<分去れの常夜灯>
善光寺西街道;第1回;第1日目(1);洗馬宿から歩き出す
(五十三次洛遊会)
2014年4月24日(金)~26日(日)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4188252e791f2b3445aeb91553faee7c
<ルート地図>
■洗馬宿
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■洗馬宿詳細図
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<洗馬駅から歩き出す>
■塩尻駅集合
いよいよ今日から善光寺西街道歩きが始まる.
昨年来,私が提案していた計画がやっと実現することになった.提案者の私としては,同行者8名と一緒に旅が楽しめるのは,実に感無量のことである.
歩行計画の概要やルート設定は,今回同行して頂くABさん夫妻の絶大なご協力を頂きながらも,全くの我流で行った.実際に歩いたら,想定していたことと大きく違っていることも,多分あるだろう…が,あまり大きく食い違って戸惑うことがないように祈るのみである.
集合時間から逆算して,少々早めに自宅を出発する.日頃は自宅から大船駅まで2キロメートル余りの道を歩いているが,今は,まだ,右膝に爆弾を抱えているので,自重して歩くのを止めて,大船駅へ湘南モノレールの最寄り駅から電車に乗る.大船駅から東海道本線の電車で浜駅へ,さらに東神奈川駅から浜線を利用して,7時22分に八王子駅に到着する.
私は八王子8時03分発特急あずさ3号に乗車する積もりである.まだ,少々時間があるが,跨線橋に囲まれた狭いコンコースで時間つぶしをする.でも,このコンコース,実に沢山の通勤通学客が切れ目なく交差するように歩いているので,落ち着いて立っている場もない.ホームへ下りる階段の脇で通勤通学客の流れが死角になる狭い場所で立ち尽くす.その内に,八王子駅から乗車する同行の皆様が全員揃う.
特急列車に乗車する.指定席.列車は空いている.私と同じ車両に同行者3名が乗車している.もう一人は離れた車両に乗車しているとのこと.同行のお二人は1本前の特急に乗車しているので,全員が無事に集合場所の塩尻に向かっていることを確認する.
<特急あずさ3号の車内> <塩尻駅到着>
■洗馬駅着
10時14分,塩尻駅に到着する.参加者8名が無事塩尻駅に到着したことを確認する.
10時25分,塩尻駅前から2台のタクシーに分乗して,中央本線(西線)の洗馬(せば)駅へ向かう.
洗馬駅は全く人気がなく,ガランとしている.瓦葺きの屋根の小さな駅である.
駅前広場で,私が音頭を取って,ストレッチを済ませる.そして,10時38分,いよいよ洗馬駅から歩き出しである.
お天気は上々.気温は少々高めだが,最高のウォーキング日和である.
<洗馬駅に到着> <瓦葺きの洗馬駅駅舎>
■長閑な駅前
洗馬駅は集落より少し高いところに位置している.駅前の桜は,もう見頃は過ぎているもののまだ見事である.
「さて,どうしましょう…? 洗馬宿は中山道を歩いたときに,もう見ているので省略しましょうか…?」
と皆様に伺う.
私達は,今から約4年前の2011年9月6日に,中山道を歩いている途中で,この洗馬宿を通過している.でも,今回の参加者の中に,中山道を歩いていない人もいるようなので,取りあえずは本陣跡だけは一寸だけ見ようということになる.
<長閑な洗馬駅前>
<洗馬宿>
■洗馬学校跡
洗馬駅前から短い坂道を下ると三叉路に突き当たる.これが中山道である.三叉路を左折してほんの少し歩いたところに洗馬学校跡がある.
案内板の下に啓示されている図面を見ると,随分と洒落た校舎が建っていたようである.
<洗馬学校跡> <洗馬学校の側面図>
■洗馬宿本陣跡
洗馬学校跡を通過して,10時59分,洗馬宿本陣跡に到着する.
本陣跡は,案内板があるだけの殺風景なところである.この案内板には以下のようなことが書いてある(要約).
「慶長19年(1614年),中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えに変更になったとき,中山道と北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設された計画集落である.南北の出入口は鉤型に,宿内は湾曲して造られている.用水は尾澤川の水を引き入れ,宿の南で2筋に分け東西の屋敷裏を流している.屋敷の間口は3間を基本として宅地の奥に畠が続く細長い屋敷割が特徴である.本陣,脇本陣,問屋場のほかに荷物貫目改め所も置かれ,分去れに位置する洗馬宿の重要性がうかがわれる.戸数は,始め100軒余,幕末には150軒程あって,大きな旅籠を持つ宿として賑わった.本陣,脇本陣の庭園は名園だったが,明治42年,鉄道の開通によって洗馬駅の敷地となって失われた.昭和7年,洗馬大火で宿場時代の建物が殆ど焼け落ちた.」
<洗馬宿本陣跡>
■邂逅の清水入口
本陣跡を見学してから,分去れを目指して中山道を北東の方向に向かう.
11時05分,邂逅(あふた)の清水入口に到着する.ここはまだ中山道.私達が歩く善光寺西街道には属さない.
「…どうします.(邂逅の清水を)見てきますか…」
と一同に伺う.
「見る…見る…見ますよ…」
とのことなので,邂逅の清水入口で左折して脇道に入る.
邂逅の清水入口のすぐ向こうに分去れの三叉路が見えている.
<邂逅の清水入口>
■邂逅の清水
脇道を進むと急な下り坂の階段になる.この階段を下ったところに邂逅の清水がある.
私は故障中の右膝が気になるのと,すでに中山道を歩いたときに,この邂逅の清水を見ているので,ここから先へ下るのは遠慮しておく.
<邂逅の清水の案内板>
<2011年,邂逅の清水にて>
<分去れの道標・石塔類>
■追分道標
邂逅の清水の見学を終えて,11時11分,追分道標の前に到着する.
”ここだ! ここだ!…ここからいよいよ善光寺西街道だ…”
私は一人で勝手に喜んでいる.
追分道標の正面には「右中山道」,左面には「左北国街道往還善光寺道」と刻字されている.傍らに立っている案内板の記事によると,この道標は昭和7年(1932年)に,ここから少し先にある本来の分去れから,現在地へ移設されたとのことである.
追分道標のすぐ後ろに大きな道祖神が祀られている.
<中山道道標>
■常夜灯
11時14分,現在の分去れから少し先にある常夜灯前に到着する.立派な常夜灯である(冒頭の写真参照).この辺りに本来の分去れがある.
傍らに立っている案内板の記事によると,この常夜灯は安静4年(1857年)に建立されたとのこと.
常夜灯のすぐ脇に,「右中山道 左善光寺道」の案内杭が立っている.
<常夜灯> <案内杭>
■肱懸松
分去れの中山道頼に肱懸松がある.
肱懸松(肱松)の傍らに案内板の記事によると,細川幽齋がここにあった松に肘を当てて月を眺めたことから肱懸松と呼ばれるようになったという.なお,細川幽齋は肥後細川家の祖だとのことである.
案内板には細川幽齋が詠んだ歌が紹介されている.
“肱懸けて
しばし憩える松蔭に
たもと涼しく
通う河風”
なお,江戸2代将軍秀忠上洛のときに,肱をかけて休んだという説もあるようだ.
<洗馬宿の案内板> <肱懸松;2011年撮影>
■雄大な風景
11時18分,いよいよ分去れから善光寺西街道を歩き出す.
すぐに広々とした畑地の中を行くのどかな道になる.進行方向左手には雪を抱く南アルプスの山々が見えている.
いよいよ善光寺西街道歩きの始まりである.
<広々とした田畑が広がる>
(つづく)
[参考資料]
資料1;http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0552d1c5c2a190b4cd726e9037d732d3
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(編集中)
「善光寺街道・西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺街道・西街道」の索引
(なし)
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