Quantcast
Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2690

歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(18):長久保宿

$
0
0

                               <中山道の元道>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(18):長久保宿
            (五十三次洛遊会)
      2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年7月24日である.
 初稿の地図の差し替えと追加および本文の加除修正を行った.

第3日目:201年6月15日(月) (つづき)

<ルート地図>

■長久保宿とその周辺


■長久保宿詳細図

 

<笠取峠を下る>

■ショートカット道を下る
 峠の茶屋跡付近で,しばらく休憩を取った私たちは,12時11分,笠取峠を下りはじめる.やや急な下り坂である.暫くの間,舗装された自動車道路が続く.
 途中から案内標識に従って,クネクネと迂回する自動車道をショートカットする形で,草深い小径を下る.野趣豊かな散策路である.頭上は周囲の樹木の緑に覆われている.実に気持ちの良い散策路が続く.
 心地よく小径を歩いていると,いきなりガッカリさせるように自動車道に飛び出る.暫く進むと,また,緑豊かなショートカット道になる.
<心地よいシュートカット道>

■しだれ桜
 12時24分,立派なしだれ桜の脇を通過する.
 やがて道路は大きく迂回する.ところどころに中山道を示す道標が立っている.これらの道標を見逃さないように注意をして,坂道を下り続ける.
 
<中山道道標>                                           <立派なしだれ桜>

■川の右岸のトラバース道
 12時27分,大きくカーブする道端に馬頭観音を眺めながら下り続ける.
 その後,私たちは草ぼうぼうの土手を降りて,旧国道と並行する古道を,暫くの間,進む.進行方向左手には小さな川が流れてる.私たちは川の右岸のトラバース道を下っている.

<馬頭観音>

<松尾神社>

■松尾神社に到着
 再び,旧国道と合流する,旧国道を200メートルほど下ったところで,再び細い中山道に入る.暫くの間,クネクネと曲がる細い道を下り続ける.そして,12時44分,松尾神社の裏手に飛び出すようにして到着する.

<そろそろ松尾神社だ>

■酒の神様
 松尾神社の境内は広くて立派である.資料1によると,この神社は酒の神様のようである.
 資料5によれば,「長久保宿の入り口には酒の神様「松尾神社」がある.京都,松尾神社を本社に持つ酒造守護の神で,古くより酒造家の尊信あつく多くの酒造に関係した人達の参拝が絶えなかった.毎年夏に行なわれる松尾神社の例祭で奉納される「大山獅子」は,唄や笛及び太鼓は京都を思わせる優雅なもので舞い方も古式を伝えている」という(「・・である」調に書き換えた).

<松尾神社>

■立派な本殿
 まずは本殿でお参りを済ませる.立派な本殿である.
 傍らに設置されている案内板には,「この本殿は諏訪の宮大工,三代立川和四郎富重の建築で,万延元年(1860年)に再々建されたもので,総欅で三社の高床造りである.本殿の欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ,鶴が舞い遊んでいる姿や,貫の木鼻には像のはななど,実に見事な彫刻がしてある.神社は旧郷社で,祭神は大山昨命であり,本社は京都市右京区松尾町の官幣大社松尾神社で,酒造守護の神として往古より酒造家の尊信あつく遠くより参詣する人が多かった.以前は長久保の町裏地籍にあり,その当時は大欅の森があったが小学校校庭拡張のため昭和33年5月現在地に移転した.その際略式の四神の際紀のあることが発見された」という説明がある.

<松尾神社本殿> 

■大井廣の歌碑
 境内の傍らに立派な歌碑がある.大きな石に綺麗な変体仮名の和歌が刻まれている.戦後,きちんとした教育を受けていない私には,とても読めない.
 歌碑の近くにある説明文によると,
  “のぶどうのみのりてあらんふるさとや
      しなののくにの□□かりけり”(□は読めない)
と書いてあるようだ.
 この説明文によると,「大井廣は1910年(明治43年)長久保新町生まれ.京都大学卒.兵庫県立第一女学校教授立命館大学教授兼任.1943年(昭和18年)逝去.歌壇でも活躍.この詩碑の文字は大井廣の自筆」ということである.
 なお,帰宅後,インターネットで「大井廣」を検索したが,関連記事は見当たらなかった.

<大井廣の歌碑>

<長久保宿>

■大鳥居を潜る
 12時49分,松尾神社の立派な鳥居を潜る.すぐに五十鈴川に架かる橋を渡る.この辺りから長久保宿である.

<大鳥居>

■長久保宿の概要
 12時53分,交差点近くの堅町バス停を通過する.こうして,私たちは,3日目の終着地,長久保宿に到着する.
 資料6によれば,長久保宿の概要は,以下の通りである(「・・である」調に書き換えてある).
 「長久保宿は,江戸板橋宿から二十七番目の宿場町である.笠取峠をくだったところにあり,現在も本陣や当時の名残りをとどめる建物が残されている.また,この場所は共に難所であった和田峠と笠取峠との間にあって,最盛期には旅籠が50軒近くある比較的大きな宿場であった.
 宿場の発展と共に町並みが横丁の先に広がり,カギ型に曲がった珍しい形の宿場町であった.宿名「長久保」の本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」であったが,宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し,久しく保つの意味の「久保」に縁起をかついで変化していったと言われている.1859年には宿方から代官所へ宿名変更の願書が出されたらしいが,すぐに許可はおりなかったらしい.そのため,以降も公文書には「長窪宿」と記されているものが多く,認められたのは明治になってからのことであった.」
 資料3(pp.152〜155)によれば,長久保宿には,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠43軒を含み宿内惣家数は187軒.宿内人口721人だったという.
 なお,「惣」は,資料4によると「室町時代,農村の自治組織.名主の中から選ばれた乙名(おとな)・年寄・沙汰人(さたにん)などを中心に,寄合によって掟(おきて)を定め,入会地(いりあいち)・灌漑(かんがい)用水などの共同管理や年貢納入の請負いを行った.惣村(そうそん).惣中.」のことという説明がある.
 門外漢の私には分かったような分からないような話だが,長久保という「惣」に入っている家が187軒あったということだろう.

<静かな長久保宿>

■長久保宿歴史資料館
 12時58分,長久保宿歴史資料館に到着する.
 古風な建物である.通路に面した格子戸の前に「長久保宿」と書いた屋根付きの案内が2個置かれている.資料館が開いているかどうか分からない.
 傍らの案内板によると,ここは「一福処濱屋の建物.明治時代初期に旅籠として建てられたが,中山道の交通量が減ったために開業には至らなかった.間口は9間と広く,総二階建で,延床面積400平方メー散る程の宿内でも大きな建物だった・・(略)・・2000年(平成12年)建物所有者福永家から寄付された・・」とある.

<長久保宿資料館>

■旧本陣石合家住宅
 12時59分,旧本陣石合家に到着する.傍らに高札場跡の表示がある(一部平易に書き換え省略).
 傍らに立っている案内板によると,この建物は「江戸初期の本陣建築で,上段之間,二之間,三之間,入側などが現存する.1850年(寛永3年)の本陣絵図には,上段之間ほか客室,茶之間,台所など22室が主要部分で,ほかに問屋場,代官詰所,高札場を併置し,御入門ほか幾つかの門,御番所2カ所,御湯殿4カ所,雪隠7カ所,土蔵,馬屋などがあった.(町重要文化財)」.

<旧本陣・高札場跡>

■脇本陣跡
 13時01分,脇本陣跡を通過する.
 脇本陣跡と書いた木杭が立っているだけである.

<脇本陣跡>

■釜鳴屋
 旧本陣の直ぐ近くにある釜鳴屋を,外から見学する.
 資料2によれば,「釜鳴屋は寛永年間から酒造業を許可されていた家柄で主屋の間口が9.5間と長久保宿の中では大型な建物である.江戸時代初期に建てられたとの伝承があり,軒が低く1階正面を下屋で張り出し,両脇には”本うだつ”を上げるなど同じ長久保宿の町屋とは一線を画す建物である.建物は切妻,平入,桟瓦葺,間取は片側住居2例に”通りにわ(土間)”が敷地奥まで通っている.竹内家住宅(釜鳴屋)は1978年(昭和53年)に長和町指定有形文化財に指定された」(「・・である」調に書換).

<釜鳴屋>

■長久保宿石碑
 13時04分,長久保宿石碑の前に立つ.大きな石碑である.いよいよ3日目の終点が間近である.

<長久保宿石碑>

<長久保バスターミナル>

■漸く長久保バスターミナルに到着
 13時06分,私たちは,やっと本日の終着点,長久保バスターミナルに到着する.広々としたターミナルである.ここにも人影は見当たらない.
 今日は終日中山道沿いに歩き続けたが,その間,全く人に会わなかった.人口過密な東京近郊に住んでいる私たちにとって,こんなに人に会わないとは,事前に全く予想できなかった.

<長久保宿バスターミナル> 

■疲れ切ってヘタヘタと
 長久保宿は,バスターミナル付近で鍵の手に左折してさらに続いている.しかし,左折後の宿場見学は次回のお楽しみである.今日の所は,バスターミナルで一休みすることになる.
 一同,狭い椅子にヘタヘタと座り込む.ちなみに私は立ったまま.
 本日,3日目の水平歩行距離は11.4キロメートルと大分少なめ.ただ,累積登攀高度366メートル,累積下降高度361メートルで,まあ,一寸した里山歩きと同程度.平素,山歩きをしている私には,平地を歩くのと大差ない.しかし,平素,山歩きをしていない人には,それなりの負担になっているだろう.
 私たちはこれから路線バスで上田に出る.もし,上田で時間あったら,ほんの少しだけ上田市内を見学してから,長野新幹線に乗って帰る予定である.
 上田は,私が旧制中学から新制高校までの6年間,青春時代を過ごした懐かしい所である.当時,私は小諸から上田まで汽車通学をしていた.第2次世界大戦が終わったのが旧制中学1年の時.だから,戦後の混乱期に上田と6年もお付き合いしていた.
 上田は実に懐かしい.上田に着いたら,時間が許す限り,上田城趾を中心に精一杯,皆さんを案内しようと思っている.

<長久保宿バスターミナル>

                               (つづく)

 [参考資料]

資料1:『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料2:インターネットで「長久保宿: 竹内家住宅(釜鳴屋)」を検索
資料3:今井金吾,1994,『新装版今昔中山道独案内』JTB日本交通公社出版事業局
資料4: http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%83%A3&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=12416210689200
資料5:http://www.town.tateshina.nagano.jp/nakasendo/history/temple.html
資料6:http://www.town.tateshina.nagano.jp/nakasendo/area/nagawa.html

[加除修正]
2013/7/27  地図の差し替えと追加,本文の加除修正を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/82cb15566c7f823fd576f462683cccc9
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2aa5d30269a4f67cbfdb73df139530d8
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2690

Trending Articles