<上田宿の面影の残る家並み>
善光寺街道;第3回;第1日目(3);上田宿西部の名刹を廻る
(五十三次洛遊会)
2016年4月20日(水)~2016年4月22日(金)
第1日目;2016年4月20日(水) (つづき) 晴
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/af2eec7966755948c86b17ffb0e3b487
<ルート地図>
■上田宿(改訂版)
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■上田宿詳細図(改訂版)
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<紺屋町から北向観音道分岐へ>
■酒造会社近くの広場で一休み
大輪寺の見学を終えた私達は善光寺街道に戻る.そして,善光寺街道を西へ向かって歩き続ける.この辺りは紺屋町という.前回の記事でも触れたように,真田幸村が海野から染物屋をこの地に招いたのが今夜町の始まりだという.
11時04分,和田酒造と思われる屋敷の前を通過するが,表札を見落としたのか確認できないまま,敷地の一角を借りて,給水休憩を取る.まだ,今は4月下旬だというのに,いささか蒸し暑い.私は近くにある自動販売機でコーラを購入し,喉の渇きを癒す.
<広場の一角の日陰を借りて給水休憩> <私が購入したコーラ>
■上田新町郵便局
数分の給水休憩を取ってから,再び歩き出す.
11時14分,上田新町郵便局に到着する.ここで手持ちの地図で郵便局の位置を見て,自分たちの現在地を確認する.
郵便局の近くに三角点があるらしく,地図には標高450メートルと表記されている.
<酒造会社かな?> <上田新町郵便局>
■向源寺
11時21分,向源寺参道入口に到着する.
参道の突き当たりに向源寺の立派な本堂が見えている.時間があれば立ち寄りたいところだが,少々時間が押しているので,遠くから本堂の写真を撮っただけで通過する.
資料4によると,向源寺の概要は以下の通りである(コピペ).
「向源寺の創建は永正17年(1520)、浄空が開いたのが始まりと伝えられ、当初は上田原にありましたが寛永3年(1626)に現在地に移っています。戦国時代に武田信玄の影響下に入った永禄9年(1566)には信玄から境内で陣をとることを禁じた朱印状を賜っています。この朱印状は信玄の侵略した地域の宗教施設を保護するという領土経営を示す貴重な史料として上田市指定有形文化財に指定しされています。又、小林一茶が数年間過ごしたことでも知られ第十四世の換沼氏とは親交が深かったといわれています 」
向源寺は浄土真宗大谷派の寺院のようである.
<向源寺>
■北向観音道
11時23分,北向き観音道との分岐に到着する.分岐点には「北向き観音道」と刻字された大きな石が立っている.
資料5には「北向観音は長野県上田市別所温泉にある天台宗の寺院.近隣にある天台宗常楽寺が本坊であり,その伽藍の一部として同寺が所有・管理する」という説明がある.
また,同資料によると,平安時代円仁(慈覚大師)創建.木曽義仲の兵火で焼失,源頼朝再建,後,度々焼失したという.
いずれにしても,改めて北向観音道を歩いてみたいなと私は思っている.
<北向観音道道標>
<芳泉寺>
■芳泉寺に到着
善光寺街道から左折して,北向観音道をほんの少し南へ下って,11時27分,芳泉寺に到着する.
資料6によると,芳泉寺は「浄土宗の寺.開創当時は常福寺と称し,真田信之の菩提寺であった.信之の正室小松姫の墓がある.信之の後に上田城主となった仙石忠政が小諸の宝仙寺をここに移し,円覚院芳泉寺とした.」
<宝泉寺に到着>
■広々とした境内
階段を登って右に曲がり境内に入る.
手入れが行き届いた広々とした境内は正に圧巻である.
至る所に説明書きが掲示されている.ちょっとだけ立ち寄るつもりだった私達には,正に「猫に小判」状態である.
とにかく凄い寺である.
<広々とした境内>
■宝泉寺本堂
まずは本堂を詣でる.
人物が入っていない本堂の写真を撮りたかったが…ブツブツ.
<宝泉寺本堂>
■小松姫の墓
本堂に向かって左手に向かう.
背の低い潜り戸を抜けると,立派な宝篋印塔が立っている.その先に小松姫の墓と書いてある案内杭が立っている.
その傍らに「小松姫のエピソード」という案内板がある.この案内板の記事によると,「姫の婿選びのため,家康公に呼ばれてひれ伏している諸大名の髷を,姫が掴んで顔を見た.その態度に立腹し,鉄扇で手を打ち据えた大名が信之公であった.姫はこれを怒るどころか,他の大名のだらしなさを軽蔑し,彼の正室となり上田へ嫁いできた.やがて不幸なことに,信之と昌幸(父)幸村(弟)が敵・味方となって戦うようになった時(1600)に,最後に孫の顔を見たいと訪れる昌幸に対し,姫は侍女達にも武装させ城門を警護し,昌幸を追い払ったという.しかし関ヶ原の合戦に敗れ,九度山に蟄居した昌幸・幸村に上田の食物を送り続けたという」.
<立派な宝篋印塔> <小松姫の墓>
<生塚と正福寺>
■高橋を渡り生塚へ
11時37分,芳泉寺を出発する.往路を戻って北向観音道分岐まで戻り,善光寺街道の続きを歩く.
11時43分,矢出沢川に架かる高橋を渡る.
11時44分,三叉路を右に曲がって,閑静な裏道に入る.裏道を2分ほど歩いた右手に「生塚(うぶづか)」の案内板が立っている.
この案内板によると,「真田氏は上田城築城のあと,城下町造りを行い,さらにその周囲に城下囲の村々を造り,屋敷年貢を免除した.生塚もそのとき太郎山の麓にあった堂屋敷から移した村で,そのうち字(あざ)生心・塚穴などの「生」と「塚」をとり,生塚と呼んだのがはじまりと伝える」とのこと.
11時47分,信号生塚を通過する.
<高橋> <生塚>
■正福寺の千人塚と厄除観世音
11時52分,正福寺に到着する.
境内入口には,「真言宗知徳山正福寺」と刻字された石柱が立っている.境内入口右手に「流死含霊識」と刻字された大きな塔が立っている.塔の前に立っている説明板の記事によると,寛保2年(1742年)の壬戊洪水で溺死した屍を埋葬し千人塚を建立したという.
手前の白い案内板には厄除観世音の説明文がある.この説明文によると「村上義清および真田信之の信仰を得た聖観世音菩薩は元和五年に当秋和に疫病が流行した時,村民が病患を絶つため領主に願い出て病気平絶の大祭を行った.その後毎年八月十七日に厄除請願の護摩供養を厳修し大祭を行っている」とのこと.
<正福寺の門柱> <千人塚>
■正福寺の本堂
正面に端正な姿の本堂が見える(本堂かな?).私は,人影を入れずに本堂の写真を是非撮りたいと思った.そこで,私より先に行く方に,
「…申し訳ないけど,先に写真を撮らせて下さい」
とお願いして,この写真を撮る.
私には建築のことは良く分からないが,本堂は真壁作りのようである.白壁の中に縦横に格子状に連なる柱が端正な印象を与える.質素な切り妻の屋根には何の飾り瓦もない.これが私には清々しく感じる.寺の後ろに聳える太郎山も美しい.
向かって左側には弘法大師像が安置されている.何の飾り気もないけど手入れの行き届いた庭に何とも言えない近親感がある.
”こういう雰囲気の寺って…良いな.”
と私は勝手に思っている.
<正福寺本堂>
■歌碑と並木跡
境内の一隅に立派な歌碑のようなものがある.例によって流麗な変体仮名で書かれているので,私には良く読めないが,どうやら,
”み仏の
御名を■(読めない)ふふる
河かつ■は
こゝろ■やみと
ともにあ■らむ”
読めない字が多いので,具体的な内容は今ひとつ分からないが,何となく雰囲気は分かるような気もする.この歌の作者も良く分からない.
11時57分,正福寺を出発する.
正福寺を出たところに,旧並木道を偲ぶ立て札と,注連縄で囲まれた古い木が祀られている.立て札は大分風化していて,書いてある文字は殆ど読めないが,どうやらこの辺りに立派な並木道があったらしいことが想像できる.
<歌碑> <並木跡>
■長昌寺
12時01分,長昌寺に到着する.
門柱には「曹洞宗長昌寺」という刻字がある.境内に入ってすぐ左手に三界万霊塔が立っている.
参道を進むと左手に六地蔵が並んでいる.
<長昌寺の門柱> <六地蔵>
■長昌寺の本堂
長昌寺の本堂の写真を撮る.
大きくて伸びやかな屋根が印象的である.如何にも禅宗の寺らしい雰囲気が漂っている.清々しい気分になる.
長昌寺の由来など,今のところ不明.
<長昌寺の本堂>
<やっと昼食>
■西友が見つからない
12時02分,長昌寺を出発する.
12時07分,火の見ヤグラの脇を通過する.
「…そろそろ,食事処を探しましょう…」
と女性群にお願いする.
「良さそうなところがあったら,『ここにしましょう』と指図して下さい」
ところが,なかなか食事処が見つからない.そうこうしている内に,12時25分,バス停下秋和を通過する.
事前に調べた地図では,この辺りに西友があるはずである.西友には入れば弁当ぐらいは返るだろうと思っていたが,肝心の西友があると思われる場所を通過してしまう.
「この辺りに西友があるはずだが…」
と周囲をキョロキョロと見廻す.
丁度そのとき,居合わせた地元の女性に伺うと,西友は名前を変えて○○というお店(聞いた途端に名前忘れた)になって,場所を移転したとのこと.
”これは困った.昼食を食べる場所がない,”
<火の見ヤグラ> <バス停下秋和>
■レストラン「いっちょう」で昼食
「もう少し先まで歩きましょう…西上田の駅辺りまで歩けば何処か適当なところがあるかもしれません…」
12時29分,漸く「いっちょう」というレストランを見つける(レストランの位置は次回の記事で表示する).
”混雑しているかな…”
と訝りながら店内を覗く.
「大丈夫です…」
と斥候隊のABさんが私達に合図する.
「良かった…!」
昼時の混雑時間のピークは過ぎているらしく,私達5人が座れる場所が確保できる.
<レストラン「いっちょう」> <レストランに入る>
■私の昼食
私が選んだ昼食は下の写真の通りである.このメニューでも,1000円札でかなりのお釣りが返ってくる.割安感がある.
それに何より嬉しいことに,胆石症の手術を終えてから,天ぷらを食べても,胃が痛くならないことである.私は胃に仕掛けられていた不発弾を処理したような感じで,昼食を楽しむ.
野菜一杯,ボリューム満点の食事に満足する.ただ,食後にコーヒーが飲みたくなるのは私の悪い癖である.
<私の昼食>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;黒田茂夫(発行人),2014,『県別マップル20長野県道路地図』昭文社
資料4;http://www.nagareki.com/ueda/kougen.html
資料5;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%90%91%E8%A6%B3%E9%9F%B3
(つづく)
次の記事
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(編集中)
「善光寺街道」の目次
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「善光寺街道」の索引
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【参考資料】
「善光寺西街道」の目次
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