<神明社で一休み>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第7回);第3日目(1);河路の徳島堰
(五十三次洛遊会)
2013年11月16日(土)〜18日(月)
第2日目;2013年11月18日(月) 晴 (つづき)
<ルート地図>
■第3日目のルート地図
■ルート地図
<韮崎の朝>
■朝食はバイキング
昨夜からホテルルートインコート韮崎に宿泊している.
寝床が変わるとよく寝られないのか,真夜中に目が覚めてしまう.一旦目が覚めてしまうと,なかなか寝付けなくなる.仕方なくテレビを点けると大相撲のダイジェスト版が放映されている.私には特に贔屓にしているお相撲さんは居ないが,何となくテレビに見入る.
その後も余り寝付かれないまま,5時30分に起床する.起床したもののどうも身体がスッキリしないので,バスタブにお湯を張って,ゆっくりと朝風呂に入る.これで心身共にスッキリとする.
6時30分から朝食である.少々早めに食堂へ向かう.
程なく全員が食堂に現れる.皆さん,全員,今日も元気そうである.
朝食はバイキング形式である.ついつい色々なものに手を出したくなるが,頭の中でカロリーを積算しながら,適宜,ネーベンを選ぶ.どうしても自分の好みが出てしまうので,選ぶ食品に偏りがあるがやむを得ない.
私たち一同はお行儀良く,食堂の片隅に集まって食事を摂る.
<ホテルの朝食> <私のメニュー>
■ホテルから河路を歩く
7時25分にホテルをチェックアウト.
すぐに,甲州街道(国道20号線)の昨日の続きを歩き出す.
第3日目の行程は,万休院までの水平距離10.6キロメートル.後半の行程で,甲州からいよいよ信州に入る予定である.途中,七里岩の景観と徳島堰(用水路)沿いの素晴らしい散歩道を通る予定である.歩き出しから期待が高まる.
私たちは,ホテルの前から甲州街道に沿って,北西の方向へ歩き出す.
資料1によると,台ヶ原までの甲州道中は釜無川の流域を通ることから河路(かわじ)と呼ばれた.しかし,河路は釜無川が氾濫するので,しばしば通行不能になったため,七里岩の上に迂回路として原路(はらじ)が開削され甲州街道裏道とも呼ばれたようである.
<河路を歩く>
■七里岩
歩き始めて直ぐに,進行方向右手に断崖が連続するのが見える.この断崖は七里岩と呼ばれている.
有史以前,八ヶ岳が大噴火したときに火砕流がこの辺り一帯に堆積した.その後,釜無川がこの堆積地を浸食してできたのが七里岩だと言われている.
また,釜無川の名前は,資料1によると.この川は水量が豊富で流れが速いために,釜が荒馬もなく流されてしまうことから命名されたという.
<七里岩>
■白髭神社
ホテル前を歩き出して間もなく,7時40分に白髭神社の前を通過する.やや小振りの社殿である.社殿はそれほど古い建物ではなさそうである.
白髭神社の由来などは,手許の資料では不明である.
<白髭神社>
■十六石
7時44分,原木工所前のY字型分岐を左へ進む.前方に山並みが連なっているのが見渡せる.
資料1によると進行方向右手に行人塚があるようだが,どうやら見落としてしまったようである.私たちが歩いている道路は,再び,先ほど分岐した国道20号線と合流する.
7時47分,十六石に到着する.ここには十六石という刻字のある杭が1本立っている.
傍らにある案内板の説明によると,「武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが,まだ春信といわれた天文12・3年頃年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため,今の一ツ谷に治水工事を行った.その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で,その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったと言われる」とのことである.
今,ここには,この石柱が1本立っているだけで,どこに十六石があったのか良く分からない.
<十六石>
■秋葉社と秋葉山常夜灯
7時56分,秋葉社に到着する.ここの秋葉社は小さな石の祠である.傍らに秋葉山常夜灯が立っている.この常夜灯は寛政2年(1790年)に作られたもの.
<秋葉神社> <水難供養塔>
■水難供養塔
8時01分,水難供養塔に到着する.
資料1によると,この供養塔は,昭和34年(1959年)8月14日,台風7号による犠牲者を供養するために建立されたものである.
水難供養塔前のY字型分岐で国道20号線から分岐して右の道に入る.
<水難供養塔>
<西岩下から祖母石へ>
■白壁の集落
暫くの間,長閑な田園地帯を北西に向けて歩き続ける.やがて前方に西岩下の聚落が見え始める.
8時16分頃,集落に入る.白壁の立派な家が建ち並んでいる.でも,全く人影はなく,辺りはひっそりと静まり返っている.そんな集落の中を歩いていると,浮世離れしたような,何となく奇妙な気分になる.
資料1によると,進行方向右手に,武田期から続く名家,宮方家宅があるはず.武田の家紋があるとのことだが,何となく見落としてしまう.
“まあ,いいか…”
で先を急ぐ.
<鹿の子模様の白壁の家> <立派な白壁の塀>
■神明社
8時19分,神明社に到着する.この神社の由来などは調べていないが,閑静な雰囲気の神社である.私たちは神社の一角を借りて,数分間.立ち休憩を取る.
<神明社>
■火の見ヤグラと祖母石の赤地蔵
8時24分,韮崎消防団第三部の火の見ヤグラに到着する.火の見ヤグラと道を挟んで反対側に祖母石の赤地蔵が祀られている.自然石に南無阿弥陀仏と刻字してある.石の表面に赤色の塗料が塗られている.
<火の見ヤグラ> <祖母石の赤地蔵>
■石塔群
8時30分,祖母石の聚落の北外れにある石塔群に到着する.道祖神など数個の石塔が立ち並んでいる.
石塔群の後ろの植え込みが綺麗に紅葉している.
<石塔群>
<清哲町を行く>
■桐沢橋と県立射撃場
8時34分,三叉路に到着する.三叉路を左に鋭角に廻り込んで,8時39分,桐沢橋を釜無川左岸へ渡る.
橋を渡ると三叉路に突き当たる.ここを右折する.地図で確かめると,この辺りは清哲町というところらしい.
道なりに進んで,8時45分,山梨県立射撃場の前に到着する.数年前にここを通過したときは射撃場から銃の音が聞こえていたような気がするが,今はどうやらこの射撃場は閉鎖されているようで,辺りは音もなく静まり返っている.
<桐沢橋を渡る> <県立射撃場>
■原山神社
緩やかな登り坂を進む.進行方向右手から細い道が合流する.
8時52分,進行方向左手に続く石垣の上に神社が見える.原山神社である.わざわざ石垣を登り返して参拝するのも面倒なので,社殿を横目に眺めながら通過する.
資料1によると,この神社の祭神は日月星だという.
<雨宮寺>
■小桐橋と立派な石碑
8時56分,小桐橋を渡る.橋の先で道路の路肩が広くなったところで立ち休憩を取り,水分を補給する.
給水を終えて,再び歩き出すときに,川沿いの道をほんの10メートルばかり入ったところに立派な石塔が立っているのを見付ける.
地図を見ると,この辺りに,確かに,道祖神はあるが,この石塔は,どうも位置が違うように思える.私は,念のために,川沿いの道に入って,この石塔は何かを確かめてみる.残念ながら,これは折居老人会が昭和56年に建碑した歌碑のだと分かる.遠い将来はいざ知らず現時点では史跡とは言えないのが残念である.
<お義理橋付近で小休止> <折居老人会の立派な石碑>
■双体道祖神
9時丁度に三叉路の脇に立つ双体道祖神の前に到着する.道祖神は三段の石積みの上に鎮座している.
この三叉路を左折して道幅がやや狭い道に入る.
<双体道祖神>
<徳島堰を行く>
■いよいよ徳島堰
道祖神の側にある内藤宅前を左折する.そして,9時03分に徳島堰に突き当たる.ここからは徳島堰沿いの道を北に向かって歩きつづける.
徳島堰を歩いていると,途中に説明板が設置されている.この説明板によると,徳島堰は柳川堰,箱根関とともに日本三大堰の一つと言われているようである.江戸の徳島兵左エ門が計画し,甲府藩の許可を得て,寛文5年(1665年)に工事を始め,同10年に完成した.その後,昭和41年より農林省が改良工事を行って,昭和49年に完成した,
進行方向左手に堰の流れ,右手に釜無川の流域を見下ろしながらの素晴らしい散策路が続く.
<いよいよ徳島堰>
■雨宮寺
9時04分,雨宮寺に到着する.20段ばかりの石段の上に本堂が建っている.
一同,そのまま通過するので,私一人だけ,急いで石段を駆け上って,本堂の写真を撮る.境内にこの寺の由来など書いた案内板がないか探したが見当たらない.現時点ではこの寺の由来などは不明である.
<雨宮寺> <雨宮寺本堂>
■八幡神社
9時10分,八幡神社に到着する.社殿は長い石段を登ったところにある.石段の周りの木々が美しく紅葉している.
私一人の旅ならば,間違いなくこの石段を登って八幡神社をお参りするだろうが,同行の皆様には,わざわざ石段を登ろうという人は居ない.
“まあ…仕方ないな”
私も石段登りを諦めて,八幡神社前を通過する.
<八幡神社>
■素晴らしい見晴
進行方向右手(東側)は,素晴らしい見晴が続く.川沿いの盆地の向こうに小高い山並みが見えている.
眼下には田畑と聚落が広がっている.
実に気持ちの良い散策路である.
<素晴らしい見晴>
■宝蔵寺
9時18分頃,宝泉寺の真下を通過する.宝泉寺は,今,歩いている道から,少し離れた小高いところにあるので,参拝は省略する.
9時26分,宝蔵寺に到着する.
境内に入ってみる.イチョウが見事に紅葉している.本堂(?)は現在建築中のようである.境内の一角を借りて,立ち休憩を取る.
<宝蔵寺>
[参考文献]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
(つづく)
「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/bacc1ebd6ccb88fcc8c4c1e3a5da8968
「甲州道中」の次回の記事
(編集中)
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58
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