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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る甲州道中四十四宿(第3回);(2)青柳から日野宿へ

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    歩いて巡る甲州道中四十四宿(第3回);(2)青柳から日野宿へ
                   (五十三次洛遊会)
          2013年5月6日(月・振替休日) つづき

<ルート地図>



<旧青柳村を行く>

■青柳常夜灯
 10時25分,青柳地蔵堂の近くにある青柳常夜灯に到着する.立派な常夜灯である.
 資料4の著者は国立市にホームぺージの記事を引用しながら,「常夜燈は「秋葉燈」とも呼ばれ,江戸時代に村を火難から守るために,古くから火防・鎮火の神として知られる秋葉神社(岡県 )の常夜燈を各村の油屋近辺に建てたもので,榛名参りなどの道しるべにもなった.この常夜灯は,寛政11年(1799年)に設置された.東側に「榛名大権現」,北側に「正一位稲荷大明神」.西側に「秋葉大権現」と刻まれており,青柳村の人々の生活と信仰が読み取れる貴重な資料である.講中が無くなる和 初期まで講中の人々が順番に番丁という五角形の回覧板を回して,毎晩燈篭に火を灯した.」という趣旨の説明をしている.
 この常夜灯の後ろに設置された案内板にも,同様な趣旨の記述がある.

<青柳常夜灯>

■青柳稲荷神社
 青柳常夜灯は,青柳稲荷神社参道入口に設置されている.参道入口から神社を眺めると,神社まではかなり長い道のりである.とても往復している時間は取れないので,残念ながら参拝は割愛して,先を急ぐことにする.
 それにしても,この神社の鳥居は不思議な形をしている.
 資料3(pp.45-46)によれば,この鳥居は明神鳥居の変形らしいが,柱の間にあるべき筈の「貫」がない.勿論,私ごとき素人がいろいろ言うべきではないが,それにしても不思議な形である.どうやらこの参道は生活道路になっているので,自動車が往来するのに不便だから柱の間の「貫」を取り外したのではないかと勝手に想像する.
 資料5によると,「『青柳村誌』によれば,青柳稲荷神社は1755年(宝暦5年)の創建.明治22年(1889年)の町村合併令で谷保村と合併される前は,青柳村の村社であったらしいが,以後は青柳・石田の両村の氏神としてまつられてきた.現存する本殿と拝殿は,国立市の登録有形文化財である.」という.

<青柳稲荷社の長い参道>

■馬頭観音
 10時23分,馬頭観音の前を通過する.大きな石に,少々変わった書体で「馬頭観音」と刻字してある.
 刻字の摩耗具合から,素人目には江戸末期のもののように見えるが,これは無責任な話,“信用する事なかれ”である,

<路傍の馬頭観音>

■甲州街道道標
 10時32分,信号日野橋に到着する.大きな道路が複雑に交わる五叉路である.方向を良く見ながら横断歩道を渡らないと,どこの道を進むのかが分からなくなりそうである.
 現在の国道から離れて,昔の中山道沿いの道に入ると,自動車の往来も殆どなくなり,随分と静かになる,
 数分進むと柴崎町の三叉路に突き当たる.
 三叉路に「旧甲州街道」と書かれた立派な案内板が立っている.これで,間違いなく中山道中を歩いていることが確認できた.私は内心で「ホッ」としている.

<旧甲州街道の案内板>

■日野渡し碑
 旧甲州街道は大きく左に曲がりながらの緩やかな下り勾配の道になる.
 10時48分,先ほど分岐した現在の甲州街道と交差する.そのまま交差点を横切って道なりに進んで,10時52分,日野渡し碑に到着する.
 ちょっとした広場の隅に船の形をした石碑が置かれている.
 資料1の説明によると,「初期の渡し場は下流の「石田の渡し」「方願寺の渡し」であったが,低地ゆえに度々洪水に見舞われ,慶安年間(1648〜1658年)に日野の渡しが設けられた」という.そして,「大正15年(1926年),日野橋が架橋され役目を終えた」という.

<日野渡し碑>

■馬頭観世音
 日野渡し碑と道を挟んで反対側に立派な馬頭観音など数基の石碑が立っている.日野渡しは,この直ぐ側の川岸にあったようである.
 私たちは,ここから堤防上の道路に登る.

<馬頭観音>

<多摩川を渡る>

■立日橋と多摩都市モノレール
 日野の渡し近くの堤防に登ると,多摩川に架かる立日橋と多摩都市モノレールの線路が見える.広々とした風景である.
 昔の渡しは,ここから対岸に向かっていたが,私たちは立日橋を渡って,昔の渡しを三角形に迂回する.

<立日橋と多摩都市モノレール>

■広々とした多摩川
 10時58分,立日橋を渡し始める.川下からやや強い風が吹いてくる.帽子を飛ばされないように注意しながら渡る.
 長い橋である.11時04分に漸く橋を渡り終える.この橋を渡るのに6分を要したことになる.

<広々とした多摩川を渡る>

■日野渡船場跡
 橋を渡り終えてから土手道を100メートル近く下流に向かって歩くと,日野渡船場跡の案内板がある.
 ここには,「武士,僧侶,宿人は無賃で,渡しの権利は日野宿が管轄していた…」
という趣旨の説明が書かれている.


<日野渡船場跡>

■多摩都市モノレールの電車
 「日野渡船場跡」の説明板からヘアピンカーブで,土手下の道に入って,橋の下を潜る.いよいよ,私たちは日野宿に到着である.
 丁度そのとき,頭上を多摩都市モノレールの電車が近付いてくる.山とネコと電車の写真は撮れるときに撮っておくのが私の流儀である.勿論,多摩都市モノレールの写真もバッチリである.
 写真を撮りながら,ついつい私の家の近くを通る湘南モノレールと比較してしまう.こちらのモノレールは線路の上に乗っかっているのに,湘南モノレールは線路にぶら下がっている.こっちは複線なのに,湘南モノレールは単線.列車編成はこちらが4両なのに,湘南モノレールは3両.インターネットで調べてみると,路線の長さも多摩都市モノレールの方が長いし,列車の本数も多摩モノレールの方が多い.だから,湘南モノレールの負け.ちょっと悔しい.
 “そんなこと比較して,どうするの?”
と心の中のもう一人の私が,私を諭す.
 “ご尤も!.”

<格好いい多摩都市モノレールの電車>

<日野宿>

■日野宿の概要
 資料2(p.275)によると,日野宿の宿内人口は1556人.内,男796人,女760人.宿内惣家数432軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠20軒だったという.
 資料6によれば,「日野宿(ひのじゅく)は甲州街道の5番目の宿場町であり,日野市の前身である.宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで,八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれている.甲州街道は幾度か経路の変遷があるが,1685年以降,日野橋の開通までは,日野の渡しで多摩川を越え,東京都道149号立川日野線を南下し,新奥多摩街道入口信号で右折して東京都道256号八王子国立線を西進,日野駅前東交差点北側の日野不動産裏を左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋だった.
 本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている.その前の現在駐車場になっている辺りにあった長屋門を改装して佐野彦五郎が天然理心流の道場を開いた.この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である.近藤と土方歳三,沖田総司,井上源三郎,山南啓助ら新選組主要メンバーはここで出会った.この向かいに問屋場と高札場があったが,現在は石碑が建つのみである.前後の宿場は,府中 宿,日野宿,八王子宿となっている.」という(コピペで申し訳ない).
 なお,この資料6では,「日野宿は5番目の宿場」と記述されているが,布田五宿をそれぞれ独立した宿場として数えると10番目の宿場となる.冒頭の地図では「日野宿(10)」と表記したが,これは布田五宿を独立した宿場としてカウントしたからである.

■地蔵堂
 11時15分,三叉路に突き当たる.ここに「地蔵堂が建っている.傍らに大きな馬頭観世音の石塔が祀られている.地蔵堂に向かって左側には沢山の石仏が並んでいる.
 馬頭観世音の石柱には文化8年(1811年)に作られたことが記されている.

<地蔵堂>

■日野宿本陣(下の名主)
 地蔵堂前の三叉路を右折する.
 資料1によれば,この三叉路に古屋氏宅があるはずだが見当たらない.あるいは見落としているのかも知れないが,とにかく分からないまま先へ進む.
 10時20分,日野宿本陣跡(下の名主)に到着する.
 立派な門を潜って敷地の中に入る.本陣の中を見学するには見学料200円.資料1によると,ここの母屋は文久3年(1863年)に建築されたものだという.近藤勇が教授に来ていた場所だという.
 ここで,暫く休憩.希望者数名が見学料を支払って母屋の中に入る.私はわずかなお金をケチるわけではないが,前回の旅で中に入ったことがあるので,入館は遠慮.数名の方々と一緒に軒下で暫しの休憩を取る.

<日野宿本陣跡>

■上の名主
 11時37分,本陣跡(下の名主)の直ぐ隣にある「上の名主」佐藤家の前を通過する.資料1によると,ここには立派な長屋門があったという.

<上の名主>

■問屋場跡・高札場跡
 上の名主の直ぐ近くにある交差点を渡って,甲州街道の反対側にある問屋場跡と高札場跡に立ち寄る(10時40分).
 資料1によると,土方歳三の生家はこの近所だという.

<問屋場跡・高札場跡>

■日野宿交流館
 問屋場跡・高札場の直ぐ近くにある日野宿交流館に立ち寄る.
 交流館の中を拝見する.特段,興味をそそられるものは見当たらなかったが,日野市内観光地図を頂戴する.
 
<日野宿交流館>                               <交流館の内部>

■八坂神社
 10時45分,交流館を出発する.
 11時50分,八坂神社に到着する.ここで5分ほど参拝を兼ねて休憩を取る.
 資料7には,「応永5年(1398年),普門寺が開基され,牛頭天王社を管理するようになったとあるから,600年以上の歴史を持つ神社である.元亀元年(1570年),普門寺の移転と現在の甲州街道の道筋が定められたことから現在地に遷座した.」という説明がある.

<八坂神社>

■宝泉寺
 12時04分,宝泉寺に到着する.
 もう時間が押しているので,ほんの2分ほど境内を見て回っただけ.
 資料8によると,「宝泉寺は,臨済宗建長寺派の禅寺.開祖は鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚,創立は元徳年間(1330年頃)で,当初は姥久保(現新町,中央高速が通るあたり)にあったが,火災にあい,その後,現在の地に再建された.」とのことである.なお,「本堂は、平成13年5月に新築落慶し、境内も整備し直された」とのこと.

<宝泉寺>

■日野駅前で自由昼食
 12時12分,日野駅前に到着する.ここで,12時「45分頃まで,自由昼食を摂ることになる.
 私は,仲間3人と一緒に,駅近くの牛丼屋で280円也の「牛飯」を賞味する.これで朝昼の連続2食を丼物で済ませたことになる.

<日野駅に到着>

                                       (つづく)
[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;外山晴彦;サライ編集部(編),2002,『神社の見方』小学館
資料4;http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_k/?page_id=772
資料5:http://kunimachi.jp/kiji/2932
資料6:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AE%BF
資料7;http://shinsenhino.com/archives/spot/temple/050322014055.php
資料8;http://shinsenhino.com/archives/spot/temple/050322014848.php
                                     (つづく)
                                    
「甲州道中」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f52f19b5670625e080dfc9e602b4af87
「甲州道中」の次の記事
(編集中)

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