<猛暑の中の難行苦行>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第5回):(2)天和から吉野宿へ
(五十三次洛遊会)
2013年7月7日(日) つづき
<ルート地図>
※再掲
<とにかく蒸し暑い>
■横道の集落
9時52分,小さな橋を渡る.地図を見ると,どうやらこの辺りは横道という所らしい.私たちは時々,濃い緑の木々で覆われた場所があるアスファルト道をひたすら歩く.
とにかく蒸し暑い.特に日が当たっているアスファルトの照り返しは,身体に堪える.メチャクチャに蒸し暑い.それでも,緑陰に入ると,蒸し暑さもいくらかはマシになる,有り難い.
歩いていても,たえず熱中症が気になる.
<横沢を渡る>
■石塔群と馬頭観音
9時54分,石塔群の脇を通過する.この石塔群が何かは,私には分からないが,ひょっとしたら墓石かも知れない.何だか分からないが,とにかく写真を撮る.
続いて,9時56分,道路際の土手に祀られた立派な馬頭観音の前を通過する.馬頭観音の周りの掃除が行き届いている.
<石塔群> <馬頭観音>
■橋沢と子の入を通過
9時57分,「甲州道中橋沢」と書かれた案内柱の前を通過する.さらに,10時01分,案内柱「甲州道中子の入」の前を通過する.
手許に準備した地図では,ここまで詳細な地名は分からない.
<橋沢> <子の入>
■天奈橋
なだらかな坂道を下っていると前方の斜面にカラフルな住宅地が見え出す.住宅地のところで少し道幅が広い歩道道路に合流するが,廻り込むようにして,すぐに左側の枝道に入る.
やや急な下り坂が続く.
10時04分,高速道路の上に架かる天奈橋を渡る.道路からの照り返しが強いの何のって…
<天奈橋を渡る>
<椚戸の集落を行く>
■加宿の天和
地図で確かめると,今私たちが歩いているところは天和というところらしい.
資料1の説明によると,天和は,これから訪れる吉野宿の加宿(かしゅく)だったところのようである.
資料3によると,「加宿(かしゅく)とは,主に江戸時代,五街道や脇往還において駅逓事務を取扱うため設定された宿場(宿駅)において,人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの.この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う.」とのこと.
なお,地図で確かめると,この辺り全体を椚戸というようだが,天和が椚戸に含まれるかどうかは,余所者の私には分からない.
■赤坂と桜野
10時08分,「赤坂」の案内柱,続いて,「桜野」の案内柱を通過する.
ここまで,マイナーな地名になると,普通の25000分の1の地形図ではとても補足しきれない.
<赤坂> <桜野>
■甲州古道椚戸
防火水槽看板のところで,細道路から土道に入る.土道に入ると幾分涼しくなる.そして,突き当たりで左折する.さらに舗装道路に出たところで左折する.そして,10時12分,「甲州古道椚戸」の案内杭の前に到着する.
<椚戸の案内杭>
■観福寺
10時14分,土道は再び舗装道路に突き当たる.舗装道路にでてから,進行方向左手にある観福寺を見上げながら,再び土道に入る.
なお,帰宅後,インターネットで,観福寺の故事来歴に関する情報を調べたが,今のところこれといった情報は入手できていない.
<観福寺の下を通過する>
■再び土道に入る
観福寺を過ぎると舗装道路は右カーブの下り坂になっている.
10時15分,カーブの手前にある「甲州古道上(?)」と書いてある案内杭の前に到着する.「?」の所は繁茂する夏草に隠れていて読めない.
この杭の直ぐ下に緑色の金網に囲まれた二つのゴミ箱がある.このゴミ箱の間で左折して,再び土道に入る.やや急な下り坂である.薄気味悪いほど鬱蒼とした緑に囲まれた道である.
<この案内杭の所から土道に入る>
■鬱蒼とした谷間の道
谷の名前は分からないが,私たちは谷の左岸沿いの小径を下る.鬱蒼とした茂みの中の道である.
10時17分,谷底の小川に架かる木橋を渡って,川の右岸沿いの道に入る.
<鬱蒼とした谷沿いの道を行く>
■石塔群
川の右岸沿いの道を川下に向けて歩き始める.
10時19分,進行方向右側の石塔群の前を通過する.石塔群の中に「廿三夜」や「馬頭観音」があることが確認できる.
資料4によると,二十三夜は「…子安講とか子安観音の講などと呼ばれるものである.二十三夜は〈三夜講〉といい,正月,5月,9月,11月や,正月,6月,9月,または正月,11月の23日夜に行い,隔年に大祝いしたり,〈廿三夜塔〉と刻んだ石塔などを立て,近世には各地で盛大に行われた。このほか,満月と新月は潮の干満がもっとも大きく大潮と呼ばれる.…」とのことである.
”なるほど…!”
<石塔群>
<吉野宿>
■吉野宿の概要
資料5では,吉野宿について次のように紹介している.
「新修五街道細見によると,与瀬から吉野宿へ三十四丁二十八間とあり,角屋の西横丁より二タセ越しの近みちあり. 舟賃四文づつ,二ヶ所吉野宿へ出る.」 とあり,勝瀬経由の近道を紹介している.また,甲州街道を利用した場合は,横道,橋沢を経て,大指ばしを渡り,なら本,椚戸を経て,吉野に至るルートが書かれている.
吉野宿は,本陣一軒,脇本陣一軒,旅籠三軒の小さな宿場で,桂川(相模川の別名)流域のため,古くは桂の里と呼ばれたところである.」
資料2(p.291)によれば,吉野宿の宿内人口は527人.内,男247人,女280人.宿内惣家数104軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠3軒.明治29年に大火があり,現在残っている古い建物も明治中期以降のものだという.
また,同資料(p.291)によれば,長谷川伸の『関の弥太ッペ』は,吉野宿を舞台にしているとのこと.残念ながら,私はこの本を読んでいない.日頃の不勉強さが悔やまれる.
■いよいよ吉野宿
下り坂を進んで三叉路左に入り集落の中の道を辿る.
10時21分,下り坂の途中で小麦を干している農家の方と出会う.
「あ〜ら…懐かしい!」
思わず立ち話.
「…この小麦は無農薬だよ…」
と説明してくれる.
丸い石を積んだ石垣が続く集落の中を下り続ける.
<小麦を干している農家の方> <石垣が印象的な集落>
■高札場跡
10時26分,高札場跡に到着する.草むした石垣の前に「吉野宿高札場」と書いた案内杭が1本立っているだけである.
<高札場跡>
■コンビニで一休み
高札場跡を過ぎると,直ぐに自動車の往来が激しい道路に出る.
平素,自動車に余り乗らない私には,この道路の名称は分からないが,相模川の右岸沿いの道路である.多分,国道20号線だろうと思うが定かではない.
ただでさえ蒸し暑くて往生しているのに,自動車の排気ガスや騒音で,ますますイライラしてくる.
10時27分,コンビニに到着する.誰からとはしに,必然的に,ここで休憩を取る.
私も早速店内に入って,ガリガリ君を1本購入する.涼しい店内で一休みしたかったが,営業妨害になるのを恐れて.敢えて滅多矢鱈に暑い外で休憩を取る.
ガリガリ君の美味しいこと! ガリガリ君を嘗めていると生き返ったような気分になる.
<コンビニで一休み>
■本陣跡
コンビニでの休憩を終えて,10時37分に再び歩き出す.
コンビニの直ぐ隣が吉野家本陣跡である.本陣跡は沢山の木立に囲まれた公園風に整備されている.
方綿に立つ説明板によると,吉野家は承久の乱のとき,一族は天皇方に従い,宇治瀬田の戦いに敗れて,故郷の大和の吉野を去り,この地に住み着いたという.江戸時代末期には本陣の造りは木造5階建の威容を誇っていた.また,明治13年の明治天皇行幸の際は,行在所になったという.「御本陣問屋吉野十郎右衛門五楼閣」と言われたが,明治に入ってから焼失した.
なお,資料1によると,本陣跡の直ぐ脇に船橋脇本陣跡があるはず.見落とさないように,注意深く辺りを見ながら歩いたが,残念ながら見落としてしまう.
<本陣跡>
■吉野神社
10時42分,吉野神社近くを通る.郵便局近くで右折して坂道を登れば吉野神社があることは分かってはいるが,あまりに蒸し暑いにで,意欲減退.とても坂道を登る気になれない.
“多分,この辺りの高い所に吉野神社はあるだろうな…”
と思いながら,リーダーのONさんと示し合わせて通過してしまう.メンバーの誰からも苦情はでない.
資料1によると,吉野神社のご神体は吉野家の先祖,吉野重信.神社は吉野家に向かって建てられているとのこと.
<吉野神社近くの丘>
■吉野橋を渡る
10時43分,相模川の支流,沢井川に架かる吉野橋を渡る.相模湖に近いためか,この辺りは淀みになっているらしく,釣り船が何艘か浮いている.
私たちは,吉野宿を後にして,いよいよ関野宿に向けて歩き出す.
<吉野宿を渡る> <相模川の支流>
■再び裏道へ入る
資料を見ると,吉野橋を渡った近くに,小猿橋跡があるようだが,蒸し暑さでボーッとしているせいか見付けられないまま通過する.
10時46分,SATELLA電気というお店の前で左折して裏道に入る.相変わらず蒸し暑い.少し登り坂になるが,暑いと一寸した登り坂でも結構堪える.
10時51分,進行方向右手にある藤野中学校に到着する.地図を見ると,この辺りに三角点があるようだ.この三角点の標高は215メートルである.
<SATELLA電気の先から右折する><藤野中学>
■巨大なエノキ
藤野中学を過ぎると,なだらかな下り坂になる.そして,再び自動車道路と合流する.
資料1には,この合流点に道祖神があるような記載があるが,どうしても見当たらない.多分暑さで,ボーッとしている私たちの探し方が悪いんだろう.
2車線の自動車道路に沿って,歩き続ける.ときどき通過する自動車に気を付けながら,暑いな,暑いなを連発しながら歩き続ける.
10時58分,大きなエノキの前に到着する.
近くに立っている案内板によると,この気の高さは12メートル,樹齢推定300年だという.
エノキとは道路の反対側から写真を撮るが,木が大きすぎるので,残念ながら木全体を撮ることはできない.
<巨大エノキの案内板> <巨大エノキ>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E5%AE%BF
資料4;http://kotobank.jp/word/%E5%BB%BF%E4%B8%89%E5%A4%9C%E5%A1%94
資料5:http://outdoor.geocities.jp/mrmaxtokai/kosyu11.html
(つづく)
「甲州道中」の前回の記事
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