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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る甲州道中四十四宿(第3回);(1)谷保駅と谷保天満宮

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                       <谷保天満宮の境内>

    歩いて巡る甲州道中四十四宿(第3回);(1)谷保駅と谷保天満宮
                   (五十三次洛遊会)
          2013年5月6日(月・振替休日)

<第3回の概要>

■第3回ルート地図


■第3回ルートの概要
 第2回の終着点の南武線谷保駅から歩き出して,中央本線高尾駅までの17.0キロメートルを歩く.
 谷保駅から日本橋から10番目の日野宿,11番目の八王子宿を経由して,高尾駅で解散する.
 参加者は五十三次洛遊会メンバー12名(男5名,女7名)である.

<ルート地図>



<朝から失態してしまう>

■まずは谷保駅へ
 年寄りになってから,好むと好まないにかかわらす,だんだんと朝早く目が覚めるようにな
ってくるのは,渡しだけなんだろうか.特に陽気が良くなり,朝が早く明けるようになると,この傾向がますます顕著になってくる.
 今朝も,3時過ぎから,特段の用事もないのに,ノコノコと起床する.そして,6時30分に,自宅近くを通る1番バスを待ちかねるようにして,大船駅に向かう.今日の集合場所は南武線の谷保駅,9時30分の集合だ(実は9時00分集合だったことが後で分かる).
 このまま真っ直ぐ谷保駅へ向かったのでは早すぎるので,自宅で朝食を摂るのを止めて,わざわざ大船駅前の牛丼吉野家に立ち寄って朝食を摂ることにする.食べた朝食は牛丼並280円也.
 大船7時16分発横須賀線東京行に乗車する.連休最終日で電車は混雑するだろうと思っていたが案外空いている.武蔵小杉で南武線立川行に乗り換える.電車には中学生ぐらいの生徒が沢山乗っていたが,南武線でも座席に座れる.
 座席に座ったのが,最初の失敗の原因だが,間もなく居眠りを開始する.途中2〜3回目が覚めたが,谷保はまだまだ先.油断してまた居眠り.そしてついに谷保駅を乗り越して,谷保より一つ先の矢川駅に8時23分に到着.同駅8時35分発の立川行電車に乗り,8時38分に谷保駅に到着する.
 
<居眠りして隣の矢川駅へ>                        <8時38分谷保駅に到着>

■まだ時間がタップリあるぞ…
 下車したホームから階段を登って,改札口に向かう.
 階段を登った突き当たりの壁に,「←谷保天満宮」と赤い大きな字で書いた案内板が張ってある.
 「あれっ!・・・谷保駅には出口が一つしかないと思っていたのに…反対側にもあるんだな…」
 こうなると,ついつい好奇心に攣られてしまう私は,集合場所とは反対側の階段を下りてしまう.後から考えると,おとなしく集合場所のある側の階段を降りていれば,集合時間の9時00分に十分まにあっていたのに…
 でも,このとき,私は,
 「…集合時間の9時30分には,まだ小一時間もあるぞ…ならば,どうせユックリ見学する時間が取れない谷保天満宮を拝観してしまおう…」
と決める.
 集合場所と反対側の階段を降りると,こぢんまりとした広場に続いて,閑静な公園がある.公園を抜けると,道幅がとても狭い曲がりくねった路地が民家の間を縫うように続いている.この路地を抜けると,谷保天満宮前の三叉路に到着する.

<谷保天満宮前の交差点>

<谷保天満宮;「野暮天」の語源になった神社>

■谷保天満宮の概念図
 次の図は谷保天満宮の概念図である(勿論,正確ではない).
 私は,この図の赤い線に沿って,ノンビリと独り歩きを楽しんだ.
 資料3によると,「東日本最古の天満宮であり,亀戸天満宮,湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる.南部鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため,地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったが,本来の読み方は「やぼ」である.江戸時代の著名な狂歌師の太田蜀山人(南畝)が,「神ならば 出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼのてんじん」と詠み,ここから「野暮天」または「ヤボ」の語を生じたと逸話に伝える.1908年(明治41年)8月1日,有栖川宮威仁親王の運転する「ダラック号」を先頭に,国産ガソリン自動車「タクリー号」3台など11台が隊列を組み,日本初のドライブツアーであるとされる甲州街道を立川までの遠乗会(当時の新聞では「自動車遠征隊」と呼ばれた)が行われた.谷保天満宮の梅林で昼食会が催され,いまも記念碑が残されている.」という解説がある.
 なお,同資料によると,「祭神は主祭の神菅原道真,配祀神は菅原道武,石土毘古神,天之日鷲命,倉稲魂命.境内社は第六天社,稲荷神社,蒼守稲荷神社,淡島神社,厳島神社,5社(稲荷神社,妙義神社,日吉神社,熊野神社,天照皇大神宮)」


             こちら側が谷保駅     

■自動車発祥の地
 境内に入って,谷保天満宮の案内板を見る.この案内板を見て,「谷保」の読み方が「ヤホ」ではなく「ヤボ」であることを初めて知る.もっともJRの谷保駅は,あくまで「ヤホ」駅だが…
 境内に入ってすぐ右手に「自動車発祥の地」という案内板がある.その脇にクラシックカーの模型が置かれている.面白い.多分,この車は有栖川宮威仁親王が乗られた自動車と同型のものだろうと想像される.
 ”こんな素敵な車でノンビリとドライブしてみたいな”
と,フト思う.今の冷暖房完備,地面の凸凹が感じられない自動車より,こちらの方が,ドライブしたら,よっぽど気持ちよさそうである.

<自動車発祥の地>

■鶏とハト
 この頃,谷保駅に集合した同行の皆さんは,何時も早々と集合場所に現れている私が,一向に到着しないので,どうしたんだろうと心配し始めていたに違いない.でも,集合時間を取り違えている私は,そんな事態には気がつかない.悠々ノンビリと谷保天満宮の見学を楽しむ積もりで居る.
 余談だが…
 なぜ,私が集合時間を9時30分と思い込んだかである.勿論,最大の原因は老化で頭が呆けてきたことであろう.…で,これからは言い訳だが・・・ 実は,ついこの間,大船駅9時30分集合の行事があったばかり.この9時30分が強く頭にすり込まれていたのが最大の原因である.まあ,とにかく私が不注意だった! 実に恥ずかしい.
 …ま,そんなわけで,同行者の心配など考えもせずに,谷保天満宮の境内を散策する.
 鳥居を潜って緩やかな登り坂の参道を進み丘の山頂に達する.両側には鬱蒼とした森が連なっている.姿形の勇壮な雄鳥が,森の中を歩き回っている.その格好良さに私はすっかり魅せられてしまう.
 
<姿形が素晴らしいオンドリ>                      <ハトが群れている>

■立派だが小さなお社
 車止めの鎖を越えて,森の中に入って見る.でも,どこにも本殿のような建物がない,深い森が広がっている.
 車止めの近くの小高い丘に小さなお社がある.立派な造りだが,境内の広さにしては,まさかこのお社が谷保天満宮とは思えない.私は訝りながら,近くの鳥居の扁額を見て,このお社が稲荷社など3社が合祀されたものだと分かる.

<稲荷社など3社が合祀されたお社>
 
■壮大で立派なお社
 この小さなお社だけを見た私は,
 “おかしいな,広い境内にしてはお社が小さいな”
と思いながら,念のため反対側の階段を下りてみる.すると,階段下の平らな所に,大きな木立に囲まれた壮大で立派なお社があるのに,やっと気がつく.正直なところ,このお社を見てびっくりする.これは拝殿だろうか.
 まずは参拝.
 お社の脇には社務所,宝物館などがある.

<谷保天満宮>

■牛の彫像
 参道入口右手の大きな牛の彫像が飾られている.参拝者が撫でるからか彫像の花野部分が光っている.
 台石に牛の彫像の由来が書かれているが,読みにくいので読むのを諦める.

<牛の彫像>

■滝と筆塚
 境内を一回りする.
 まずは参道を戻って,階段下を通過する.すると,小さな滝と筆塚がある.この筆塚の来歴などは全く分からない.筆塚の脇から陸に上がってみる.すると右手前方に,先ほどの小さなお社と良く似たお社が建っている.その下に遊歩道が廻る公園がある.その公園の脇には茶店まである.
 とにかく,谷保天満宮は想像以上に大きな神社である.
 
<滝>                                        <筆塚>

■5分遅刻して谷保駅に戻る
 そろそろ9時になる.私は集合時間は9時30分とばかり思っていたので,まあ30分くらい前の9時ちょっと過ぎに,集合場所に戻れば良いかなと思って,そろそろ谷保駅に戻ることにする.
 この頃,集合場所では,集合時間の9時になっても,私が現れないので,大変困惑している.私は,たまたま,電車に乗るために携帯電話をマナーモードにして,さらにリュックの中に入れていたので,仲間から何回も電話が架かったのに気がつかなかった.また,自宅にも電話を掛けて,私が出掛けたかどうか確かめたようである.そして,結局,私は行方不明.
 そんな大騒ぎになっているとは,つゆ知らずに,私は,9時05分,つまり集合時間に5分遅刻して,悠々と戻る.自分としては集合時間より25分早く到着したつもりだったのに…
 私が集合場所に到着すると,全員の視線が私に集中する.一瞬,私は,この視線が鋭い殺人光線のように感じてたじろぐ.その途端に,
 「いけねェ〜・・・今日の集合時間は9時だった!」
と思い違いに気がつく.つい先日,山旅スクール5期の皆さんと9時30分集合のイベントを終えたばかりだったので,今回もついつい9時30分集合と端から思い込んでいた.
 「一体どうされたんですか…何時も定刻より早く来られるFHさんが見えないので,心配していました…ご自宅にも電話しましたら,奥さんが『朝早く出掛けた』と仰っていたので,どうされたんかと…」
 私は平謝りするしかない.
 こう言うのを古来から,”覆水盆に返らず”とか”後悔先に立たず”とかいう.
 多大な迷惑を掛けてしまったことに,この場を借りてお詫びしたい.
 私は自分のそそっかしさに腹が立つと同時に,何とも情けない気分になる.

<JR谷保駅から歩き出す>

■JR谷保駅から再び谷保天満宮へ
 5分遅れで,リーダーのO野さんから挨拶.続いて私が作成した地図の説明.
 9時10分,JR谷保駅前から歩き出す.
 私は,早速,先ほど初めて通った閑静な裏道をお薦めする.先ほど往復したばかりなので迷うことなく,クネクネとした細い路地を抜けて,9時20分に再び谷保天満宮に到着する.
 今度は真っ直ぐに天満宮の本殿まで迷わず行って参拝を済ませる.
 9時30分に参拝を済ませる.

■遠藤由晴
 谷保天満宮から,中山道に沿って,西へ向けて歩き始める.ただ,谷保駅近くにある滝の院と安楽寺の見学は省略する.
 なお,資料1によれば,滝の院は天満宮の僧坊だったところ.また,安楽寺は天満宮の別当寺である.
 9時35分,遠藤由晴の案内板の前を通過する.
 資料4によると,「遠藤由晴(1759〜1841)は,谷保千丑に生まれ,文章詩歌に通じ「思玄」と号し,別号「吟松斉」を使った.後年に手習い教科書の『谷保案内』を著し,手習い師匠として多くの子弟を教育した.」とのこと.
 なお,遠藤由晴の墓は,私たちが立ち寄らなかった滝の院にあるという.

■元上谷保村の常夜灯
 9時48分,上谷保村の常夜灯に到着する.途中,甲州街道から少し離れたところにある三田城趾の見学は残念ながら省略した.
 フェンスの前に上谷保村常夜灯の案内板が取り付けられている.
 資料5には,「この常夜燈には,「秋葉大権現」「寛政六甲寅年四月上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」などの文字が刻まれていることから,西暦1794年に建てられたことがうかがえる.
この常夜燈は,上谷保村の油屋(屋号、今の甲州街道北側の原田幸治氏宅)の東隣に置かれていたもの.その後,道路改修のときに現在地に移された.」と,この案内板の記事とノボ同じことが記されている.

<上谷保村の常夜灯>

<南養寺>

■南養寺の由来
 9時50分,南養寺参道入口に到着する.
 ちょっと長い参道なので,見学するのに躊躇するが,どうやら小堀遠州流の名園がある寺だというので立ち寄ることにする.
 資料6によると,「谷保山南養寺は,臨済宗建長寺派の禅寺.同じ建長寺派である立川普済寺の末寺である.南北朝時代の1347年(正平2年),立川・国立一帯の有力武士であった立川入道宗成(むねしげ)が大檀那となり,鎌倉の建長寺から禅師・物外可什(ぶつがいかじゅう)和尚を招いて開山したと伝えられる.1590年(天正18年),豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした合戦の戦火で焼失したが,江戸中期の1804年(文化元年),中興の僧によって本堂が再建された.現在の本堂は当時のままで,谷保天満宮と並んで,国立で最も古い建築の一つである.屋根だけは戦後は一部トタン張りで雨漏りを防いでいたらしいが,1981年(昭和56年)になってついに修理され.それまでの茅葺から銅葺きになった.本尊は釈迦如来」という説明がある.
 
<南養寺>

■名園を垣間見る
 小堀遠州流の名園を一寸だけ見たいなと思うが,一見(イチゲン)の旅人である私たちには叶わぬ夢.待合室と思われる入口の向こうに一寸だけ見えている名園とやらを覗くだけで満足する.

<南養寺の名園(?)>

<甲州街道を西へ>

■五智如来
 安養寺の長い参道を戻り,再び甲州街道を西へ向かって歩き始める.
 まもなくJR矢川駅入口の交差点を通過する.矢川駅は先ほど私が寝過ごして通過した谷保駅の隣駅である.
 そろそろ五智如来があるはずだと資料1を見ながら探すが,一向にそれらしいものが見当たらない.その内に一行のひとりが道路の反対側にそれらしいものを見付ける.
 交差点を渡って,10時07分に五智如来に到着する.
 傍らにある案内板の説明によると,矢川と甲州街道が交差する付近は「はしば」と呼ばれ,大正の初め頃まで「矢川橋」が架かっていたという.この橋の袂に,この五智如来の祠があった.江戸時代に八王子から移住した人達がこの五智如来を祀ったのがはじまりだとのこと.
 同説明文によると五智如来とは,仏教でいう5種類の智,大円鏡智,妙観察智,平等性智,成所作智,法界性智を供えた仏のことで,別名大日如来である.
 
<五智如来のお堂>                                <お堂の内部>

■青柳地蔵堂
 つづいて,少々迷いながら,10時25分に青柳地蔵に到着する.
 資料7によると,この地蔵は江戸時代前期作.木造.像高は21.5cm.青柳石田地区の氏神である青柳稲荷神社の本地仏として地蔵堂に安置されている.国立唯一の八王子千人同心であった佐藤東太郎(明治3年没)によって寄進された.厨子の底部には「武蔵国多麻郡 小楊青柳邨 鎮守正一位青柳稲荷大明神 本地楊柳観世御菩薩尊像 願主 佐藤東太郎」と記されているという.

<青柳地蔵堂>

                                       (つづく)

[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
資料4:http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/bunka/bunkazai/shitoroku73/4857/002203.html
資料5:http://www.jinriki.info/kaidolist/koshukaido/fuchu_hino/motokamiyahomuranojoyato.html
資料6:http://kunimachi.jp/kiji/2845
資料7;http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/bunka/bunkazai/shitoroku73/4854/002168.html
                                     (つづく)
                                    
「甲州道中」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f8995a4afcf2fba2315dce461b60fd30
「甲州道中」の次の記事
(編集中)

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