<西武線吹ききり近くの小祠>
歩いて巡る甲州道中四十四宿(第2回);(4)飛田給から東府中へ
(五十三次洛遊会)
2013年4月14日(日) つづき
<ルート地図>
※再掲
<上石原宿から飛田給へ>
■上石原宿と飛田給の概要
上石原宿は布田五ヶ宿の最後の宿である.
資料2(p.268)によると,上石原宿の宿内人口は411人.内,男210人,女201人.宿内惣家数73軒,内,本陣脇本陣なし,旅籠4軒であった.
資料1によると,飛田給には,古代,武蔵野の荒野を往来する旅人の飢えや病に苦しみを救う施設,非田給があったという.
資料3には,「桑園制度が盛んであった頃,この地は「飛田某(とびたなにがし)」という莊園領主から給された「給田地」であったという地名から.「飛田給」と名付けられる.また別の伝承では武蔵国の悲田院の給田地であったことから,悲田給(ひでんきゅう)という地名になり,それが転じて飛田給となり,さらに読み方が現在の「とびたきゅう」となったという説がある.」という説明がある.
■黒板塀の旧家
高速第五公園で昼食を終えた私たちは,13時01分に再び歩き出す.
歩き出して直ぐ,進行方向右側に黒板塀の旧家がある.私は,何とはなしに,その昔,流行った,
“粋な黒塀 見越しの松に 艶な姿のお富さん…”
という歌を思い出す.
もうとっくの昔に旅立った私の父が,晩酌をしながら,この歌を歌っていたことを懐かしく思い出しながら,黒板塀の家を眺める.父が旅立ってから幾星霜.何時の間にか私は父や母の年令をとっくに越えるほど長生きをしてしまった.今こうして幸せに旅を楽しんでいるのも,この私を丈夫に育ててくれた両親のお陰だと思うと,涙が出そうになる.
黒塀から“お富さん”を連想し,さらに両親のことを思い出す・・・でも,この連想は一瞬の間の出来事である.私は,こんなことを考えているなどとは,同行の方々に知られたくないので,平然とした顔を装って,歩き続ける.
<黒塀の旧家>
■飛田給薬師
上石原宿のあったところは,今では何の変哲もない平凡な街並みになっている.しばらく歩いて地図で確かめると,私たちは,今,飛田給駅近くに居るようである.私には,どの辺りまで上石原宿の範囲だったか良く分からないが,とにかくもう飛田給に居る.
13時11分,私たちは飛田給薬師寺に到着する.
資料4によると,「飛田給薬師堂の本尊は,元仙台藩士の松前意仙が諸国を遍歴した末に,ここを生涯の地と定めて庵を結び,医業のかたわら仏道に志して人々を救済するため,自ら石の薬師尊を刻んだ.尊像完成の後,傍らに穴を掘り,その中に入って鉦をたたきながら,お経を唱えて,そのまま入定(死去)した.江戸時代元禄5年(1702年)のことである.薬師本尊開眼の貞享3年(1686年)から300年にあたる昭和61年9月12日に意仙の遺徳を伝えるため,飛田給自治会薬師尊奉賛会が建てた.」という説明がある.
飛田給薬師寺の境内にある行人塚は,前出の松前意仙の墓である.
<飛田給薬師寺> <行人塚>
■瑠璃光薬師
13時11分,瑠璃光薬師如来に到着する.京王線飛田給駅の直ぐ傍に位置している.
資料5には,「飛田給薬師堂の本尊で,元仙台藩士の松前意仙によって作られた.意仙は諸国を遍歴した末に,ここを生涯の地と定めて,庵を結んだ.医業のかたわら,深く仏道に志して,人々を救済するために,自らこの石像を刻んで安置したものと伝えられている.村人たちの薬師如来に対する信仰は深く,現在も毎月12日に,薬師講の人たちによってお勤めが行なわれている.」という説明がある.
<瑠璃光薬師>
<下染谷>
■常夜灯
13時18分,立派な常夜灯の前を通過する.資料1によると,この常夜灯は諏訪大明神のもので,嘉永5年(1852年)に作られたものだという.
地図で確かめると,この辺りは下染谷という地区のようである.資料1によると,調布で作った布を染めていたところで,幕末には民家37軒の集落があったという.
<常夜灯>
■蔵のある街並み
常夜灯を過ぎると,大きな家が目立つ街並みになる.街道沿いに立派な蔵がある家が4〜5軒建っているのが目に着く.
<立派な蔵のある家>
<観音院と神明神社>
■観音院に到着
13時24分,観音院に到着する.山門の脇には沢山の石像が並んでいる.
山門を潜って境内に入る.
資料6によると,「[観音院は,寛永 8年に大寺第54世良明法印の法弟良雲和尚によって開山された.当時は深大寺の隠居寺として,高僧が住職をしていた.開山当時は川幕府の足固めとして,諸国の大名に勤交代制度のもとに,当寺は甲州街道に面しているため,諸国の大名も当寺には高僧が居られると言うことから必ず参詣がなされていたと言い伝えられている.近在の住民は慈覚大師御作の一面観音 (秘佛) は殊さら霊験の尊さに信仰が深かったことが言い伝えられている.」という説明がある.
これ以上の詳細は,手許の資料の範囲では分からないが,深大寺は天台宗の寺である.ということは,観音院は天台宗の寺なのだろうか.全く分からない.
■観音院の本堂
境内はそれほど広くはないが,綺麗に手入れされたお庭が印象的である.
丁度来客があったらしく,本堂から尼僧が顔を出す.私たちが居るのを見て,
「・・・宜しければ,本堂をご案内しますよ・・・」
と親切に声を掛けて下さる.
リーダーのOさんと相談して,ご案内頂こうと思って,辺りを見回すと,女性群のほぼ全員が私の視界から消えている.Oさんと2人で,
“どこへ行ったんだろう…”
とモタモタしている内に,尼僧は私たちに見学するつもりはないなと判断したのか,本堂から居なくなる.残念.
同行者を探しに本堂の裏手に回る,すると手洗所の廻りに屯している.何だこんな所にいたのか,消える前に一言言ってくれれば良かったのに…と,本堂を拝観できなかったのを残念がるが,後の祭り.後から愚痴を言っても仕方がないので,何も言わないことにする.
<観音院の本堂>
■神明神社
観音堂裏手から隣にある神明神社の境内に入ってみる.
丁度そのとき,3人の男性が,ヘトヘトになりながら境内に入ってくる.そして,お社の濡れ縁にヘタヘタと座り込む.どうやらこの3人も甲州道中を歩いているようである.
観音堂の見学を終えて,山門から外へ出る.そして改めて正面から人名神社を詣でる.
さきほどの3人は,まだ神社の濡れ縁で休憩を取っている.
この神社の由来など,手許の資料だけでは良く分からない.
<神明神社>
<常久地区の社寺史跡>
■西武線の踏切を渡る
13時42分,西武鉄道多摩川線の踏切を渡る.ちょうどそのとき踏切の警報機が鳴り出す.昔,鉄道マニアだった私は,電車が来る以上,何としても写真に撮らなければ…
一行は先に行ってしまうが,私一人踏切に居残って,電車の写真を撮る.
余談だが・・・
私は旅の途中で出会った列車や電車,それにネコは必ず写真を撮ることにしている.
<西武鉄道多摩川線の電車>
■路傍の小祠
地図で確かめると,この辺りは常久という場所である.資料1によると,常久は37軒からなる集落だった.また,常久は名主の名前に由来しているという.
13時46分,路傍の小祠の前を通過する.綺麗なお姿の石像である.少し学がある人が見たら,この石像が何かが直ぐ分かるだろうが,私には全く分からない.
石像の前には,沢山の花と,ペットボトル入りのお茶が供えられてる.何とも奥ゆかしくて微笑ましい.この石像が金臨の方々によって大切に守られていることが分かる.私は良いものを魅せて貰ったような気がして,心が和む.
<路傍の小祠>
■染谷不動尊
13時47分,小祠と道を挟んで反対側にある(上)染谷不動尊を詣でる.境内はそれほど広くはないが,清潔感溢れるただずまいである.
資料1によると,本尊の鋳造阿弥陀如来は国重要文化財だという.この如来像は新田義貞鎌倉攻めの折,陣中の守仏としていたもののようである.
染谷不動尊の由来など,手許の資料では詳細不明である.
<染谷不動尊>
■常久一里塚
常久八幡神社を右手に見ながら,甲州街道から左折して住宅地内の路地に入る.路地の両側には,2階建てのアパートがビッシリと建ち並んでいて,ちょっとビックリする.
路地は三叉路で突き当たりになる.地図で確かめると,突き当たった道は江戸初期の甲州道中である.
14時丁度に,突き当たった右手に常久一里塚に到着する.江戸日本橋から78里目の一里塚である.
<常久一里塚>
■常久八幡神社
往路を引き返して,再び甲州街道に戻る.
14時05分,甲州街道を横切って常久八幡神社に到着する.
資料7によると,常久八幡神社の総本社は宇佐八幡宮(大分県宇佐市),ご祭神は品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)(推定)(別名応神天皇).ご利益は出世開運と武運長久である.
境内で10分ほど休憩を取る.朝,9時から,もう長い時間,歩いてきたので,少しばかり疲労感があるようだ.
<常久八幡神社> <境内で一休み>
■京王線踏切を渡る
一休みを終えて,14時14分,常久八幡宮を出発する.
14時24分,東府中駅近くの京王線踏切を斜めに渡る.いよいよ府中宿が間近である.
踏切を通過する京王線電車の写真を撮りたかったが,なかなか電車が来ない.電車は頻繁に通っているはずなのに…
私は新婚早々に京王線沿線の聖蹟桜ヶ丘に住んでいたことがある.そんなこともあって,この辺りは私にとっても懐かしい所である.
<京王線踏切>
(つづく)
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E7%94%B0%E7%B5%A6%E9%A7%85
資料4:http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118969316/
資料5;http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118968395/
資料6;http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_k/?page_id=747
資料7;http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=2281
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