<峠を登り始めると天園風景が広がる>
善光寺西街道;第1回;第3日目(1);峠口から問屋原へ
(五十三次洛遊会)
2014年4月24日(金)~26日(日)
第3日目;2015年4月26日(日)
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<ルート地図>
■第3日目全体図
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■刈谷原峠
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<ホテルの朝>
■爽やかな朝食
例によって,早朝から目が覚めてしまう.でも,ビジネスホテル1人部屋の気安さから,早朝からテレビを見たり,今日の行程の地図を眺めたりしながら,グダグダと時間を潰す.
朝食は,7時からだが.同行の皆さんが早めにロビーに降りられるので,私も皆さんの合わせて6時50分頃ロビーに向かう.
6時50分頃,初老のウエイトレスが,
「…お待たせ致しました…」
と愛想良く私達を出迎える.
ウエイトレスの愛想の良さがとても嬉しい.
相変わらずのバイキング形式だが,とにかくネーベンの種類が豊富なので嬉しくなる.
一同,2箇所の席に座って,温和しく食事を摂る.
<爽やかな気分で朝食だ>
■私の朝食
下の写真が,私の朝食.
また,例によって,少し取り過ぎたかな.でも,まあ,この程度ならバランスもマアマアだし,摂取カロリーも訂正だろう.ちょっと塩分が多いかな.それはともかく,美味しく頂戴する.
仕上げはコーヒーだ.
<私の朝食>
<峠口から問屋原へ>
■松本駅前から峠口まで
食事は30分弱で終わる.一旦,部屋に戻って,歯磨きなど済ませる.
7時45分,ホテルロビーに集まる.
7時50分,松本駅アルプス口タクシー乗り場から,2台のタクシーに分乗して,昨日の終点まで移動することにする.
そのとき,女性のどなたかが,
「…女性が先に乗りましょう」
と言っているのが聞こえる.
私は少々「ムッ…」とする.
“女性優先は分かっているよ,でも,そんなこと女性が先に言い出すのははしたないな…それに先に乗っても良いが,昨日の場所へちゃんとナビゲーションしてくれるの…”
結果的には私達世話役を買って出ている連中が先頭のタクシーに乗車する.
タクシーで移動する途中て,昨日通った記憶のある場所を何カ所も通過する.半日掛けてヘトヘトになって歩いた距離をいとも簡単に通過していく.
その内に,終点間際で間違った道に入り込むなど,ちょっとしたハプニングがあったが,8時15分,今日の出発点である峠口に到着する.
<峠口近くに到着> <昨日の終点まで移動>
■軽くストレッチをして歩き出す
8時18分,昨日の終点に到着する.ここで,軽くストレッチを行ってから,8時26分に歩き始める.
最初から緩やかな登り道である.歩き出してすぐに.昨日通った畦道の向こうにコンビニが見え始める.あのコンビニの脇にあるバス停から松本まで路線バスに乗って移動した.
8時35分,立派な道祖神の前を通過する.
資料1の地図を見ると,これから暫くの間は舗装道路が続くはずである.
<昨日立ち寄ったコンビニが見える> <立派な道祖神>
■問屋の跡
8時35分,中部北陸自然歩道の標識の前を通過する.標識脇の案内板の記事によると,ここは問屋場の跡である.「…慶長10年(1605年),松本藩が所(ところ)氏を問屋職に任命した.所氏は50年間交通運輸の業務に当たった…」という説明が書いてある.
周囲は長閑な雰囲気になる.あちらこちらで季節の花が咲いている.
<問屋の跡> <路傍は花盛り>
■問屋原の池
谷間の道を登り続ける.所々に民家が点在する,正に今は春爛漫.この辺りは問屋原というようである.
美しい花を眺めながら,ユックリ,ユックリと,緩やかな坂道を登り続ける.
8時38分,問屋原の池に到着する.どうやら潅漑用の池のようである.池の先には大きな山が見えているが,何という山か良く分からない.私達は周囲の風景を楽しみながら,坂道を登り続ける.
<花に囲まれた民家> <問屋原の池>
■墓と石塔
8時36分,進行方向左手の土手の上に沢山の石塔が並んでいる場所に到着する,どうやら墓のようである.
さらにその先に立派な石塔2基が立っている.何の石塔か良く分からない.
<多数の石塔;墓らしい> <立派な石塔2基>
■信濃百と廻国供養塔
8時41分,信濃国百という刻字のある石塔の前に立つ.信濃国百とは? 私には良く分からない.
信濃国百のすぐ先右手に廻国供養塔が立っている.
<信濃百> <廻国供養塔>
<刈谷原峠へ>
■山間の三叉路
8時43分,山間の三叉路に到着する.
三叉路には,中部北陸自然歩道の標識の他に,沢山の案内標識が賑やかに立っている.
“この辺り,辺鄙なところだとばかり思っていたが,意外に多くの人が訪れるところのようだな…”
というのが率直な感想である.
三叉路には2枚の案内板が設置されている.
<山間の三叉路>
■刈谷原峠と馬飼峠
2枚の案内板の内,1枚には,私達がこれから登る刈谷原峠と,ここで分岐する馬飼峠の説明が書いてある.
この説明文によると,岡田地区と四賀地区を結ぶ三つの道路,刈谷原峠,馬飼峠,それに稲倉峠(江戸道)がある.
この説明文によると,私達がこれから目指す刈谷原峠は急峻なために,明治14年(1881年)に馬飼峠が開通した.この馬飼峠がわが国初の有料道路だという.
もう一枚の説明文には,鎧塚と秋葉神社のことが記されている.
残念ながら鎧塚はどこにあるのかはっきり分からないし,秋葉神社は街道から少し名慣れた場所にあるので参拝,見学は省略する.
この記事によると,鎧塚は織田徳川の連合軍に敗れた武田勝頼が天目山で自害した.勝頼の首もしくは鎧を,伊深城の武将小宮山織部の息子が埋めた場所と伝えられるが,史実ではないだろうとのことである.なお,この塚から古銭と兜が出土したという.
秋葉神社は松本の市街地が一望できるところに祀られているという.ちょっと足を延ばしてみたい気もするが,これから峠越えを控えているので,参拝は省略する.
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■分岐点一休み
私達は,ほんの数分,分岐点で給水休憩を取る.いよいよこれからが第1回目のハイライトである刈谷峠越えが始まる.
先導役をしている私も,通ったことがない峠である.果たして全員が無事に通過できるかに一抹の不安があるのは否めない.とはいえ,今のところ皆さん元気なようである.
もっとも,実のところ,私自身も右足膝がまだ完全に完治しているわけではない.果たして私の右膝だって,峠越えに絶えられるかどうか分かったものではない.そのために,リュックの中には小型のストックを忍ばさせているが,できればストックなど使いたくない.
<分岐点で給水休憩>
■ゲートを潜る
ほんの1~2分の休憩の後,三叉路の右手の道に入る.これが刈谷原峠に繋がる道である.
8時48分,突然,目の前に金網のゲートが現れる.一瞬,通行止めかなと思ったが,動物除けのようである.
鍵を開けてゲートを通過する.そして最後の人が鍵を閉める.
いよいよ,これからが刈谷原峠である.
資料(pp.431-432)には,刈谷原峠の別名が「仇坂峠」であると説明している.この辺りの説明は「三十町の坂道を下ると「伊深」.古い民家が多く見られる集落で,ここを過ぎると岡田の宿に入って行く.」と記してあるだけで,素っ気ない.
<ゲートを通過すると刈谷原峠である>
(つづく)
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(編集中)
[参考資料]
資料1;完全踏査海道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
(つづく)
続きの記事
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「善光寺西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺西街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f71644979892cd488cd56360b380d188
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