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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る中山道中六十九宿(第9回):第2日目(2)観音坂から長坂へ

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                                     <接待茶屋で一休み>

[改訂版]歩いて巡る中山道中六十九宿(第9回):第2日目(2);観音坂から長坂へ
            (五十三次洛遊会)
        2010年9月11日(土)〜13日(月)

※本稿の初出は2010年12月27日である.
 初稿の地図の差し替え,本文の加除修正を行った.

第2日目:2010年9月12日(土) (つづき)

<ルート地図>



<観音坂登口から旧道に入る>

■心地よい雑木林の道
 8時20分,観音橋近くの和田峠観音坂登り口から歩き出す.なだらかな登り勾配の舗装されていない遊歩道になる.雑木林が続く心地よい道である.

<雑木林の道>

■休み茶屋
  登り口からほんの少し歩いて,8時27分に休み茶屋に到着する.進行方向右手に荒廃した小さな木造家屋が建っている.


<休み茶屋>

■三十三体観音
 8時29分,休み小屋近くに立っている「三十三体観音」の案内板を通過する.
 この案内板によると,かつては.この山の中腹にあった熊野権現社前にあったが,旧道の荒廃とともに荒れ果てていた.1973 年(昭和48年)の発掘調査により,29体の存在が確認され,ここに安置されたという.内訳は,千手観音13体,如意輪観音4体,馬頭観音10体,不動明王4体であり,4体は未発見だという.峠を往来する人馬の安全を祈ったものであろうと書いてある.

■中山道道標
 広い谷間に静かな道が続く.実に気持ちの良い道である.所々に中山道を示す「青い道しるべ」が立っている.
 この道しるべを見付けると,中山道を間違いなく歩いていることが分かり,なんとなくホッとする.

<中山道の道標>

■静かな散策路
 歩いていると,心が静まる静かな散策路が続く.
 雑木林の中の柴道をノンビリと歩く.こんな所なら何回でも歩きたくなる.何とも心地よいところである.

<雑木林の中の柴道を行く>

■接待茶屋
 9時丁度に国道142号線に合流する.合流点に接待茶屋がある.立派な茅葺きの家屋である.ここで一休みする.
 建物脇に建っている案内板によると.「江戸呉服町の豪商「かせやり与兵衛(有隣)」が,中山道の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した.その金の利子百両を二分して,碓氷峠の坂本宿と,この和田峠に50両づつ下付し,1828年(文政11年)に設置された施工所の一つである.11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚き火を,牛馬には年中小桶1杯の煮麦を施工した.その後,山抜けにより流出したが,1852年(嘉永5年),現在地に再建され,1870年(明治3年)までつづけられた」とのことである.

<接待茶屋>

<長坂を登る>

■近藤谷一郎巡査碑と殉職の地
 立ち休憩を取った後,再び歩き出す.すぐに和田川沿いの静かな旧道に入る.この辺りから,広原一里塚(江戸日本橋から52番目)辺りまでの坂道を長坂という.
 9時02分,近藤谷一郎巡査碑を通過する.案内板によると,近藤巡査は明治22年,窃盗犯人を護送中,逃走を企てた犯人によって殺害される.その近藤巡査の慰霊のために,この碑が作られたとのことである.
 深林に覆われた素晴らしい道が続く.やがて,「避難小屋500m」と書いてある青い標識を通過する.
 9時16分,「近森谷一郎殉職の地」と刻字のある石塔の前を通過する.先ほどの碑文を読んでいるのは私だけ.
 「なるほど,ここが谷藤巡査が犯人と格闘したところか・・」
と分かった.
 
                               <近藤谷一郎巡査の碑>

■避難小屋
 9時25分,避難小屋に到着する.小さな荒廃した小屋がポツンと建っている.ここでは,休憩を取らずに,そのまま通過する.

<避難小屋>

■石畳の道
 この辺りから,石畳の道に変わる.大小様々な石が敷き詰められている.少々歩きにくいが,苔むした石に往時が偲ばれる.こんなところを歩くのも,街道歩きの醍醐味である.

<石畳の路>

■和田川を渡ると小さな滝
 9時29分,小さな橋を渡って,和田川の左岸の道に入る.引き続き長閑な山道が続く.進行方向左手の山間から滝が流下している.
 正に深山幽谷.綺麗な風景が続く.
 
<小さな木橋を渡る>                            <小さな滝>

■広原一里塚
 9時40分,広原一里塚(日本橋から52番目)に到着する.
 今は東側の塚だけが残っている.
 一里塚の近くに建っている案内板によると,「このあたりを広原といった.その名の通り昔は笹などが生え繁る原であった.冬の降雪期には山頂より吹き下ろす吹雪で,一面の雪の原と化して道も埋もれるとき,5間(9メートル)四方のこの塚は旅人の道じるべとなったであろう.この塚は江戸より52番目の一里塚に当たる」とのことである.

<一里塚跡>

[参考資料]

資料1:今井金吾,1994,『新装版今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:『完全調査街道マップシリーズちゃんとあるける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料3:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
                                (つづく)
[加除修正]
2010/12/30 一部記事の追加
2013/ 8/12 地図の差し替えと記事の加除修正を行った.

「中山道中六十九宿巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/20abc2b1c2e3ed5ff37e291d37380e4b
「中山道中六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cabe7a462eecf5f0d7ba0f8b91d6e6fa
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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