<栗が原で昼食>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(4):碓氷峠をひたすら登る
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)〜14日(日)
※本稿の初出は2012年11月7日である.
初稿の誤字脱字転換ミスを修正し,本文の加除修正を行った.
2012年10月14日(日) (つづき)
<碓氷峠地図とプロフィールマップ> (資料5より引用)
<沢山の遺跡を尋ねながら・・・>
■刎石茶屋跡
弘法の井戸から,なだらかな登り坂を進んで,11時28分に刎石茶屋跡に到着する.
近くにある案内板の記事によると,このあたりに4軒の茶屋があったという.今で茶屋の石垣が残っている.ここでは力餅,わらび餅などが名物だったようである.
資料6(安中市ホームページ)にも,「刎石山の頂上で昔ここに4軒の茶屋(力餅、わらび餅)がありました.垣をめぐらし庭を構え,門を入れば上段の間に案内された茶屋本陣もありました.」という説明がある.
<四軒茶屋跡>
■碓氷坂の関所跡
刎石茶屋跡を過ぎると,杉林の中の長閑な尾根道になる.歩いていても実に心地よい.
11時28分,碓氷坂の関所跡に到着する.ここには案内板が立っているだけで,関所跡を示す遺構のようなものは何一つ見当たらない.案内板によると,ここに関所が設けられたのは昌泰2年(899年)のことだという.
<碓氷坂の関所跡>
■あずま屋
11時31分,碓氷坂の関所跡のすぐ近くにあるあずま屋に到着する.特に休憩を取る必要もない.
周囲の様子から,もしかしたらここが「碓氷坂の関所跡」なのかもしれないと思いながら通過する.
<あずま屋>
■熊たっ!
美しい広葉樹林帯が連続する長閑な道が続く.地元の案内書によると新緑や紅葉の頃は実に綺麗なところだという.
一同,うっとりとした気分で長閑な道を歩き続ける.
このとき,私は一寸したいたずらを思いつく.そのいたずらを何時仕掛けようかと思いながら,虎視眈々とその機会を狙う.
なだらかな尾根道を過ぎると,幾分下り坂になる.小さな鞍部を越えるときに,右手の土手に映えている木の根が張り出していて,その下が手頃な日陰になり,一寸黒く見える.
先頭を歩いている私は,この小さな日陰を見付けて,
“シメシメ・・・今がチャンス!”
とほくそ笑む.
私は後ろを向いて,押し殺すような声で,いきなり,
「熊だ・・!」
と言う.
そのとき,たじろぐ皆さんの姿が,予想以上に凄かったので,
「すまん,すまん,ドッキリ熊ですよ・・」
と直ぐにネタ晴らしをする.
でも,内心では,
“シマッタナ,デジカメのスイッチを入れてから,脅かせば良かった・・・折角のシャッターチャンスを逃してしまった”,
と思っている.
<素晴らしい散策路>
■堀切
相変わらず心地の良いこぼれ日道が続いている.
11時50分,堀切に到着する.
ここは「天正18年(1590年),豊臣秀吉の小田原攻めで北陸・信州軍を,松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で,道は狭く両側が掘り切られている」と近くの案内板に書かれている.
<堀切>
<二つの馬頭観世音>
■南向馬頭観世音
堀切の絶壁を通過して,11時56分に南向馬頭観世音に到着する.道路脇の崖の上に南向祀られている.写真に写っている案内板に書かれているように,この辺りは山賊が出没していたようである.
もっとも,今は熊が出没するのかな…
<南向馬頭観世音>
■北向馬頭観世音
さらに先へ進んで,11時58分,今度は北向馬頭観世音に到着する.
案内板によると,観世音が祀られているところは危険な場所だという.案内板には,「観音菩薩 文化十五年四月吉日 信州善光寺 施主 内山庄左衞門 上田庄助 坂本世話人 三沢屋清助」と書いてある.何のことか明確には分からないが,多分,この観世音のどこかに刻字してあるんだろうなと思いながら通過する.
<北向観世音>
<一里塚跡から栗が原へ>
■一里塚跡
11時58分,一里塚跡に到着する.
資料4(p.20)によると,この一里塚は慶長以前の旧道(東山道)のものだという.案内板の記事によると,「ここから昔は登っていた.その途中に小山を切り開き「一里塚」が作られている」という.ただ,一寸眼には,どこがこの一里塚なのか良く分からない.
私はすぐに,
「まあ・・いいか」
で探すのを諦める.
<一里塚跡>
■座頭コロガシ(釜場)
一里塚を過ぎると,少し急な登り坂になる.
12時09分,座頭コロガシの標識が建っているところに到着する.傍らの案内板には,「急な坂道になり,岩や小石がごろごろしている.それから赤土となり,湿っているので滑りやすい」と書いてある.
資料4(p.20)には,「座頭(注;私としては差別用語のようなきがするので,この言葉はあまり使いたくないが・・)が急坂に足を取られ滑落してしまった,または,谷を急に迂回するヘアピンカーブで,座頭の一行が回りきってしまった先導者の声に従い谷底へ転落した所」という説明がある.
<座頭コロガシ>
■放置された廃車
12時12分,折角の街道歩きの雰囲気をぶちこわす嫌なもの見てしまう.廃車である.
こんな山の中へ,廃車をどうやって運んだんだろう.どの道を通って,どんな機械を使って運んだんだろう・・・しかも,良く見ると,車体は真っ二つに切断され,車体の前と後ろの向きが90度廻った状態で放置されている.ひょっとしたら,動かなくなった車体を二つに切断して,ここから運びだそうとしたのかもしれない.
破棄されているのは白色の乗用車だということは,自動車の素人の私でも分かるが,それ以上のことは分からない.でも,そう古いものでもなさそうである.
何れにしても,見たくないものを見てしまった.
<破棄された自家用車>
<栗が原>
■栗が原に到着
廃車が放置されていた付近からは,道路の道幅も広くなり,四輪駆動車ならば走れそうである.
12時24分,栗が原に到着する.
案内板によると,ここは明治天皇御巡幸道路と中山道の分岐点である,明治8年,群馬県最初の「見回り方屯所」が設置されたところで,交番のはじまりだという.
これ以上の詳しいことはインターネットを調べても分からない.
<栗が原>
■昼食
12時を廻っているので,ここで昼食を摂ることにする.
道路端に適当に座り込む.もうこの時期になると蚊などの忌まわしい虫は居ないし,少々寒いものの快適である.
私は,高崎駅構内“NEWDAYS”で購入した安価な弁当で間に合わせる.年寄りになると,この程度の昼食で十分である.
“何かっこつけているんだ・・・ドケチだから,安い弁当を買ったんだろう・・・”
私の心の中に巣喰うもう一人の私が,私を揶揄する.
“うるせえな・・・食い物にケチるなんて・・・オレはドケチじゃねえぞ”
と無言で怒鳴り返す.でも,
“やっぱり,オレは変なところにケチなのかな”
と密かに反省しながら,安価な弁当を美味しく戴く.
「でも,まあ,どんな食べ物でも好き嫌い無く美味しく戴けるのは,親の躾が良かったからだな・・・・」
私は,今は亡い両親に,密かに感謝しながら,黙々と食事を摂る.
食事を摂りながら,
“大体のところ,当初の予定通りのラップで歩いているな.この分だと明るい内に余裕を持って軽井沢に到着できるな・・・”
と胸算用をしている.
<高崎駅構内NEWDAYSで購入した弁当>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課「旧道日和;旧中山道碓氷の峠越え道」安中市観光協会
資料6;http://www.city.annaka.gunma.jp/kanko_spot/nakasendou.html
[加除修正]
2013/6/16 誤字脱字転換ミスの修正と,本文の追加推敲を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/426b86e9ab008b475708c7ca8ebfbc21
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f51ea367c384c536bf9828a1dd14bd3e
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
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歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(4):碓氷峠をひたすら登る
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