故郷の水彩画家、丸山晩霞の遺稿を見学
老骨に鞭打っての"go to"
2020/12/6(日)~12/7(月)
私は信州小諸。隣町の東御市は水彩画家丸山晩霞が生まれたところである。 私の体調が小康状態だったので、家内、長男、娘、孫を連れ”go to”を利用して、私の故郷では有名は水彩画家丸山晩霞の遺稿を見学するために、同行者は私の付き添い、兼、記録係である。
私も88歳の高齢者である。小康状態のうちに故郷に戻ってみたいという強い願いもあった。
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初日は、丸山晩霞記念館、羽衣荘(晩霞終焉の地)、晩霞の墓などを見学した。そしてその夜は菱野温泉に1泊した。 翌日は、小諸在の晩霞の孫の家などを回って、晩霞関連の資料収集に全時間を費やした。
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晩霞記念館の学芸員ST氏には半日フルタイムで対応して頂き、貴重な資料類の説明を受けた。また100点あまりの貴重な資料の写真撮影をさせてもらい、晩霞記念館蔵と明記したら論文等で公開しても良いという許可を得た。
その中には、吉田博と飛騨の旅の途中で画いたスケッチ画を写真や、晩霞がアメリカで販売した絵数点を見ることが出来た。 晩霞の墓地には日本水彩画会が作成した記念碑が設置されていた。
2日目は、晩霞の長女が住んでいた家を訪ねる。今は息子の代になっているが・・・
晩霞の長女(女子医専卒医師)は、晩年になって、晩霞の花の絵を模写しながら水彩画を独習し、遂に昭和36年、日展への入選を果たした。私たちはその絵を見せてもらった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今回の調査で、晩霞の地元への貢献も予想以上に多岐にわたっていることが実証できた。そんな訳で極めて濃密な2日間を過ごすことが出来た。 ただ私も88歳の病気持ち高齢者。これらの成果をまとめ上げる時間が私に残されているかが唯一の残念なところである。 訪問中、おびただしい資料の写真を撮ったが、その中からほんの数枚披露しておこう。 1枚目;晩霞が彰技堂時代のスケッチ画の例。100枚ほどのスケッチ画が残されている。青年時代の晩霞が、ここでミッチリのスケッチ画の修行をしていたことが分かる。 2枚目;晩霞終焉の地、羽衣荘。晩霞が渡米して巨額の富を得て、故郷の祢津に羽衣荘を作った。ここで、数百株のシャクナゲの鉢植えを並べて楽しんでいた。 3枚目;晩霞の墓。日本水彩画会が碑石を建立している。 4枚目;晩霞らが渡米して展覧会を開いたら大好評だったことを伝える当時の新聞・ 5枚目;日展に入選した晩霞の長女の水彩画。彼女は晩年になって、晩霞の花の絵の模写から独学で水彩画を学び、遂に日展に入選した。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 水彩画を趣味とする私には、とても有意義な2日間であった。