<鍋掛宿;日進の館>
奥州街道(白河の道);第4回;1日目(4);鍋掛宿と日進の館
(クラブツーリズム)
2017年5月17日(水)~18日(木)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a9d3c8ce258be52696fbbeb1903939b9
<ルート地図>
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<清川地蔵>
■ファミリーマートから歩き出す
14時58分,ファミリーマートでの休憩を終えて歩き出す.目の前の交叉点を渡って,ファミリーマートと道を挟んで反対側にある急坂の階段道がある.私は,
”今日はやたらに階段登りが多いな…”
と思いながら最後尾に付いてユックリと階段を登る.
<階段道を登る>
■赤い衣を纏った清川地蔵
15時02分,階段を登ったところに祀られている清川地蔵に到着する.赤い衣を纏った大きな地蔵がお堂の中に鎮座している.
傍らに立つ案内板の記事によると,この地蔵は延宝7年(1679年)に拘留されたもののようである(下の写真参照).
<清川地蔵>
<芭蕉の句碑>
■芭蕉の句碑の案内杭
15時04分,清川地蔵の参拝を終える.
先ほど登った階段を降りて,ふたたび奥州街道を歩き出す.
15時10分,芭蕉の句碑の案内杭の前に到着する.
<芭蕉の句碑の案内杭>
■赤い屋根のお堂
芭蕉の句碑案内杭の立っている場所から道路の左側にある空き地のようなところに入る.ここは鍋掛自治公民館の広場である.広場の奥に,小振りだが赤に屋根の立派なお堂が建っている.
”何だろう…?”
私は何となく興味が惹かれたので,お堂まで言ってみるが,結局どんな神仏が祀られているのか良く分からない.後で講師に伺おうと思ったが,結局,伺うのを忘れてしまった.
仕方がないので写真だけでも記録に留めておくことにしよう.
お堂の向こうには広々とした田圃が広がっている.実に長閑な風景である.
<赤い屋根の立派なお堂>
■芭蕉の句碑
お堂の斜め手前に芭蕉の句碑が立っている.大分古いものらしくて,もう刻字は全く読めない.
句碑の傍らに立っている案内板の説明によると,
”野を横に
馬牽きむけよ
ほとゝぎす”
という句が刻字されているようである.
デリカシーに欠ける私には,この句の素晴らしさがなかなか理解できないが,周囲に広々と広がる田圃や,田んぼの中に島のように点在する森を風景を重ね合わせながら,この句をもう一度読み返す.
<芭蕉の句碑>
■石段の上の神社
芭蕉の句碑から少し離れた所に,高い石段の上に造られた社殿がある.こちらも赤い屋根である.
”何の神様だろう…?”
私はこの社殿に近づいてみるが良く分からない.
そう言えば善光寺西街道を歩いていたときに石段の上に祀られた秋葉神社が沢山あった.
”ひょっとしたら,この神社も秋葉神社かな…”
と思うが,これも講師に確かめるのを忘れてしまう.
<石段の上の赤い屋根の神社>
<正観寺と本陣跡>
■正観寺の本堂
10時11分,芭蕉の句碑のすぐ隣にある正観寺を訪れる.
まずは本堂.
一寸変わった雰囲気の建物である.
帰宅後,正覚寺の由来などをインターネットを浸かって調べたが,今のところこれといった情報は得られないままである.
ただ資料1によると,真言宗,山号摩尼山,大田原市の金剛寺末寺である.
<正観寺本堂>
■シダレザクラ
正観寺の境内,東門近くに有名なシダレザクラがある.樹齢約250年.詳しくは下の写真参照.
<正観寺のシダレザクラ>
■本陣跡
15時13分,正観寺の参拝,見学を終える.
15時18分,鍋掛宿本陣跡を見学する.今は昔の面影は全くなく果樹園になっている.この果樹園を「コ」の字形に廻って,広い道に戻る.
その後,金網沿いの道を真っ直ぐ歩いて,途中から右折してゝ金網沿いの道を歩く.単調で結構長い距離である.
<鍋掛宿本陣跡>
<鍋掛公民館・日進の館>
■日進の館に到着
15時27分,日進の館に到着する.第1日目の行程で最後の訪問地である.
ここは鍋掛地区の歴史と自然を展示した施設である.歴史や自然の説明も良いが,とにかく一休みしたい.
施設の中に入る.
<日進の館に到着>
■折角の説明が頭に入らない
館内に入った途端に,椅子に座らされる.本音はたとえ10分でも良いから一休みしたいと思っているのに,いきなりの講義である.ロートルの私の頭の中に,講義内容など残るはずもない.
まずは沢山の掛け軸の前で,説明を受ける(冒頭の写真).どうやら貴久靄厓という江戸時代の作家の作品が展示されているようである.熱心に説明してくれる学芸員の方には大変申し訳ないが,何を伺ったのか頭の中には何も残っていない.ただ,ただジッと座っているだけ.
つづいて入口付近で,また,長々と説明を受ける.私ノ頭はボンヤリしているので,折角の説明も全く頭に入らない.
これは全くの私見だが…
年寄り相手に話をするときは,ご自分の知っていることを全部話そうとするのではなく,ごくごくポイントのことを一つ二つ,2~3分の短い時間内で話して貰いたいと切望する.
そうでないと,とてもではないが理解するのは無理.もっとも,これはボンクラの私だけのことだとは思うが…
<学芸員らしい方の説明を受ける>
■高久靄厓と高久隆古
資料3によると.「高久 靄厓(たかく あいがい、寛政8年(1796年) -天保14年4月8日(1843年5月7日))江戸時代後期の文人画家。下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。諱は徴、字は遠々のちに子遠、通称秋輔。号は靄厓のほかに石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史、学梅斎、晩成山房など。」(以上コピペ)
資料4によると,高久隆古は谷文晁から絵画を学び,山水画を多く残しているが,風俗画や大和絵も定評があったという.靄厓の後継者である.
<日進の館の展示物>
■鍋掛宿案内図
■鍋掛宿絵図
[参考資料]
資料1;パンフレット,2014,「鍋掛・越堀・寺子ルートMAP」鍋掛地域車座談議運営会
鬆料2;http://www.city.nasushiobara.lg.jp/44/05/001872.html
資料3;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%B9%85%E9%9D%84%E5%B4%96
資料4;「日進の企画展」(日進の館資料)
(つづく)
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(執筆中)
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