<坂城郊外の長閑な風景>
善光寺街道;第3回;第2日目(2);坂城宿から横吹・笄の渡しへ
(五十三次洛遊会)
2016年4月20日(水)~2016年4月22日(金)
第2日目;2016年4月21日(木) 曇
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6b310e7ef7ea4d4792dbfae413633f5a
<ルート地図>
■第3回2日目全体図
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■坂城(坂木)宿・上戸倉宿
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■坂城(坂木)宿拡大図
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※再掲
<坂城駅から歩き出す>
■上田駅から坂城駅へ
天気予報によれば,午後から雨になるようである.雨の中を長時間歩くのも難儀なので,今日は余り寄り道や道草をしないで,篠ノ井追分と千曲川を挟んだ対岸までは辿り着きたい.お天気ばかりは,どうにもならないので,雨が降らないように祈るのみである.
私達はホテルの朝食を済ませてから,早めに上田駅に向かう.上田駅の立派な駅舎の壁に真っ赤な六文銭が取り付けられているのに,改めて気が付く.
しなの鉄道上田駅7時50分発長野行下り電車に乗車する.ちょうど通勤通学の時間帯の電車である.連結車両数は少ないものの混雑しているのは東京近郊の電車と変わりがない.そんな朝の電車に,リュックを背負った物見遊山のジイサンバアサンが集団で乗り込んだので,周囲の人達はさぞかし迷惑に感じたろう.
ところが,私達が乗り込んだのを知った若いサラリーマン風の男性が,サッと席を立ってバアサンに席を譲る.このバアサン,恐縮して固辞するが,男性は,
「次の駅で降りますから…」
と言いながら席を立つ.
とっさに私は禅宗の坊さんの説法で聞いた話を連想する.
”施しをするのも功徳,施しを受けるのも功徳”
という言葉である.
電車は,8時01分に坂城駅に到着する.
<上田駅> <しなの鉄道坂城駅>
■高濱虚子の歌碑
駅前の片隅で,ウォームアップストレッチを行う.
駅前に高濱虚子の歌碑が建っている.歌碑には,
"春雪や
傘を借りたる
野路の家”
という句が刻字されている.
虚子は,この句を何時頃読んだのだろうか.浅学の私には分からないが,あるいは小諸に疎開していた時代に詠んだのかなと,ロマンチックに連想する.
そんな連想をしている私のことを気にしているのか,無視しているのか知らないが,句碑のそばで若い猫が日向ぼっこをしている.私が俳人ならば,虚子の句碑と,この猫を題材にして発句したいところだが,こればかりは無理である.
”それにしても猫は可愛いな.姿や形も良いし,愛玩するのに大きすぎず小さすぎず丁度良い大きさだ.創造の神様は人間に言い送りものを下さった”
と独りで悦に入る.今日は朝から猫に会えてので幸先が良いぞ…!
駅前広場の片隅で,私が音頭を取って,ウォームアップストレッチを行う.
「今日の行程も長いので,しっかりとストレッチをしてから歩きましょう…!」
<高濱虚子の句碑> <日向ぼっこする猫>
<坂城宿(坂木宿)>
■葛尾城跡上り口と坂木宿本陣表門
ストレッチを終えて,8時16分,坂城駅前から歩き出す.
駅前広場から善光寺街道に出るところに,「葛尾城跡上り口」という案内杭が立っている.
”葛尾城って一体何だ…?”
私は気になって仕方がない.地図⑫を見ると,葛尾城は坂城駅からほぼ北の方向にある標高305メートルの山の上に位置しているようである.
資料4によると,「ここは村上氏の居城である.村上義清は武田信玄の信濃侵攻を上田原の戦い,砥石崩れの2回の戦いで打ち破った.天文22年(1553年),村上氏の背後を支える屋代氏,雨宮氏,塩崎氏が離反して武田氏側について,戸倉方面から攻撃され自滅した.村上義清は上杉謙信を頼って落ち延びた.このことが後の川中島の戦いの遠因となった.
その後,この地域の武士は村上から武田へ,さらに武田から再び村上へ,さらに武田から上杉へと主を変えることになる(中略).
慶長5年(1600年),徳川秀忠は関ヶ原に向かう途中,小諸城を拠点にして上田城攻撃するが撃退された.その後,徳川方は葛尾城代井戸宇右衛門に上田城の監視をさせた.これに対して真田幸村は二度に渡って葛尾城を攻撃した」という(以上要約).
葛尾城跡上り口から少し先で,善光寺街道に突き当たる.ここが昨日の終点であり,2日目の今日の始点でもある.
今日の始点から歩き出してすぐの8時18分.坂木宿本陣表門の前を通過する.門の前には村上義清の青い幟旗が立っている.
<葛尾城趾上り口> <坂木宿本陣表門>
■坂木宿ふるさと歴史館(名主飯田家)
8時18分,入母屋3階建ての大きくて立派な家に到着する.資料1によると,ここは名主飯田家の館である.現在,坂木宿ふるさと歴史館になっているようである.
まだ時間が早いので開いていない.
庭先に明治天皇小休止所碑が立っている.
<名主阪田家>
■立派な「さかた」家
8時20分,風格のある立派な家に到着する.玄関脇の壁にに平仮名で「さかた」と書いてある.
建築のことは良く分からないが,威風堂々,古きよき時代のことが偲ばれる.
<さかた家>
■坂城郵便局と大橋
8時21分,坂城郵便局の前を通過する.郵便局を手がかりにして,手持ちの地図で現在地を確認する.
続いて,8時22分大橋を渡る.大橋は予想していたよりも随分と小さな橋である.橋の下を流れる川は千曲川の支流である.
<坂城郵便局> <大橋>
■タイムスリップしたような街並み
大橋を渡って,中部北陸遊歩道道標の先で左折する.
相変わらず閑静で荘厳な住宅が軒を連ねている.もし電信柱さえなければ,宿場が栄えていた時代に完全にタイムスリップできそうな雰囲気である.
勿論,現代風の超高層ビルも素晴らしいと思うが,下の写真のような街並みには何とも表現しがたい郷愁のようなものを感じる.
私達は,
「すばらしいな,すてきだな街並みだな…」
と感激する.
こんな素晴らしい街並みは,是非,子々孫々まで残して貰いたいと心底から願っている.
<昔にタイムスリップしたような街並みが続く>
■卯建のある旧家と坂城神社
旧家が立ち並ぶ中で,立派な卯建のある家を見つける.スバラシイの一言.さっそく立 ち止まって,何枚かの写真を撮らせて貰う.
8時24分,坂城神社参道入口に到着する.坂城神社は,参道入口から数百メートル先にある.本来ならば是非参拝したいところだが,今日は午後から雨という予報である.あまり寄り道をしているわけにも行かないので,残念ながら遠くに見えている鳥居の写真だけを撮って通過する.
資料5によると,「今を去る1900余年前、景行天皇の御代、皇子日本武命東征の折、日野の里(日名)に住せし時、御陵が峯(五里ケ峯)の麓の霊地に奉祀せられ、天武天皇白鳳2年(西暦673年)社殿奉建されるといわれている。延長五年(927年)延喜式発令され、全国3,132社として延喜式神名帳に登録され、毎年2月4日国司長官ともに幣を奉り、豊年を祈年したと伝えられる。」とのこと.
<卯建のある家> <坂城神社遠望>
■長谷川井戸
8時25分,長谷川井戸に到着する.
傍らにある説明文によると.慶安年間,当時の代官長谷川安左右衞門利次は,北国街道工事の一環として,旧長谷川町の3ヶ所に飲用水用の井戸を3ヶ所造ったという.この井戸は,その3ヶ所の井戸の内の一つである.
<長谷川井戸> <説明文> ↑
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■善光寺常夜灯
善光寺街道はKITAMURA(ドライクリーニング店)の前で左に鋭角に曲がる.さらに,8時30分,善光寺常夜灯の前で今度は右に直角に曲がる.
<KITAMURA> <善光寺常夜灯>
<横吹と笄の渡し>
■旧北国街道横吹道跡
8時32分,石柱2基が並んでいる場所に到着する.石柱に注連縄が巻かれているので道祖神だろうか.よくわからない.
ここは旧北国街道横吹道跡でもある.石柱の近くに立っている案内板の説明によると,旧北国街道は,坂木宿から刈谷原榎並木辺りまで山腹の断崖を通る道であった.今,当時の形跡は殆ど失われてしまったが,極めて危険な細道だったようである.
慶長16年(1611年),北国街道の拡幅工事が行われたが,それでも十分な道幅が取れなかったので,往還の大名すら篭から降りて歩いたという.その後,明治10年(1877年)に至り,千曲川沿いの新国道が開通して以来,旧北国街道は使われなくなった.
<石柱2基> <旧北国街道横吹道跡> ↑
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■聖徳太子
8時32分,聖徳太子と刻字された石塔の前に到着する.すでに刻字が風化されていて読みにくくなっている.石塔には注連縄が巻かれている.なぜ,ここに聖徳太子が祀られているのか,良く分からない.
資料1によれば,この辺りに吊るし仏があるらしいが,見逃してしまう.
8時38分,しなの鉄道のガード下を潜る.
<聖徳太子> <しなの鉄道のガード>
■国道18号線に合流
8時42分,中沢興務店の少し先で,国道18号線に突き当たる.
ここから先は,暫くの間,交通量の激しい国道沿いの歩道を歩く.進行方向右手には険しい崖が迫っている.また,左側は国道のすぐ際まで千曲川が流れている.
この辺りは山地の崖と千曲川に挟まれた場所である.
<国道18号線に合流> <断崖と千曲川に挟まれた狭い場所に国道18号線が通る>
■横吹道跡
8時50分,横吹道跡案内板に到着する.
この案内板の記事によると,九億石街道は,下の図が示すように,山腹の断崖に造られていた.ここは横吹八丁といわれた危険きわまりない交通の難所であったという.
この他の説明は,さきほど見かけた旧北国街道横吹道跡の説明と同じ内容が記述されている.
8時56分,千曲川沿いの公園風の場所に到着する.
ここにも「名勝横吹」という題名の案内板が立っている.こちらには「…道路が崖の高い所を通っているので,冬はメチャクチャに寒いが,夏は納涼に最適であり,風光明媚である…」というようなことが書かれている.
また,松尾芭蕉は,この地で,
”いざよひも
またさらしなの
郡哉”
という句を詠んでいるようである.
<横吹位置跡案内板>
■笄の渡し
千曲川沿いの公園の一角に「笄(かんざし)橋完成記念碑」が立っている.
傍らに立つ案内板の記事によると,室町末期の頃,村上義清は武田信玄と激しい戦いを繰り広げていた.天文22年(1553年)4月,遂に居城の葛尾城が陥落,奥方とは別々に敗走した.奥方は着の身着のまま腰元を従え,ここから舟に乗って千曲川を渡った.このとき奥方は,危険を顧みずに舟を出してくれた船頭に,感謝の意を込めて.髪に挿していた笄を船頭に手渡した.村人達は奥方を偲んで,この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったという.
<笄橋完成記念碑> <旧蹟笄の渡し>
(つづく)
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;黒田茂夫(発行人),2014,『県別マップル20長野県道路地図』昭文社
資料4;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%B0%BE%E5%9F%8E
資料5;http://www.geocities.jp/engisiki/shinano/bun/shn250802-01.html
つづきの記事
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(編集中)
「善光寺街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d34e361d25dde7b588c7d9c4ec9c18e4
「善光寺街道」の索引
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【参考資料】
「善光寺西街道」の目次
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