<小仏峠山頂>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第4回);(3)小仏峠
(五十三次洛遊会)
2013年6月9日(日) 晴 (つづき)
<ルート地図>
※前掲図と同じ
<小仏バスターミナルから水垢離場まで>
■小仏バスターミナルを出発
JR高尾駅を8時56分に歩き出した私たちは,10時21分に小仏バスターミナルに到着する.ここは路線バスの終点,ここから先に行くバスはない.
まだ梅雨に入ったばかりだというのに,毎日晴天が続いていて,今日も決行蒸し暑い.私たちは建物の日影に入り込んで,暫くの間,休憩を取る.
5分ほどの休憩を終えて,10時29分,小仏バスターミナルから小仏峠を目指して歩き出す.
<小仏バスターミナルで休憩>
■浅川神社
小仏バスターミナルから先も,暫くの間.道幅は狭いが舗装道路が続く.
10時32分,浅川神社参道の前を通過する.辺りは深い森林である.参道は草道である.少し離れたところに鳥居が立っているのが見えているが,今回は参拝は省略する.
資料3によれば,「祭神大穴牟遅命(おおなむちのみこと),木之花開耶(このはなさくやひめのみこと).例祭日8月17日,天明4年(1784年)6月に小仏峠山上に奉斎した浅間社と麓に鎮座した子之社を明治45年(1912年)3月に合祀し,浅川神社と改称した.昭和43年(1968年)中央高速自動車道建設のため現在地に奉遷.境内地を湧水が流れ浅川の地名の起源とされているところから,浅川神社と名称を付した.水の神として崇敬されている.」という.
なお,浅川神社の社殿の写真や解説などは資料3を参照.
<浅川神社>
■宝珠寺
10時35分,浅川神社の直ぐ近くにある宝珠寺に到着する.
資料4には,「宝珠寺は,小仏峠の山裾にあり,15世紀の開基と伝わる臨済宗南禅寺派の寺で,断食道場としても知られている.本堂へ登る石段左手の斜面地には,都天然記念物のカゴノキの巨木が生え,ダイナミックに枝葉を広げていた.本堂はこぢんまりとした山寺らしい質素な風情だが,寺の脇を流れる小仏川(南浅川)上流の美しい小川のせせらぎが爽やかにこだまし,自然豊かで心安らぐ寺である.」と紹介されている.
また,資料1によれば,この寺は「行基が創建,小さな仏を安置したことから小仏の地名になった」という.また,「三度飛脚が文久2年(1862年)に寄進した常夜塔が立っている」という.
旅籠「三度屋」青木家(前回のブログ記事参照)の菩提寺でもある.
<宝珠寺>
■宝珠寺のカゴノキ
宝珠寺には東京都天然記念物カゴノキがあるというので見物する.このカゴノキは,通りから本堂まで登る石段の中腹,向かって左側に生えている.見上げるような大木である.
木の傍らに立つ案内板の記事によると,主幹は枯れたが,その周囲を枝幹が取り巻いて1束になっているようである.幹周りは4.3メートル,高さは13.0メートルである.根元から1.3メートル辺りから多くの枝が分岐している.
同説明文によると,カゴノキはクスヌキ科に属する常緑樹だという.
資料5によると,カゴノキは「鹿子の木」と書く.樹皮が鹿子模様に見えることからカゴノキと呼ばれる,本州(千葉以西),中国,四国,九州,沖縄,台湾,朝鮮半島南部に分布している.器具,楽器,床柱,薪炭の原料として使われるという.
<天然記念物のカゴノキ>
■宝珠寺の本堂
同行の皆さんが休憩を取っている間に,私は石段を駆け上って,本堂の写真を撮る.こぢんまりした建物だが,沢山の樹木に囲まれた静寂な感じが漂っている.
本堂とその周辺の写真を大急ぎで数枚撮って,すぐに石段を下りて,グループに合流する.
<宝珠寺の本堂>
■宝珠寺で休憩
宝珠寺の第一印象は深い森に囲まれた静寂の寺である.
私たちは緑陰の中で,暫時,立ち休憩を取る.
<宝珠寺で休憩>
■無人スタンドで品定め
10時37分,宝珠寺を出発する.深い木立の中の道を歩き続ける.
10時41分,民家の軒先にある無人スタンドで足を止める.台の上に梅干しや漬物などが並べてある.どれも1パック200円程度.私には高いのか安いのか良く分からない.どなたかが小梅漬けを1パック購入する.
すぐに,小梅1粒ずつ馳走になる.
蒸し暑い中を歩き続けてきた身体に,梅漬けの塩気が実に美味しい.
<無人スタンド>
■旧道(?)を這い上がる
やや急勾配の道を登り続ける.10時43分,道は高い崖に突き当たる,この崖を避けるように道は大きく右カーブし,さらにその先でヘヤピンで左カーブして,崖上10メートルほどの所を通過している.
資料1の地図を見ると,昔の中山道はこのヘヤピンカーブの所を直登しているようである.
「どこかに,昔の道の登り口はないかな…」
と思いながら,草むした崖を注意深く見上げる.すると,何となく踏み跡らしいものが見える.
すぐに,登り口らしいところが見つかる.
「よし! ここを登りましょう…」
夏草に覆われた急坂を這い上がる.途中に虎ロープが張ってあるが,大分古そうなので,
「ロープに頼らないで登って下さい…」
と一同に注意する.
登りきった所のガードレールには,ちゃんと扉が付いている.扉を開けて,
「ウンコラショ!」
と這い上がる.後から登ってくる人には,手を差し伸べて引っ張り上げる.
<旧道らしい所を這い上がる>
■水垢離場
10時52分,水垢離場に到着する.舗装道路はここで終わりになる.駐車場には沢山の自家用車が停車している.ここから先の山道も大分賑わっていそうである.
それにしても水垢離場とは! 多分,“ミズコリ”か“ミソギ”って読むんだろうなと想像する.
「いよいよここからが山道ですね.心を引き締めて参りましょう…」
ここは景信山登山口でもある.
余談だが…
資料6には“ミズコリ”について,次のような説明がある.
「垢離(こり)とは,神仏に祈願する時に,冷水を浴びる行為のこと.水垢離(みずごり),水行(すいぎょう)とも言う.垢離は漢語には見当たらず,純粋な和語と考えられている.
神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に,冷水を被り,自身が犯した大小さまざまな罪や穢れを洗い落とし,心身を清浄にすることである.神道でいう禊と同じであるが,仏教では主に修験道を中心に,禊ではなく水垢離などと呼ばれ行われることが多い.
特に修験道は,神仏習合の山岳信仰による影響から,この水垢離を行うことが多い.これらの垢離の行を「垢離を取る」,「垢離を掻く」などという.」
“なるほど…!”
<水垢離場に到着>
<いよいよ小仏峠>
■頑張ってはダメ! ユックリ登ろう!
11時37分,水垢離場を出発する.いよいよ車が通らない砂利道である.
足の弱い人には,絶えず
「頑張ってはダメ,頑張らないでユックリ登って…」
と言い続ける.
「ツアー会社の山行ではありません…事故が起きたとき,ツアー会社なら事務所に電話をして支援を求めることができるけど,私たちにはバックオフィスはありません.万一事故を起こしたら,その場に事故を起こした人を置いていくしか方法がありません.とにかく熱中症が怖いです.」
と何回も,お節介なことは承知の上で,
「頑張らないで…ユックリ登って…」
を繰り替えず.
私は別にリーダーでもないけれど…
でも,本当に,心底から仲間の事故が怖いのだ(一度,仲間の事故を経験しているので…).
“みんな,事故が怖いことを本当に分かっているんかしら…”
と心底から心配になる.
「額から汗が流れたり,ハアハア呼吸になるのは,完全にオーバーペースですよ! もっとユックリ!」
を繰り返す.それでも,山登りに馴れていない方々の歩行速度はどうしても速くなる.
“そんなに急いだら,すぐに疲れてしまうよ…”
この辺りの心配が,塔ノ岳ご常連と山に登るときと,決定的に違うところである.
<水垢離場から山道に入る>
■標高369メートルの標識
10時59分,「標高369.5m」と書いてある標識を通過する.
小仏峠の標高が560メートルなので,後,標高差で200メートル足らずである.どんなに遅いとしても,標高差200メートルを登るのに40分もあれば十分だろうと,私は胸算用をする.
「小仏峠で,少し早い昼食になりそうですね」
<標高369メートルの標識>
■水場
やがて,沢の右岸沿いのトラバース道になる.11時05分,進行方向右手の崖にある水場に到着する.地下水が直接湧き出ているようなので,この水は飲めそうである.
私は水に触らなかったが,どうやら冷たい水のようである.
<水場>
■小仏峠直前で休憩
11時23分,先頭を行くリーダーが,休憩を取ろうという.後,ほんの少しで小仏峠に到着するのに…と思ったが,休憩を取るには勿論異論はない.
道路に立ち止まって,11時25分まで,ほんの2分ばかり,立ち休憩を取る.
もう目の前に,峠の尾根が見えている.
<小仏峠直前で立ち休憩>
<小仏峠で昼食>
■小仏峠に到着
立ち休憩を終えて歩き出す.たった3分歩いただけで,11時28分に小仏峠に到着する.
峠は緑陰の心地よい広場になっている.高尾山や景信山から来たと思われるハイカーで賑わっている.ここでも山ガールが目立つ.
「少し早いですけど,ここで昼食にしましょう…」
ということになる.
<小仏峠に到着>
■木陰で昼食
小仏峠山頂のベンチに座って昼食を取ることにする.なぜか何時ものように,何となく女性群と男性群が分かれて座る.
まあ…,いいか.
私達が食事をしている間にも,沢山のハイカーが行き交っている.
前回,某旅行社主催の甲州道中の旅に参加したときは,雨の中,小仏峠を越えた.あのときは小屋の片隅で,寒さに震えながら昼食を取った.あのときの惨めさを,ありありと思い出す. あのときに較べれば,今日は少し蒸し暑いものの天気はまずまず.それにまだ厄介な蚊やアブも出ていない.今回は最高!
<小仏峠で昼食;男性群> <同女性群>
■小仏峠で記念写真
昼食後,
“折角だから,記念の集合写真を撮ろう!”
ということになる.
数人のカメラで交替に写真を撮る.
「写真,ブログに載せますよ…」
と全員の了承を得たのが下の写真である.
残念なことにシャッターを押してくれた某さんだけが写っていない.
ここに写っている皆さんは,数年前に実施した「歩いて巡る東海道五十三次」で,同じ釜の飯を食べた仲間である.さらに,ここに写っている大半の方々とは中山道中もご一緒している.その意味では,私にとって,とても貴重で大切なお仲間さんである.
私は,胸の内で,甲州道中の旅が終えたら,また,この方々と,どこかの街道の旅を続けたいなと思っている.
「そろそろ,出発しましょう」
ということで,12時丁度に小仏峠を出発,小原宿に向けて下山を開始する.
<小仏峠で集合写真>
(参考記事)小仏峠の概要
***次の文章は資料7より引用したものである***
1569年(永禄12年)に武田信玄が関東地方へ遠征した際,別動隊の小山田信茂は大月から八王子に向かった.これを迎え撃つ瀧山城の北条氏照は,当時一般的な経路だった奥多摩方面からの侵入を予想して戸倉城などに兵を派遣している.しかし小山田隊は小仏峠を越えてきたため,不意をつかれた北条軍は滝山城に籠城することになった.その後,小仏峠は甲斐国と武蔵国を結ぶ要路となり,滝山城の機能は新設の八王子城に転換し八王子の地名の由来となった.廃城の後は関所が置かれた.特に富士参詣の行者がここを越えることから、富士関とも呼ばれていた.
江戸時代には甲州街道のルートに指定されて交通の要所となり,小仏関が置かれた.しかし勾配が急で車道化が困難であったため,1888年(明治21年)に当時の国道16号(現在の国道20号号)は大垂水峠峠を経由するルートへ変更された.これによって小仏峠を通る通行者は激減した.一方,地形的にほぼ東西に直線的に貫いていることから,直線的なルートが望まれる中央自動車道とJR中央本線は,小仏峠の北側の山を小仏トンネルによって貫いて造られた.
現在は周辺の山々を巡るハイキングコースの要衝となっており,訪れる観光客は多く,通行止区間の近くまでバスも運行されている.峠にはかつて茶店があったが,営業休止中で廃屋と化している.1880年(明治13年)に明治天皇の山梨巡幸の際に作られた「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」の碑などがある.
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://hachiouji.ldblog.jp/archives/2689829.html
資料4;http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=14&id=545&mode=details
資料5;http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-kagonoki.htm
資料6;http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%B0%B4%E5%9E%A2%E9%9B%A2
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BB%8F%E5%B3%A0
(つづく)
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