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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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敗戦前後の余話;上野駅の地下道と街頭テレビ

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                              敗戦前後の余話;上野駅の地下道と街頭テレビ
             (敗戦前後の思い出)
         2020年8月31日(月) 曇・残暑

 今日で8月も終わりである。
 コロナ騒ぎで、ほとんど自宅周辺をウロウロしているだけで半年も過ぎてしまった。そして明日からはもう秋である。振り返るとあれよあれよという間に、季節がすっ飛んでしまったような気がする。
 実は、ここ2~3日、とても多忙だった。そんなとき、ブログ記事作成に気合いが入らないのでジタバタする。そんなわけで、今日の記事も少し短めになってしまうだろう。
 8月の最終日なので、敢えて戦争直後(でもないか?)の記事を投稿することにしたい。そして9月からは、心機一転(?)・・・無理かな。
     **************************
 今日の話題は上野駅。
 時代はこれまでの話題より少し下って、昭和26~27年頃。
 その頃、私は信州の故郷を離れて、仙台にある新制大学の学生だった。同じ大学にまだ旧制の大学生が在学していた。旧制の大学生と比較すると新制の私たちは、いかにもおぼこくて、出来も悪かったような気がする。それに、今ほど標準語が普及していなかったのか、日常会話でも、授業でも東北弁に順応するのに半年ほどかかった。そんなことをいっている私も、自分では標準語に近い話し方をしているつもりだったが、実はバリバリの信州弁だった。
 学期末の休みになると信州の自宅に戻る。当時はもちろん”汽車ぽっぽ”。東北本線は山を通るのに比較して、常磐線は海岸に沿って走っているためだろうか、常磐線経由の列車で帰省することが多かったような気がする。当初は急行列車もなく、大抵は仙台から夜行列車を利用して大宮か上野で信越本線の列車に乗り換えて信州小諸まで戻る。昼間に移動するときは、その日のうちに仙台から東京まで移動し、東京にあった母の実家に止めてもらっい、翌日、小諸まで戻ることが多かった。そして休みが終わると、今度は逆に信越本線の列車で大宮か上野まで行って、常磐線か東北本線の夜行列車に乗って仙台に戻る。
 いつ頃かはっきり覚えていないが、私がまだ仙台にいる間に、急行列車が走るようになったが、本数は1日に1~2本、それも常磐線経由だったと記憶している。だた私のようなビンボー学生には、急行列車など高嶺の花、相変わらず大混雑する普通列車を利用していた。座席に座れることなどめったになく、終始、通路にしゃがみ込んだままだったた。
 当時は闇米を運ぶ人も多かった。東京に近づくと一斉取り締まりがある。すると乗客は慌てふためいて逃げようとする。そんな光景が繰り返されていた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 上野駅で途中下車する。
 当時、駒込に母の実家があった。実家には姉が下宿していたこともあって、しばしば立ち寄っていた。上野駅から、池ノ端まで歩き、そこから都電で駒込神明町まで行く。そこから坂道を上ると母の実家である。あたりはすべて焼け跡。掘っ立て小屋が建ち並んでいた。都電が通る道路でさえ舗装されていないところが多かった。
 ・・・で、今回は上野駅周辺の思い出を少しばかり・・・
 上野駅から京成電車に乗り換えるための地下道がある。今、この地下道があるかどうか、私には良くわからないが、ここを通ったときの様子は今でも鮮明に覚えている。空襲で焼け出された人たちが着の身着のままで壁側を頭に、通路側を足にしてず~っ・・・と寝そべっている。そして通路の真ん中だけ、人がやっと通れるだけの場所が空いている。その場所を寝そべっている人の足を蹴飛ばさないように、また、躓かないように注意しながら歩く。
 東京が大空襲で甚大な被害が出ていたことは知っていたが、戦後、もう5~6年も経過しているのに、まだこんな状態が続いていた。私より少し若い年代の浮浪児が街中に沢山居た。
 ”あの人たち、その後、どうしているんだろう・・・”
 私はこの地下道を歩きながら、改めて戦争の馬鹿馬鹿しさを肌で感じていた。

<上野駅から京成に向かう地下道>
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 夜の上野公園前。
 高いところに街頭テレビが1台、設置されていた。
 一般家庭には、テレビは、まだ、高嶺の花。まだ、ちろん白黒テレビである。
 街頭テレビの前には沢山の人だかりである。力道山とやらが空手チョップで白人野郎をぶっ飛ばす。こんなテレビを見て何となく快感を覚える。
 街頭テレビをちょっとだけ見てから、都電に乗って、母の実家へ向かう。実家の4.5畳の離れが姉の部屋。七輪に金網を乗せてシジミを焼いて食べたことを、今も懐かしく思い出す。

<上野駅前の街頭テレビ>
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 あれから幾星霜。
 姉も数年前に帰らぬ人となってしまった。母の実家も代替わりをしてしまったので、私の足も遠のいた。
 あの頃の世相を思い出すと、戦争の馬鹿馬鹿しさが蘇る。戦争は100パーセント人為的なもの。だから、防ごうと思えば100パーセント回避できる筈なんだが・・・そうもいかないところが人間の業なんだろうな。
 こんな取り留めのないことを回想しながら今回の投稿を終わりにしよう。
                                (おわり)

「戦中戦後の思い出」の前回の記事
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3c88f7daf8ce8e5f0aba4f1abd528ccd
「戦中戦後の思い出」の次回の記事
(なし)
「戦中戦後の思い出」(索引)
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/07a94741579bd5ad00bda6762253638c

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