70年前の出来事;学生寮での赤痢の大流行
2020年7月11日(土) 曇一時雨
私は昭和一桁,信州生まれ.
終戦の年に,旧制中学に入学した.
戦後,占領軍の下で学制改革が断行され,旧制中学は○○中学校併設中学校というややこしい学校になり,その翌年(だったかな?)新制高校にまた変わった.
さて,最近の新型コロナウィルス騒ぎにかこつけて,今から約70年前の話を披露しようかと思う.
昭和26年春,私は生意気にも日本復興に役立ちたい一心で技術者になろうと決心した.
戦後,まもなく,地元の旧制高校は新制大学が誕生したが,,私は仙台の大学に進学した.今になって学費の大半を工面してくれた両親に感謝,感謝である.
なぜ仙台へ?
あの頃,東京はまだ焼け跡ばかり,物騒で大変な食糧難,田舎者の私には到底住めそうもない所だった.そこで,空襲は受けたものの,周囲を田んぼで囲まれてた仙台なら食糧難も幾らかマシだろうと思ったからだ.当時は偏差値なんて”へんてこりん”なものもなく,ごく穏やかに入学試験を受けていた. 余談だが・・・ 4月から授業が始まる.
先生の大部分が東北弁で授業する.ちょっとした外国へ行った気分だった.半年ぐらいはヒ東北弁のアリングで苦労した.当時はまだ旧制の大学生も在学中だったが,彼らに比較して,新制の私たちは,いかにもおぼこっぽくて,学力も彼らに遠く及ばなかった.とくに外国語(ドイツ語)の実力は絶望的な差があった. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さてここからが本題. 私は仙台市街地の北にある学生寮に入った.
当時の学生寮は,1部屋が6畳の和室と同じ広さの板の間がセットになっていて,それに2間(1.8m/間×2)の押入がついていた.
1部屋は6人定員.
プライバシィもヘッタクリもなかった.ついでに机はリンゴ箱だった.このリンゴ箱の中に全部の持ち物を入れていた.それに学生服,着替え1~2組.外出しないときは褞袍(どてら)姿.語学以外のほとんどの授業は教科書すらなかった. 寮は北寮,中寮,南寮の3棟2階建て.各階に何部屋あったか忘れたが多分5~6部屋以上あったかと思う.仮に5部屋として30人/階.従って, 6人/部屋×5部屋/階×2階/棟×3棟=180人 つまり少なくとも180人の学生が住んでいた.
各棟の両端には渡り廊下があり,片方の廊下の真ん中辺りに食堂,反対側の廊下の真ん中辺りには便所があった.もちろん鼻が曲がりそうな”ボットン!”方式.この便所にまつわる怖い怪談が語り継がれていて,正直,夜,便所に行くのは怖かった.
夜,便所へ行く途中の階段を通りかかると,屋根裏から真っ赤な血だらけの足が出てきて,
「足洗え~・・・」
という.そんな与太話,もちろん信じるほど馬鹿ではないが,それでも夜の便所は怖かった.それに昼間でも便所まで行くのが面倒だ・・・ということで,部屋の窓から一物を外へ・・・ジャー.・・という輩も居た.これを「寮雨(りょうう)」と呼んでいた. 冬になると一面の雪景色.でも「寮雨」が降り注ぐところだけは黄色く溶けていた.そして夏になると,他の場所とは明らかに異なる居丈高な雑草がそこだけに繁茂していた.
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こんな不衛生な環境も影響したのかな.昭和26年の夏(だったかな?),つまり私は1年生のとき,寮生の誰かが赤痢に罹患した. たちまちの内に,赤痢は,寮全体に伝染した. その途端,寮全体が隔離病院に早変わりし,赤痢に罹患している,いないには無関係に寮生全員が即禁足になってしまった.
寮には風呂がないので,平素は1週間に1回程度,徒歩で5分ほどのところにある風呂屋に出かけていたが,禁足中は風呂にも入れなかった.
何日おきかに医者が来て,全員を一カ所に集める.そして医師の前で一人ずつ尻を捲って,ガラス棒のような物を肛門から差し込んでサンプルを採取し(要するに検便),感染状況をチェックする. 当初,罹患していなかった私も,禁足のため,案の定,そのうちに赤痢になってしまった.でも,特段に薬が処方されることもなかった. 多分,3週間以上,こんな隔離状態が続いた.
ようやく解放されたときには,大分,痩せこけてしまった.長い間,まともに歩かなかったので,道を歩くのも覚束なくなっていた.やせた理由は,赤痢もあるが,禁足の間,配給米だけの生活が続いたことも大きな原因である.というのも平素は闇でコッペパンなど補食していたのに,禁足のため外で補食ができなかった.
もちろん,その間,風呂にも入っていないので,自分では気がつかないものの,多分,猛烈に臭くなっていただろうと思う.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 当時,街中はチフス,赤痢,トラコーマ等々伝染病が絶えず蔓延していた.ノミ,シラミがうようよ.そして,頭からDDTぶっ掛けられていた.もちろん,当時は,抗生物質は未開発.赤痢騒ぎで死人が出たかどうかは覚えていないが,私を始め軽傷者は自然治癒した. 余談だが,当時はメチールアルコールを飲んで死ぬ人もざらに居て,たいした新聞種にならなかった.
そんな不安定で満足に生きることもできなかった時代でも,いちいち「お上」(政府など行政のこと)に文句を言わずに,何とか自分で解決していた. 不謹慎な言いぐさかもしれないが,正直なところ,今のコロナ騒ぎは,あのころの「どうにでもなれ・・」の時代に比較すれば,ずいぶんと恵まれている.食料の心配もないし,入ろうと思えば毎日風呂にも入れる.タバコを吸う人が,道でモク拾いするほど困っていないし,マスクが足りないと言っても,その辺の布を使えば自分でもある程度の物は作れる・・・こんなに恵まれているのに何でいちいち・・・と,思ってしまう. こういう懐古趣味の文章を書くのは年寄りの悪い癖だ.
でもマスコミやジャーナリズムが諸事を針小棒大に騒ぎ立てているような気がしてならない.
いろいろあるけれども,とりあえずは今日明日の生活に困らないだけでもマシ.
「お上」にいちいち文句を言わずに,3密をさけることだけに専念し,できるだけ人に頼らずに何とかしなければ・・・と,私のような古い人間は思ってしまう.
「あれを手当てしろ,これを何とかしなさい・・・」は全部お金が掛かるので,結局,可愛い孫子の負担になってしまう.だからほどほどにしなければ・・・
以上は,たんなる瘋癲老人の愚痴話,耳障りだったらご容赦. (おわり)
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