<蚕玉神社と道祖神>
善光寺西街道;第1回;第2日目(1);村井宿から出川へ
(五十三次洛遊会)
2014年4月24日(金)~26日(日)
第2日目;2015年4月25日(土)
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<ルート地図>
■第2日目のルート
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※当初の予定では,2日目は松本止まりにして,残りの時間は松本市内観光に充てるつもりだったが,
実際には,この図越えて刈谷原宿まで歩いた(後日訂正番と差し替える予定).
■村井宿
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<2日目の朝>
■眠れない夜
年を取るとどうも熟睡ができず,夜中のとんでもない時間に目が覚めてしまう.こればかりは,どうにもならない.幸いなことにビジネスホテルの1人部屋に宿泊しているので,余所様に気兼ねをする必要もないので,真夜中にテレビを見たり,2日目の地図を眺めたりしながら,また自然に眠くなるのを待つ.要するに成り行き任せである.
その内に,また,何となく眠くなり,何時の間にかまた寝てしまう.
そんなことを2~3回繰り返している内に,ようやく朝の6時を迎える.この頃は日の出の時間がすっかり早くなり,とっくに夜が明けている.
室内の温度が少し暑かったためか,身体が何となく汗ばんでいる.そこで,資源の無駄遣いになるかなと気兼ねしながら,昨夜から入りっぱなしになっている風呂の湯を3分の1ほど抜いて,新たに熱湯を加え,丁度良い湯加減にした上で,朝風呂を楽しむ.
そうこうしている内に,6時45分になる.
朝食は7時からなので,食道のある1階へそろそろ下りようと思う.
ロビーでは,気の早い数名の同行者が,もう食堂の近くで待っている.同行者のお一人が,私に,
「…良く眠れましたか…?」
と聞く.私は率直に.
「いえ,…余り良く眠れませんでした…」
と答える.
「やっぱり,枕が変わると良く眠れませんね…」
「そうですね…」
と返事はしたものの,私は内心で,
“家に居ても,夜中に目が覚めてしまうな…”
と思ったが,ここから先は会話するのも面倒なので,何となく家では良く眠れるような雰囲気のまま,この話は途切れる.
■ホテルの食堂で朝食
7時少し前に,食堂の入口が開く.初老のウエイトレスが,愛想良く,
「お待たせ致しました…どうぞ…」
と私達を愛想良く食堂に迎え入れる.
このホスタビリティに,私は内心で,日本で旅行していて良かったなと,つくづく思っている.
私たち以外にも何人かの宿泊客が居るようである.
朝食はバイキング形式.それぞれが互いに少しずつ譲り合って,和やかな雰囲気が漂っている.ネーベンの種類も実に豊富である.
私達は余りあちこちに散らばらないようにいくつかのテーブルにすわる.
<ホテルの食堂> <モーニングコーヒー>
■私の朝食
私はカロリーオーバーにならないように注意しながら,適当にネーベンを選ぶ…が,美味しそうなものを見付けるとついつい欲しくなる.その結果,下の写真のように,随分種類の多い朝食となる.
“一体,何カロリーになるんだろう…まあ,今日はタップリ歩くので,まあ…いいか”
勿論,朝食を美味しく頂く.
<私の朝食>
■松本駅から村井駅へ移動
9時48分,ホテルを出発.
松本駅8時02分発上り普通電車に乗車する.車内は高校生らしい生徒で混雑.シルバーシートに空き席があるので,私は遠慮せずに座る.この炉の中で,
“だって,…このワシも傘寿を過ぎているし…それに右膝にまだ爆弾を抱えているんで…”
と,いろいろな申し開きを考える.
…と,言うわけで,自分が良い年になっているにもかかわらず,どうのシルバーシートに収まるには抵抗がある.
8時02分,村井駅に到着する.
駅前広場の片隅で,軽くストレッチをした後,8時16分に村井駅から歩き出す.
<JR松本駅> <JR村井駅から歩き出す>
<村井宿(続き)>
■村井宿の案内板と杭
村井駅前の取り付け道路を東へほんの少し移動して,8時20分,善光寺西街道との交差点に到着する.この交差点を左折して,本日の街道歩きが始まる.
この辺りは街の景観が良く保存されているようである.風格のある建物が建ち並んでいる.
8時25分,村井宿案内杭が立っているところに到着する.瓦屋根が付いた重厚な塀の脇に,この案内杭と,村井宿の説明板が立っている.
<村井宿の案内板と案内杭>
■村井宿の概要
村井宿の案内板を拡大したのが下の写真である.「松本まで1里20町,郷原宿へ1里12町…」などと書かれている.
明治20年(1887年),明治27年(1894年)の2度の大火で,本陣,問屋,旅籠屋など82軒ほどの家が消失したというから残念である.
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■本陣跡
8時26分,立派な冠木門を構た邸宅の前に到着する.資料1によると,ここは村井宿本陣跡.冠木門を入ったところに「明治天皇村井御小休所」という立派な石柱が立っている.
資料1によると,隣の連子格子の二階屋は旅籠屋「中つたや清兵衛」跡とのこと.
<本陣跡> <明治天皇村井御小休所>
■村井一里塚跡と芭蕉句碑
8時36分,信号村井下町で国道19号線に合流する.この合流点に村井一里塚跡と芭蕉句碑がある.
向かって左側が一里塚跡.洗馬より3里目の一里塚である.
向かって右側が芭蕉の句碑.資料1によると,この句碑は文化十年(1813年)建立.
“信濃なる富士見橋をこゆる日は雨降りて山皆隠れたり.
霧しぐれ
富士を見ぬ日ぞ
面白き”
という句が刻まれているとのこと.
実際にはここから富士山は見えない.
芭蕉句碑の鄙びた味わいと,背後に見える近代的な建物や,交通量の多い道路とのミスマッチがきになる.
<一里塚と芭蕉句碑>
■一里塚と芭蕉句碑の説明文
傍らに一里塚と芭蕉の句碑の説明文が立っている(下の写真).
この説明文によると,ここには周囲9メートル,高さ2メートルほどの土盛りの上に松の木が植えられていたとのこと.これが明治40年頃取り壊されてしまったという.
また,芭蕉の句碑は国道19号線の改修に伴って,現在地に移動されたという.
<一里塚と芭蕉句碑の説明文>
<平田地区>
■賑やかなお店
8時56分,美芳町交差点を渡る.
8時58分,何とも賑やかなお店に到着する.お店の名前は「サンキュー(讃久)」というのだろうか.何を販売しているお店か良く分からないが,飾り窓に沢山の人形が飾られている.
3階の双体道祖神を連想させる2体の人形を見て,
「…あそこからくり人形かもしれないね.9時丁度に動き出すかもしれないね…」
ということで,暫く見上げているが,どうやらからくり人形ではなさそうである.
<賑やかなお店>
■松本南郵便局
9時01分,信号平田駅東を通過する.
9時03分,松本南郵便局に到着する.郵便局は地形図にも掲載されているので,現在地確認に重宝する.
9時10分,信号平田に到着する.ここはY字型三叉路.国道19号線から右に逸れて川沿いの道に入る.途中から暫くの間は土手の上を歩く.空が広く開けて気分は上々である.
<松本南郵便局> <土手道を行く>
■蚕玉神社と道祖神
9時24分,土手沿いの道にある2基の石塔があるのを見付ける.蚕玉神社と道祖神である.
二つの石塔とも,それほど古いものとは思えないが,何時頃作られたものかは良く分からない.ただ両方とも新茶屋社中という彫りがある.
<蚕玉神社と道祖神>
■コンビニで一休み
9時28分,信号寿橋西を通過する.
9時30分,コンビニ「セブンイレブン」に到着する.ここで休憩を取ることにする.
少々蒸し暑いので,私は例によってガリガリ君を買うことにする.ショーケースを覗くと,見馴れないガリガリ君がある.
“これは旨そうだ…今日はこれにしよう…”
右下写真のガリガリ君をもってレジに並ぶ.私は何の躊躇もなく100円硬貨を出して釣り銭を貰おうとする.
「お客様…,すみません.これは普通のガリガリ君ではなく,100ウン十円です」
私ビックリ.あわててもう一枚100円玉を出して,レジに渡す.値段が高いだけあって,濃厚な味である.
<コンビニに立ち寄る> <ちょっと高価なガリガリ君>
■沢山の差し入れ
コンビニの前でガリガリ君を囓りながら一休み.その間,何人かの方々から,おやつの差し入れがある.有り難いし嬉しい.
休憩を終えて,9時42分,コンビニから歩き出す.
<コンビニで一休み>
<出川地区>
■多賀神社
9時52分,多賀神社に到着する.
朱塗りの大きな鳥居の先に立派な社殿が見えている.鳥居の扁額には,「多賀大明神」「諏訪大明神」と記されている.
資料3には,「滋賀県の多賀大社の分霊を祀る.多賀大社同様「お多賀様」と呼ばれ,延命長寿の神として信仰されている.秋の例祭では「寿命餅」が授与され,周辺市町村からも参拝者が訪れる.」という説明がある.
なお,多賀大社は,資料4には「滋賀県犬山郡多賀町賀にある神社.伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り,古くから「お多賀さん」として親しまれた.また,神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた.式部社で,旧社格は官幣大社.現在は神社本庁の別表神社である.」という説明がある.
<多賀神社の鳥居>
■出川差矢場跡地
10時02分,出川差矢場跡地に到着する.白塗りの案内杭が1本立っているだけ.
そもそもボンクラの私には「差矢」の意味が分からないが,まあ,それはともかく写真だけは撮っておく.
帰宅後,三省堂『大辞林』によると,差矢とは矢を次々に連射することのようである.
<出川差矢地跡>
■チューリップが色鮮やかな石塔群
10時02分,石塔群に出会う.馬頭観音,題目碑など沢山の石塔が立ち並んでいる.献花された色鮮やかなチューリップが目を惹く.
信仰心の厚い方が居られるようで,石塔群の廻りの掃除が行き届いている.何となく奥ゆかしさが感じられる.
<石塔群>
■寺子屋跡
10時05分,寺子屋跡を通過する.半ば字が掠れはじめた案内杭が1本立っているが,昔を偲ぶ縁(よすが)もない.
10時10分,信楽村役場跡を通過する.明治5年(1872年)から明治14年(1881年)頃まで,ここに信楽村役場があったようである.
<寺子屋跡> <信楽村役場跡>
■中田家住宅
10時08分,信号出川町を通過する.
10時12分頃,風格のある白壁の塀沿いをあるく.古きよき時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る.
10時10分,中田家の門に到着する.ここは名主の屋敷.門を入った右手に明治天皇信楽御小休所の碑が立っている.
私有地に入るのは気が引けるが,門をほんの少し入ったところから,この碑の写真を撮る.
なお,この建物は市重要文化財に指定されている.資料1の説明によれば,この建物は江戸時代の上級十滝様式,似母158坪の広さを持つという.
<中田家>
■信楽一里塚
10時15分,松本出川郵便局の前を通過する.
10時18分,信楽一里塚に到着する.資材置き場風の建物の前に,掠れた字でやっと一里塚と読める標柱が立っている.余程注意をしていないと,こんなところ標柱あるとは分からない.
<出川郵便局> <信楽一里塚>
■念仏供養塔と南無阿弥陀仏碑
信楽一里塚跡標柱のすぐ脇に念仏供養塔と南無阿弥陀仏碑が並んで立っている.何れも天保13年(1842年)に建立されたものである.
2基の石塔のすぐ先に田川が流れている.この川を渡れば,松本宿である.
<念仏供養塔と南無阿弥陀仏碑>
[参考資料]
資料1;完全踏査海道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%B8%82)
資料4;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE
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(編集中)
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「善光寺西街道」の索引
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