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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(1):碓氷関所とアプト回想

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                                 <川久保付近を行く>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(1):碓氷関所とアプト回想
           (五十三次洛遊会)
       2012年10月12日(金)〜14日(日)

※本稿の初出は2012年11月2日である.
 初稿の誤字脱字転換ミスを訂正し,本文の加除修正を行った.

2012年10月14日(日)

<横川周辺地図>




<高崎から横川へ移動>

■ホテルルートイン高崎駅西口の朝
 今回の中山道の旅もいよいよ3日目である.
 年を取るとどうしても朝の目覚めが早くなる.自宅に居るときは朝の時間を結構有効に使っているが,旅先ではパソコンもないし,見たくもないテレビでも見ているしか時間を潰す方法がない.ホテルの朝食は,6時45分からである.
 もし私の一人旅なら,ホテルは素泊まりにして,朝一番の電車で横川ヘ向かってしまうのだが,今回は同行者が居られるので,ごく普通の旅をしている.
 私の心の中に巣喰っているもう一人の私が,
 「お前がせっかちすぎるんだよ・・・・6時45分の朝食なら,結構早いじゃないか.お前さんは何時も突拍子もない早朝に家を飛び出して丹沢へばかり行っているから,感覚がおかしくなっているんだよ・・」
と私をくどくどと諭す.
 「はい,お説の通りです・・・そんなこと,わざわざ言われなくても,チャンと分かっちゃいるけど,どうも落ち着かないんですよ・・・」
 何時の間にか部屋の空調機が動いていて少々寒い.
 「アレっ! 昨夜,自分で空調機のスイッチをONにしたのかナ!?」
 良く覚えていない.“そろそろオレって認知症かな・・・”と空恐ろしくなってくる.そんなとき,何の脈絡もなく,冬場の塔ノ岳尊仏山荘で,ストーブの前で香箱をつくって気持ちよさそうにしている華伊達美弥雄さんのことを思い出す.
 テレビのチャンネルを入れ替えながら,身支度を調える.
 昨夜,同行の皆さんが,ホテルのフロントから,段ボールの空き箱を貰って,不要になった着替えなどを宅配便で自宅へ送るといっていたので,私も付和雷同.小さな段ボール箱を一つ貰っている.
 この段ボールに使用済みの衣類などを入れて,自宅へ送ろうかと思ったが,そんなガラクタを少しばかり箱に詰めても大した重さにはならない.ガサだってもともとリュックに入れていた物.私は家に送るのが急に馬鹿馬鹿しくなる.
 「面倒だ! このまま荷物を全部持って,碓氷峠を登るぞ!」

■ホテルの朝食
 6時35分頃,そろそろ頃合いの時間になったので,2階のロビーへ降りる.ご同行の皆さんもすでにロビーに居られる.
 6時40分頃から食堂がオープン.例によりバイキング形式である.カロリーオーバーにならないように注意をしている積もりだが,多種多様なネーベンを見ている内に,あれもこれもとついつい手が出てしまう.その結果が写真のような始末である.今朝もまたカロリーオーバー気味である.
 今朝の食堂は,昨日ほど混雑していない.4人で1つのテーブルに座って,ユックリと賞味する.そして,最後にコーヒーを賞味して朝食を終わる.

<バイキング形式の朝食>

■高崎駅へ
 7時35分,ホテルを出発,高崎駅に向かう.
 外は天気はよいものの少々寒い.私は年のせいか暑さ寒さに少々鈍感になっているので,相変わらずクイックドライ生地のTシャツ1枚を着ているだけ.他の皆さんはウインドウブレーカーのようなものをまとっている.
 「寒くないの・・・・」
と同行の皆さんが心配する.
 「別に・・・寒くないですよ」
と返事をするが,寒くないですかと言われた途端に,そういえば少し寒いかなと思い始める.でも,わざわざ何かを着るほどの寒さではないので,そのまま”寒くないよ,平気だよ”というような顔をして歩き続ける.
 ”そういうのを痩せ我慢って言うんだよ・・”
と,またもやもう一人の私が,この私を揶揄する.“バカ言いなさんな・・寒くないって言ったら寒くないんだ”と私は向きになる.
 駅までは,もう何回も往復している道である.繰り返して歩いている内に,最初は長く感じていた道のりも大して長いとは感じなくなっている.私達は,駐車場ばかりのエリアから,デパートの前を通り越して,10分ほどで高崎駅に到着する.

<私たちが泊まったホテルルートイン高崎駅西口>

■高崎駅を発車
 信越本線高崎7時59分発横川行電車に乗車する.
 高崎駅は結構大きな駅である.沢山の乗降客が行き来していて活気がある.職業柄添乗の経験のあるAさんが,先頭に立って実に細々と動き回られる.私は旅行社の客ではないので,
 ”そんなに,先回りして頂かなくても良いのに・・・”
と内心では思っているが口には出さない.
 途端に何の脈絡もなく,東海道五十三次の旅のことを思い出す.“提灯アンコウさんは元気にしておられるだろうか”.懐かしい!!
 電車は定刻に高崎駅を発車する.今日は日曜日.電車はかなり空いている.今日の車両は新型らしく,昨日帰りに乗車した電車に較べると大分乗り心地がよい.

<高崎駅で信越本線の電車に乗車する>

<横川駅から中山道へ>

■横川駅に到着
 電車は8時32分に横川駅に到着する.
  時間が未だ早いためか,日曜日にもかかわらず駅前は閑散としている.駅前広場の片隅で地場の産物を拝倍する露天が開店の準備をしている.折角なので,店先を一寸だけ見物する.
 美味しそうな地場野菜が並んでいるが,今日は中山道屈指の碓氷峠越えをしなければならないので,これ以上リュックを重くするわけにもいかない・・・開店前なのに売り場の若い男性が,とても愛想良く応対してくれるので心が和む.
 “オレもデリケートだな”
と一人で苦笑する.
 駅前を見回す.昨日,夕食を摂った釜飯の「おぎのや」は,まだ開店していない.それに駅前には「おぎのや」以外にも釜飯を販売しているお店があることを始めて知る.
 実は・・・
 昨日食べきれなくてホテルに持ち帰った釜飯の中身は,結局棄ててしまったが,釜だけは何となく棄てにくいので,リュックの中に入れてしまった.その分だけ今日にリュックは重くなりガサ張っていることになる.でも,釜を持ち歩いているなんて,みっともないので,同行の方から聞かれない限り秘密にしておこう.
 
<横川駅に到着>                               <テントの物産売り場>

■諏訪神社
 8時39分,私達は横川駅前から歩き出す.
 駅前広場から左折して中山道に入る.丁度そのとき,中山道の地図を片手にした初老の紳士と会う.軽く挨拶をする.この紳士も私達と同じコースを歩くようである.
 まずは,人影が全くない横川の集落を西北西に向かう.なだらかな上り勾配である.
 8時41分,屋の沢橋を渡る.
 橋を渡って2分ほど歩いて,諏訪神社の鳥居の前を通過する.
 
<矢野沢橋>                                 <諏訪神社>

<碓氷関所跡>

■東門の位置
 8時47分,「東門の位置」という案内杭の前に到着する.ここから向かって右の坂を登ると,すぐに碓氷峠関所跡に到着する.
 先程来,私達と前後して歩いていた男性は,関所跡の見学は省略して,先へ行ってしまう.私達は折角だから,関所跡を見学することにして坂を登る.

<碓氷関所の東門の位置>

■碓氷関所跡に東門から入る
 傍らにある案内板の記事によると,「醍醐天皇の昌泰2年(899年)に群盗を取り締まるために,関所が碓氷坂に設けられた.この地に関所が移ったのは,元和年間(1615〜1623年)といわれ,反幕体制を中心とした徳川幕府の確立と安定という政治的意味をもつものとなり,いわゆる「入鉄砲と出女」の取り締まりをねらいとしたものになった.明治2年(1869年)廃関されるまで中山道の要所となった.
 門柱および門扉は当時使用されていたもので,総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである,ほかに屋根付6点と台石も当時のもので,昭和34年1月,東京大学教授工学博士肱島亥治郎氏の雪渓により復元された.
 この位置は番所跡にあたり,復元された門は東門である.」

<碓氷関所東門>

■碓氷御関所絵図
 関所の敷地に入ると「碓氷御関所絵図」という案内板が立っている.
 この案内板には,関所の平面図と,関所の沿革が詳しく書かれているが,細部にわたるのでここで紹介するのは省略する.
 この絵図でも分かるように,関所の規模はかなり大きかったようである.

<碓氷関所の案内板>

■碓氷関所の模型
 入館無料ということなので,資料館に入ってみる.
 館内中央に,さきほど案内板に書かれていた関所の平面図と同じ模型が展示されている.この模型を見ると,当時の碓氷関所の様子が何となく分かる.

<碓氷関所の模型>

■資料館を一回り
 受付で碓氷関所のパンフレットを頂戴する(資料5).
 このパンフレットには,関所通行と処刑,門柱および門扉などの説明と,関所のおこり,移り変わり,関所の構造,関所の役人などのことが簡潔に説明されている.
 パンフレットを眺めながら,資料館の中を一回りする.さまざまな古文書,記録,用品などが展示されている.
 場内にはボランティアの中高年の男性2人がいる.
 「よろしければ,説明致しますよ・・・」
と声を掛けて頂くが,丁寧にお断りする.
 実は,この方がそうというわけではないが,得てしてボランティアには,聞き手の時間の都合など全く無視して,自分が知っていることを全部話そうとする人が多い.全く予備知識のない通りすがりの観光客の頭には,あまり詳しい話は入らないし,そこまでの知識は必要としない.
 勿論,素晴らしいボランティアガイドも沢山居られるが・・・その証拠に,どんな聞き手に対しても,テープレコーダーのように,型にはまった同じ内容の話をしている人が多い.
 思わず話が横道に逸れた・・・
 「ンなら,お前のブログはどんな読者に対してKnown to unknown displayをしているんだ!」
と叱られそうである.
 答えは簡単.私は自分を最優先の対象にしてdisplayしている.だから,毎度,文末に記載してる朱色の断り書きが必要になるんだよ.
 こんなこと,グダグダと書いていてはダメ.本題に戻ろう.

<資料館を見学>

<忠魂碑と碓氷鉄道文化むら>

■碓氷峠鉄道文化むら
 碓氷関所の見学を終えて,もとの中山道に戻る.
 碓氷関所と反対側を覗くと,碓氷峠鉄道文化むらの一角が見える.その手前に,立派な忠魂碑が安置されている.
 忠魂碑の脇に立っている説明文には,およそ次のようなことが書かれている.
 「碓氷道は古くから東山道と呼ばれ,都と東国を結ぶ重要な宮道であった.徳川時代には中仙(FH注;山という字ではない)道として整備され,明治9年には国道18号線となった.その後並行して,
  明治21年馬車鉄道開設,
  明治26年信越線アプト式の開通,
  昭和41複線電化
された.
 信越線廃線に当たり各種交通機関建設で殉職された方々や災害や交通事故で亡くなった方々の慰霊のため鎮魂碑を建設する.」 

<鎮魂碑>

■碓氷鉄道文化むら
 鎮魂碑のすぐ先から横川鉄道文化むらの一部を見渡すことができる.そこには懐かしい電気機関車や客車がズラリ並んでいる.
 私は幼少の頃から何回となく信越本線を利用している.多分,ここに展示されている電気機関車や客車のお世話になっているに違いない.そう考えると,元鉄道マニアの私には,中山道など放り出して,こちらの見学に廻りたくなる.でも,まあ,そうもいかないので,少々後ろ髪を引かれる思いもするが,この場所を早々に退散する.

<碓氷鉄道文化むら>

<薬師坂を登る>

■コスモし満開の坂道
 鉄道文化むらを覗いてから,中山道を北西に向けて歩き始める.そのとき,通りすがりの地元の女性から呼び止められる.何事かと思うと,
 「…鉄道文化むらに行くんだったら,あちらです…」
と,私たちが行く方向とは反対側の方を指さす.
 「どうもありがとう.実は,私たち,中山道を歩いています…」
と月並みな返事をしてしまう.
 折角のご厚意に対して,もう少しまともな応えようがあったのではないかとチョッピリ反省する.
 中山道は次第に急な登り坂になる.
 コスモスが沢山咲いている集落に入る.路傍に「薬師坂」と刻字された石柱が立っている.

<薬師坂>

■川久保薬師堂と薬師の清水
 9時07分,川久保薬師堂に到着する.そして,薬師堂から少し離れたところに薬師の清水がある.
 傍らにある案内文によると,「碓氷関所の通行取り締まりが厳しい上に,碓氷峠を間近に控えて旅人は難渋を極めてた.そこで無事通過の願いと感謝を込めて,この坂に薬師如来を祀る薬師胴が建立された.また近くに清澄な湧き水があるところから,心太を商う店があり,旅人達は,ここで憩いながら旅装を整えたり,街道の事情をする場であった.このことから心太坂といわれ親しまれた」とのことである.

<薬師堂>


<薬師の清水>

■白髭神社
 北西に延びる一直線の道になる.舗装道路である.ちょっときつい上り勾配の道である.
 9時17分,進行方向左側にある白髭神社の参道に到着する.参道入口には立派な鳥居が建っている.
 参道の奥には,やや小振りだが綺麗な社殿がある.
 境内の案内板「白髭神社由緒」には,“白髭の老人日本武尊を救う”と題した説明文が掲載されている.この説明文によれば,「12代景行天皇の命により日本武尊は東国を平定し帰途,武蔵・上野を経てこの地碓氷嶺東麓川久保にさしかかった.そのとき山の神は,白鹿に化け尊の進路を妨げた.尊は蛭を投げて征せんとすると,濃霧たちまち起こり進退窮まった.すると剣を持った白髭の老人が現れ白鹿を撃退したので尊は濃霧から脱することができた.尊は,白髭の老人の霊験をみたのは天孫降臨を先導した猿田彦命の加護と思い石祠を建てた.時に景行天皇40年(240年).白髭老人にちなみ白髭神社創立となった.なお,尊が濃霧を避難した岩を不動尊の岩と呼び,そこから落下する滝を麻芋の滝という.この滝を白髭神社の前宮として飛滝大神を祀る.白髭神社の祭神は,猿田彦命,日本武尊,飛滝大神である.」

<白髭神社鳥居>


<白髭神社本殿>

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「群馬県指定史跡碓氷関所跡」安中市教育委員会

[加除修正]
2013/6/10 誤字脱字転換ミスの修正と本文の推敲をおこなった.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f9f46f04b22cef68e2a89fae17c72482
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f87f9357e1de973e99122fddc0b58c93
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e

※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
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