<千曲川の渡し付近の眺望>
善光寺街道;第3回;第2日目(5);屋代宿(矢代宿)から篠ノ井追分へ
(五十三次洛遊会)
2016年4月20日(水)~2016年4月22日(金)
第2日目;2016年4月21日(木)(つづき)曇
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d80c073e761ff4aad5078f727028de44
<ルート地図>
■屋代宿(矢代宿)
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■篠ノ井追分
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<屋代駅界隈>
■火の見ヤグラと屋代駅前交差点
13時12分,火の見ヤグラの脇を通過する.続いて13時15分,屋代駅前交差点に到着する.ここで右折,善光寺街道からちょっと逸れて,13時16分,しなの鉄道屋代駅に到着する.
屋代駅で,明日の朝乗車予定の松代行バスの時刻を確認し,トイレ休憩を取る.
<屋代駅前交差点> <しなの鉄道屋代駅>
■旧長野電鉄屋代線沿線の社寺
もし時間があれば,屋代駅の山側や旧長野電鉄屋代線沿線沿いに点在する社寺,例えば県立歴史館,萬照寺,屋代城趾,長福寺,矢代神社,鼻取地蔵など,参拝見学したい所が沢山ある.でも,今にも雨が降り出しそうなことと,一緒に歩いている方の中に少々疲労されているように見える方が居られることから諦める.
私は,密かに,
”また,機会を見て,これらの社寺遺構を1人で歩いてみよう”
と心に決める.
こうして,今日は寄り道はせずに,ひたすら善光寺街道を歩くことにする.
なお,資料1によると,屋代は矢代あるいは八代とも書いたようである.屋代宿は加賀藩の定宿として栄えていたという.
■石塔群と小川柳翠先生碑
バスの時刻を確認し,休憩を終えて,13時22分,屋代駅前から歩き出す.
上空の雲がますます厚くなりはじめる.もう何時雨が降り出しても可笑しくない空模様である.
13時22分,大きな石塔2基と石灯籠が並んでいる場所に到着する(左下の写真).大きな石には何文字かの漢字が崩し字で書いてあるが,私に読めるのは,残念ながらm「一番下の「塚」という字だけである.向かって右側の小さな石塔には道祖神と書いてある.
13時32分,手入れの行き届いた小さな公園風の場所に到着する.ここには大きな石碑と立派な石灯籠が置かれている.石塔には「小川柳翠先生碑」と書いてある.
小川柳翠について記述した詳しい文献は今のところ見当たらないが,資料5(p.596)に若干の記述があるらしい.地元出身の日本画家である.なお,私の手許にある最近の美術年鑑などには,小川柳翠の記述は見当たらない.
<■…■塚と道祖神> <小川柳翠先生碑>
<矢代宿(矢代宿)を歩く>
■生蓮寺
13時38分,青蓮寺に到着する.境内入口の門柱に書いてある山号は関谷山.インターネットでこのてらのことを調べてみたが,これといった情報はまだ見当たらない.僅かに資料5によて青蓮寺が浄土宗の寺だということが分かっただけである.
境内はよく整備されていて,清潔感のある寺である.
<青蓮寺>
■須々岐神社
13時34分,須々岐神社に到着する.
立派な鳥居のある大きな神社である.参拝を済ませてから境内を借りて休憩を取る.
境内に設置されている案内板の記事によると,創立は古代,産土の鎮守である.比叡山日吉社から大国主命(山王権現)を勧請し山王宮といわれた.やがて屋代用水の守護神となる.この用水は近辺十八郷の潅漑生活用水として使用された.正保2年(1645年)現在地に鎮座した.
祭神は大国主命,生魂命,事代主命など,
<須々岐神社>
■松代道分岐・本陣跡
須々岐神社の前で,善光寺街道はクランク状に右折する.そこに,「是より江戸へ五十里」と刻字してある真新しい案内杭が立っている.そして,またすぐに左折する.ここは,所謂,枡形である.
13時43分,左折してすぐに松代道との分岐点に到着する.松代道に入ってすぐ左手に本陣跡,道路を挟んで南側が脇本陣跡だが,往時を偲ばせるものは何も残っていないようである.
<松代道分岐>
■法華寺
13時47分,法華寺に到着する.
雨が気になるので,境内には入らずに外から本堂の屋根の写真を撮るだけで通過する.
法華寺の由来などは今のところ全く分からない.
<法華寺>
<千曲川川岸へ>
■高架道路下から浜田産業建材センターへ
歩き進むにつれて,周囲の雰囲気が何となく荒涼殺伐とした感じになる.民家は殆どなく工場や倉庫が並んでいる.
やがて前方に高架道路が見え始める.
14時02分,浜田産業建材センターの脇を通過する.
少し遅れ気味の人達に.
「…もうすぐ千曲川に出ますよ…」
<高架が見える> <浜田産業建材センター>
■千曲川沿いの堤防
14時07分,長野自動車道のガードを潜る.ガードの先にしなの鉄道の橋梁が見えている.
千曲川の右岸沿いの堤防に登る.堤防の上は2車線の舗装道路になっている.千曲川河川敷の眺望が一気に開ける.
地図や資料を参考にして,千曲川渡しの位置を確認する.
14時12分,北陸新幹線橋梁の下をくぐり抜ける.この辺りの千曲川右岸に千曲川渡しがあった.ここから舟で対岸に渡ると篠ノ井追分である.篠ノ井追分で善光寺西街道と合流する.
<長野自動車道のガードを潜る> <しなの鉄道の橋梁を潜る.>
<善光寺街道歩きの終点>
■遺構もない千曲の渡し
14時18分,北陸新幹線の橋梁下をくぐり抜ける.この辺りに千曲川渡しがあったが,いまはその痕跡すら見当たらない.
千曲川渡しの遺構か案内板があるだろうと期待しながら,河川敷に広がる畑の中を見て回るが見当たらない.その内に雨がポツン,ポツンと落ち始める.
善光寺街道は,この辺りから渡し舟で千曲川左岸に渡って,200~300メートル北へ歩いたところで善光寺西街道と合流する.その合流点が前述の篠ノ井追分である.
私達は,昨年(2015年),善光寺西街道を洗馬宿から善光寺まで歩いている.あの時歩いた篠ノ井追分から善光寺までの街道は,正に今歩いてきた善光寺街道のつづきである.
従って今回の善光寺街道歩きは篠ノ井追分まで歩けば完歩ということになる.
しかし,千曲の渡しは,今はない.ここから対岸の篠ノ井追分まで行くには,堤防をさら下って篠ノ井橋を渡って,今度は千曲川左岸を上流に向かって,「コ」の字型に戻らなければならない.その距離は約1.5キロメートル余り.しかも何の変哲もない新しい道路である.
■完歩記念;ここが終点だ!
私は500メートルほど先に見えている篠ノ井橋を指さしながら,
「どうしましょう…? あの橋を渡って,篠ノ井追分まで歩きましょうか?」
と皆さんに伺う.
お一人が即座に,
「もう,ここで良いです.止めましょう」
と言う.
勿論,ここまで来れば実質的に善光寺街道を完歩したのも同じなので異論はない.ただ,私個人としては,前回,善光寺西街道を歩いたときに,対岸にある軻良根古神社を見落としているので,ちょっと参拝したいという気持ちもある.ここで終わりとはちょっと呆気なく惜しい気もする.とはいえ,雨の中,何の変哲もない篠ノ井橋をわざわざ渡るのも馬鹿馬鹿しい.
「では,ここ”千曲川の渡し”で今回の善光寺街道歩きは終点ということにしましょう」
ということで,交代で記念写真を撮る.
雨が降り出す.気勢が上がらず何とも冴えない完歩記念だが,やむを得ない.
雨足が次第に強まる気配である.私達は,これから最寄り駅,屋代高校前駅まで徒歩で戻るつもりである.
<交代で記念写真を撮る;全員は写っていない> ※プライバシー保護のため顔は塗りつぶした.
[参考資料]
■篠ノ井追分
私達は,善光寺西街道を歩いている途中の2015年6月27日,10時04分に,篠ノ井追分に到着した.ここから善光寺までは,善光寺街道を歩いた.同年6月28日に,無事,善光寺に到着した.
<篠ノ井追分>
(つづく)
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;黒田茂夫(発行人),2014,『県別マップル20長野県道路地図』昭文社
資料4;更級埴科地方誌刊行会(編),1981,『更級埴科地方誌近世(第3巻(下)』更級埴科地方誌刊行会
資料5;http://www.kissho-net.co.jp/html/temple.html#chikuma
つづきの記事
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(編集中)
「善光寺街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d34e361d25dde7b588c7d9c4ec9c18e4
「善光寺街道」の索引
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【参考資料】
「善光寺西街道」の目次
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「善光寺西街道」の索引
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