようかという話も出たが,直ぐ隣に今回の終点,西光寺があるので,西光寺で休憩しようと言うことになる.
 犬島神社前の道は,ほんの少し先で西光寺に突き当たる.ほんのわずかな距離でも登り坂である.暑さで疲労困憊の身には,よっとの登りでも堪える.ウンコラ,ウンコラ登って,15時39分,ヤットコサ西光寺に到着する.
 資料1によると,西光寺は天長元年(1824年)創建の臨済宗建長寺派の寺院である.昭和40年に現在地に移転したという.また,西光寺は甲斐国88か所霊場7番札所になっている.

<西光寺>

<大団円>

■西光寺前でバンザイ!
 15時40分,西光寺参道前に全員が集合する.
 ONリーダから締めくくりの挨拶がある.その後,全員にやらせのバンザイをして貰い写真をとる.やらせバンザイのためか,それとも度が過ぎた暑さのためか,何となく疲労感漂う方も居られるが,でも,まあ,この暑さの中,私も含めてオジイチャン,オバアチャン,ご苦労様でした.

<本日の完歩を祝してバンザイ>

[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/nagaminetoridekai.htm 
                                   
                                                                                            (つづく)
「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0e715802677aac9f4e49120aba42ac86
「甲州道中」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8ac7de0a29b8001c16bdf1321296a2c2
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58

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