<能満寺からの眺望;ここから黒船を見たかもしれない>
『鎌倉学』事始め(第2回);フィールドワーク(1)(浦賀~鴨居)
2015年5月25日(月) 曇
前回(第1回の記事)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5b026b3d1e372386372bd584bd0186d3
<ルート地図>
■浦賀地区
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<浦賀駅へ>
■少々早めに出発
今日は某大学公開講座『鎌倉学』第2回目フィールドワークの開催日である.心配だった天気予報は,朝の内は晴,午後は曇りがちだが,何とか雨にはならずに済みそうである.ただ沿岸部は所によってにわか雨というご託宣である.
集合は浦賀駅12時.昼食を摂るには少々中途半端な時間である.
"コンビニでニギリメシでも買って,どこかで食べよう…"
ということで,ナップザックにノート類,折りたたみ傘を入れて,9時過ぎに自宅を出る.
何時もならば大船駅まで約7000歩の道をブラブラ歩きをするところだが,今日は自重して路線バスを利用する.
少々早めに大船駅に到着.ルミネ1階のドトールでコーヒーを賞味しながら時間調整をする.大船駅界隈は,まだ10時前後なのに,もう沢山の人たちで賑わっている.コーヒーショップもやっと座席を確保するほどの賑わいである.
”さて,京浜急行の浦賀へ行くには,どこを経由すれば楽なんだろう…”
私はコーヒーを飲みながら,予めインターネットで調べたいくつかの経路のどれで行こうかと迷う.でも結局はなるべく人混みに揉まれないように新逗子駅経由のルートで行くことにする.
■浦賀へ
大船駅10時14分発逗子行の電車に乗車する.逗子駅から京急の新逗子駅まで歩き,新逗子10時44分エアポート成田行電車に乗車,金沢八景駅で打つ電車浦賀行の電車に乗り換える.
11時26分,浦賀駅に到着する.私にとって浦賀まで足を延ばすのは多分2度目,もうかれこれ10数年前に,船の進水式を見物するために浦賀ドックを訪れたことがあるだけ.
駅前には既に事務局の方が来られている.受付を済ませてから,駅周辺を少し散策してみようと思う.
まず驚いたのは浦賀駅が崖上の高い所にあることだ.改札口から見て左手の「く」の字の下り坂道を降りるとバス停がある.
まだ集合時間まで,少し間があるので,私はバス停のベンチに座って,大船のコンビニで購入したオニギリ2個を平らげる.これで昼食は十分である.
<浦賀駅前>
<腰越の会津藩士墓地>
■駅前からバス停観音崎へ
集合時間の10時に全員が揃う.講師のUM先生が,
「…12時丁度のバスに乗ります…」
と参加者全員に檄を飛ばす.
バスは定刻12時丁度に発車する.車内は満席.数人の乗客が立っている程度の混雑である.
どこを通っているのか,土地勘のない私には,あまりよ苦分からないが,進行方向左手には崖が連続する.沿道には大きなマンションが何棟も建っている.ときどき海が進行方向右手に顔を出す.
12時11分,バス停観音崎に到着する.
<浦賀駅前で京急バスに乗車> <バス停観音崎到着>
■案内板に沿って…
バスを降りてから,バス通りに沿って,ほんの100メートルほど歩いたところに「会津藩士墓地」の案内板が立っている.ここでバス通りから左手に分岐する路地に入る.小川の岸に設置されたフェンスに沿って,立ち並ぶ戸建て住宅の前を歩く.
<この案内板に沿って川沿いの路地に入る> <戸建て住宅の前を歩く>
■曲がりくねった急坂を登る
12時15分,三叉路の端に立つ2本目の「会津藩士の墓」案内杭に到着する.
ここから,案内杭の指示に従って,極めて急な階段を登る.階段はそれほど長いわけではないが,結構きつい階段である.
<2本目の案内杭> <急な登り階段を行く>
■腰越の会津藩士墓地
12時17分,山の中腹にある会津藩士墓地に到着する.目見当で500平方メートルほどの平地に沢山の墓石が並んでいる.
ここでは著作権の問題もあるので.講師のUM先生の講義内容を披露するわけにはいかないが.傍らに立っている案内板の記事を紹介することにしよう(途中要約;文責当ブログ筆者).
「ここには会津藩士および家族の墓23基が存在する.文化7年(1810年)藩主松平容堂が瀑布の命令を受けて,三浦半島の海岸警備ならびに台場(砲台)構築の任務にあたった.これは出没する外国船に対して,江戸城防衛のための緊急の大事であった.
幕府は敢えて会津藩にこの任務を命じたのは,同藩の信頼が厚かったからである.会津藩は,家老西郷頼母以下800余名の藩士およびその家族を同年11月に送り込んだ.そして,観音崎,浦賀平根山,城ヶ島に台場を構築した.
文政3年(1820年)12月にその任務を解かれたが,異境の地で10年間にわたる生活は厳しいものだったに違いない.いま三浦半島に8箇所(鴨居西徳寺,能満寺,走水円照寺など)に存在する墓石がそれを如実に物語っている.なお,地元横須賀の人々も働いていた.
嘉永6年(1853年)には,ペリーが浦賀に来航し回国への道をすすむ.この会津藩士墓地は回国という大きな歴史の流れの中で江戸湾(東京湾)および三浦半島」を守るために活躍した藩士と幕末の横須賀を知る上で貴重な史跡である.」
私は一人の鎌倉市民として,文化7年には鎌倉では何があったのかに興味がある.鎌倉の年表を見ると,前年の文化6年(1809年)には手広の入口に「江の島道」の道標が建てられた.そして翌々の文化8年には,手広にも「江の島道」の道標が建てられている.そして文化11年(1814年)には建長寺法堂が建立された.
鎌倉でこのようなことが行われている間に,会津藩は三浦半島の先端の地で悪戦苦闘していたことに気がつく.
<腰越の会津藩士墓地>
■一段上の広場の墓地
12時36分,ここから,狭くて急な階段道を1~2分登って,一段上の墓地に登る.そこにも数基の墓石が並んでいる.
狭いところなので,全員が一度に登ることができないので,交代で墓地を見学する.
12時40分,会津藩墓地の見学を終えて,往路を下る.
<高橋家から海を眺める>
■腰越川に沿って
会津墓地から往路を戻る.
12時42分,バス通りにある先ほどの会津藩士墓地の案内板まで戻る.バス通りを横断して,腰越川に沿って,狭い路地を右に左に折れ曲がりながら進む.たちまちの内に,私には何処を歩いているのか全く分からなくなる.
分からないまま,23時48分,高橋勝七宅に到着する.
<腰越川を渡る> <曲がりくねった路地を行く>
■会津藩の陣屋;高橋家
道順は正確にトレースすることはできなかったが,12時47分,高橋氏宅に到着する.
ここが手持ちの地図の中で,どの辺に位置するか正確には分からないが,高橋家の前に案内板が立っている.
その案内板には以下のような図が掲示されている.なおこの図は『日本博覧図関東編』(明治27年)発行の銅板画だという.
<高橋家付近の鳥瞰図>
■若松町の産みの親高橋勝七
この案内板の記事を要約すると,以下の通りである(文責当ブログ筆者).
「高橋家は鴨居にあった合図藩の陣屋,若松屋の世話をした.高橋勝七は横須賀中央周辺の海面の埋め立てを行い若松町と命名された.勝七は第5代浦賀町長,郡会議長などを歴任,明治37年(1904年)衆議院議員になった.
彼は浦賀銀行などの取締役も努め,横須賀の政治,経済界で活躍した.太平洋戦争中,昭和天皇の弟宮高松宮様が宿泊された.」
12時50分,高橋家の門前から歩き始める.ここから何処を通ったか,正確にはトレースできないが,12時54分,国道(縣道かな?)269号線沿いのバス停腰越を通過する.
<高橋家> <バス停腰越を通過>
<八幡神社から聖徳寺へ>
■八幡神社
13時丁度に八幡神社前を通過する.私個人としてはちょっと立ち寄りたかったが残念,社殿の写真を急いで撮る.
境内に立っている「八幡神社由緒」によれば,祭神は言うまでもなく誉田別尊(応神天皇),三浦大介義明第4子多々良四郎由晴が養和元年(1181年)に鶴岡八幡宮を勧請した.明治6年(1873年),村社に列せられた」.
鎌倉では,1181年に文覚上人が補陀楽寺を建立したと伝えられる.
<八幡神社> <バス停鴨居>
■聖徳寺
13時05分,長い石段を登って聖徳寺本堂前に到着する.
本堂前に掲示されている案内板によると,この寺は鎌倉の光明寺の末寺として,永禄3年(1560年)法誉性上人が開山した寺である.和田義盛が戦勝祈願した「和田地蔵」が祀られているという.
境内には樹齢400年以上のイヌマキ,ビャクシンがあり,三浦半島の名木.古木50選に選ばれている.
裏山には和田義盛の剃刀塚や,会津藩士の墓11基,その中には白虎隊の身内の墓もあるという.
鎌倉在住の私としては,和田義盛の剃刀塚には,ぜひ,寄ってみたいと思ったが,今回は会津藩士の墓がテーマなので,我が儘を言い出すのは止めておく.
<急階段を登る> <聖徳寺本堂>
<聖徳寺裏山の会津藩士の墓>
■山の尾根を目指す
本堂前を通過して裏山へ向かう.墓地の中に「会津藩士の墓直進です」と書いた案内板がある.そのさきは,足場の悪い急な登り坂になる.いくら半月板故障中の私でも,山に親しんでいれば,ごく簡単な登り坂である.でも,平素,山道を歩いていない一部の方には,かなり手強い坂のようである.
<会津藩士の墓の案内板> <急な登り坂>
■会津藩士の墓
13時11分,ようやく裏山の尾根に到着する.尾根の広場に,先ほどの説明板の説明にあった会津藩士の墓11基が並んでいる.
どの墓もどうやら海の方を向いて立っているようである.
ここで講師の説明を伺う.そのちょっとの間に,あちらこちらヤブ蚊に刺されてしまう.
"デング熱大丈夫だろうな…"
<会津藩士の墓> <墓には縷々経緯が刻まれている>
<能満寺からの眺望>
■能満寺
13時19分,会津墓地を出発する.先ほどの登り口とは反対側を下る.こちらの下り坂はそれほど急傾斜でもなく.ものの1分ほどで住宅地に降り立つ.
13時25分,中の台中学校の前を通過する.なぜか人の気配が全く感じられない,廃校になったのかな…でも,まあ,どっちでもいいや,
13時25分,能満寺の山門前を通過する.この寺の曰く因縁は全く分からないままである.
”わからないでも,まあ,いいか…”
<中の台中学校> <能満寺>
■素晴らしい眺望
能満寺の境内に沿って,右折して細い道に入る.この道の突き当たりから下りの階段道になる.
階段道の降り口から,一望の下に東京湾が見える(冒頭の写真).
「ここから黒船が見えたんでしょうね…」
と講師のUM先生が言う.
私は,
”たった4杯で夜も眠れず…か”
と妙な連想をしながら,この風景をデジカメに収める.
<素晴らしい眺望>
■バス停鴨居から浦賀駅へ
素晴らしい眺望を楽しんでから階段道を下る.結構長い下り坂である.
階段を下り切ると住宅地の中の路地に入る.ここからの道順も良く分からないが,13時40分,バス停鴨居に到着する.
13時45分,鴨居から路線バスに乗車する.運良く全員が座れる.
13時52分,浦賀駅に戻る.浦賀駅から京急電車で県立大学まで移動する予定である.
「一番前の車両に乗って下さい…」
という講師の指示に従って,一番前の車両に乗車する.
<バス停鴨居> <浦賀駅>
(つづく)
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(編集中)
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