趣味三昧;駅弁回顧録:昭和56年;信越本線;横川駅「峠の釜飯」
私は,今,鎌倉に住んでいる.でも,私の故郷は信州信濃.先祖代々生粋の長野県人である.
長野行新幹線(現在の北陸新幹線)が開通してから,懐かしい信越本線がズタズタになってしまったのは,実に寂しい.
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以下は昭和20~30年代の回顧録.
”うがつトンネル26(24だったかな?)”の碓氷峠.軽井沢から,熊ノ平駅を経由して,1000分の68の急勾配を下ると横川駅である.
昔々,昭和26年,私は信州から仙台にある新制大学に進学した.
春4月,春休みが終わって.新学期が始まる.信越本線と常磐線を乗り継いで仙台に戻る.軽井沢までは厳冬期そのままの冬枯れの中を蒸気機関車D50かD51に牽引された列車が走る.車窓から目映い雪の浅間山がずっと見えている.浅間山は私たち佐久に育った人間にとっては神様,信仰の山である.
軽井沢から横川までは蒸気機関車ではなく電気機関車が客車を牽引する.確か,坂の下り側,つまり横川側に3両(2両だったかな?),軽井沢側に1両の電気機関車が連結される.
列車が発車するときには,先頭の電気機関車が”ピーッ”と汽笛を鳴らす.すかさず後ろの電気機関車も呼応するように”ピー”,”ピー”と汽笛を鳴らす.その汽笛の合図とともに,列車はゆっくりと動き出す.
列車は実にユックリとした速度で走り出す.軽井沢の平原を過ぎると,急な下り坂が始める.すぐにトンネルにはいる.そんなに長いトンネルはないが,トンネルを出たかと思うと,すぐに次のトンネルに入る.トンネルを出た瞬間,ちょっとの間,樹木に覆われた深い山が見える.
だいぶ下ったなと思う頃,突然空間が広がる.熊ノ平駅である.もちろん,当時の信越本線は単線だったので,熊ノ平駅で下り列車と交換することもある.
列車は,横川駅に到着する.横川駅からは再び蒸気機関車である.電気機関車から蒸気機関車に連結替えするために,必ず5分ほどの停車時間がある.その間を利用して,この峠の釜飯を購入する.
客車の前を,弁当売りの方が,声を掛けながら売り歩く.窓から弁当販売の方を呼んで,弁当を購入する.
私の学生時代,まだ日本は米軍の占領下だったが,多分,峠の釜飯が販売され始めたのもその頃でなかったかと記憶している.でも,この記憶.定かではない.
横川を過ぎると,列車の速度が碓氷峠とは比較にならないほど速くなる.信州はまだ冬景色なのに,群馬県に入ると一面の麦畑が青々としている.関東平野は春真っ盛りである.
その頃の私は,群馬の麦畑を眺めながら,将来,春が早い群馬県に住みたいなと,何時も思っていた.そんな願いが叶ったのか.今,鎌倉に住んでいる…が,妙なもので,年を取るとともに.生まれ故郷の信州を終(つい)の住まいにしたいなという気持ちが強くなる.でも,それは今となっては叶わない夢である.
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この駅弁の包み紙を見ると.私がこの駅弁を買ったのは,昭和56年のことである.
成り行きで,ついつい学生時代のことばかり書いてしまったが,昭和56年といえば,私はサラリーマンとして,一番脂ののりきった頃である.多分,あの頃は多忙な毎日を送っていた筈である.
でも,この峠の釜飯を購入したとき,どんな用事があって横川駅を通ったのか,全く覚えていない.多分,仕事ではなく,私用で信州へ帰ったんだろうと思う.
実は,これまで,峠の釜飯を,何回となく購入している.
今,私の机の片隅に,この釜が一つ置いてある.この釜は小物入れとして使っているが,何時頃購入したものか覚えていない.
この窯を眺める度に,私は過ぎ去った青春の日々のことを回想する.わが人生,長い歳月に違いはないが,過ぎ去ってみると一瞬の出来事だったような気がしてならない.
(つづく)
「趣味三昧;駅弁回顧録」の前回の記事
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「趣味三昧;駅弁回顧録」の次回の記事
(なし)
「趣味三昧;駅弁回顧録」の目次
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