<諏訪関跡の日影で一休み>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(4)上野原宿
(五十三次洛遊会)
2013年7月7日(日) つづき
<ルート地図>
※再掲
<上野原宿に入る>
■上野原宿の概要
資料2(pp.294-295)によれば,上野原宿の宿内人口は784人.内,男386人,女398人.宿内惣家数159軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠20軒.「この上野原宿はさきの国道と甲州道中が一緒になったところから80メートルの地点から始まる」と説明している.
「天文23年(1554年),武田信玄の娘が北条氏政に稼いだ際は,武田側一万数千,北条方も五千の兵をここ上野原に送り,娘を北条氏に吹き渡した」という.当時は「それだけの兵力を収容できる能力があった」宿場だったようである.
また,同資料によると,江戸時代に入ると,上野原は機織りの産地として発展し,甲斐絹として有名だったようである.
■諏訪関跡
三枝神社境内で昼食を終えた私たちは,12時30分過ぎに再び歩き出す.
往路の参道を通って自動車道路に戻る.道路は大きく左にカーブする.緩やかな下り坂である.左カーブを通過すると,今度は大きく右にカーブする.アスファルトの照り返しがますます強くなる.
12時52分,諏訪関跡に到着する.「諏訪関跡」と刻字された立派な石柱が立っている.その脇に「鎮魂碑」という小振りの石柱が並べて立ててある.脊柱の周りは緑が美しい雑木林になっている.
資料2(pp.293-294)によると,諏訪関は別名境川御関所とも言われているようである.「諏訪の関有り.相甲の堺なり.関は甲斐の国のよし.信玄公の御在世には上武両州の軍勢の守りとして,人数を多く置かれし由,今は関守人もたえだえのよし」で,信玄が北条氏への備えとして設けたものらしい.この関所跡には夜泣き桜があるようだが,私たちは見落としてしまう.
ここは甲州25関のひとつである.
何れにしても私たちは,どうやら相模国から甲斐国に入ったようである.
とにかく蒸し暑くて参ってくる.
一同,諏訪宿跡のわずかな日影に入り込んで一休みする(冒頭の写真).
<諏訪関跡> <諏訪番所跡の説明板>
■甲州街道史跡案内図
諏訪関石塔と道を挟んで反対側に,攻守街道史跡案内図が立っている.
早速写真を撮るが,どうもボケていて,残念な蛾阿ハッキリとは読み取れない.いろいろな資料を調べると,この地図は,これから歩くところで何回もお目に掛かれそうなので.今度見掛けたときは,もっとハッキリ写るように努力したいと思っている.
<甲州街道史跡案内図>
■ますます気温が上がる
午後になって,ますます気温が上がっているようである.手許に寒暖計がないので,正確な気温は分からないが,私にはついぞ経験したことがないほどの暑さである.アスファルトの照り返しもあるので,多分,39℃程度に達しているのではないかと思う.とにかく夏場の甲斐路はメチャメチャ暑いように思う.
地図を見ると,もうすぐ先に慈眼寺(じげんじ)という寺があるようである.私はONリーダに,
「間もなく,慈眼寺という寺があるようです.ここで給水休憩を取りましょう…もっとも,慈眼寺がどんなところか分かりませんが…」
と提案する.
炎暑の路をトボトボと歩いていると,13時02分,電信柱に「慈眼寺」の看板があるのを見付ける.とにかく慈眼寺を訪れて見ることにする.
<慈眼寺の案内板>
<慈眼寺と諏訪神社>
■慈眼寺で休憩
慈眼寺の看板のところで右折すると慈眼寺がある,小さな寺である.曹洞宗.山号は護国山.
資料3によると,「開基は桂岸祖仙首座で,慶長7年(1602念)に本山保福寺二世が退隠して当寺の開山となる.大正5年(1916年)倒壊し,大神田寅吉が昭和5年(1930年)に独力にて私財を喜捨して本堂を再建した.昭和16年鐘楼堂および庫裏を再建して今日に至っている.」
「梵鐘に「洪鐘之起其始、甲州都留郡上野原村現住十七世徹龍,時天保5年(1834年)11月吉日,鋳物師,新田村足立惣右衛門,加藤勘米兵衛,藤原高伴作」とあったが,戦時中供出して現在はない.」とのこと.残念.本尊は十一面観音.
一同,寺の廊下や木陰にヘタヘタと座り込むように休憩を取る.私もかなりの疲労感があるが,一行の皆さんも大分疲れているようである.私は,
“これはあまり無理できないな…”
と判断する.そこで私はリーダに,
「今日は無理しないで,西光寺で終わりにしましょう」
と提案する.
リーダも,
「そうしましょう…」
ということになる.
<慈眼寺で休憩>
■船守弥三郎碑
境内一角に船守弥三郎碑が立っている.傍らに説明文があるが,半ば消えていて大変読みずらい,
資料4には,「日蓮大聖人御在世当時の信徒.伊豆伊東の河名の漁師.大聖人が弘長元年(1261)5月12日に伊東に流罪された時,夫妻そろって大聖人を外護した.初め伊東の河名の津についてから地頭の伊東八郎左衛門の屋敷に移るまでの30余日の間,大聖人を保護し,多くの供養をして,門下の一人となった.船守とは「船頭の頭」「漁師頭」のこと.」という説明がある.
船守弥三郎は上野原の出身である.
資料1によると,弥三郎の遺骨を伊豆川奈から分骨して,この寺に祀ったという.
<船守弥三郎碑の説明文><船守弥三郎碑>
■諏訪神社
13時09分,進行方向右手にある諏訪神社に到着する.余りの蒸し暑さのため,わざわざ境内に入って参拝する気にもなれない,私たちは立派な鳥居の前で,ちょっと立ち止まっただけで,何となく通過する.
資料1によると,この神社には大きな杉の木が5本並んでいるようである.この地を支配していた古郡氏が諏訪神社を勧請したところから,古郡神社とも呼ばれているとのこと.
資料5には,「諏訪神社の社暦は創立 久安年中(1145〜1450年)といわれている.
古郡郷に古郡氏より2〜3年後に信州諏訪の旧家 上原氏が農商2集団を率いて古郡に入った(故山梨学院教授 守屋 千尋「桂川を中心とした歴史・地理」HPによる).古郡氏は上原氏に諏訪土着を要請し,上原氏もまた諏訪文化の普及が本来の目的であったことから利害が一致し,神社創建が実現したと思われる.
古郡神社の名称発生の起因は古郡氏が武の神といわれる諏訪神社を郷の守り神として,古郡神社に改め正式に社名として名乗らせたと想定される.上原氏も郷主が古郡神社を正式名称として主張すれば,譲歩を余儀なくされ,古郡神社を公称として認めその後に諏訪大明神と記することで合意したと想定される.」という説明がある(一部省略).
<諏訪神社>
<上野原駅周辺を行く>
■旧甲州街道碑
13時14分,旧甲州街道碑を通過する.とてつもなく大きな石に「旧甲州街道」と刻字してある.私は,この碑を見て,私たちが間違いなく旧甲州街道を歩いていることを確認する.
<旧甲州街道の碑>
■諏訪橋を渡る
13時18分,中央高速道路上に架かる諏訪橋を渡る.午後の日射しはますます強くなっている.何の変哲もない橋を,ただ黙々と渡る.
橋を渡ると,いよいよ上野原の中心部に近付く.
<諏訪橋を渡る>
■疱瘡神社と一里塚跡
13時17分,疱瘡神社に到着する.まっ赤な社殿が印象的である.
資料6によると,疱瘡を流行させる悪魔が自村に入らないように,村堺に「しめ縄」を張り,赤い紙や布をぶら下げた.家の玄関の屋根に「さん俵」に小豆ご飯を供え,赤い「御幣」を建てたり,それを川に流して,悪魔の退散を祈った.
疱瘡神社には,疱瘡神として,「牛頭天王(ごずてんおう)」,「大山祗命」などを強い神を祭神として祀ることが多いという.
赤い色をした社殿を見ていると,往時の人達の疱瘡への苦悩が分かるような気がしてくる.
疱瘡神社の鳥居の脇に一里塚跡の案内板が立っている.ここは江戸日本橋から17里目の一里塚があった場所である.
<疱瘡神社>
■お寺道
13時25分,お寺路という路地と交差する.路の名前が素敵だったので,立ち止まって「お寺路」の奥まで見通す.道路の遙か先,緩やかな上り坂の先にお寺の大きな屋根が見えている.
蒸し暑くなければ,ちょっと寄り道して,奥にあるお寺を拝観したいところだが,今はその元気もない.
帰宅後,この寺の位置を手持ちの地図で確かめた,この寺の位置は確認できたが,寺の名称や故事来歴は,今のところ分からない.
<お寺道を見通す>
■牛倉神社は通過
進行方向左手に少し入ったところに牛倉神社があることを確認するが,クソ暑いのに,わざわざ脇道に入るのは真っ平ゴメン.という訳で牛倉神社参拝は省略する.
資料7には,牛倉神社の「境内入口には社号標「牛倉神社」「幸燈明神」と銅製靖国鳥居が立ち,入母屋造りの拝殿には二重の千鳥破風が付き,神明造りの本殿は大きく厳かな感じがする.その他,境内には末社や碑等が点在し,神楽殿も建てられていた.上野原市の市街地に鎮座する神社だが,大きな木も聳えた清々しく厳かな感じの神社であった.
御祭神:保食神、建速須佐之男尊、天兒屋根命、武甕槌命、経津主命
祭礼日:例大祭・9月5日、歳旦祭・1月1日、節分祭・2月3日、建国祭・2月11日、祈念祭・2月17日、大祓・6月30日 12月31日、新嘗祭・11月23日、月並祭・毎月1日 15日
境内社:聖徳社、祖霊社等
由緒:上野原市の中心部に位置する牛倉神社は創立年月は詳ではないが,人皇三十四代舒明天皇2年(630年)秋9月初めて祭事を営んだと伝えられる.延喜式外の古社で日本風土記又和名抄(応和年間1621年源順著)に古郡の郷に幸燈明神と記載されている.」
という説明がある.
資料1によると,ここは鎌倉時代以前からの古刹で,400貫(約1500キログラム)の大御輿が有名だという.
牛倉神社は,上野原では見落とすことができない神社のようである.また,機会があったら,是非,拝観したいなと思っている.
■脇本陣跡
歩き進むにつれて,だんだんと賑やかな街並みに変わる.
13時31分,ルートインコート相模湖上野原に到着する.資料1によると,ルートイン付近は若松屋脇本陣跡のようである.
皇女和宮降嫁の際,荷扱いを行い,その折に下賜された屏風があるという.
余談だが…
今年(2013年)9月に,今回に引きつづき2泊3日の予定で.甲州道中を歩くことになっているが,そのときこのルートインで2連泊することになっている.
そのとき,もし時間があったら先ほどの牛倉神社を訪れてみたいなと思っている.
<ホテルルートイン上野腹;脇本陣跡>
■大ケヤキ
13時33分頃,進行方向右手に少し入ったところに大ケヤキがある場所に到着する.
何回も同じ様なことばかり愚痴るが,とにかく蒸し暑いので,大ケヤキが直ぐそこにあると分かっていても,わざわざ寄り道をする気になれない.
“多分,あの辺りに大ケヤキがあるんだろう”
ということで,それらしい場所の木の写真をデジカメに収める.でも,これが目指す大ケヤキかどうかは全く分からない.
<大ケヤキかな?>
<鶴川宿を目指して>
■草道を下る
13時33分,上野原本町歩道橋を通過する.ここはY字型の大きな道路の交差点に道幅が狭い道路が3本交差する五叉路になっている.
地図を頼りに,道幅が少し狭い道路に入る.道なりに緩やかな下り坂を進む.
13時39分,コンビニの前を通過する.ここのコンビニは立ち寄らずに通過する.地図で確かめると,この辺りの地名は「原」というらしい.
道なりに進むと,やがて道路は大きく左にカーブする.このカーブが始まるところから右折して草道に入る.進行方向右手が高い土手になっている.
草道を下って,13時58分一旦舗装道路に飛び出る.ここはY字型の三叉路になっている.この三叉路を左に入る.そのまま道なりに進む.
1大きくS字型に曲がる道路をショートカットするように交差して,14時04分,鶴川の河岸沿いの道に合流する.
<鶴川の河岸沿いの道に降りる>
■鶴川橋を渡る
14時02分,鶴川に架かる鶴川橋を渡る.
この橋を渡れ阿,いよいよ鶴川宿である.
橋の上から,鶴川を覗き込む.このあたりは水浴びができるらしく,沢山の人が川の中で遊んでいる.如何にも涼しげである.
“一緒に水浴びをしたいな”
という気分になる.
<鶴川橋を渡る> <鶴川で水浴び>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www.takahashi-sekizai.co.jp/bosyo-syokai/yamanashi/jiganji/index.htm
資料4;http://www2.atpages.jp/gosho/person/06-03.html
資料5:http://kofucity-lc.com/memberreport/060813_furugori/furugouri_jinja.html
資料6;http://www.city.uenohara.yamanashi.jp/shokokanko/pamphlet.html
資料7;http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/yamanasi/uenoharasi/ushikura/ushikura.html
(つづく)
「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9378653e2b3476e11dea35279b586d34
「甲州道中」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/59f89f4ad294a7d72213ac5bb556921b
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58
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